変化の表現形式(8)

6反証可能性
帰納法の問題に対するポパーの解決]
 これまで考えてきた帰納法の問題に対する解決はヒュームの推論の前提(2)に関するもので、帰納的推論が正当化できることを示そうとしていた。ポパーは全く異なる仕方を考えた。彼はヒュームと同様に帰納的推論は正当化できないと考えるが、科学者が帰納法を実際に使うことはないと主張した。つまり、帰納的方法は科学的な方法でないと考えた。ヒュームは科学者だけでなく、私たちすべてがいつも過去に成立していた規則性を観察して未来の規則性を期待すると主張したが、ポパーはこれも否定する。反復による帰納法の考えは錯覚のようなもので、そのようなものは存在しないと彼は考えた。
 では、ポパーは知識をどのように考えていたのか。彼によれば、人間の知識は推測的(conjectural)である。私たちは観察例から帰納的に理論が真であることを推論できず、できることは可謬的な仮説や理論を推測として「採用」できることだけである。それは理論に帰納的に到達するといった論理的なものではない。
 ポパーの知識についての考えは標準的なものと大きく変わっている。知識とは「正当化された真なる信念」というのが標準的な理解で、「私たちは何を知るか」という問いに答えるためには個人の頭の中を見て、何が信じられているか見つけなければならない。しかし、これが直接に帰納法の問題を引き起こす。一般法則についての知識が適切な法則言明が真であると考えるのに十分な理由があるような事柄であれば、ヒュームの論証にしたがって、私たちには一般法則についての知識はもつことができないことになるからである。
 一方、ポパーは知識についてのこのような心理的な見方を拒否する。彼にとって「私たちは何を知るか」という問いに答えるには、人の頭の中を調べるのではなく、科学的な本や雑誌を調べなければならない。そこにこそ現在の私たちの科学的知識があるからである。この見方では帰納法の問題は生じない。
 宇宙で何が起こっているかを理解し、説明や予測ができるために私たちは何をしなければならないのか。答えは簡単で、真なる理論を見出すことである。科学の目的が真なる理論を見出すことであるなら、そのための最善の方法は何か。
 普遍的な一般化(「すべてのFはGである」)は完全には検証できない。だが、確かに反証はできる。この自明な論理的事実がポパーの哲学の基礎となっている。十分に確証された理論は真である必要はない。だが、明らかに偽の理論は取り除くことができる。だから、推測として理論を採用し、偽の理論を取り除くことによって真なる理論を残すことができる。これが反証主義である。
 ポパーはヒュームと同じように帰納法は論理的に妥当ではないと考えたが、科学は帰納法を使わないゆえに、帰納法は科学にとって問題ではないと主張した。ポパーの方法論によれば、科学は大胆に推測をし、それを厳格に反駁することである。どんな理論も経験的なデータだけから完全には験証できないが、反証はできる。
 次の帰納的推論をポパーの反駁と比べてみよう。

(1) Aは白鳥で、Aは白い
(2) Bは白鳥で、Bは白い

(n) nは白鳥で、nは白い
それゆえ、すべての白鳥は白い(これは論理的に妥当ではない。)

ポパーの反駁)
(1) すべての白鳥は白い (推測)
(2) Aは白鳥で、Aは黒い (反駁)
それゆえ、(1)は偽である(これは論理的に妥当な結論である。)

仮説が反証可能であることが科学をそうでないものから区別する。科学は大胆な仮説から出発し、科学者はそれらから演繹を行ない、実験を通じて演繹結果をテストする。実験と理論が衝突すれば、修正されなければならないのは仮説である。実験と理論が合致すれば、理論は確証されている(corroborated)。確証は理論が真や真に近いことを示さない。それが示すのは理論の過去の振舞いだけである。
 次の仮説からなる理論を考えよう。水は摂氏100度で沸騰する。高山でこの理論をテストし、水が100度以下で沸騰することがわかった。だから、元の理論を修正しなければならない。そこで、仮説を、水は海抜0mでは100度で沸騰する、と変えたとしよう。ポパーによればこれは悪しき修正である。反証後、なぜ反証されたかを説明する理論が模索されるべきである。以前の仮説より一層大胆で、より反証しやすい理論を求めるべきである。水は海抜0mでは100度で沸騰するという仮説は新しいテスト可能な結果を生まず、ポパーはこれを免疫化の戦略と呼んでいる。
 ポパー反証可能性という方法は妥当でない推論に頼っていない。彼の説明によって実験が意味をもつ。実験は理論によってなされるが、反駁のための厳格な追求である。このような利点に対して問題もある。よく指摘されるのはデュエムクワイン問題である。どんな理論もそれだけをテストすることはできない。理論が誤っているなら、多くの異なる仮説を否定できる。例えば、私の温度計が高度に影響を受けるかもしれないし、私の知らない何かが計った温度に影響しているかもしれない。あるいは私の視力が高度に影響を受け誤って目盛を読むかもしれない。ポパーの方法論では科学者が理論のどの部分を修正したらよいのか何も教えてくれない。
 どんな理論も反証される。コペルニクス天文学は観測データに合わなかったが、棄てられず、改良された。反証主義科学史の実情にあっていない。これが二番目の問題である。
[科学と非科学の区別-科学と非科学の境界の基準]
 人間の他の活動、例えば、数学、形而上学占星術から経験科学を分けるものは何か。明らかに経験科学は経験的な証拠、つまり、観察と実験を含んでいる。だが、他の活動も経験的な証拠をもっている。では、証拠が科学において果たす役割で、他の活動ではその役割を果たさないものがあるだろうか。
 帰納主義者によれば証拠は科学では正当化のための役割を演じている。だから、証拠と理論の間の正当化の関係を使って理論が科学的かどうか判定することができる。一方、反証主義者によれば証拠はそのような正当化の役割をもっていない。では、何が理論を科学的にしているのか。それは反証可能性である。次の文を考えてみよう。

