変化の経験-科学における経験と実在(2)

1経験論と実在論
 まず経験論と呼ばれてきた考えがどのようなものかを歴史的な経緯を通じて考えてみよう。特に、経験論の中で表象がどのように扱われているかに注意しながら議論を進めてみたい。
[経験論とは何か]
 デカルトのように心と外の世界を二つに分け、その関係を考える場合、二つの媒介になっているのが表象(representation、表現、表示)という概念である。表象は情報処理過程の入力としてスクリーン上に映し出される映像のように経験されると多くの人に思われてきた。そして、この表象経験が経験論を特徴づけるのに使われてきた。経験される表象だけを信頼して、それを素材にして世界についての知識を得るというのが経験論の原型である。
 観察に基づく経験的方法が17世紀に登場し、経験科学がこの新しい方法を使ってスタートする。その際、科学は経験の客観性を求めるだけでなく、それを使って研究され始めた。そして、経験レベルに登場する客観性は次のような異なる意味をもっていた。

(1)認識論的客観性:科学的主張は経験的な客観的基準によって正当化できるので、単なる信念、意見とは違う。(経験論の問題)
(2)形而上学的客観性:科学は伝統的な形而上学の問題に答えようとする。事物の隠れた、基本的性質を明らかにしようとする。(実在論の問題)

上の(1)は知識の伝統的な特徴づけ(つまり、「知識=真なる正当化された信念」)であり、(2)は知識の内容が心的構成とは独立した客観的存在であることを主張している。そして、科学理論はこれら二つの客観性をもつべきだと考えられてきた。

(問)上の二つの客観性はどのように異なるか説明し、それを使って経験論と実在論が異なる立場からの主張であることを述べよ。

[認識論と形而上学の間の緊張]
 知識は私たちが感覚器官を通じて受け取る外部情報から得られるという経験論の基本仮定を認めると、前の(1)と(2)の間に強い緊張関係が生まれる。(1)の意味での客観性への欲求は科学を経験の内側から見ることになる。(1)の主張を正当化しようとすれば、直接的で疑うことのできない情報、つまり、感覚的情報に集中しなければならない。(2)の意味での客観性への欲求は科学を経験の外側から見ることになる。私たちが事物の背後の隠れた本性に関心をもつと、見える現象を超えた、見えない実在に迫らなければならない。したがって、(1)と(2)の要請は科学における私たちの関心を全く異なる方向に向けることになる。そのため、二つはしばしば対立するものと考えられてきた。(1)からは経験論が、(2)からは実在論が主張され、実際それら二つは歴史上互いに対立してきた。科学的経験の哲学的分析は主に(1)の客観性のもとでなされてきたのに対し、多くの科学者の素朴な目標はあくまで(2)であり、客観的な実在の真の姿を追求する活動が科学と考えられてきた。
 「科学はそれが基礎を置く証拠以上のものか」 という問いを考えてみよう。この問いに対して、実在論と経験論はそれぞれ異なる解答をする。実在論の解答は明らかで、科学は証拠を超えた実在の真の姿を追求すると答える。だが、経験論によれば、科学は観察に基づくものだけを対象にする。それが感覚的経験の内容だけなら、その内容を内観することが主な科学的活動となる。つまり、科学は私たち自身の主観的経験についてのものということになる。この見解はばかげているように見えるが、何人かの著名な哲学者が主張してきたものである。ばかげているように見える主張だが、哲学者たちがどうしてそのように考えたのかを理解する必要がある。

