私がいた高校の講堂には額があり、そこには上杉謙信の「第一義」の文字が書かれていた。在学中その意味について説明を聞いた憶えはなく、墨の黒さだけが印象に残っていて、私には講堂で孤立したような存在に見えた。
正義や善の話というと、法や道徳の他に忠義や義理まで登場し、なかなか収拾できなくなる。第一義もそのような概念の一つとしてよくお目にかかり、校是や社是になっている場合が多い。私の卒業した高校も校是としていたようだが、当時の私にはその自覚がとんとなかったのだ。
肝心の第一義の意味、しかも上杉謙信絡みの意味となると、どんな説明、解説を聞いても曖昧模糊としていて、明晰判明とは程遠い。それが証拠に「第一義」と「独立自尊」を比べてみれば、「独立自尊」は文字を見ただけでわかってしまうが、「第一義」は文字からはまるで不明。
さて、謙信は熱心な仏教徒で、その彼が掲げた「第一義」はブッダが悟った万物の真理のこと。戦国武将として謙信は禅に傾倒し、その教えを重視した。その禅思想の謂い回しの一つが「第一義」で、「達磨大師と梁の武帝の問答」の中に出てくる。
5世紀にインドに生まれた達磨は、中国に初めて禅を伝えた。その彼が梁の武帝と問答した。深く仏教に帰依していた武帝が「如何なるか聖諦(しょうたい)の第一義(仏法最高の真理、悟りの境地とはどんなものか)」と達磨大師に尋ねる。達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう)(カラリとして何のありがたいものもない)」と答える。それを聞いた武帝は「朕に対する者は誰ぞ」と言う。「そういう、わたしの目の前にいるお前さんは一体何者なのだ」という訳である。達磨の答えは「不識(ふしき)(知らない)」というものだった。これが有名な問答のあらまし。
さて、問答で達磨が言いたかったこととは何か。「禅とは経典にある言葉の教えではなく、心と心の触れ合いであり、ブッダの心を受け継ぐことにある。真実の教えは厳然として、いつでも、どこにでも在る。それは見せびらかすようなものではない。」といったようなことではないのか。
時代は下り、上杉謙信と林泉寺の和尚益翁宗謙が上の「不識」という言葉について問答を行う。和尚は、「達磨が「不識」といった意味は何か」と謙信に尋ねるのである。しかし、謙信はこの難問に答えられなかった。それ以来、謙信は「不識」の意味を考え続け、あるときはたと気づき、直ちに和尚のもとに参じた。
梁の武帝は仏を利用して自分の存在をアピールしたが、謙信に武帝のような権力者になってほしくない、民あっての為政者であることを肝に銘じて、謙虚な心を忘れてほしくない、と和尚は考えたのだった。その和尚の心を知った謙信は、林泉寺に山門を建立した際、「第一義」と大書して刻んだ大額を掲げた。
禅問答を茶化す気は毛頭ないが、クイズと紙一重のところがあり、しかも言葉による説明が少なく、現代から見ればそれが魅力的な欠点。「海にいるシカは何か」と問われ、「アシカ」と答えるようなところがある。確かに戦国武将の嗜みの一つが禅で、謙信はとても熱心だったようである。無駄話はこれくらいにして、「第一義」と呼ばれるブッダの万物の真理は「世界は諸行無常、万物流転である」ことである。この原理は、どのように無常、流転なのかを説明しないで、問答無用に無常、流転を主張するだけで、現在の科学的な原理とはまるで違い、ヘラクレイトスの哲学に似ていないこともない。要はこの原理の下で人生を正しく考えるということなのだろう。「人は死ぬ」と言っても誰もそれを原理、法則とは言わない。人は死ぬ原因や寿命についての原理を追求するのであって、人が死ぬのは単なる事実に過ぎない。
さて、まず謙信が考え抜いてわかったことは「第一義」が使われた分脈での達磨の「為政者はどうあるべきか」に対する考えである。彼は「第一義」の使われた分脈全体の意義、「第一義」のプラグマティックスを理解したのである。したがって、彼が問答から悟ったのは「第一義=根本原理」の内容ではなく、それを聞いた武帝の態度に対する達磨の反応だった。そして、為政者としての心構えが和尚の問いへの答えだった。
その後、熱心な仏教徒として謙信は世界の根本原理という意味での第一義をブッダの教えと理解し、そのもとで為政者、武将として生きることになった。禅問答で「第一義」に出会い、その語が使われた分脈で達磨が言わんとしたこと(為政者の心得)、「第一義」の仏教におけるセマンティックス、これら二つが混在する中で、謙信は二つを自らの内でまとめたのではないか。そこから、真摯な為政者=仏教徒として生きることが謙信にとっての第一義の実践となったと推測できる。
少々長くなったが、これが下衆の勘ぐりにも似た素人の私のとりあえずの解答である。きっと異論、反論続出だろう。謙信にとっての「第一義」は上記のようだとしても、為政者でない普通の高校生にとっての「第一義」とは何なのか。人として真摯に生きよとでもなるのかも知れないが、校是としての第一義はますますわからなっていく。それでも、上杉謙信が故郷の英雄で、その彼の人生の目標が「第一義」という言葉に象徴されているので、それを校是とすることは歴史的な事実の刻印なのだという理屈は成り立つのだが…