(1) すべての独身者は結婚していない
(2) すべての惑星は楕円軌道を動く

(1)は反証可能ではない。結婚した独身者はどこにもおらず、それを反証することはできない。だが、(2)は反証可能である。楕円軌道をとらない惑星を見出すことで反証できる。現在までのところそのような惑星は発見されていないが、原理上は可能である。したがって、ポパーの主張は次のようにまとめられる。

理論は科学的である iff 理論は経験的な証拠によって反証可能である

(方法としての境界付け)
 理論が科学的であるとは経験的な証拠によって反証可能であることであるという見解は正しいだろうか。例えば、(2)は科学的に見える。だが、楕円軌道をとらない惑星を観測して、(2)を信じる者がそれは惑星ではないと主張したらどうだろうか。それは惑星の定義に合致していないと言ったらどうだろうか。これは(2)を反証不可能にしないだろうか。だから、どのような意味で(2)は反証可能なのだろうか。
 ポパーの解答によれば、境界付けの基準は論理的ではなく、方法論的である。理論の言明だけからそれが科学的かどうかを判定できない。理論が科学的態度をもったものかどうか判定されなければならない。理論の信奉者が反証されたことを特定の状況の中で受け入れるかどうか判定しなければならない。
 だから、ポパーマルクス主義アドラーの心理学、フロイト精神分析を非科学的と見なすのは、それら理論の支持者がどんな可能な観察もそれらの拒絶ではないと考えるからである。例えば、人間行動のどんな一部もフロイト的な説明が与えられるなら、精神分析は反証できないことになる。それが誤っていることを示す観察は一つもないことになる。
 ポパーの境界付け基準は科学と非科学の間に正しく線を引くだろうか。例えば、数学、心理学、経済学等を科学的とするだろうか。そのような理論は科学的と見なされるべきだろうか。より優れた境界付けの基準は考えられないのだろうか。

7科学の方法に関するクーン(Thomas Kuhn, 1962-1996)の説明
 ポパーの科学方法論は科学が真理を目指すことから始まった。そして、推測と反駁がこの目的を達成する最善の方法だった。科学者は最大の努力を払って彼らの理論を反証しようとする。一度反証されると、誤りであるゆえにその理論は放棄されなければならない。より良い理論とは、

(1) 古い理論が誤った予測をすべて正しく予測する
(2) より豊富な経験的内容をもち、世界についてより多くの主張をするので、古い理論より反証しやすくなる

ということになる。
 例えば、ニュートン力学から特殊相対論への移行。ニュートン力学はテスト(Michelson-Morleyの実験)にかけられ、それに失敗した。そのため特殊相対論に置き換えられ、特殊相対論はその実験結果を正しく予測できた。
 ポパーは科学がその仕事を正しく遂行していると考えている。だから、彼は科学について次のように考える。

(1) 科学は反証主義的な方法したがって遂行されるべきである。
(2) そして、科学は実際にそのように実行されている。

[科学革命の構造]
 クーンは1962年に『科学革命の構造』を出版したが、それは科学の進展に関する歴史的な説明である。その中心的な主張は歴史的事柄としての科学の営みが推測と反駁の方法にしたがっていないということである。科学史は理論を反証する厳格な試みのパターンを示していない。クーンの主張は科学の発展は別のパターンをもっているというものだった。彼が科学史に見出したパターンは次のようなサイクルである。

…→ 通常科学 → 危機 → 革命 → 通常科学 →…

このサイクルはどのような特徴をもつのか。それを明らかにするためのクーンの説明はどのようなもので、その哲学的な問題は何かを考えてみよう。
1. 通常科学
 通常科学は科学的研究の通常の状態である。それはパラダイム(paradigm)にしたがって行われる、習慣的な活動である。パラダイムはその領域のすべての研究者がもたねばならない理論や理論の集まりであり、どのように研究が遂行されるべきかという指針や教示を含んでいる。
 パラダイムの存在は通常科学の研究者に研究の基礎と意味を与える。それは以下のものを供給する。

(1) 信念と方法論的基準を与える。
(2) 新しいパラダイムはすべての問題を解くわけではない。主要な問題の存在が研究の方向を与える。
(3) 関心領域は狭いが、深い研究を特定領域について遂行させる。
(4) (3)の研究のために技術の増大が進められる。
(5) 研究における共通の価値観を生み出す。

通常科学に携わる科学者はパラダイムそのものを問題にしない。実験の失敗はパラダイムの誤りではなく、実験者の失敗とされる。多くの通常科学はパズル解きに似ている。
2、危機
 パズル解きだけではうまくいかなくなる時がくる。通常科学者がより洗練された、より正確な方法を採用し、古い理論ではカバーできない新しい領域に入ると、より多くの説明できないものが出てきて、僅かな修正だけでは処理できなくなり、パラダイムの解体によってしか解決できなくなる。不合理なものが自覚されて職業的な不安が大きくなる。そして、ついに危機が訪れる。パラダイムは定義が曖昧になり、通常科学は危ういものとなる。
3.危機への対応
 危機が訪れてもパラダイムがすぐに放棄されるわけではない。それに変わる新しいパラダイムが現われない限り、危機に陥ったパラダイムは放棄されない。科学はパラダイムなしには遂行できないからである。危機に対しては三つの結果が考えられる。