(問)経験論の主張における感覚的経験の内容はどのような意味で主観的と見なされているのか。

2経験論の歴史
ガリレオ:新しい科学における現象と実在]
 既に私たちはガリレオの科学とそれに対する考えを見た。ガリレオ形而上学的なプランは物体のどの現象的な性質や側面が真に物体自体の中にあり、どれが観測者の感覚器官によってつくり出されるものかを決めることだった。物体自体の中には形、運動、数等があり、色、音、匂い等はそれを感じる感覚器官の中だけにある。彼は物体がもつ性質と、物体を観察するときに観察者に生じる性質を区別した。ガリレオは世界の本性についての科学的研究によってこの区別がなされ、新しい科学に必要なものは物体がもつ性質だけであると考えたからである。
ガリレオデカルトが機械論的見解に偏向する理由は、実在を質量、空間、時間を使って客観的に記述することによって、実在記述の基本的形式を天文学や力学をはじめとするすべての研究対象に幅広く応用できると考えたからである。
[ロック(John Locke, 1632-1704):第一性質と第二性質の区別]
 ロックの認識論的な動機は、経験する世界で何を信じることが正当化できるかを決めることにあった。彼は生得的な知識を否定する。そして、二種類の観念を認める。一つは直接的な感覚で、他はそれについての内省(reflections)である。
 物体の中に形、運動、数等があり、感覚器官の中に色、音、匂い等があると考えたガリレオ、そしてそれに同意したニュートンの考えを哲学的に整備したのがロックによる二つの性質の区別である。どの観念が外部の実在がもつ本性への信頼できる手引きとなるのか。この問題に対するロックの解答は二種類の性質を区別することによって与えられた。第一性質は実在する性質で、対象の中にあり、私たちにそれに類似した、対応する観念を引き起こす。これに対し、第二性質は私たちに感覚を引き起こす、私たち自身の能力や傾向の性質でしかない。
[バークリー(George Berkeley, 1685-1753):経験論の中での最初の反実在論者]
 ロックは第一性質が適切な観念によって表現されることが認識の正当化に必要だと考えたが、そのためには第一性質とそれらの観念の間に類似性があることを仮定しなければならなかった。したがって、問題は類似性という概念が意味をもつかどうかにあった。類似性があると、どうして私たちはその性質について知ることができるのか。バークリーのロックに対する批判は、類似性だけではある観念が別の観念に似ているとしか言えず、正当化には不十分という点にあった。
 バークリーの現象主義は対象を感覚の束として考える。(バークリー自身の表現によれば、「存在するとは、感覚されることである(To be is to be perceived.)」となる。)すると、事物を見ていないとき、その存在をどう説明するかがすぐに問題となる。眼を閉じたときにそれまで眼前に見えていた恋人はどうなってしまうのか。バークリーは、見ることを決して止めない神の眼と私たちの感覚の可能性によってその存在を説明できると考えた。
[ヒューム:離散性と規則性]
 ロックと同じように、ヒュームは感覚印象が私たちの知識の基礎となると考える。そして、それら印象が互いに異なり、区別できる点でも一致する。ヒュームはこれらの離散的な観念の間に一時たりとも固有の結合関係はないと言う。私たちは決して事物の間の結合関係を観察しないからである。彼はこの一般的な結論を次のように具体化する。(この章の最後の節も参照せよ。)
(観察できないもの)
1. 因果関係:通常の見解では因果関係は原因と結果の間の非対称的な結合関係である。ヒュームが言うには、私たちが実際に観察するのは規則性であり、ある事物が別のものに規則的に連合していることだけが観察できる。「因果性」や「必然性」は私たちが付与するものであり、原因Aの後に結果Bが続くことを予想するのは長年の習慣によってである。
2. 自己:ヒュームは、私たちが時間を通じて連続する単一の自己であるという考えをもつのも因果関係の場合と同じ理由からだと考える。私たちが観察するすべては私たちの観念のその時々のパターンである。それらをしっかり結びつけ、統一しているものなど私たちは観察しない。だから、自己は観察されない。
3. 外在する対象:同様に、ヒュームは私たちの目の前にテーブルがあり、それが存在し続けると考えるのは心の習慣に過ぎないと考える。 私たちが観察するものはテーブルの離散的な印象の系列だけである。
 ヒュームが正しければ、科学の役割は一体何なのか。それは現象の規則性の記述でしかなく、実在するものについての説明ではない。だから、ニュートンの運動法則も規則性の記述であり、自然の隠れた機構の説明ではない。結局、科学は習慣の規則性の集合に過ぎないことになる。

(問)ヒュームの主張が正しいとすると、私たちは経験自体を経験することができるだろうか。

自然法則とは何か。
 科学の目的の一つは自然法則の発見にある。帰納主義や反証主義の議論では「すべてのFはGである」という形式をもった自然法則はヒュームの言う自然の一様性を表している。だが、一様であっても法則でないものが数多くある。史門の友達はみな黒髪なので、「史門の友達のすべては黒髪である」は真となるが、それは自然法則には見えない。一様性と法則の間に区別はあるのか、それともないのか。「すべてのFはGである」が法則であるためには、Fという性質をもつものはみなGという性質ももつと言うだけで十分なのか、あるいは、それ以上のものが必要なのか。このような疑問を検討してみよう。まず、ヒュームの見解は次のように表現できる。

素朴規則性説:自然法則は一様性である。「すべてのFがGである」という法則は、FであるものがすべてGでもあることである。

この説に反対する反ヒューム的見解によれば、「すべてのFがGである」ことが自然法則であるためにはFとGの間に必然的な関係がなければならない。FであるものがいつもGであるだけでは不十分で、Fであるものは必ずGでもなければならない。例えば、史門の友達がすべて黒髪なのは偶然に過ぎないが、熱せられた金属が膨張するのは偶然ではない。金属と熱と膨張の間には必然的な関係がある。
 アームストロング(David Armstrong)は素朴規則性説では自然法則を正しく説明できないと考える。そこで彼は反ヒューム的な立場に立ち、素朴な規則性説では説明できない事柄を挙げる。

