ベニバナトチノキの花

 エゴノキクスノキネムノキなどと同じく、トチノキはトチではない。また、「栃木」はトチノキではなく「トチギ」。栃木市の神明宮の屋根にある「千木(ちぎ)」と呼ばれる柱が十に見えたため「十千木(とおちぎ)」と呼ばれた、あるいは、その字のとおり、トチノキ(栃の木)が多く生えていたため、「栃木」と呼ばれたと説明されても混乱するだけ。そのうえ、トチノキの実は「栃の実」で、その実で作られるのは「栃餅」。栃餅は縄文時代の遺跡からも化石が発見されている。だが、「トチノキの実」でも「トチノキ餅」でもない。なんともヤヤコシイ。

 こんな難癖はさておき、ベニバナトチノキアカバトチノキセイヨウトチノキの種間雑種。つまり、二つの交配で作出された園芸種。その花が咲き出している(画像)。トチノキは大きな葉が目立ち、栃の実(栃餅の原料)がつく大木なのだが、私のような世代だと「マロニエセイヨウトチノキ)」を連想する人が多いかも知れない。マロニエはパリの街路樹として有名だが、サルトルの『嘔吐』の肝心の部分に登場する。主人公のロカンタンは30歳の独身学者。そのロカンタンが自分の中で起こっている変化に気づく。公園のベンチに座って眼前のマロニエの根を見ていたとき、激しい嘔吐に襲われる。それが「ものがあるということ自体」がおこす嘔吐であったことに気づく。この嘔吐がロカンタンに「実存」の啓示を閃かせたのである。サルトル はこれを「実存は本質に先立つ」と表現したのだが、この小説を通じて実存主義は熱狂的な支持を集めることになった。
*『嘔吐』の該当箇所の一文:La racine du marronnier s’enfonçait dans la terre, juste audessous de mon banc.(マロニエの根は、ちょうど私の腰掛けていたベンチの真下の大地に、深くつき刺さっていた。)

 私が偶然に『嘔吐』を手にしたのは故郷の本屋で、それが私のサルトルとの最初の出会いだった。『嘔吐』は後で私が入学した文学部の仏文学専攻の白井浩司先生の訳で、塾長だった佐藤朔先生も実存主義文学を紹介、翻訳しておられ、来日したサルトルの講演を三田の大教室で聞いたのを憶えている。その時、私の関心は既に実存哲学にはなかった。
 サルトルを知り、実存主義を知り、戦争体験のないことを実感し、…、結局、マロニエがどんな木かを見過ごしてきたことを知ったのはいつだったのか。今の私はマロニエの根を見ても吐き気などせず、実存も本質も概念に過ぎないと思っている。

f:id:huukyou:20210505054001j:plain

f:id:huukyou:20210505054019j:plain

f:id:huukyou:20210505054045j:plain

f:id:huukyou:20210505054101j:plain

 

メキシコマンネングサの花

 メキシコマンネングサ(メキシコ万年草)は、ベンケイソウ科マンネングサ属の多年草。日本に帰化した植物なのだが、「メキシコ」という地名が入りながらも、原産地が不明という変わり種。帰化植物は人間の活動とともに生まれたと言ってもよいほど非常に古い歴史があり、世界に分布する雑草のほとんどは帰化植物。近世以降人間の移動が飛躍的に広がり、生物の移動もはるかに多くなった。他国と領土がつながっている場合、外から侵入したものを判別するのは厄介である。その点、日本は帰化植物の判別がかつては容易だった。

 メキシコマンネングサは本州の関東地方以西〜九州の日当たりのよい道ばたなどに生える。茎は直立して高さ10〜17cmになる。葉は鮮緑色で光沢があり、長さ1.3〜2cmの線状楕円形、花は黄色で直径0.7〜1cm。花期は3〜5月で、今咲いている。観賞用に栽培していたものが帰化したと考えられている。

帰化植物から帰化生物、さらには人の帰化を考えていくと、外国人、移民、難民と類似の概念がつながって出てくる。そして、そんな区別の連なりは、人がいかに抵抗しても風化によって消えて行く。

f:id:huukyou:20210504053422j:plain

f:id:huukyou:20210504053441j:plain

f:id:huukyou:20210504053456j:plain

f:id:huukyou:20210504053513j:plain

f:id:huukyou:20210504053530j:plain

 

