変化の経験-科学における経験と実在(3)

(意味の問題)
 ここまでの歴史的な説明では経験論が形而上学に対して与える制約は知識の問題であった。経験論の主張を文字通りに考えるなら、観察可能なものを超えて実在について述べようとすると、それは正当化できない、それゆえ、形而上学の目標は達成できない、ということになる。
 だが、ヒュームでは形而上学への異なる種類の制約が重要となってくる。それが意味の問題である。単語が感覚経験と結びつくことによってその意味を獲得するのであれば、経験を超えて何かを指示しようとする単語は無意味なように見える。(例えば、「正当化できない」と「無意味である」の間の違いを問われ、経験的データだけを使って答えろと言われたらどうするか。) 形而上学への制約としての意味の問題は経験論の展開の中で次第に重要さを増していく。
(マッハ (Ernst Mach, 1838-1916):道具主義
 物理学での反実在論者マッハはニュートン物理学に経験的に納得できる哲学的基礎を与えたかった。そこで、物理学から形而上学的ドグマを取り除き、観察できるものに基づいて物理学を再建しようとした。彼の見解の要点は次のように述べることができる。

・ 物理学は形而上学ではない。観察可能な現象の背後にある実在を記述しようとするのが形而上学であるが、それは物理学の役目ではない。
・ マッハは物理学について道具主義を主張する。彼は科学理論を感覚的な現象を組織化し、予測するための形式的な道具、装置と見た。科学はこの組織化の経済の中にあり、科学の中で物理学が基礎的なのはそれがもっとも経済的だからである。
・ 同一の現象に適用できる別の理論がある場合、その選択基準はいずれが正しいかではなく、いずれが有用かである。

(問)道具主義が正しいとすると、理論は何も表象しないのだろうか。

ラッセル(Bertrand Russell, 1872-1970):論理的構成と推論された対象)
 『数学原理(Principia Mathematica)』(Russell and Whitehead,1910)の試みは、数学の真理は論理的な真理であることを示すことにあった(例えば、数は論理的な構成に還元できる)。1912年にラッセルは同じ考えを物理学と感覚データ(sense-data)の間の関係に適用しようとした。物理学に関して、その対象を推論されたものと考えるより、論理的構成によるものと考えるほうが適切である、と彼は言う。というのも、推論される物理的対象は経験的な証拠を超えてしまうからである。物理学が感覚的現象を超えて何か語ろうとすれば、それは疑念を含むものとなる。彼は物理的対象についての話を感覚データについての話に翻訳できることを示そうとした。多くの点でラッセルはバークリーがしようとしたことをより精緻な仕方でやり直そうとした。物理的対象についての話は感覚的現象についてのものであることを洗練させようとした。一方、マッハとラッセルには重要な違いがある。道具主義者のマッハにとって科学理論は真でも偽でもない。だが、ラッセルには科学理論は感覚的現象についてのものであり、それゆえ、理論は真か偽である。

(問)科学理論は何かの表象装置だと考えたとき、科学理論が表象装置である(道具主義)ことと実在を表象する装置(道具主義実在論)であることとは両立するだろうか。

実証主義
 経験論の諸結果を真剣に捉えようとした哲学的立場のもっとも洗練された形が実証主義と呼ばれる運動である。1920-30年代がその流行期だった。実証主義という語は適用に僅かだが混乱がある。既述の哲学者には通常適用されない。だが、彼らの考えは実証主義と多くの点で共通している。ヒュームは初期の実証主義者と言ってもよいだろう。マッハも実証主義者である。だが、この語はその歴史的、地理的起源を重視して使われる。「実証主義」は1830年代のフランスでコント(Auguste Comte, 1798-1857)によって使われ、論理実証主義者と自らを呼ぶ1920-30年代のドイツ、オーストリアの哲学者のグループによって広く流布されることになった。このグループは20世紀中葉の経験論的な哲学者に大きな影響を与えた。こうして、現在では実証主義という語は、経験論とその帰結を真剣に捉える試みを意味することになった。
 ハッキング(Ian Hacking)は実証主義の特徴として次のものを挙げている。

1. 検証主義(Verificationism):有意味な命題は観察によってその真偽が決められる。
2. 観察の優先:見て、感じて、触ることができるものが私たちの数学的でない知識すべての最善の内容や基礎を与えてくれる。
3. 原因の否定:自然の中に因果性はなく、ある種類の出来事の後に別の種類の出来事が続くという一様性、恒常性以上のものはない。
4. 説明の軽視:科学的説明は「なぜ」という問いに答えない。現象が規則的に起こるというだけである。(「なぜ」という問いに対する説明が必要なら、真の原因があるという考えに頼らなければならないだろう。出来事はその原因によって説明される。原因なしの説明は単なる記述である。)
5. 理論的存在の否定:実証主義者は反実在論者である。
6. 形而上学の否定:上の1から5までをまとめると反形而上学が帰結する。

(問)実証主義の原因の否定、説明の軽視と前章で述べた科学的説明の三つの見解を比較し、どの見解が実証主義的か述べよ。

実証主義の歴史:論理実証主義ウィーン学団
 ウィーン学団はそれまでの哲学研究を科学主義的に編成し直すことを彼らの運動の目的にしていた。彼らが主張していた論理実証主義の内容をまとめるならば、次のようになるだろう。

・ 科学的な方法と精神で哲学を再構成しようという近代化の試みであった。
フレーゲによる新しい論理学の知識を適用することによって、経験論によって出されていた問題を解こうとした。特に、カルナップ(Rudolf Carnap, 1891-1970)は物理学が現象主義的基礎の上に成立できることを示そうとした。(最後に彼はこれをあきらめる。)
・ 意味の検証原理「言明の意味はその検証の方法である」を使って言明を分析した。論理実証主義者はこの原理を適用して多くの伝統的な形而上学を「無意味なもの」として排除しようとした。