(1) 期待に反して、解決が見出され、通常科学は続行される。
(2) 問題は全く新しい方法でも解決できず、後世に託される。
(3) 新しいパラダイムが生まれる。

4.革命
 新しい理論は新しい世界観を具現しており、新しい世代によって押し進められる場合が多い。古いパラダイムから新しいパラダイムへの変化はゲシュタルト転換に似ている。科学者は彼の古い理論が描く世界を全く新しい仕方で見ることを学ばなければならない。
新しい理論への転換は論理や事実の考察によってではなく、問題を解く能力によって指図される。新しい理論をもとに新しいパラダイムがと確立され、新しい通常科学が誕生する。
[通約不可能性(Incommensurability)]
 一つの科学理論から次の理論への発展についての伝統的な哲学的見解によれば、科学は永遠で、客観的な実在の真なる記述を与えることを目的とし、新しい理論は古い理論の誤りを正し、実在の本性を正しく記述する。だから、科学の発展は理論から独立した実在についてより正しいことを記述することにある。
 クーンの中心的な哲学的主張は伝統的な科学哲学が考えた仕方によっては古いパラダイムと新しいパラダイムを比較することができないということである。理論から独立した客観的世界についての事実を集め、いずれの理論がより正しくそれら事実を記述するかを調べることはできない。というのも、それら事実を述べる言語は競合する理論に関して中立ではないからである。異なるパラダイムの支持者は異なる言語共同体のメンバーのようなものである。同じ言葉でも異なる意味をもっている。例えば、ニュートン物理学と相対論の関係についての標準的な説明は前者が後者に包摂され、後者がより一般的だというものである。だが、クーンはこの関係を否定する。二つの理論で使われる概念は異なる意味をもっている。(例えば、時間や空間の概念)それゆえ、二つの理論を単純に比較することはできない。二つの理論は通約不可能である。

 

サルスベリ(百日紅=ヒャクジツコウ)

 子供の頃、近くの寺に見事なサルスベリの木があった。残念ながら、何色の花だったか記憶ははっきりしない。サルスベリの花は紅の濃淡色または白色なのである。色を忘れただけでなく、いつ咲くかもすっかり忘れていた。サルスベリは「猿滑」とも書くが、幹が猿も登れないほどスベスベだということだけ憶えている。
 花は8月頃咲くのだが、今年は既にあちこちで咲き誇っている。豊洲近辺は圧倒的に白色の花である。中国原産で、「約100日間、淡い紅色の花を咲かせる」のがサルスベリの名前の由来。約3ヶ月間、夏から秋まで咲き続ける。実際には、一度咲いた枝先から再度芽が出てきて花をつけるため、咲き続けているように見える。

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変化の表現形式(7)

5科学的説明
[因果的説明]
 アリストテレスが自然の説明に関して因果的な説明を採用したことを既に述べた。しかし、その「因果的」説明は4つの原因をすべて含むものであった。機動因に対応する因果的説明はニュートンの説明方式によって科学的な説明として初めて具体化された。それは仮説演繹法であり、さらに演繹の中では数学的な式の変形と計算が主要な役割を占めていた。現在では当たり前の自然法則と初期条件による因果的な説明が確立する。

初期条件 - 運動方程式 - 解 (数学レベル)
原因 - 因果法則 - 結果(物理レベル)
前提 - 論理法則 - 帰結(推論レベル)
言明 - 「ならば」 - 言明 (言語レベル)
ニュートンの説明方式は上の三つのレベルを総合したものであり、以後の科学的説明の典型となった。

[科学的説明についての見解]
 では、ニュートン力学によって確立された科学的、あるいは因果的説明はどのような仕組みになっているのか。科学的説明はニュートン力学の説明にその原型を見ることができる。ニュートンの説明は、物理システムについて自然法則と初期条件から数学的にシステムの状態を計算するものであった。既に私たちは哲学が問題を立て、答えを見出すことを推論によって実行すると述べてきた。科学は経験的であるが、推論なしには科学とは呼べない。その推論によって問題を解くことを数学的に精巧に仕立て上げたのが古典力学であり、数学的な推論や計算から新しい自然観が生まれて行った。ラプラスの魔物はこのような条件を満たして、普遍的決定論を主張した。この点では科学的な説明も哲学の伝統的方法をより精緻に実行したものである。推論はその形式と内容の両面から評価されることも述べた。推論が演繹として正しいことと、その内容が経験的に正しいこと、適切であることとは違っていた。科学的説明についてはこの違いが鮮明に出てくる。そして、当然ながら推論の内容こそが科学者にとって通常は関心の的なのである。完成された科学理論と問題を追求する活動は科学的説明を異なったように捉える場合がある。完成された理論ではその形式的な側面が強調されるし、問題追求の現場では内容がもっぱら重視される。そこから、説明の形式の正しさを追求する場合と、内容を重視する場合に分かれることになる。それぞれの場合で、科学的説明の特徴づけは異なってくる。さらに、説明されるものがどのような役割を果たすかも考慮するなら、科学的説明について三つの異なる見解が自然に考えられる。実際、そのような三つの見解が存在する。

(1) 推論としての説明 (Hempel, Oppenheim):説明は推論の一タイプであり、説明される現象は自然法則を含んだ前提から結論として演繹される。
(2) 因果関係としての説明 (Salmon, Lewis):説明は説明したい現象を引き起こすさまざまな原因を記述することである。
(3) 実用としての説明 (van Fraassen):ある現象の説明とは、それが他の現象より起こる可能性が高いことを含意する情報の集まりである。

 謎や驚きに立ち向かう点では科学も哲学も同じであり、したがって、その努力が同じような様相を呈するのは当たり前のことである。哲学が推論である、あるいは活動であると異なる仕方で特徴づけられるように、科学的説明もその特徴づけ方は複数あるのである。
 まず、(1)の考えを見てみよう。これは説明の形式的な特徴から出てきた見解である。法則を含んだ演繹としての科学的説明は次のような構造をもつ。説明に使う前提条件と自然法則は説明項、説明される現象は被説明項と呼ばれる。

C1, ..., Cn [前提条件]
L1, ..., Lm   [自然法則]
E [被説明項]