『歎異抄』から妙高の異安心事件へ

 「異端」となれば多くの人がガリレオの異端審問(1616、1633)を思い出すでしょう。当然、仏教にも異端があり、浄土真宗では異端を「異安心(いあんじん)」と呼んできました。その異安心の歴史を遡れば、浄土真宗の開祖である親鸞の教えに反する考えを嘆き、憂い、正す『歎異抄』に到達します。『歎異抄』は、鎌倉時代後期に書かれた仏教書で、作者は親鸞に師事した唯円とされています。書名は、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に生じた異義・異端、つまり、異安心を嘆いたもので、『歎異鈔』とも書かれます。

 その内容は、著者唯円が「善鸞事件」の後に親鸞から直接聞いた話からなっています。建長8年(1256)、親鸞が実子である善鸞を破門したのがこの事件です。事件から遡ること約20年の嘉禎2年(1236)頃、親鸞が東国から京に帰った後、東国では様々な異義が生じ、異端を説く者が現れ、東国門徒の間に動揺が広がりました。そこで、親鸞は息子の善鸞を事態収拾のために派遣します。善鸞は異端を説く者たちを説得しようとしますが、うまくいきません。そこで、善鸞は自ら親鸞より真に往生する道を伝授されたと称し、自らの教えを説きました。善鸞が異端を説いていると知った親鸞は、彼に秘事を伝授したことはないと東国門徒に伝え、善鸞に義絶状を送り、親子の縁を切り、破門したのです。その後、関東から上洛して親鸞に事を質したのが、唯円を含めた一行でした。親鸞の死後も、法然から親鸞へと伝えられた真宗の教え(専修念仏)とは違った教義を説く者たちが後を絶ちませんでした。唯円が『歎異抄』を著した時期は、親鸞没後30年の後(鎌倉時代後期、西暦1300年前後)と考えられています。この短い著作は以下のような構成になっています。

 

  1. 真名序
  2. 第一条から第十条まで - 親鸞の言葉
  3. 別序 - 第十一条以降の序文
  4. 第十一条から第十八条まで - 唯円の異義批判
  5. 後序
  6. 流罪にまつわる記録

 

 真名序は、この書の目的が記されています。その目的は「先師の口伝の真信に異なることを歎く」ことです。関東の教団は、善鸞の事件もあり、異義が起きやすい土地で、親鸞が亡くなることによって、それが一層加速しました。二つ異義を挙げてみましょう。

(1)悪を犯しても助かるのだから、悪を一切恐れない人は往生できないとする異義

(2)経典を学ばない人は弥陀の浄土へ往生できないとする異義

 第一条から第十条は、親鸞が直接唯円に語ったとされる言葉が述べられます。第一条では弥陀の本願はただ信心が要であることが説かれ、唯円はこの言葉を、関東から上洛して善鸞事件について親鸞に質す僧侶の一人として聞いています。親鸞は彼らに対し、弥陀の本願念仏以外に往生極楽の道はないが、念仏を取捨選択するのは各々の自由であると答えています。第三条は、「悪人正機説」を説いたものとして、現在でもよく引用されます。第四条は、聖道仏教と浄土仏教の慈悲の違いが説かれています。また、念仏は阿弥陀によって為されるもので、そのため自分自身の弟子は一人もいないと説きます。他力不思議の念仏は言うことも説くことも想像すらもできないものであるため、「無義をもて義とする」ものであると、念仏が定義されます。

 別序には親鸞の弟子から教えを聞き念仏する人々の中に、親鸞の仰せならざる異義が多くあると述べられています。

 第十一条以降は、それぞれの異義を取り上げ、異義である理由を逐一述べていきます。経典を読まず、学問もしない者は往生できないという人々は、阿弥陀仏の本願を無視する人だと断じます。また、どんな悪人でも助けるのが弥陀の本願といってわざと好んで悪を作ることは邪執であるとした上で、悪は往生の障りではないことが説かれます。

 最後は後序です。親鸞法然から直接教えを受けていた頃、「善信が信心も、聖人の御信心もひとつなり」(自らの信心と法然の信心は一つである)と言い、それに対し他の門弟が異義を唱えました。それに対し法然は、「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわりたる信心なり。されば、ただひとつなり。」(阿弥陀仏からたまわる信心であるから、親鸞の信心と私の信心は同一である)と答えました。唯円は、上記のように法然在世中であっても異義が生まれ、誤った信心が後に伝わることを嘆き、本書を記したと述べています。