このような極端な哲学的主張は当然ながら多くの問題を孕んでいる。意味の検証原理に対して、次のような問題がすぐに出された。

(i) 言明の中には有意味だが、検証できないものがある。例えば、「この場所には大学は決してつくられないだろう」という未来形の文、「人類はアフリカで誕生した」という過去形の文はどのように検証できるのか。
(ii) 意味の検証原理自体は検証できるのか。それは有意味なのか。

(問)上の(ii)について、意味の検証原理は検証できないことを説明せよ。

 彼らはまた分析的、総合的の区別をし直すことによって知識を整理しようとした。彼らによれば、分析的真理は意味がわかるだけで真であることがわかる。そうでない真理が総合的真理である。論理実証主義者にとって、すべての総合的真理はアポステリオリである。つまり、それらは観察を通じてのみ得ることができる。(したがって、カントの総合的でアプリオリな真理は否定される。) 有意味な言明はそれぞれ可能な観察の集合と結びついている。つまり、それらは検証されると見なされるような状況と結びついている。

アプリオリ、アポステリオリ、分析的、そして総合的
トートロジーと分析的な文]
 トートロジーはいつでも真の文のことであった。「今日は晴れているか,あるいは晴れていないかである」という文は「今日は晴れている」と「今日は晴れていない」が「あるいは」という接続詞で結ばれており、「PあるいはPでない」という形をしている。この文は有用な情報を何も伝えてくれないが、誤ってはいない。それどころかいつでも(つまらない意味で)真である。そのような文を聞いても誰も知識や情報を得たとは思わない。このようにその論理的な形だけから真になる文には「PかつPでないことはない」や「Pならば、P」がある。このようないつでも真である文は狭い意味でのトートロジーであり、それは論理的にいつでも真という性質をもっている。
 いつでも真になる文には,例えば「どんな独身者も結婚していない」という文がある。この文は狭い意味のトートロジーではない。単なる同語反復ではなく、何がしかの情報を含んでいるように見える。しかし、独身と結婚していないことが同義であることを思い出すなら、同じものを代入しても結果は同じであるという原則にしたがって、「どんな独身者も独身である」というトートロジーが得られる。このような広義のトートロジーは哲学では分析的な文と呼ばれ、独身という語を結婚していないことと定義することによって、「独身=結婚していない」ことが成立し、したがって、その定義だけから「どんな独身者も結婚していない」が真になるような文を意味している。そして,分析的でない文は総合的な文と呼ばれている。定義だけからいつでも真になる文が分析的,つまりは広義のトートロジーである。
[総合的、アプリオリ、アポステリオリ]
 ところで、トートロジーや分析的な文は実際に実験や観察によって確かめる必要なく真であることから、私たちの経験に頼って真偽を決める必要がない。一方、分析的でない総合的な文、例えば「日本の次の首相はAである」は普通の人には予め確信をもってその真偽を言うことができない。そこで、分析的な文の真偽のように経験の介在を必要とせずにその真偽がわかる文の内容をアプリオリな知識、総合的な文の真偽のように経験を必要とする文の内容をアポステリオリな知識と区別することになった。これは分析的,総合的が言語レベルでの区別であったのに対し、私たちがどのように知識を獲得するかという認識レベルでの区別になっている。
 さらに、トートロジーや分析的な文はいつでも真であり,その内容は必然性をもっているように見えるが、総合的な文の内容は偶然的で、世界の状況に応じて真偽が変わるように見える。そこで、文の形式的な区別から文が指示する事態が必然的,偶然的と分けられることになる。いつでも必ず真である事態が必然的、そうでない事態が偶然的であり、これは存在レベルの分類である。
 こうして、分析的-総合的、アプリオリ-アポステリオリ、必然的-偶然的という関連する区別が考えられることになる。分析的=アプリオリ=必然的、総合的=アポステリオリ=偶然的という等式が成立すれば、すべてはすっきりしていて、問題は生じない。しかし、密接な対応関係はあるがそれらが微妙に一致しない点に問題が出てくる。

(問)2 + 3 = 5と力学の第二法則f = maについて、分析的-総合的、アプリオリ-アポステリオリ、必然的-偶然的のいずれに分類されるか考えよ。

[カントと数学的命題]
 カントはアプリオリな真理が二つの領域に見出されると考えた。その領域とは数学と経験を組織化するカテゴリーとの二つである。そして、アプリオリな真理をさらに総合的、分析的の二つのカテゴリーに分ける。伝統的には数学的命題は分析的でアプリオリとみなされてきた。しかし、カントは数学とカテゴリーの両方とも総合的でアプリオリと分類した。数学の命題が総合的でアプリオリなのはそれが時間と空間の直観に依存するからである。また、カテゴリーが総合的でアプリオリなのはそれらの否定が矛盾を引き起こさないからである。以下、それぞれの代表例であるユークリッド幾何学と因果的な決定論がカントの言うようにアプリオリかどうか考えてみよう。
 ある文Hが定義上真で、経験的な証拠なしに正当化できる、つまりアプリオリであることをどのように示したらよいのだろうか。どのような観察も文Hを反証できないように見える場合、通常は最初から文Hが真にアプリオリとは考えないで、私たちの想像力が欠けていて適切な経験的証拠を見出せないと考えるのではないか。例えば、「時間に向きがある」あるいは「過去から未来への時間的な変化があり、その逆はない」という文についての物理学的な証拠は見出しにくい。しかし、時間の向きについて考えている物理学者は時間の向きがアプリオリであるとは思っておらず、単に自分の想像力が欠けているため解決できないと考えているだろう。そのような物理学者は次のような工夫をするのではないか。文Hだけではなく、文Hと他の経験的な文の集まりを使って、文Hだけからは導き出せないような経験的な文が得られ、それが文Hと違う内容を主張していたとすれば、文Hの真偽の判定に参考になり、そこから文Hが経験的な主張でないということが何を意味しているかわかる。この工夫をカントの場合に使ってみよう。
 既述のように、カントはユークリッド幾何学と因果的な決定論アプリオリに真だと考え、どのような観察も二つの反証にはならないと信じていた。そのカントの時代に既に非ユークリッド幾何学が模索されていた。しかし、今世紀ユークリッド幾何学相対性理論と結びつくと、誤った予測をすることが発見された。因果決定論も同様に、それが量子力学と結びつくと誤った予測を生み出してしまうことがわかった。上のHはここではユークリッド幾何学,あるいは因果的な決定論である。Hが誤りを生み出す理由は相対性理論量子力学の理論(これらは経験的な主張である)にある。実際、相対性理論では非ユークリッド幾何学が、量子力学では非決定論が成立しており、Hとは異なる内容を主張している。異なるだけでなく、ユークリッド幾何学相対性理論、因果的決定論量子力学は両立しない。相対性理論量子力学を正しいとする限り、ユークリッド幾何学決定論もアポステリオリに偽であることになる。

