変化の経験-科学における経験と実在(1)

経験(主義)とは何ぞや
 「経験する」とはわかりにくい言葉ではない。だから、誰もが気楽に使い、人生は経験だと誰もが思っている。だが、それが何を意味しているかとなると、とても懐が深く、かつ広い。と言うより、「経験する」とは定義ではわからず、実践でしか知ることができないというのが大抵の人の本音なのである。
 「感じる、察する」から、「わかる、知る」と経験するだけでなく、「観察する」、「測定する」から「検証する」、「証明する」まで経験するのが私たちの普通の経験である。さらに、「評価、判定する」から「解釈する」まで経験に含まれる。これだけではなく、挙げればきりがない。なにしろ、私たちが生きていることは私たちが経験していることとほぼ同じなのだから。それゆえ、味わう、観賞する、直観するだけでなく、さらには、実に様々な心的状態(感情や情緒)や行為の表現が続くことになる。
 カント風の認識論によれば、認識は経験することである。知識を使って五官で経験することが「知る」の基本になっている。だから、人は自らの経験を信じるのだが、経験主義には意外に冷淡なのである。そこで、これから科学の中にある経験や経験主義について考えてみよう。

 ギリシャ哲学における演繹的な科学の問題は、最初に前提される言明(原理や法則)からの帰結の真偽はすべて最初の言明自体に集約されているにもかかわらず、その言明自体を確証する組織的、具体的方法が欠けていた点である。また、原理からは演繹されないが、真とみなすべき経験的な言明をどのように正当化あるいは確証するかも不明のままだった。自然科学の確立とともに演繹的な科学の形而上学的前提を経験的に考え直そうという新しい知識論がスタートする。それが経験論である。経験論は形而上学的前提を否定するために、還元主義、道具主義実証主義、構成的経験論といった形態をとって現れた。それぞれ経験をどのように扱うかで微妙に異なるが、経験と直接に向き合うことによって演繹的な科学には見られなかった新たな知識の特徴を見出そうとした。
 科学は経験に全面的に頼っているわけではないが、経験がなければ科学は存在しない。以下では経験論の立場と実在論の立場を互いに比較しながら、経験と科学的知識の関係を考えてみよう。これからの話の基本的構図と課題は以下のようなものである。
(基本的構図)
 変化には経験的な変化、あるいは見える変化と、経験を超えた変化、あるいは見えない変化がある。見える変化をもとに変化全体を特徴づけるのが経験論だとすれば、実在論では見えない変化が変化全体の特徴づけに不可欠となる。
(課題)
 経験的な正当化は観察や実験によるが、それらは論証的な正当化と何が共通で、何が異なるのか。

0科学における経験
 科学的知識は科学者の経験によって生み出されてきた。新しい知識は経験をもとに生み出され、経験から一般化されてきた。この章はそのような経験が主題である。科学における経験の意味を明らかにするために、次のような少々長い例文から始めよう。