説明項に自然法則が含まれず、例えば、法律の条文が含まれていれば、法廷陳述に使うことのできる文が被説明項として得られるだろう。自然法則を含むという点を除けば、上の図式は演繹的な推論と同じ構造をもっている。したがって、自然法則を含むことが科学的説明の特徴ということになる。その自然法則は、普遍的、大域的で、個別的な対象を含まず、純粋に質的な述語だけを含んだ真なる言明である。ヘンペルとオッペンハイムの説明理論は上の図式から、説明は推論であり、前提条件と自然法則から現象が起こることが演繹されるという形で説明や予測がなされる、という特徴をもつことがわかる。また、説明と予測は原理的に区別がないこと、自然法則は因果過程を記述する必要は必ずしもないので、その場合、説明において因果性は役割を演じない、こともすぐにわかる。
 ヘンペルとオッペンハイムは帰納的で統計的な説明も科学的説明の一つとして認める。この説明は統計的な法則と初期条件から特定の出来事についての言明を高い確率で帰納的に導き出すもので、次のような図式で表現できる。

C1, ..., Cn
L1, ..., Lm [p(E) = r]( pは確率を表す)
E

確率p(E) が十分高い値なら、説明項は被説明項に対し、確実ではないが、十分信じ得る根拠を与える。
 ヘンペルとオッペンハイムの考えは力学を想定すれば全く正しいように見える。だが、推論としての科学的説明には幾つかの難点がある。代表的な二つの難点は次のようなものである。

(説明と予測の違い、内容の関連性)
 説明と予測は形式上区別がないというのがヘンペルとオッペンハイムの考えであるが、二つが実質的に異なる場合があり、推論としての説明ではその違いが表現できない。気圧計の値が下がるのを見て、台風が接近していることを予測できるが、台風が接近していることから気圧計の降下も予測できる。しかし、いずれも説明にはなっていない。というのも、両方ともそれまでの気象条件から説明されるからである。また、説明や予測が内容から独立に特徴づけられていることから、関連のないことまで説明に含まれる場合がある。例えば、ピルを飲んでいる男は誰も妊娠しない。太郎がピルを飲んでいるから、彼は妊娠しないと演繹できる。しかし、これは太郎が妊娠しないことの説明にはなっていない。彼は男で、そもそも妊娠しないからである。いずれも形式的な推論だけからは識別できない事柄である。
(低い確率の出来事の説明)
 白血病になったことは、その人が原爆実験地から数キロのところにかつて住んでおり、そのような場所での放射能被爆白血病の発症の確率を高めるということから説明できる。同じ場所に住んでいた1,000人中1人が白血病になった。しかし、そのような場所にいたことのなかった人の場合は、10,000人に1人しか発症していないことから、低い確率であっても説明として認めるだろう。これは喫煙と肺ガンの場合も同じである。ある人が肺ガンになったことを40年間毎日二箱のタバコを吸い続けたからであると説明する場合、実際はそのように吸い続けた人の100人に1人しか肺ガンになっていないとしても、そうでない人に比べて発症率が高いことから、タバコが原因であるという説明を認めてしまう。これは統計的な説明につきまとう基本的な問題である。100人から1人しか選ばれなくとも、その1人に選ばれないとは限らないことから、統計的な説明や予測は何を説明、予測しているのか曖昧なのである。

 この難点に対する批判は二つに分かれる。一つは反例を認め、説明項は被説明項の原因に言及しなければならないとするもので、それが(2)の因果的説明である。
 では、(2)の因果関係としての説明を見てみよう。説明は認識レベルで特徴づけるのではなく、世界の出来事の間で成立する関係として特徴づけられなければならない。出来事間の適切な関係の候補は因果関係である。説明と予測の関係も因果関係をもとにすれば、区別できる。推論としての説明がもっていた上述の難点は、非対称性(原因と結果の違い)、無関連さ(統計的結果の確率の低さ)とまとめることができる。 この難点に対してサーモンは、現象を説明するのはそれを予測するのに十分な情報を与えることではなく、その現象の原因についての情報を与えることであると考えた。サーモンによれば、説明は自然法則を前提に含む推論ではなく、ある出来事の因果的歴史についての統計的に適切な情報の集まりである。彼は因果的な情報が説明に必要である理由を次のものと考えた。

説明の情報の初期条件は被説明項より先に生じなければならない。
法則から演繹できるすべてが説明にはならない。

サーモンの因果的説明は次のような説である。

(1) 統計的関連:説明項Cは被説明項Eの確率を高める、つまり、 p(E|C) > p(E)。
(2) 因果過程:説明項と被説明項は共に異なる因果過程の一部である。
(3) 因果的相互作用:因果過程は相互作用することによって問題の出来事Eを生じさせる。

ここに登場する因果過程とは何なのか。まず、それは時空の連続的領域での出来事の系列であり、情報を伝達できるものである。連続した出来事の系列には光のビーム、壁を動く光、投げられたボール等がある。この中で情報を運ばないものがある。壁の光や影は情報を運ばない。これらは因果過程から排除される。情報伝達はある過程の離散的な段階の間の連結ではなく、その連続的過程そのものの性質である。
 サーモンによれば、二つの過程の性質の間に一致や相関があれば、その一致や相関を説明する二つの過程に共通の出来事があり、それが「共通原因」である。肺ガンになることCとニコチンを吸収することNの間に

p(C|N) > p(C)

の関係があるとき、これら二つの出来事の共通原因は長期間に渡る喫煙Sである。

p(C|N∧S) = p(C|S).

