阿弥陀信仰(1)

 阿弥陀仏大乗仏教の主要な仏としてクシャーナ時代の初期(1~2世紀)に登場し、その起源にはイラン思想やキリスト教の影響が考えられます。クシャーナ時代には北西インドにクシャーナの王たちが信奉するゾロアスター教系の信仰が広まり、クシャーナの貨幣には太陽神ミイロが表現され、また神や王の姿には光線や索がそえられており、「無量の光」を属性とする仏の信仰を生みだす背景がありました(『無量寿経』)。また、オリエントのメシア思想も重要です。そんな宗教の坩堝の中から生み出された阿弥陀仏衆生を救済する仏として、従来の自力仏教の伝統の中に他力仏教という新しい要素をもたらしました。

 阿弥陀信仰の中心の一つは妙高の人々にとっては善光寺でした。善光寺は信州にありながら、越後の私たちにも強い影響を与えてきました。「ナマンダブ」という合唱の中で育った私にとって善光寺は別格の寺でした。残念ながら、最近では大勧進トップの貫主のスキャンダルで人々に取り沙汰されていました。

 さて、その善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」(善光寺如来)は、インドから百済に伝えられたもので、552年に百済聖明王から贈られた日本最古の仏像と言われています。この年は日本に仏教が伝来した年で、当時は仏教信仰に反対する勢力もあり、欽明天皇は賛成派の蘇我稲目阿弥陀如来像を預けました。その後、疫病がはやると反対派の物部尾輿らが稲目の建てた寺を焼き払い、阿弥陀如来像は難波の堀江に打ち捨てられます。それから50年後の602年頃、信濃国司の従者として上洛した本田善光が阿弥陀如来像を発見し、信濃に持ち帰ったと伝えられています。現在の地に遷座されたのは、642年。644年には伽藍が造営され、寺名が「善光寺」となりました。善光寺阿弥陀三尊像を模したものは一光三尊形式をとり、阿弥陀如来を本尊、両脇侍を観音、勢至と決められ、以来この形式を「善光寺阿弥陀三尊」と呼んでいます。善光寺阿弥陀三尊の元となった本尊「一光三尊阿弥陀如来像」は、「絶対秘仏」で、その秘仏本尊を模して作られた前立本尊「金銅阿弥陀如来及両脇侍立像」(鎌倉時代)は、重要文化財に指定されています。法隆寺の夢殿の場合とは違って、善光寺にはフェノロサも天心もいませんでした。善光寺御本尊の秘仏化の理由の中で有力なのが、「信州善光寺の御本尊は実は存在しない」というものです。これは、元禄時代の江戸の時代から既に言われ続けていて、現在でもそのように考えている人が多いと思います。その理由は、度重なる火事(信州善光寺は過去に記録に残っているだけで11回焼けている)です。
 この来迎図は浄土宗の拠りどころとなるお経のひとつ『無量寿経』に説かれる弥陀の誓いに、弥陀を信じて念仏を唱える人は、まさにこの世での命が終わろうとする時にその人の目の前に弥陀が直々に極楽浄土よりお迎えにくるという第十九願に基づいて絵画化されています。

無量寿経』巻上の第十九願

原文:設我得佛 十方衆生菩提心 修諸功德 至心發願 欲生我國 臨壽終時 假令不與大衆圍繞 現其人前者 不取正覺

現代語訳: 私が仏となる以上、あらゆる世界に住むすべての人々が、さとりの境地を求め、様々な功徳を積み、まことの心をもって私の国土(極楽浄土)に往生したいとの願いを発したにもかかわらず、命を終えようとする時、多くの聖者たちとともにその人の前に現れ出ないようなことがあるならば、私は仏となるわけにはいかない。

 

