<手と足がなくなった理由>
トカゲの一部が森の落ち葉の下や、柔らかい砂の下で暮らすようになり、移動しやすいように足がなくなっていきました。足が小さくなり、最後には足そのものがなくなってしまいました。足だけでなく、胴体も移動しやすいようにだんだん細長くなり、ヘビが生まれました。落ち葉の下などは、足を使って進むより、身体をくねらせて進む方がより効率的だったのです。
約1億3000万年前の最初のヘビの化石はかつての陸地で見つかっています。そこから、地上で暮らしていたことがわかります。かつての海からもヘビの化石が見つかることがあり、そのため泳ぎやすくするために足がなくなったという説もありました。でも、研究が進み、最初のヘビが地上で生まれてから、その後に一部のヘビが海に入ったということがわかりました。
世界には足のないトカゲや、小さい足しかないトカゲがいます。多くは落ち葉の下や砂地で暮らしています。代表的なのは、ヨーロッパや中東にいるアシナシトカゲ科のトカゲです。アシナシトカゲ科には足のあるトカゲもいて、2割ほどが足のないトカゲです。ですから、ヘビとトカゲの違いは足があるかないかではなく、下あごの骨の違いにあります。トカゲは左右のあごの骨がしっかりとくっついているのに対し、ヘビは靭帯(骨をつなぐひも状の組織)でくっついていて、左右別々に動かすことができます。
<手と足が分かれた理由>
ヒトはヘビのように手と足をなくしませんでした。それどころか、手と足を分け、直立二足歩行を始めたことが今のヒトの始まり。まず直立して両手を使うようになり、それが脳の発達や道具の製造、言語の出現などにつながっていきます。約600万年前のアフリカにいたヒトの祖先はすでに直立していて、約300万年前には完全な直立二足歩行になりました。では、どうして直立二足歩行になったのか。色々な説があって、決定的なものはないのですが、物を運ぶようになったからという「運搬説」が有力。中腰のような前かがみの格好で重い物を長く運ぶのはバランスが悪くて大変ですが、直立して運ぶなら、それより楽です。では、いったい何を運んだのか。オスがメスに気に入ってもらおうとして、食べ物を運んだという「プレゼント仮説」が考えられています。「子育て仮説」もあります。子供を育てているメスのところに果物や肉を運んだのかも知れません。では、どうして直立二足歩行に進化することができたのか。ヒトの場合、森の木の上で暮らしていたことが関係しています。樹上生活で関節が軟らかくなり、それによって直立が可能になったのです。樹上では脚で木をつかむなど身体が柔軟に動く方が便利で、いろいろな方向に動く軟らかい関節をもつ方が有利でした。特に、直立に関係するのは股(こ)関節。今のヒトは脚を前方に上げたり、直立したり、後ろや横にも自由に動かせます。これは股関節が軟らかいから。でも、四足歩行の動物はこんな自由な関節をもたず、動く方向や角度が限られています。ヒトは軟らかい関節をもっていたため、地上に降りてから直立二足歩行に進化できたのです。樹上生活の進化が、地上生活に転用できたのです。
さて、これら二つの物語のタイトルに触発されて、手と足があらわれた理由、手と足が一緒になった理由、手がなくなった理由、足がなくなった理由等々、実に多くの類似した理由の物語を夢想し、それだけでなく科学的に納得できる物語を考案することができます。そして、様々な可能性を盛り込んだ物語を集め、物語の間で対立する、矛盾する理由を炙り出し、次第に局所的な物語を統合して、纏め上げていくなら、最終的に生物の進化物語が合成されることになります。
こうして、局所的な小さな進化物語の断片からスタートし、次第に整合的な物語へと範囲を拡大し、最終的に地球上の時間と空間の中での進化物語を夢見ることができそうだということになります。そして、そのような壮大な話の発端になるのが最初の二つの進化物語だと考えるなら、「塵も積もれば山となる」ことを実践するのが進化論によるグローバルな進化物語ということになります。
しかし、この壮大な進化物語が論理的に可能か否かを考え出すと、楽観視できないことがすぐにわかります。状況に依存して手足がなくなる、手足ができる、手足が変わる、といったことになると、状況自体が整合的でない場合が数多くあることになり、物語としてははっきりとした骨格のない、その場その場で場当たり的に物語が展開するという三流以下のシナリオになると予想できます。すると、進化の筋道を説明する一貫した理屈がなくなり、ランダムウォークのような物語になってしまいます。そして、これが実際の進化の姿なのだということになると、進化自体が化学的な変化の積み重ねだけでない、状況依存的な偶然性を秘めたものだということになります。つまり、手足がなくなること、手足ができること、手足が変わること、それらすべてが可能ということを一つの物語につくり上げるための理屈や構成要素、そして背景は(今の私たちの知識では)一つではできず、異なる設定を認める局所的な物語をつくり、それで満足するしかないのです。つまり、歴史は個々の事件、出来事が整合的であっても、全体の物語は単なる継ぎ接ぎに過ぎないことを再確認することになるのです。