上の関係は「SはNからCを遮る(S screens C off from N. Sが入ると、Nは不用になる。)」と言われる関係である。それは「共通原因」の正確な定義の一部であり、 p(A|B) > p(A)のとき、 CがAとBの共通原因とは次の条件が満たされる場合である。

p(A∧B|C) = p(A|C)p(B|C)
p(A∧B|¬C) = p(A|¬C)p(B|¬C)
p(A|C) > p(A|¬C)
p(B|C) > p(B|¬C)

(最初の条件は遮断条件(screen off condition)に同値である。)これではある種の因果的な相互作用には不十分なので、最初の条件を、

p(A∧B|C) > p(A|C)p(B|C)

と取り替える。
 この因果説にも難点がある。それを二つの例で見てみよう。恒星は進化するが、その崩壊が止まる。なぜか。パウリの排他原理(Pauli Exclusion Principle )を考えると、さらに崩壊が進めば、同じ状態を占める電子が存在するようになって、排他原理に違反する。だから、崩壊過程が停止する。これが通常の説明である。ここで排他原理は崩壊を止めることの原因ではなく、崩壊が止まることを予測するだけである。恒星が崩壊を止めるのはそれ以上の物理的な変化が不可能であるという否定的な情報からである。否定的な情報は原因にはなれず、因果過程の最終点を描くだけである。さらに、量子力学にはサーモンの理論に合わない例が多くある。サーモンの見解では科学の説明は共通原因による説明であり、時空の連続的な変化を前提にしている。だが、この連続性はミクロレベルでは成立しない。
 推論としての説明への2番目の反対意見はフラーセンによるもので、説明は「なぜ」という問いへの適切な答えである。その説明が良い説明であるのは、推論として正しいからではなく、説明を受ける人々や彼らの興味といった背景知識に依存している。例えば、「なぜ太郎はミカンを食べたのか」という問いに対して、背景知識の違いから問い方が複数考えられ、そこから複数の答えがあることになる。

(次郎ではなく)なぜ太郎はミカンを食べたのか
(それを飾るのではなく)なぜ太郎はミカンを食べたのか
(リンゴではなく)なぜ太郎はミカンを食べたのか

これらの問いは状況に応じて異なり、当然それに応じて異なる答えを要求している。したがって、「なぜ」という問いは、問う対象が存在し、「なぜ」が何を聞いているか明瞭であり、適切さの基準が想定されている必要がある。このようなことは推論としての説明からは導き出せない。

ハンゲショウ(カタシログサ)

 半夏生(はんげしょう)は雑節の一つで、半夏という薬草が生える頃、あるいは、ハンゲショウ(カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているようになる頃とも。様々な地方名があり、ハゲ、ハンデ、ハゲン、ハゲッショウなどと呼ばれる。かつては夏至から数えて11日目としていたが、現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっていて、7月2日頃にあたる。この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、大雨になることが多い。
 ハンゲショウは半化粧とも書かれ、片白草(かたしろぐさ)とも言われる。上の方の葉っぱが、ペンキをべったり塗ったように白くなる。花期に葉が白くなるのは、虫媒花であるために虫を誘う必要からこのように進化したと言われている。

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変化の表現形式(6)

4仮説の設定-最善の説明のためのアブダクション
[パースとアブダクション
 推論が演繹と帰納以外のものも含んでいることを最初に主張したのはパース(Charles S. Peirce, 1839-1914)だった。彼はこれを「アブダクション」と呼んだ。アブダクションは最善説明を与える推論(inference to the best explanation)(驚くべき事実を最もよく説明するための推論)である。パースはこの推論形式だけが科学において「最初の推測」や「考える際の仮説」を導入できると考えた。パースの定義を一般化すると、次のアブダクションの定義が得られる。

Dは観察結果のデータの集合である。
HはDを説明する。
他のどのような仮説もHと同じようにはDを説明できない。
それゆえ、Hは多分正しいであろう。

 アブダクションを使った推論の例に医療診断がある。医者は患者の症状を引き起こす原因を幾つか推定する。そして、その中から真の原因を特定する。この診断過程でアブダクションが使われている。科学者がもつ驚きを説明するためにアブダクションが使われるように、私たちの日常生活においてもアブダクションの使用は珍しいものではない。
 アブダクションを使って「心は身体に作用する(MC)」という仮説を考えてみよう。尤度(Likelihood)は、ある仮説がどれだけ信頼できるかではなく、その仮説のもとで観察されるものがどれだけ確からしいかを示すものである。P(A|B)を仮説Bのもとでの観察事実Aの尤度を表すとして見よう。これを使うと次のような推論ができる。

A:喜びや楽しみは行動を活発にする
W1:MC
W2:MCとは別の仮定K

これら三つを尤度という点から見ると、P(A|W1)>>P(A|W2)(W1の仮定のもとにAが起こるほうが、W2の仮定のもとにAが起こるより遥かに見込みが高い)。ゆえに、MCを仮定すると、Aが説明できる。これはMCの仮定のもとでAが起こることの方が、別の仮定Kのもとで起こるより遥かに起こり易いことを示している。
 上の例は尤度原理(Likelihood Principle)を使っていずれの仮定が観察によって支持されるかを決める最善説明のための推論になっている。この結果は、MCが私たちの行為や責任を説明するための最善の仮定として採用できることを示唆している。これがMCを常識的に受け入れている理由である。しかし、これだけではMCが正しいということにはならない。そのためには、

[どんな行為B、どんな仮説Lに対しても、P(B|MC)>>P(B|L)] ⇔ MCは正しい

が必要である。これが困難なことを有名なデザインによる推論で見てみよう。

(O) 眼は精巧である。
(H1) 眼はデザイナーによってつくられた。
(H2) 眼は偶然につくられた。

眼のもつ精巧な構造や機能を観察することから、P(O|H1)>>P(O|H2) であることは明らかである。さらに次の仮説(H3)を考えてみよう。

(H3)眼は自然選択によってつくられた。

自然選択が眼の精巧な構造や機能を十分に説明してくれるなら、(H1) や (H2) より(H3)を仮説として採用するだろう。実際、現在の私たちはそうしている。複数の仮説を比較することで、観察結果からよりよい仮説を選び出している。だが、(H3) が最善の仮説であるかどうかの保証はない。現在手許にある仮説の中での最善しか言うことができない。

*パースのアブダクションについての二つの考え
 パースはアブダクションについて二通りの考えをもっていた。彼の考察が進むに連れて特徴づけが変わることになる。
[三段論法による考え]

