柿の実から想うこと

 子供の頃の田舎には柿の木が多かった。甘い柿も渋い柿もたくさんあって、秋になるとあちこちで赤くなった柿の実を見ることができた。そして、柿の実を木からとって食べることも思い出される。そのためか、私には柿の実を買うという考えそのものがなかった。今でも、柿、無花果、栗などが売られているのを見ると、林檎、梨、葡萄を買うのと随分違う印象を持つのである。林檎や葡萄は正真正銘の果物で、文句なく商品なのだが、柿、無花果、栗は山菜に似たようなもので、擬似果物、擬似商品なのだと思いたくなるのである。

 これは柿や栗への私の偏見で、私が自給自足しているなら、私がつくったものは私にとって果物でも商品でもないものになってしまう。では、柿、栗、山菜などは私にとって何なのか。子供の頃の私は素直に「それは自然がくれたもの」と思い込んでいた。そして、自家用の野菜畑で採れる野菜にも似た感じを持っていた。それは商品ではない食べ物だった。子供の私が明瞭にそう考えていた訳ではないのだが、木に登って柿の実を食べながら夕日を見ていた私が感じていたのは、早朝に畑で茄子や胡瓜を採る時の感じに近かった。

 こうして、商品ではない、つまり、売り物ではない食べ物という観念が私の中にでき上り、それが自給自足、地産地消にまで浸透していたように思えてならない。それがあっという間に商品としての食物が私を支配し、圧倒し、消費社会のメンバーとして商品としての食物と付き合うことになり、子供時代に親しんだ食品を買う際に当時の記憶が残響として残り続けているのである。