オトコエシ

 オミナエシは細長い茎をもち、花が風にそよぐ様子はいかにも女性的で、女郎花(オミナエシ)の名にふさわしい花だと思いたいのだが、私にはどうしても芭蕉と同意見をもてないのである。オミナエシを詠った和歌は万葉集に14首、その後の古今和歌集にも17首ある。古今和歌集に「オミナエシ 秋の野風に うちなびき 心ひとつを 誰によすらむ」とあるように、女性へのときめきを歌った歌が多い。いつ頃から女郎花の漢字があてられたかは明確ではないが、古今和歌集に女郎花と書いてオミナエシと読ませ、源氏物語に「花といえば名こそあだなれ女郎花なべての露に乱れやはする」の記述がある。
 女郎花に対し、男郎花(オトコエシ)の名の花がある。それは白花ではあるが、同じ頃に同じような花を咲かせ、オミナエシと同じスイカズラ科のオミナエシ属の植物である。女郎花(オミナエシ)に似ていて、男性的であるので、男郎花(オトコエシ)と呼ばれると言う説が一般的だが、女郎花が先なのか男郎花が先なのかは明確ではなく、オミナエシ、オトコエシと呼ばれた名の由来もはっきりしていない。
 オミナエシは漢名で敗醤の名があり、乾燥させていると、醤油のくさったような臭いを発するのでこの名があるが、現代でも漢方の生薬として解熱、消炎、解毒に用いられる。 オミナエシもオトコエシもよく似た小さな花をつけるが、オミナエシはよく目立ち、多年草なので毎年同じ所に咲いて、お盆の花として重宝される。
 さて、男の女郎の花、つまりオトコオミナエシという、オミナエシを遥かに超える差別用語のような名前の植物がある。オミナエシとオトコエシの自然雑種である。全体はオトコエシに似ていて、花は小さく白色の花と淡黄色の花が混じる。残念ながら、私はまだこの男の女郎の実物を見たことがない。人はなぜ自分の都合や歪んだ見方を植物の名前に反映させようとするのか。その困った意図が植物誌を大いに偏向させてきたのは確かなようである。
 だが、真に重要なのは「女郎」でも「男女郎」でもなく、異なる生物種の間での交配という例外的な事例であることを忘れてはならない。

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オトコエシ

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オミナエシ

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オトコエシ

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オトコエシ

 

「住みよさランキング2018」の結果をどう使うか?

 25回目の発表となる「住みよさランキング」は、公的統計を使って、それぞれの市区が持つ都市力を、「安心度」、「利便度」、「快適度」、「富裕度」、「住居水準充実度」の5つの項目に分類し、16の統計指標を使って算出したもの。指標ごとに、平均値を50とする偏差値を算出し、それらの単純平均から総合評価が出されている。今回は一部指標の追加、変更があり、ランキングに変動があった。
 総合評価の全国1位は印西市(千葉)で、2012年から7年連続のトップ。2位は名古屋市ベッドタウン長久手市(愛知)で、昨年の3位から順位を1つ上げた。3位の名取市(宮城)は広域仙台都市圏の副拠点都市で、昨年11位から一気にトップ3入りを果たした。新潟県内でトップの妙高市だが、昨年の18位から125位へ順位を大きく下げた。住居水準充実度、安心度で評価が高かったが、快適度、富裕度が低かったためである。上越市は昨年の県内2位から3位に順位を下げた。妙高市と同じく住居水準充実度や安心度が高く、快適度、富裕度が低かった。全国順位は昨年の74位から152位に下がった。
 全814市区のランキングは、6月20日に発売された「都市データパック2018年版」(6480円)に掲載されている。新潟県内順位は次の通り。
妙高市柏崎市上越市胎内市見附市長岡市小千谷市新潟市阿賀野市 ⑩十日町市新発田市南魚沼市燕市糸魚川市村上市三条市五泉市佐渡市魚沼市加茂市
 今年から「利便度」に飲食料品小売事業所数や、「安心度」に0 歳から14 歳までの人口増減率が評価項目に加えられたことによって、コンビニ店やスーパーの数が多い大都市の方が高い数値が算出され、妙高市は順位を落とすことになった。安心度では前年まで算出指標としていた「0~4歳人口当たり保育施設定員数」を除外し、新たに「年少人口(0~14歳人口)増減率(3年前比)」が算出指標に加えられた。また、利便度では新たに「可住地面積当たり飲食料品小売事業所数」が算出指標に加えられた。下表から明らかなように、安心度の算出指標の変更が妙高市の順位変化を引き起こしている。

                     総合 安心度 利便度 快適度 富裕度 住宅水準充実度
妙高市2018  125     206     317      678      514           10
妙高市2017   18       47      238      667      366           10
柏崎市2018  148     383     424      367      228         192
上越市2018  152     216     306      488      341         173