この俵の米はみな白い。
この米はこの俵のものである。
それゆえ、この米は白い。

これはBarbaraと呼ばれる三段論法の例である。これを変形した推論を考えてみよう。

この米はこの俵のものである。
この米は白い。
それゆえ、この俵の米はみな白い。

この俵の米はみな白い。
この米は白い。
それゆえ、この米はこの俵のものである。

これら二つの推論は三段論法としては正しくないが、前者が帰納的推論、後者がアブダクションの例となっている。これら演繹的には正しくない推論を含め、パースは推論を次のように分類している。
(推論の分類)
(1)演繹的、あるいは分析的
(2)総合的-帰納、仮説設定(アブダクション
推論は演繹的推論と非演繹的推論の二つに大別され、帰納アブダクションは互いに他の一部と捉えられている。
[推論による考え]
 前の分類をさらに発展させ、推論には演繹的でないものもあることを認め、それを広義の推論のパターンとしてまとめると、次の三つのものが考えられる。
三つの推論の種類:演繹、帰納アブダクション

これらの役割の関係は次のように考えられている。

アブダクションによって仮説を形成し、その仮説から予測を演繹し、帰納的に評価する。

 アブダクションは説明すべき観察から説明する仮説を形成する過程として定義されるが、当て推量に近い推量であり、計算される過程ではない。次の議論はパースのものだが、この議論は何を意味しているだろうか。

驚くべき事実Cが観察される。
Aが真であれば、Cは当たり前のことだろう。
だから、Aが真だと考えられる理由がある。
(Peirce, 1958, 5.188-9, Collected Papers of Charles Sanders Pierce, Harvard Univ. Press.)

Aが真なら、Cは当たり前と言うのは、Aが論理的にCを帰結することと解釈できる。この時、AはCを説明する、あるいはAはCを説明する仮説である。(ここで「Aならば、C」が論理的な含意関係なら、それがなくとも、Cが真であることは最初の前提で明らかである。これは説明が論理的含意そのものではないことを意味している。)驚くべき事実Cが所与なら説明の必要はないが、「驚くべき」ことの解消には説明が必要である。
 驚くべきことがなくなり、すべての事柄が説明できるなら、それを説明する理論は完全だと言える。これが理想的な知識であるというのが古来の考えであり、その具体例が古典物理学ということになる。

ポアンカレの規約主義
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学
 ポアンカレ(Henri Poincaré, 1854-1912) はユークリッド幾何学アプリオリに真であり、それを真にしているのは私たちであると考える。この点ではカントと同じである。しかし、私たちがどのようにユークリッド幾何学を真にしているかという説明はカントと全く異なっている。既述のように、非ユークリッド幾何学の発見は空間の真なる構造はアプリオリに知ることができるというカントの考えを脅かした。ポアンカレ微分方程式で定義される関数の研究において実際に非ユークリッド幾何学を使っていた。また、非ユークリッド幾何学の相対的な無矛盾性も知っていた。ポアンカレによれば、幾何学は世界について何の予測も行なわないので、経験の中には幾何学自体に矛盾するようなものはない。非ユークリッド幾何学ユークリッド幾何学と同じ論理的、数学的な合法性をもっている。すべての幾何学的システムは同等であり、どれか一つが真なる幾何学ということはない。幾何学の公理は総合的でアプリオリな判断でもなければ、分析的な判断でもない。それらは規約、あるいは姿を変えた定義に過ぎない。
 ポアンカレによれば、すべての幾何学は空間の同じ性質を扱うが、それぞれが独自の言語を使っている。異なる言語を使うが、同じ実在についてのものである。というのも、一つの幾何学は別の幾何学に翻訳できるからである。一つの幾何学を選択する基準は経済的な単純さである。通常私たちがユークリッド幾何学を日常世界で使う理由はこれである。だが、時には非ユークリッド幾何学のほうが単純な場合がある。相対性理論はこのような場合の典型である。
[科学理論の規約性]
 ポアンカレ幾何学についての考えは科学理論にも適用できる。すべての科学理論は自らの言語をもち、規約によって選ばれている。だが、予測や事実に関する一致や不一致は実質的なもので、客観的である。科学は客観的妥当性をもつ。科学者が自由に選ぶ言語、公理は規約によるが、その妥当性は客観的な観測によって判定される。科学法則は、したがって、二つの部分に分解される。一つは原理で、これは規約によって真であり、他は経験的法則である。
 「天体はニュートンの重力の法則にしたがう」という法則は次の二つに分解できる。

1. 重力はニュートンの法則から出てくる。
2. 重力は天体に作用する唯一の力である。

1は原理であり、規約である。だから、それは重力の定義となる。2は経験的法則である。
物理学と幾何学を組み合わせることによってだけ経験によってテストできる予測を行なうことができる。幾何学と物理学を組み合わせて行なった観測が矛盾をもたらす場合、私たちはいつも物理学を代え、ユークリッド幾何学は変更しないようにする。したがって、ユークリッド幾何学の正しさは人間の決定判断の規約的な問題である。これがポアンカレの規約主義(Conventionalism)である。どのように観測結果を解釈するかにはいつも選択の余地がある。そこで、私たちはいつも幾何学が正しいように選択する。それはなぜなのか。ポアンカレによれば、非ユークリッド幾何学を採用せずに物理学を変える方が私たちの信念の全システムをより単純に保つことができるからである。ポアンカレの規約主義はカントの数学的真理についての説明とは別の説明を与えてくれる。カント、ポアンカレ両者にとって、数学は帰納的推論に基づいているのではなく、経験的に反駁される対象ではなかった。

アオギリ(梧桐、青桐)

