霊魂や怨霊と日常世界(3):無常の心理的世界

 前回述べたパルメニデスの恒常の世界は数学的には納得できる部分をもっているのですが、その恒常性に強く反対するのが私たちの日常生活での意識、意志、感情などで、それらはどれも時間的な変化に溢れる心理的な内容を持っています。日常的な出来事とそれを知覚した心理的な事柄は数学的な事柄と違って、時間的に変化することが不可欠の特徴であると理解されてきました。時の流れは無常の世界を生み出し、それを意識し、感じ取る私たちの心もまた無常の海を漂うようなものであると捉えられてきました。私たちの心は時に支配され、時の中で漂い、時の中で感じるものだと考えられてきたのです。

 例えば、ベルクソンにとって知覚され、感じ取られる変化は私たちの意識に直接与えられるものでした。それは時間が流れる中での生々しい出来事であるという直感的な信念と、動き、変わり、落ち、跳ぶのは世界の中の対象であり、その対象の運動は時間的な経過をもっているという信念は、私たち自身の直接体験から得られるものです。「生の感覚、体験」、「激しい感情、怒り」といった表現は、私たちの経験が流動的で、変化し続けるものであることを本質的に含んでいます。静的で一様な概念とは違って、常に変化し続ける個人的な心理状態として理解されてきました。

 そして、その直接体験は表現される変化、表現する装置、変化を正しく解釈する道具などから合理的に導き出される知識としての変化より遥かに重要で、心理的なものは直接体験こそが大切で、かつ必須だと考えられてきたのも明らかな事実です(現在はAIによって疑似体験と直接体験の距離はほぼなくなりつつあります)。

 私たちの直接体験を離れてみると、アリストテレス本質主義的な静的世界観に対して、ヘーゲル弁証法ダーウィンの進化論はヘラクレイトスの世界観に近く、いずれも変化の法則と捉えられてきました。直接的な体験の変化に比べて、弁証法や進化論の変化は概念的なものです。それゆえ、そこには変化を間接的に表現する工夫がみられることになります。

 変化と変化の理解は異なるように見えます。例えば、音楽と絵画を考えてみて下さい。楽譜は静的で作文のようですが、演奏は動的で、私たちは音の変化を堪能できます。絵画もそれ自体は静的ですが、鑑賞する私たちは描写されたものの動きを感じることができます。こうして、怒りそのもの、悲しみ自体というより、何かの怒り、何かの悲しみが普通の心理的な内容として、音楽や絵画で表現されることになり、感覚的なものが志向性を通じて色濃く具体化されるのです(動画はその一例)。

 蓋然性の高い意見と漠然とした不安は地球温暖化のもつ特徴ですが、それは確率的な事柄、統計的意見にも共通するものです。生死にかかわる直接的な事態と生死にかかわる宗教的な主張とは大抵の場合、ミックスされているのですが、そのために曖昧な主張になっているのです。確率的、統計的、蓋然的な知識は漠然とした不安、ぼんやりした懸念を与える理由の一つになっているのです。

 信念と知識(belief and true belief)は信念の方が遥かに曖昧な筈なのですが、信念の方が感覚や感情をより含み、直接的であるのもまた確かなことなのです。知識、信念、意見、妄想と進むに従い、その内容は信用できないものになっていくのですが、一方でより強い感覚、感情を経験するのもまた確かなのです。

 昨今のAIの進化は心理的なものの構成性、変化の離散性などを強調しています。そして、心理的なものがダイナミックで、感覚的であるというイメージは中高年の人だけの信念になりつつあるようです。