<ランキング内容の解説>
 住みよさランキングとは、東洋経済が全国の 814 市と東京 23 区を対象に、「安心度」、「利便度」、「快適度」、「富裕度」、「住居水準充実度」の 5 つの観点から16 の統計データを参照して平均値を 50 とする偏差値を算出し、ランキング化したもの。住みよさを決める大きな5項目について、公的統計データの中から各項目の対象となりそうなデータを使って算出したもの。
 安心度は、下記4つの統計データの平均値を偏差値で算出したもの。
(1)病院・一般診療所病床数(人口当たり)
(2)介護老人福祉施設・介護老人保健施設定員数(65 歳以上人口当たり)
(3)出生数(15~49 歳女性人口当たり)
(4)年少人口(0~14 歳人口)増減率
人口あたりの病院が足りていて、福祉や介護施設も整い、子作りも盛んで、若者が結構いるということである。
 利便度は、次の統計データの平均値を偏差値で算出したもの。
(5)小売業年間商品販売額(人口当たり)
(6)大型小売店店舗面積(人口当たり)
(7)飲食料品小売事業所数(可住地面積当たり)
買い物しやすく、買い物する選択肢もあるということである。
 快適度は、次の統計データの平均値を偏差値で算出したもの。
(8)汚水処理人口普及率
(9)都市公園面積(人口当たり)
(10)転入・転出人口比率
(11)新設住宅着工戸数(世帯当たり)
汚水処理、公園が整い、人口が増え、新しい家が建てられている。
 富裕度は、次の統計データの平均値を偏差値で算出したもの。
(12)財政力指数
(13)地方税収入額(人口当たり)
(14)課税対象所得額(納税者義務者 1 人当たり)
自治体に十分なお金があり、市民が収めてる税金も多く、一人あたりの所得も多い。
 住居水準充実度は、次の統計データの平均値を偏差値で算出したもの。
(15)住宅延べ床面積(1住宅当たり)
(16)持ち家世帯比率
各家が十分に広く、持ち家の世帯が多い。

 「住みよさランキング」の結果に一喜一憂するのではなく、その結果を巧みに活用する方がいいのではないか。むしろ、それを行うのがこのランキングのもつ意味なのである。各項目はどれももっともな項目なのだが、誰もすべての項目が不可欠とは思っていない。年齢、家族、仕事等によって大切で、必要な項目、既に不用な項目と言った具合に、どの項目がどれだけ重要かは分脈、状況、環境に応じて変わる。それゆえ、総合ランキングは普遍的な「総合人」がいないのであれば、単なる数字上のランキングに過ぎないことになるだろう。
 統計は数字の魔術で、どれかの項目の算定方法を変えると、結果が大きく変わるものである。だから、これらデータを賢く使うには、算定項目の選択、付加する項目などを工夫し、それぞれの地域に適した独自の項目をつくり、どんな都市にしたいかに応じてデータを使い分けることが大切なのである。
 既に4半世紀の統計データの蓄積があり、それらを眺め直すことによって、これまでの日本の都市の変遷を垣間見ることができる。これは見事な歴史データである。その遺産の分析は日本の都市の貴重な変遷を教えてくれる。データは総花的に項目が加えられており、発表される結果は誰にも便利な理想的都市像の順位となっている。だから、それぞれの都市や人々に関心ある項目だけを使った独自のデータを作り直し、それを目標に掲げることは容易に想像できる。特色ある個性的な順位をこのデータを使って抽出し、それを目安にそれぞれの都市の将来の目標設定も可能となるだろう。
 データから結果を見るのではなく、目標からデータを見つめ直すなら、データについての全く異なる見方ができるだろう。それを教えてくれるのが「住みよさランキング」なのである。
*私は妙高市出身なので、妙高市の結果を中心にデータを見たが、読者諸氏は自ら住む都市について考えてみてほしい。

変化の経験-科学における経験と実在(2)

1経験論と実在論
 まず経験論と呼ばれてきた考えがどのようなものかを歴史的な経緯を通じて考えてみよう。特に、経験論の中で表象がどのように扱われているかに注意しながら議論を進めてみたい。
[経験論とは何か]
 デカルトのように心と外の世界を二つに分け、その関係を考える場合、二つの媒介になっているのが表象(representation、表現、表示)という概念である。表象は情報処理過程の入力としてスクリーン上に映し出される映像のように経験されると多くの人に思われてきた。そして、この表象経験が経験論を特徴づけるのに使われてきた。経験される表象だけを信頼して、それを素材にして世界についての知識を得るというのが経験論の原型である。
 観察に基づく経験的方法が17世紀に登場し、経験科学がこの新しい方法を使ってスタートする。その際、科学は経験の客観性を求めるだけでなく、それを使って研究され始めた。そして、経験レベルに登場する客観性は次のような異なる意味をもっていた。

(1)認識論的客観性:科学的主張は経験的な客観的基準によって正当化できるので、単なる信念、意見とは違う。(経験論の問題)
(2)形而上学的客観性:科学は伝統的な形而上学の問題に答えようとする。事物の隠れた、基本的性質を明らかにしようとする。(実在論の問題)

上の(1)は知識の伝統的な特徴づけ(つまり、「知識=真なる正当化された信念」)であり、(2)は知識の内容が心的構成とは独立した客観的存在であることを主張している。そして、科学理論はこれら二つの客観性をもつべきだと考えられてきた。