 桐の木は田舎では珍しくなく、桐のタンスも下駄も身近なものだった。アオギリと聞いて桐の木を思い出したのだが、実は別物だった。樹高は15〜20mで、樹皮は緑色。その花を見て、アオギリとキリは別物だと実感したのである。画像でキリとアオギリの花を比べてほしい。葉がキリに似て、幹が緑色であるためアオギリと呼ばれ、初夏に画像のように花弁のない奇妙な形をした黄色い花が咲く。一輪一輪は小さいが、円錐状に集まり、開花期には遠目からもよく目立つ。
 花の後には、長さ8 cmほどのエンドウマメに似た実ができ、中には直径8mmほどの丸い種子が数粒入っていて、10月頃に熟す。中国では伝説上の霊鳥「鳳凰」が止まる木とされ、いわゆる「桐の紋章」は桐ではなく梧桐をモチーフにしている。

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この画像の幹は青く見えないが、実際は青い

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アオギリの花

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アオギリの花

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キリの花

 

変化の表現形式(5)

3帰納的な推論-仮説の正当化
[ベーコンの試み]
 ベーコン(Francis Bacon, 1561-1626)が主張する内容の大半は否定的なもので、帰納的な判断をする際に陥ってはならない誤りをどのように避けるかにあり、積極的に新しいタイプの判断を構成するものではない。彼は演繹論理での誤謬に対応するような帰納的推論での誤謬を精神の偶像(イドラ)と呼び、下の表のように四つに分類した。

部族の偶像 人間の種の限界に由来し、知覚は人間に相対的である。
洞窟の偶像 個人の性格、好き嫌いという心理的なものに左右される。
市場の偶像 使う言語の誤用によって混乱が生み出される。
劇場の偶像 権威の乱用、悪用によって混乱が生み出される。

 では、どのように自然世界についての知識を獲得するかに関するベーコンの積極的な主張は何か。彼の方法は表にある最初の三つの偶像をもたずに、客観的な観察を行なうことからスタートする。その考えは、特定の事柄に関する多くの情報を集め、それらから段階的に一般的な結論を得ることによって真理に到達しようというものである。この過程を彼は自然的、実験的歴史の作成と呼んでいる。実験は単純な観察では制限されているものを拡大してくれる。観察の条件をさまざまにコントロールすることによって、「…ならば、何が起きるか」と問うことを可能にしてくれる。
 実験は反復できることが想定されている。だから、誰かが行なった実験を別の人が行なうことができる。また、科学者は実験結果が観測者の知覚によって左右されないように、測定装置によって記録することを好む。ベーコンは科学的なデータから信頼できないものを取り去るために測定装置の役割を強調した。実験は現在では科学にとって必須のものと考えられているが、科学革命以前では錬金術で用いられたくらいで、アリストテレスの方法論の中でもほとんど何の役割ももっていなかった。
 自然に起こる現象例を集め、実験を工夫することによって事例を集めた後に私たちが行なうことは、さまざまな種類の表にデータを入れることである。この過程をベーコン自身の例である熱について例示してみよう。彼はまず熱をもつもののリストを、次に熱のないもののリストを挙げる。前者には太陽が、後者には満月がある。帰納法は三段論法と違って、諸例から直接に結論を導き出す。小前提の代わりを果たすのが肯定的、否定的な例の違いである。最後に程度あるいは比較のリストが挙げられる。温度の違いはここに入る。
 作成されたリストに基づいて帰納がなされ、個々の例から一般的な主張がなされることになる。このような純粋に機械的な手続きを使ったベーコンの帰納法による経験的知識の獲得方法は次の二つの事柄からなっている。

観察
帰納法

観察によって個別的な言明が得られ、そこから帰納によって普遍的な言明が得られる。この一般言明が科学法則の一般的な表現形式となっている。
帰納法帰納主義の問題]
 では、一般言明の正当化、つまり、どのようにして個別的な言明から一般言明が得られることを保証できるのか。これに答える一つが帰納主義(Inductivism)である。素朴な帰納主義によれば、

 Xについての多くの観察がさまざまな状況のもとで行われ、すべてのXがYという性質をもつことがわかり、「すべてのXはYである」という一般化に反するどんな例も見出されなければ、観察言明の集まりから一般言明を推論することができる、

と主張される。
帰納主義を科学の方法として評価するために次の二つの問いを区別する必要がある。

(1) 帰納主義は科学史の中で実際に科学者によって使われてきた方法なのか。
(2) 帰納主義を使ったなら、知識を生み出せるだろうか。

最初の問いは経験的な研究が必要で、多くの歴史的資料が必要となろう。ここではまず(2)の問いを考えてみよう。
[ヒュームの経験論]
 ヒューム(David Hume, 1711-1776)は命題を二つのタイプに分ける。一つは観念の関係に関するもの、他は事実に関するものである。観念の関係に関する真なる命題はすべて演繹的に証明できる。というのも、その否定が矛盾を含意するからである。だが、事実に関する命題は感覚からしか導出できない。というのも、そこに含まれる観念は論理的に無関係で、そのため演繹的に証明できないからである。ヒュームは他の経験論者(ロック、バークリー)と同じように、生得的な観念はなく、世界についての私たちの知識は感覚的な知覚によって獲得され、正当化されると考えたので、事実に関するアプリオリな知識を否定した。事実と観念の関係というヒュームの区別はカントの総合的-分析的という区別に対応している。
 ヒュームは過去や現在の経験を越えて進行する推理が原因や結果に基づいていると考えた。私たちは日常の現象を原因や結果の系列として、また太陽や月の変化は周期的な現象として理解している。論理的な関係のない二つの観念が原因や結果として結合されることで事実が経験されている。そして、私たちは経験を通じてのみ特定の因果関係を見出すことができる。それゆえ、私たちの因果的な経験を分析することによって自然を理解することができる。この分析から、ヒュームは原因と結果についての私たちの知識は過去の経験からの一般化の帰結であると考える。タイプAの出来事が原因で、結果としてタイプBの出来事が起こるということについての彼の分析結果は以下のようにまとめることができる。