 大乗仏教は西暦紀元前後に起こり、1 世紀末にはほぼその姿がはっきりとし、阿弥陀仏をはじめとする大乗仏教のいくつかの要素が西方から西北インドに伝えられたものに由来することは今日通説となっています。西北インドで最有力の説一世有部が説く、三世実有・法体恒有・我空法有・法体恒有といった思想も西方の哲学思想の影響を受けたもので、イデア論概念実在論といった哲学に親しんだ人々に受け入れられやすい仏教教理の理論化の試みであったとみることができます。大乗仏教への西方からの影響も、インド・ギリシア人時代以来の西方文化の伝統、つまり、ギリシアやペルシアから西北インドにもたらされたものがいったん衰退し,インド土着の文化が盛り返してきたサカ族時代が終わり、インド・パルティア王国時代となった紀元 20 年代半ば以降、新たに西方からもたらされたものと思われます。紀元 30 年ころイエスが処刑された後、12 使徒によるキリスト教の伝道がはじまったことは、インド・ギリシア人時代のものとは異なる、インドへの西方からの新たな影響を想定できる時期と符合します。

 仏教外にあった阿弥陀信仰を阿弥陀仏、信仰として仏教化することを通じて、在来の仏教との差異を強く意識するようになり、主要な論敵であった説一切有部も、それと対立する説を唱えて般若経系思想の素材を提供した諸部派も含めて、旧来の仏教全体を小乗仏教と分類し、自らを大乗とまとめたということになると思われます。

 「一切衆生の利益安楽のために」という語句は説一切有部をはじめとする諸部派やジャイナ教の銘文の中にもあらわれ、大乗仏教だけに限られたものでありません。でも、それが登場し出した時期が 1 世紀中葉であることは、そのころ阿弥陀信仰が仏教化しはじめ、大乗の自己規定が生まれ始めたという仮説を支持する材料になるでしょう。なぜなら、西紀 30 年ころのイエス磔刑以後、自己の身命を犠牲にして人々を遍く救う救済者を説く福音が西北インドにまで伝わったとすれば、それが仏教に取り入れられ始める時期として 1 世紀中葉は妥当なものです。つまり、自己犠牲的利他主義を実践する救済者イエス・キリストが西北インドにおいても強いインパクトを及ぼし、その結果、1 世紀中葉ころから諸宗教宗派のあいだに利他の思想が行き渡り、釈迦も前世においてイエスに劣らぬ自己犠牲的利他行為を実践したという本生譚が創作されたと考えることができます。

 原罪を前提し、イエスの死が人々の罪を贖うと説くキリスト教の物語は非常に説得力を持っていました。凡夫を遍く救う救済者としての仏が、イエスの贖罪死と復活をモデルとして説かれ直すようにならないはずがありません。かくして西方浄土阿弥陀仏が誕生したのではないでしょうか。

 阿弥陀仏はアミダの女神寺院、そして聖母マリア教会に因んだ仏名であるので女神、聖母マリアを原イメージとするという推論を裏付けるには,なぜキリスト教の救い主であるイエス・キリストではなく聖母マリア阿弥陀仏が救い主の地位に就いたのかを説明する必要があります。「トマス」の名は双子を意味するアラム語に由来し、外典の一つ『トマス行伝』はトマスとイエス・キリストを双子としており、2 人は外見では区別できません。したがって、阿弥陀浄土教は本来、イエス・トマスという双子の兄弟とその母マリアを慕うインドのキリスト教徒たちが仏教と習合しつつ生み出し,阿弥陀如来と観世音・大勢至両脇侍菩薩の三尊も、聖母マリアとその双子の兄弟のイメージから生まれたと推測できるのです。

 阿弥陀三尊がはじめは双子の聖母子であったことの痕跡を、インドから中国を経ずに直接百済に渡り、さらに日本に渡ったと伝承され、中国文明を介さないインドとの直接的な結びつきを示唆する善光寺秘仏「一光三尊像」に見出すことができます。秘仏を写したものとされる善光寺式一光三尊像は,他に類例のない特徴をいくつか持っていて、その意味を探ってゆくと、1 世紀の西北インドにおける阿弥陀仏誕生の事情にまで遡ると思われるのです。既述の三尊像の由来はインドからの直接的な結びつきを示しています。

 こうして、阿弥陀如来がマリア信仰と重なって大乗仏教の核心となり、それが日本にまで伝えられ、その典型例が善光寺の本尊あるいは前立本尊ということになります。でも、これは大いなる物語、神話のようなもので、実証的な証拠に乏しいのもまた確かです。