(問)上の二つの客観性はどのように異なるか説明し、それを使って経験論と実在論が異なる立場からの主張であることを述べよ。

[認識論と形而上学の間の緊張]
 知識は私たちが感覚器官を通じて受け取る外部情報から得られるという経験論の基本仮定を認めると、前の(1)と(2)の間に強い緊張関係が生まれる。(1)の意味での客観性への欲求は科学を経験の内側から見ることになる。(1)の主張を正当化しようとすれば、直接的で疑うことのできない情報、つまり、感覚的情報に集中しなければならない。(2)の意味での客観性への欲求は科学を経験の外側から見ることになる。私たちが事物の背後の隠れた本性に関心をもつと、見える現象を超えた、見えない実在に迫らなければならない。したがって、(1)と(2)の要請は科学における私たちの関心を全く異なる方向に向けることになる。そのため、二つはしばしば対立するものと考えられてきた。(1)からは経験論が、(2)からは実在論が主張され、実際それら二つは歴史上互いに対立してきた。科学的経験の哲学的分析は主に(1)の客観性のもとでなされてきたのに対し、多くの科学者の素朴な目標はあくまで(2)であり、客観的な実在の真の姿を追求する活動が科学と考えられてきた。
 「科学はそれが基礎を置く証拠以上のものか」 という問いを考えてみよう。この問いに対して、実在論と経験論はそれぞれ異なる解答をする。実在論の解答は明らかで、科学は証拠を超えた実在の真の姿を追求すると答える。だが、経験論によれば、科学は観察に基づくものだけを対象にする。それが感覚的経験の内容だけなら、その内容を内観することが主な科学的活動となる。つまり、科学は私たち自身の主観的経験についてのものということになる。この見解はばかげているように見えるが、何人かの著名な哲学者が主張してきたものである。ばかげているように見える主張だが、哲学者たちがどうしてそのように考えたのかを理解する必要がある。

(問)経験論の主張における感覚的経験の内容はどのような意味で主観的と見なされているのか。

2経験論の歴史
ガリレオ:新しい科学における現象と実在]
 既に私たちはガリレオの科学とそれに対する考えを見た。ガリレオ形而上学的なプランは物体のどの現象的な性質や側面が真に物体自体の中にあり、どれが観測者の感覚器官によってつくり出されるものかを決めることだった。物体自体の中には形、運動、数等があり、色、音、匂い等はそれを感じる感覚器官の中だけにある。彼は物体がもつ性質と、物体を観察するときに観察者に生じる性質を区別した。ガリレオは世界の本性についての科学的研究によってこの区別がなされ、新しい科学に必要なものは物体がもつ性質だけであると考えたからである。
ガリレオデカルトが機械論的見解に偏向する理由は、実在を質量、空間、時間を使って客観的に記述することによって、実在記述の基本的形式を天文学や力学をはじめとするすべての研究対象に幅広く応用できると考えたからである。
[ロック(John Locke, 1632-1704):第一性質と第二性質の区別]
 ロックの認識論的な動機は、経験する世界で何を信じることが正当化できるかを決めることにあった。彼は生得的な知識を否定する。そして、二種類の観念を認める。一つは直接的な感覚で、他はそれについての内省(reflections)である。
 物体の中に形、運動、数等があり、感覚器官の中に色、音、匂い等があると考えたガリレオ、そしてそれに同意したニュートンの考えを哲学的に整備したのがロックによる二つの性質の区別である。どの観念が外部の実在がもつ本性への信頼できる手引きとなるのか。この問題に対するロックの解答は二種類の性質を区別することによって与えられた。第一性質は実在する性質で、対象の中にあり、私たちにそれに類似した、対応する観念を引き起こす。これに対し、第二性質は私たちに感覚を引き起こす、私たち自身の能力や傾向の性質でしかない。
[バークリー(George Berkeley, 1685-1753):経験論の中での最初の反実在論者]
 ロックは第一性質が適切な観念によって表現されることが認識の正当化に必要だと考えたが、そのためには第一性質とそれらの観念の間に類似性があることを仮定しなければならなかった。したがって、問題は類似性という概念が意味をもつかどうかにあった。類似性があると、どうして私たちはその性質について知ることができるのか。バークリーのロックに対する批判は、類似性だけではある観念が別の観念に似ているとしか言えず、正当化には不十分という点にあった。
 バークリーの現象主義は対象を感覚の束として考える。(バークリー自身の表現によれば、「存在するとは、感覚されることである(To be is to be perceived.)」となる。)すると、事物を見ていないとき、その存在をどう説明するかがすぐに問題となる。眼を閉じたときにそれまで眼前に見えていた恋人はどうなってしまうのか。バークリーは、見ることを決して止めない神の眼と私たちの感覚の可能性によってその存在を説明できると考えた。
[ヒューム:離散性と規則性]
 ロックと同じように、ヒュームは感覚印象が私たちの知識の基礎となると考える。そして、それら印象が互いに異なり、区別できる点でも一致する。ヒュームはこれらの離散的な観念の間に一時たりとも固有の結合関係はないと言う。私たちは決して事物の間の結合関係を観察しないからである。彼はこの一般的な結論を次のように具体化する。(この章の最後の節も参照せよ。)
(観察できないもの)
1. 因果関係:通常の見解では因果関係は原因と結果の間の非対称的な結合関係である。ヒュームが言うには、私たちが実際に観察するのは規則性であり、ある事物が別のものに規則的に連合していることだけが観察できる。「因果性」や「必然性」は私たちが付与するものであり、原因Aの後に結果Bが続くことを予想するのは長年の習慣によってである。
2. 自己:ヒュームは、私たちが時間を通じて連続する単一の自己であるという考えをもつのも因果関係の場合と同じ理由からだと考える。私たちが観察するすべては私たちの観念のその時々のパターンである。それらをしっかり結びつけ、統一しているものなど私たちは観察しない。だから、自己は観察されない。
3. 外在する対象:同様に、ヒュームは私たちの目の前にテーブルがあり、それが存在し続けると考えるのは心の習慣に過ぎないと考える。 私たちが観察するものはテーブルの離散的な印象の系列だけである。
 ヒュームが正しければ、科学の役割は一体何なのか。それは現象の規則性の記述でしかなく、実在するものについての説明ではない。だから、ニュートンの運動法則も規則性の記述であり、自然の隠れた機構の説明ではない。結局、科学は習慣の規則性の集合に過ぎないことになる。