例文:「見える世界、見えない世界」
 科学は直接眼に見えるものだけでなく、見えないものも対象にする。電子や遺伝子は直接見ることができない。見ることができない対象の中にはこれらよりもっと抽象的なエネルギーやエントロピーがある。さらには、科学で使われる数や数学的対象は知覚の対象ですらない。もっと抽象的な対象には抽象的な相空間、ヒルベルト空間等がある。そして、最後に考えられる抽象的なものは科学理論そのものである。このような見えない対象が見える対象と同じように科学的な世界観を生み出すのに数多く使われてきた。
 机や椅子はそれらを実際に見ていなくとも、見ようとすればいつでも見えるという意味で、裸眼で観察できるものである。望遠鏡と顕微鏡はいずれも裸眼の補助装置だが、二つの間には大きな違いがある。望遠鏡で見ているものは私たちが見る場所を移動すれば直接裸眼で見ることができるものである。月に行けば月面を見るのに望遠鏡はいらない。だが、顕微鏡では私たちが架空の小人にならない限り、ウイルスを裸眼で見ることはできない。それゆえ、顕微鏡でウイルスを見る場合は望遠鏡で火星を見る場合より虚構のものを必要とし、マクロな世界とミクロな世界がサイズの違いだけでないことを示している。
 科学において私たちが見るものは理論的な背景がないとわからないものが多い。これが観察の理論負荷性と呼ばれてきたものである。「椅子や机が直接に観察できる」と言うように、「電子や遺伝子が観察できる」と言うことはできる。だが、この場合電子は椅子や机と同じように、私たちが測定している時と同じように、測定していない時にも世界に実在しているのだろうか。
 「観測できないものにはどのようなものがあるか」と問われれば、誰も眼に見えないものをすぐに思い浮かべるだろう。眼に見えないものをどのように思い浮かべ、考えることができるのかという認識論的問いは横において、眼に見えないものは小さいものと思うだろう。小さいために物理的に観測できないということは一見明瞭に見えるが、顕微鏡の例にあるように技術の開発によってそれまで見えなかったものが見えるようになるという意味で、最初から「見える」の意味が定まっているわけではない。かつて原子は思い浮かべることなどできないものだったが、今の私たちは教科書で見る電子顕微鏡の写真から容易に原子像を思い浮かべることができる。私たちは確実に見える対象の範囲を拡大し、経験の幅を広げてきた。マッハは眼に見えないことから、原子は虚構であり、気体の規則的な性質を説明するために導入された思弁的メカニズムに過ぎなく、どんな哲学的意味でも実在しないと考えた。だが、原子の実在に関する19世紀末の論争は20世紀に入り実在論に軍配が上がる形で決着した。(しかし、その後事態はより複雑になり、現在ではかつての決着がそれほど確固としたものではなく、量子力学の解釈問題として再燃している。)
 一方、数学的な対象ゆえに観察不可能なものも多い。図形や数は観察できない。これは原子の場合と違って、技術的な革新でも乗り越えることができない。これらは原理的に観察不可能なものである。誰も幾何学が定義する図形や数そのものを見たことがない。図形や数をノートに書くことによって、それらに似たものを表現することはできる。だが、それらは本物の図形や数ではない。
 なぜ数学的な対象や抽象的な概念は観察不可能なのか。それらは物理世界に存在しないという理由がすぐに浮かぶが、それとは違った理由を考えてみよう。物理学が何を表象するか、どのように表象するかを考える際、観察可能なもの、観察不可能なものはどのように関係しているのか。理論そのものを観察しようとする者はいない。あるいは、モデルを観察しようとも思わない。なぜ理論やモデルは観察の対象ではないのか。それらは観察される対象を表象(=表現、表示)するのであって、対象として表象されるのではないからである。その意味で、理論やモデルは志向的である。それらは何かを表象するために存在している。
 理論は観察語と理論語を含み、理論語は主に数学の言語である。観察語が指示するものについて観察可能とか観察不可能とかが論じられるが、理論語である数学的な概念が指示するものはどのようなものか。それは原理的に観察できないのか。3個の対象の「3」は観測できるのか。誰もできると答えそうになるが、公平なコインの表の出る確率0.5はどうか。0.5そのものは観察できなくとも、それは「何か」を指示でき、その「何か」であるコインの表の出る頻度は確かに観察できる。(では、この頻度はどのように観察されるか。)
 では、数学的対象(entity)と物理的対象の違いはどこにあるのか。数学的対象はさまざまな観点から不変、一様であるが、物理的対象はそうではない。数学的世界があるとすれば、その世界に変化はない。したがって、一定の条件を満たすと数学的対象についての言明は普遍的に真や偽になるが、物理的対象についての言明の真偽は実に多様に変化する。変化こそが物理的対象の特徴だったことを思い出そう。
 概念を名詞で表現する場合、その概念が名詞としてしたがわなければならないのは文法である。また、それを含む文をどのように組合わせるかは論理にしたがわなければならない。概念を集合や数で表現する場合、集合や数がしたがわなければならないのは数学的規則である。概念をもとにそれを名詞や数学的概念によって表象するとき、したがって、三つの異なる規則へのしたがい方があることになる。論理と言語の規則にしたがうか、数学の規則にしたがうかである。論理は言語にも数学にも共通なので、言語と数学を比較してみよう。文法の規則と数学の規則の違いは何なのか。文法の規則は表象したい概念にどれだけ効果を与えることができるのか。文法は表象の形式に大きな影響を与えるが、表象の内容には極めて間接的である。文法は単語の指示内容までは踏み込まないからである。一方、名詞として表される数学的概念は指示内容そのものの、一意的な形式的表象を与えてくれる。そして、それら表象がしたがわなければならないのが数学的な規則である。
 文法や論理が志向的とは考えにくいが、数学は志向的である。文法的な世界という表現が奇妙なのに対し、数学的な世界はごく自然に受け入れられている。考えるときの認識的な道具としての色彩が強い論理や言語に対し、数学は道具であるとともに、自らの対象ももっている。言語や論理が表象される対象に影響を与える仕方と、数学の影響の与え方は随分異なっている。数学的対象を使って対象を表象するようには、文法は対象を表象できない。名詞がしたがう規則は名詞の内容まで入り込まないが、数や図形がしたがう規則は実は数や図形そのものを決めている。

(問)以下の各問いに答えよ。
           1見えるものと見えないものは区別できるか。
   2実在するものは見えるか。
   3見えるものは実在するか。
   4数学的対象は見えるか。
   5概念的な対象は実在するか。

(問)観察できるものと観察できないものは、観察する装置や知識とは独立に区別できるかどうか述べよ。

(問)表示機能をもつものは自らの構造や状態を表示できるかどうか、幾つかの例を使って述べよ。(ヒント:温度計と言語を例に考えてみよ。)

(問)理論とモデルでは何かを表象する点で違いがあるだろうか。違いがあるとすれば、それは単に程度の差なのか。理論やモデルと比べてシミュレーションはどうか。