聖書の奇跡:奇跡に満ちた聖書

 神話は私たちの遺産であり、奇跡の宝庫。ギリシャ神話の神々は様々な奇跡を起こし、似たような奇跡は『古事記』の世界でも珍しくありません。超自然的な奇跡が物語をつくり、民族の歴史の出発を飾ったのはいつも奇跡でした。『旧約』の奇跡はギリシャ神話や古事記の奇跡によく似ていますが、『新約』の奇跡はキリスト、マリア、使徒たちの奇跡で、正に「宗教的」な奇跡でした。

 聖書の奇跡は絵画や彫刻の格好の題材となり、多くの傑作を生み出してきました。画家は奇跡に刺激され、奇跡は多種多様に描写されることになります。聖書の挿絵を描けと言われれば、その大半は奇跡の挿絵になります。それほどに聖書物語は奇跡物語なのです。そこで、画像によってキリスト教の奇跡を暫し眺めてみましょう。

(1)デューラー「アダムとイブ」1504

神は天地創造の6日目にアダムを作り、そのあばら骨でイブを作った。2人をエデンの園に住ませたが、悪魔のヘビにそそのかされたイブは、「禁断の果実」を口にする。神は2人を永遠に楽園から追放し、アダムに「労働の苦しみ」を、イヴに「出産の苦しみ」を与える。

(2)ブリューゲルバベルの塔」1563

洪水で生き残ったノアの子孫は繁栄し、再び驕り高ぶるようになり、「天まで届く塔」を作り、神に対抗しようとした。怒った神は人々の言葉を異なるものにして、コミュニケーションができないようにした。そのため、塔の建設は途中で放棄された。

(3)ダ・ヴィンチ「受胎告知」1472-75

大工のヨセフと婚約していたマリアのもとに大天使ガブリエルが現れ、精霊による神の子の懐胎を告げた。ガブリエルは生まれる男児は神からの贈り物であることと、名をイエスと名付けるようにマリアに告げた。

(4)ドウィッチョ「山上の誘惑」1311

エスはユダの荒野で40日間の断食を行う。断食最後の日、悪魔が3回もイエスを誘惑してきた。3回目の誘惑の時、悪魔はイエスを非常に高い山の上に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて「もしお前が私にひれ伏すなら、この世界をお前に与えよう」と言った。イエスは「だた神のみを拝み、主に仕えよ」と言って悪魔を退けた。

(5)ラファエロ「キリストの変容」1518-20

ある日、イエスと弟子のペドロ、ヤコブヨハネは山へ登った。すると、イエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。イエスの両脇には、モーセ預言者エリヤが現れ、イエスと語り合った。弟子たちが畏れおののいていると、雲の中から声がして「これはわたしの愛する子。彼に耳を傾けよ」と聞こえてきた。

(6)ミケランジェロピエタ

ピエタとはイタリア語で「慈悲、敬虔」の意味で、イエスの遺体を抱き悲しむマリアのことを言う。このシーンは聖書にはないので、画家たちが想像を膨らませて描いた。「ピエタ」の基本は、マリアが膝の上にイエスの遺体を載せている姿。

*原罪を免れているマリアは若く、老いることがない。この「ピエタ」像でも、マリアはイエスより若く見える。

(7)エル・グレコ聖霊降臨」1605-10

エスは復活後、再び弟子たちの前に現れ(聖霊降臨)、神の国について話した。その後、改めて弟子の中から12人を選び使徒とし、40日後に使徒たちの前で天に上がった。

 このように列挙してみると、ほんの一部であっても、聖書が多くの奇跡の集積を使って信仰を説いていることがわかります。キリスト教にとって奇跡は信仰のためのデータ、証拠でもあります。これはキリスト教に限ったことではなく、宗教はそもそも奇跡の集まりなのです。

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