(問)ヒュームの主張が正しいとすると、私たちは経験自体を経験することができるだろうか。

自然法則とは何か。
 科学の目的の一つは自然法則の発見にある。帰納主義や反証主義の議論では「すべてのFはGである」という形式をもった自然法則はヒュームの言う自然の一様性を表している。だが、一様であっても法則でないものが数多くある。史門の友達はみな黒髪なので、「史門の友達のすべては黒髪である」は真となるが、それは自然法則には見えない。一様性と法則の間に区別はあるのか、それともないのか。「すべてのFはGである」が法則であるためには、Fという性質をもつものはみなGという性質ももつと言うだけで十分なのか、あるいは、それ以上のものが必要なのか。このような疑問を検討してみよう。まず、ヒュームの見解は次のように表現できる。

素朴規則性説:自然法則は一様性である。「すべてのFがGである」という法則は、FであるものがすべてGでもあることである。

この説に反対する反ヒューム的見解によれば、「すべてのFがGである」ことが自然法則であるためにはFとGの間に必然的な関係がなければならない。FであるものがいつもGであるだけでは不十分で、Fであるものは必ずGでもなければならない。例えば、史門の友達がすべて黒髪なのは偶然に過ぎないが、熱せられた金属が膨張するのは偶然ではない。金属と熱と膨張の間には必然的な関係がある。
 アームストロング(David Armstrong)は素朴規則性説では自然法則を正しく説明できないと考える。そこで彼は反ヒューム的な立場に立ち、素朴な規則性説では説明できない事柄を挙げる。

1. 自然法則と偶然的な一様性の間には区別がある。
2. 自然法則は物理的に可能なものを制限する。自然法則に反するものがあれば、それは物理的に不可能である。だが、偶然的な一様性に反するものでも物理的には可能である。
3. 自然法則はその具体例を説明する。なぜ特定のFがGであるかは「すべてのFがGである」という法則を持ち出すことによって説明できる。
4. ヒューム的な一様性はみな法則だと主張することで、素朴規則性説は法則と偶然的な一様性の区別ができない。
5. 素朴規則性説では法則の一様性と法則でない一様性の区別ができない。だから、違反すると物理的に不可能な一様性と、違反しても物理的に可能な一様性の区別ができない。
6. 法則が一様性なら、「すべてのFがGである」という法則を使って、なぜこのFがGであるかを説明することは、すべての他のFがGであるからこのFはGであると言うのと同じである。これは十分な説明とは言い難い。

これらの指摘から、自然法則と一様性の区別に必然性が重要な役割を果たしていることがわかるだろう。そこで、必然性に関して反ヒューム的見解は何を主張しているか、以下にまとめてみよう。

1.「すべてのFはGである」が単に真であることと、「すべてのFはGである」が法則であることの間の違いは、後者の場合だけFとGという性質の間に物理的に必然的な関係がある点である。
2.物理的に必然的ということから物理的に不可能なことが説明できる。物理的に必然的でない場合は物理的に可能であるが、これは一様性だけでは説明できない。
3.「すべてのFはGである」という法則を使って、このFがGであることを説明する場合、単にすべてのFがGであると言うこと以上のことが言われている。それはFであるものとGであるものの間に必然的な関係があることである。だから、「すべてのFがGである」という法則はこの特定のFがGである理由を説明できる。

 上述のような反論から素朴規則性説は誤っているように見える。では、なぜ最初からこの考えは否定されなかったのだろうか。私たちが経験できないものを信じるべきではないという考えに答えが隠されている。法則と偶然の一様性の違いは、反ヒューム的な見解では性質の間にある必然的な関係の存在にある。だが、私たちにはそのような関係は観察できない。それらを調べることができる科学的な装置をもっていない。だから、私たちはそれらを信じるべきではない。これがヒューム的な立場からの再反論である。

(より洗練された規則性説(Mill-Ramsey-Lewis の見解))
 神が私たちにすべてを学ばせたいと思い、私たちに一冊の本を与えようと決めたとしてみよう。最初の原稿では世界のあらゆる事実のリストだけが書かれていた。だが、それは途方もなく長く、私たちにはそこから何かを読み取ることができなかった。それを見た神はリストを整理し,公理化して示した。つまり、普遍的な一般化をして、そこからリストの各項目が演繹できるようにした。例えば、すべての事実がf = maにしたがうと書かれていたとしてみよう。これが公理であり、これから質量や加速度に関する個々の事実が説明できる。神はできるだけ強い公理系をつくろうとするだけでなく、できるだけ単純な公理系にしたいと思うだろう。このようなバランスのとれた公理系の演繹的な帰結が自然法則を構成することになる。
 この主張は一種の規則性説である。というのも、自然法則は規則性の一種として特徴づけられているからである。そこには必然的な関係は何も仮定されていない。それゆえ、ヒューム的である。この主張をMRLと呼んだとすると、素朴規則性説に対してなされた反論にMRLは答えることができるだろうか。

1. MRLによれば、法則と偶然の間に区別がある。すべての事実についての最善の形式化として、自然法則は公理として表現される。一方、偶然的な一様性はそのようには表現されない。
2. MRLの支持者は自然法則によって物理的な可能性を定義する。法則に違反すれば、それは定義から物理的に不可能である。違反しなければ、定義上物理的に可能である。
3. 特定の現象を説明する一つの仕方はそれが一般的なパターンにどのように適合するかを述べることである。MRLによれば、特定のものの出現が法則の一例であると言うことは、その出現が一般的なパターンに合致すると言うことと同じである。だから、「すべてのFがGである」が法則だという事実はなぜ特定のFがGであるのかを説明できる。