タイプAの出来事はタイプBの出来事に時間的に先行する。
私たちの経験の中ではタイプAの出来事はタイプBの出来事に常に結びついている。
タイプAの出来事はタイプBの出来事と時間的、空間的に隣接している。
タイプAの出来事はタイプBの出来事がその後に起こるだろうという期待をもたらす。

 これらがヒュームの因果性の分析であるが、これで因果的関係は表現し尽くされているのだろうか。ボールAがボールBに衝突したとき、私たちはAがBを動かし、Aが衝突したのでBは動かなければならなかったと考え、そこからAの動きとBの動きの間には必然的な結びつきがあったと考えるのではないか。しかし、ヒュームによれば、私たちはこの必然的な結びつきを理解できない。この主張の根拠は彼の経験論にある。私たちはAの動きやBの動きを経験できるが、それら動きの間にある必然的な結びつきは経験しない。それゆえ、自然に必然的な結びつきがあると信じる何の理由もない。私たちが見るものすべては隣接する出来事でしかない。出来事の間の関係を見ることはない。しかし、隣接する出来事をいつも見ていると、それが未来にも引き続いて起こり、結びつきを期待する習慣がつくられていく。したがって、因果性は習慣によってつくられた心理的な傾向性に過ぎないことになる。
帰納法は正当化できるか]
 「全てのカラスは黒い」ことを結論するには飛躍があると述べたが、どのような飛躍なのか。帰納的推論は観察されたものから観察されていないものへの推論である。ここには過去の観察から未来へ、部分的な観察から全体へという二つの場合が含まれている。次の論証は演繹的ではないが、十分信頼できると考えられている。

私は多くのエメラルドを見てきたが、それらはみな緑色だった。
よって、エメラルドはみな緑色である。

私は多くのエメラルドを見てきたが、それらはみな緑色だった。
よって、次に私が見るエメラルドも緑色である。

しかし、ヒュームによれば、このような確信は合理的に正当化できない。予測や一般化によって得られる信念は合理的に正当化できず、常識的な確信は私たちの習慣にすぎない。私たちはこの習慣を合理的に正当化する推論を知らない。これがヒュームの主張である。
 ヒュームは帰納的推論の結論を得るには新たな前提が必要であると考える。彼が考えた原理は自然の一様性原理(Principle of the Uniformity of Nature (PUN))である。彼によれば、帰納法を使った推論はみなこの原理を仮定しなければならない。では、この原理は正しいだろうか?

(1) すべての帰納的推論はその前提としてPUN を必要とする。
(2) 帰納的推論の結論が前提から合理的に正当化されるならば、それら前提も合理的に正当化されていなければならない。
(3) したがって、帰納的推論の結論が正当化されるなら、PUNに対する合理的な正当化がなければならない。
(4) PUNが合理的に正当化されるなら、そのための推論は帰納的推論か演繹的推論でなければならない。
(5) PUNに対する帰納的推論はない。というのも、そのような推論はみな循環するからである。
(6) PUNに対する演繹的推論もない。というのも、PUNはアプリオリに真ではなく、私たちの観察から演繹的に得られるのでもないからである。
(7) したがって、PUNは合理的に正当化されない。
それゆえ、予測や一般化の形をした信念は合理的に正当化されない

このヒュームの懐疑論は自然科学も習慣的なものに過ぎないことを帰結する。自然科学は経験科学であり、経験科学は経験的知識を追求する。だが、その正当化はできなく、習慣的な恒常性しかない。この懐疑論にどのように対処したらよいのか。

(問)自然科学が習慣に過ぎないことはどうして自然科学にとって不都合なのか。

 確率は信念の真であることの度合であるという主観的解釈を使って経験的な信念を考え、その合理的な正当化が図れないのだろうか。真と偽の間に度合をもった信念を考えれば、不確かな信念についての合理的な扱いが可能であろう。これがベイズ的な解決の発想である。条件付きの基礎付け主義が自然科学で成功し、その成果は無条件の基礎付け主義より遥かに大きいが、ベイズ的な解決も条件付きの信念の正当化を目指している。
[確率・統計的推論]
 ベイズ(Thomas Bayes, 1702-1761)はヒュームと同時代に活躍したが、生前ほとんど何も発表しなかった。1763年、彼の “Essay towards Solving a Problem in the Doctrine of Chances” がプライス(Richard Price)によって、ヒュームの懐疑論への解答として紹介された。ヒュームによれば「太陽は明日も昇る」は正当化できない。私たちが経験する昼と夜は自然という壷からボールを取り出すようなもので、夜の次に昼がくれば赤のボール、夜が続くなら白のボールというように、赤と白のボールからなる二項分布と考えられる。プライスはこれがヒュームに対する答えであると考えた。最初に太陽が昇るのを見て、それを10日も繰り返せば、それだけで太陽が明日も昇る確率は94%であり、実際私たちは10日以上太陽を見続けている。したがって、ある程度長く観察すれば、100%に収束することになる。
 残念ながら、プライスの考えは発表当時大きな影響を与えることができなかった。それが復活するのは20世紀に入ってからであり、ラムジー(Frank Ramsey, 1903-1930)、ド・フィネッティ(Bruno de Finetti, 1906-1985) によってベイズの考えが取り込まれ、統計学の一分野にまで成長することになる。
 ヒュームの懐疑では経験についての言明は疑われず、そのような言明の一般化に対して疑いがもたれた。ベイズの立場はヒュームと同じであり、それゆえ、経験的な信念を更新する際、そこに登場する信念は真か偽のいずれかであった。P(A|B) をP(A) に更新できるのはP(B) = 1と判明した場合であった。この再定式化は一定の条件のもとでではあるが、見事にヒュームの懐疑に対する解答になっている。しかし、ベイズ的な扱いにも様々な問題があり、それらを巡って現在でも活発な議論が続いている。