1. 自然法則と偶然的な一様性の間には区別がある。
2. 自然法則は物理的に可能なものを制限する。自然法則に反するものがあれば、それは物理的に不可能である。だが、偶然的な一様性に反するものでも物理的には可能である。
3. 自然法則はその具体例を説明する。なぜ特定のFがGであるかは「すべてのFがGである」という法則を持ち出すことによって説明できる。
4. ヒューム的な一様性はみな法則だと主張することで、素朴規則性説は法則と偶然的な一様性の区別ができない。
5. 素朴規則性説では法則の一様性と法則でない一様性の区別ができない。だから、違反すると物理的に不可能な一様性と、違反しても物理的に可能な一様性の区別ができない。
6. 法則が一様性なら、「すべてのFがGである」という法則を使って、なぜこのFがGであるかを説明することは、すべての他のFがGであるからこのFはGであると言うのと同じである。これは十分な説明とは言い難い。

これらの指摘から、自然法則と一様性の区別に必然性が重要な役割を果たしていることがわかるだろう。そこで、必然性に関して反ヒューム的見解は何を主張しているか、以下にまとめてみよう。

1.「すべてのFはGである」が単に真であることと、「すべてのFはGである」が法則であることの間の違いは、後者の場合だけFとGという性質の間に物理的に必然的な関係がある点である。
2.物理的に必然的ということから物理的に不可能なことが説明できる。物理的に必然的でない場合は物理的に可能であるが、これは一様性だけでは説明できない。
3.「すべてのFはGである」という法則を使って、このFがGであることを説明する場合、単にすべてのFがGであると言うこと以上のことが言われている。それはFであるものとGであるものの間に必然的な関係があることである。だから、「すべてのFがGである」という法則はこの特定のFがGである理由を説明できる。

 上述のような反論から素朴規則性説は誤っているように見える。では、なぜ最初からこの考えは否定されなかったのだろうか。私たちが経験できないものを信じるべきではないという考えに答えが隠されている。法則と偶然の一様性の違いは、反ヒューム的な見解では性質の間にある必然的な関係の存在にある。だが、私たちにはそのような関係は観察できない。それらを調べることができる科学的な装置をもっていない。だから、私たちはそれらを信じるべきではない。これがヒューム的な立場からの再反論である。

(より洗練された規則性説(Mill-Ramsey-Lewis の見解))
 神が私たちにすべてを学ばせたいと思い、私たちに一冊の本を与えようと決めたとしてみよう。最初の原稿では世界のあらゆる事実のリストだけが書かれていた。だが、それは途方もなく長く、私たちにはそこから何かを読み取ることができなかった。それを見た神はリストを整理し,公理化して示した。つまり、普遍的な一般化をして、そこからリストの各項目が演繹できるようにした。例えば、すべての事実がf = maにしたがうと書かれていたとしてみよう。これが公理であり、これから質量や加速度に関する個々の事実が説明できる。神はできるだけ強い公理系をつくろうとするだけでなく、できるだけ単純な公理系にしたいと思うだろう。このようなバランスのとれた公理系の演繹的な帰結が自然法則を構成することになる。
 この主張は一種の規則性説である。というのも、自然法則は規則性の一種として特徴づけられているからである。そこには必然的な関係は何も仮定されていない。それゆえ、ヒューム的である。この主張をMRLと呼んだとすると、素朴規則性説に対してなされた反論にMRLは答えることができるだろうか。

1. MRLによれば、法則と偶然の間に区別がある。すべての事実についての最善の形式化として、自然法則は公理として表現される。一方、偶然的な一様性はそのようには表現されない。
2. MRLの支持者は自然法則によって物理的な可能性を定義する。法則に違反すれば、それは定義から物理的に不可能である。違反しなければ、定義上物理的に可能である。
3. 特定の現象を説明する一つの仕方はそれが一般的なパターンにどのように適合するかを述べることである。MRLによれば、特定のものの出現が法則の一例であると言うことは、その出現が一般的なパターンに合致すると言うことと同じである。だから、「すべてのFがGである」が法則だという事実はなぜ特定のFがGであるのかを説明できる。

 反ヒューム主義者は規則性説の洗練された形式でも完全に納得するわけではない。彼らは洗練された形式でも自然法則が何かを生み出すことが掴みきれていないと考える。MRLでは「自然法則によって事物が生じる」という直観がどこにも表現されていない。規則性説では法則は事物を引き起こすものではなく、何が起こるかを記述する真なる方法に過ぎない。では、自然法則は事物を生起させないのだろうか、それとも事物が生起することの単なる記述に過ぎないのだろうか

(問)上の下線部の文について各自考えてみよ。