 反ヒューム主義者は規則性説の洗練された形式でも完全に納得するわけではない。彼らは洗練された形式でも自然法則が何かを生み出すことが掴みきれていないと考える。MRLでは「自然法則によって事物が生じる」という直観がどこにも表現されていない。規則性説では法則は事物を引き起こすものではなく、何が起こるかを記述する真なる方法に過ぎない。では、自然法則は事物を生起させないのだろうか、それとも事物が生起することの単なる記述に過ぎないのだろうか

(問)上の下線部の文について各自考えてみよ。

オミナエシ(女郎花)

 漢字の名前を見ると、今ならさしずめ差別用語として非難されかねない名前である。だが、伝統が人権を牛耳って、この名前は市民権を得たままのようである。秋の七草の一つだが、今年は既に咲いている。黄色い清楚な5弁花で、山野に生える。「おみな」は「女」の意、「えし」は古語の「へし(圧)」で、美女を圧倒する美しさから名づけられた。また、もち米でたくごはん(おこわ)のことを「男飯」といったのに対し、「粟(あわ)ごはん」のことを「女飯」といっていたが、花が粟つぶのように黄色くつぶつぶしていることから「女飯」→「おみなめし」→「おみなえし」となった、との説もある。また、「男郎花(おとこえし)」という花もあり、こちらの花は白い。

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変化の経験-科学における経験と実在(1)

経験(主義)とは何ぞや
 「経験する」とはわかりにくい言葉ではない。だから、誰もが気楽に使い、人生は経験だと誰もが思っている。だが、それが何を意味しているかとなると、とても懐が深く、かつ広い。と言うより、「経験する」とは定義ではわからず、実践でしか知ることができないというのが大抵の人の本音なのである。
 「感じる、察する」から、「わかる、知る」と経験するだけでなく、「観察する」、「測定する」から「検証する」、「証明する」まで経験するのが私たちの普通の経験である。さらに、「評価、判定する」から「解釈する」まで経験に含まれる。これだけではなく、挙げればきりがない。なにしろ、私たちが生きていることは私たちが経験していることとほぼ同じなのだから。それゆえ、味わう、観賞する、直観するだけでなく、さらには、実に様々な心的状態(感情や情緒)や行為の表現が続くことになる。
 カント風の認識論によれば、認識は経験することである。知識を使って五官で経験することが「知る」の基本になっている。だから、人は自らの経験を信じるのだが、経験主義には意外に冷淡なのである。そこで、これから科学の中にある経験や経験主義について考えてみよう。

 ギリシャ哲学における演繹的な科学の問題は、最初に前提される言明(原理や法則)からの帰結の真偽はすべて最初の言明自体に集約されているにもかかわらず、その言明自体を確証する組織的、具体的方法が欠けていた点である。また、原理からは演繹されないが、真とみなすべき経験的な言明をどのように正当化あるいは確証するかも不明のままだった。自然科学の確立とともに演繹的な科学の形而上学的前提を経験的に考え直そうという新しい知識論がスタートする。それが経験論である。経験論は形而上学的前提を否定するために、還元主義、道具主義実証主義、構成的経験論といった形態をとって現れた。それぞれ経験をどのように扱うかで微妙に異なるが、経験と直接に向き合うことによって演繹的な科学には見られなかった新たな知識の特徴を見出そうとした。
 科学は経験に全面的に頼っているわけではないが、経験がなければ科学は存在しない。以下では経験論の立場と実在論の立場を互いに比較しながら、経験と科学的知識の関係を考えてみよう。これからの話の基本的構図と課題は以下のようなものである。
(基本的構図)
 変化には経験的な変化、あるいは見える変化と、経験を超えた変化、あるいは見えない変化がある。見える変化をもとに変化全体を特徴づけるのが経験論だとすれば、実在論では見えない変化が変化全体の特徴づけに不可欠となる。
(課題)
 経験的な正当化は観察や実験によるが、それらは論証的な正当化と何が共通で、何が異なるのか。

0科学における経験
 科学的知識は科学者の経験によって生み出されてきた。新しい知識は経験をもとに生み出され、経験から一般化されてきた。この章はそのような経験が主題である。科学における経験の意味を明らかにするために、次のような少々長い例文から始めよう。

例文:「見える世界、見えない世界」
 科学は直接眼に見えるものだけでなく、見えないものも対象にする。電子や遺伝子は直接見ることができない。見ることができない対象の中にはこれらよりもっと抽象的なエネルギーやエントロピーがある。さらには、科学で使われる数や数学的対象は知覚の対象ですらない。もっと抽象的な対象には抽象的な相空間、ヒルベルト空間等がある。そして、最後に考えられる抽象的なものは科学理論そのものである。このような見えない対象が見える対象と同じように科学的な世界観を生み出すのに数多く使われてきた。
 机や椅子はそれらを実際に見ていなくとも、見ようとすればいつでも見えるという意味で、裸眼で観察できるものである。望遠鏡と顕微鏡はいずれも裸眼の補助装置だが、二つの間には大きな違いがある。望遠鏡で見ているものは私たちが見る場所を移動すれば直接裸眼で見ることができるものである。月に行けば月面を見るのに望遠鏡はいらない。だが、顕微鏡では私たちが架空の小人にならない限り、ウイルスを裸眼で見ることはできない。それゆえ、顕微鏡でウイルスを見る場合は望遠鏡で火星を見る場合より虚構のものを必要とし、マクロな世界とミクロな世界がサイズの違いだけでないことを示している。
 科学において私たちが見るものは理論的な背景がないとわからないものが多い。これが観察の理論負荷性と呼ばれてきたものである。「椅子や机が直接に観察できる」と言うように、「電子や遺伝子が観察できる」と言うことはできる。だが、この場合電子は椅子や机と同じように、私たちが測定している時と同じように、測定していない時にも世界に実在しているのだろうか。
 「観測できないものにはどのようなものがあるか」と問われれば、誰も眼に見えないものをすぐに思い浮かべるだろう。眼に見えないものをどのように思い浮かべ、考えることができるのかという認識論的問いは横において、眼に見えないものは小さいものと思うだろう。小さいために物理的に観測できないということは一見明瞭に見えるが、顕微鏡の例にあるように技術の開発によってそれまで見えなかったものが見えるようになるという意味で、最初から「見える」の意味が定まっているわけではない。かつて原子は思い浮かべることなどできないものだったが、今の私たちは教科書で見る電子顕微鏡の写真から容易に原子像を思い浮かべることができる。私たちは確実に見える対象の範囲を拡大し、経験の幅を広げてきた。マッハは眼に見えないことから、原子は虚構であり、気体の規則的な性質を説明するために導入された思弁的メカニズムに過ぎなく、どんな哲学的意味でも実在しないと考えた。だが、原子の実在に関する19世紀末の論争は20世紀に入り実在論に軍配が上がる形で決着した。(しかし、その後事態はより複雑になり、現在ではかつての決着がそれほど確固としたものではなく、量子力学の解釈問題として再燃している。)
 一方、数学的な対象ゆえに観察不可能なものも多い。図形や数は観察できない。これは原子の場合と違って、技術的な革新でも乗り越えることができない。これらは原理的に観察不可能なものである。誰も幾何学が定義する図形や数そのものを見たことがない。図形や数をノートに書くことによって、それらに似たものを表現することはできる。だが、それらは本物の図形や数ではない。
 なぜ数学的な対象や抽象的な概念は観察不可能なのか。それらは物理世界に存在しないという理由がすぐに浮かぶが、それとは違った理由を考えてみよう。物理学が何を表象するか、どのように表象するかを考える際、観察可能なもの、観察不可能なものはどのように関係しているのか。理論そのものを観察しようとする者はいない。あるいは、モデルを観察しようとも思わない。なぜ理論やモデルは観察の対象ではないのか。それらは観察される対象を表象(=表現、表示)するのであって、対象として表象されるのではないからである。その意味で、理論やモデルは志向的である。それらは何かを表象するために存在している。
 理論は観察語と理論語を含み、理論語は主に数学の言語である。観察語が指示するものについて観察可能とか観察不可能とかが論じられるが、理論語である数学的な概念が指示するものはどのようなものか。それは原理的に観察できないのか。3個の対象の「3」は観測できるのか。誰もできると答えそうになるが、公平なコインの表の出る確率0.5はどうか。0.5そのものは観察できなくとも、それは「何か」を指示でき、その「何か」であるコインの表の出る頻度は確かに観察できる。(では、この頻度はどのように観察されるか。)
 では、数学的対象(entity)と物理的対象の違いはどこにあるのか。数学的対象はさまざまな観点から不変、一様であるが、物理的対象はそうではない。数学的世界があるとすれば、その世界に変化はない。したがって、一定の条件を満たすと数学的対象についての言明は普遍的に真や偽になるが、物理的対象についての言明の真偽は実に多様に変化する。変化こそが物理的対象の特徴だったことを思い出そう。
 概念を名詞で表現する場合、その概念が名詞としてしたがわなければならないのは文法である。また、それを含む文をどのように組合わせるかは論理にしたがわなければならない。概念を集合や数で表現する場合、集合や数がしたがわなければならないのは数学的規則である。概念をもとにそれを名詞や数学的概念によって表象するとき、したがって、三つの異なる規則へのしたがい方があることになる。論理と言語の規則にしたがうか、数学の規則にしたがうかである。論理は言語にも数学にも共通なので、言語と数学を比較してみよう。文法の規則と数学の規則の違いは何なのか。文法の規則は表象したい概念にどれだけ効果を与えることができるのか。文法は表象の形式に大きな影響を与えるが、表象の内容には極めて間接的である。文法は単語の指示内容までは踏み込まないからである。一方、名詞として表される数学的概念は指示内容そのものの、一意的な形式的表象を与えてくれる。そして、それら表象がしたがわなければならないのが数学的な規則である。
 文法や論理が志向的とは考えにくいが、数学は志向的である。文法的な世界という表現が奇妙なのに対し、数学的な世界はごく自然に受け入れられている。考えるときの認識的な道具としての色彩が強い論理や言語に対し、数学は道具であるとともに、自らの対象ももっている。言語や論理が表象される対象に影響を与える仕方と、数学の影響の与え方は随分異なっている。数学的対象を使って対象を表象するようには、文法は対象を表象できない。名詞がしたがう規則は名詞の内容まで入り込まないが、数や図形がしたがう規則は実は数や図形そのものを決めている。

(問)以下の各問いに答えよ。
           1見えるものと見えないものは区別できるか。
   2実在するものは見えるか。
   3見えるものは実在するか。
   4数学的対象は見えるか。
   5概念的な対象は実在するか。

(問)観察できるものと観察できないものは、観察する装置や知識とは独立に区別できるかどうか述べよ。

(問)表示機能をもつものは自らの構造や状態を表示できるかどうか、幾つかの例を使って述べよ。(ヒント:温度計と言語を例に考えてみよ。)

(問)理論とモデルでは何かを表象する点で違いがあるだろうか。違いがあるとすれば、それは単に程度の差なのか。理論やモデルと比べてシミュレーションはどうか。

ハマボウ(浜朴あるいは黄槿)

 学名がHibiscus hamaboで、アオイ科の日本原産の落葉低木。夏に黄色の花を咲かせる。ムクゲ、フヨウ等に似る。5枚の花弁は付け根から回旋して伸び、中心の赤褐色部は船のスクリューのように見える。花は1日でしぼむが、大きな株は毎日次々と開花する
 浜に生える朴の木(ほおのき)で「はまほお」、次第に「はまぼう」になった。江戸時代にシーボルトが命名したとも言われているが、日本原産の「ハイビスカス」とも呼ばれている 画像は豊洲運河沿いのハマボウで、すっかり夏の風情である。

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ハイビスカスの園芸種