 さて、ヨーロッパに目を転じると、 12世紀に「中世の異端審問」が始まったのは、南フランスでカタリ派が拡大したことが直接の契機でした。異端問題は半ば政治問題であり、地域の領主たちが治安を乱すとして域内のカタリ派の捕縛や裁判を個別に行っていたが、それをまとめて、1184年の教皇勅書によって教会による公式の異端審問の方法が示されました。そこで定められた異端審問は、各地域の司教の管轄において行われていて、司教たちは定期的に自らの教区を回って異端者の有無を確認していました。

 1542年ローマに設けられた異端審問所は、従来のような教皇によって少数の異端審問官が任命されるシステムを廃し、神学者や学識の誉れ高い枢機卿たちからなる委員会が特定の教説や著作に対して異端性がないかどうかを審議すると同時に、各国で行われる異端審問に問題がないよう監督することを目的としてつくられました。ローマの異端審問所は各国のよりすぐりの神学者、哲学者、教会法の専門家たちをアドバイザーとして抱え、彼らの意見に基づいて審議を行っていました。中でも有名なものはガリレオの著作に関する裁判でした。

 このように異端審問を顧みると、『歎異抄』は12世紀の異端審問に重なり、後述の異安心事件はガリレオの時代の異端審問と重なります。

 さて、異安心は正統なものへの異議申し立てですが、何が正統で、何が異端かは実は判明でない場合がほとんどです。「あれか、これか」の二分法で正統と異端が区別できるかのように思いがちですが、実はそのような区別は夢に過ぎない場合がほとんどなのです。ガリレオの異端審問より30年ほど後に起きた異安心事件を次に考えてみましょう。親鸞が説いた「安心(あんじん)」と異安心の区別は厄介そのものなのですが、さらにそこに教団の維持のための対立が加わっています。

 願生寺はかつて越後ではなく信濃国水内郡平出村にあり、平出の願生寺と呼ばれていました。願生寺の由来については、『日本名刹大事典』に「新潟県新井市(現妙高市)除戸。真宗大谷派、大高山。本尊は阿弥陀如来。開山は親鸞。開基は尊願坊。寺伝によれば、開基尊願坊は建久6年(1195)法然の教化を受けて仏門に入ったが、のち健保2年(1214)親鸞に帰依して下総国下河辺庄に一宇を建立。のち応仁2年(1468)信濃国水内郡平出村に移り、九世英賢の天正年間(1571-1591)上杉氏に招かれて新井に移転した。」と記されています。つまり、願生寺のルーツは下総国(千葉県)で、15世紀に信州の平出村に移転します。そして、第9世英賢の時に越後の新井に移転し、新井では願生寺と呼ばれました。実は、北信州から越後上越地方にかけての有力な真宗寺院は、願生寺と同じく関東に起源をもつ大寺院が数多く存在しています。彼らは磯辺門流と呼ばれ、初期真宗門徒の有力な集団でした。

 越後と北信濃触頭寺院(ふれがしらじいん、寺社奉行に任命された特定の寺院で、地域内の寺院の統制を行なう)として絶大な教勢を誇っていた新井(現妙高市)の願生寺と親鸞聖人の居多ケ浜上陸以来のゆかりの有力寺院だった高田(現上越市)の浄興寺との間に教義論争が巻き起こります。それは十五世英誓の時で、いわゆる異安心事件です。新井願生寺方と高田浄興寺方に分かれ、多くの末寺門徒と本山東本願寺を巻き込んで大論争に発展し、その裁定に寺社奉行が乗り出すまでになりました。では、どんな異義が論争になったのでしょうか。それは「小児(15歳以下の者)は往生して仏になれるか、なれないか。」という問題です。この問題を巡って「小児は往生できる」という浄興寺方と「小児は往生できない」という願生寺方との主張が対立したのです。この二者択一型の問いそのものが論争をむやみに煽る形になっています。

 あくまでも強硬な願生寺方に困り果て、浄興寺方は本山に訴え出ます。双方が本山に呼び出され、吟味され、その結末は願生寺方の敗北でした。首謀者は追放、願生寺は取り潰しと決まったのです。この厳しい裁決はキリスト教の異端審問の結果によく似ています。しかし、願生寺は本山の一方的な処分に納得せず、翌年、江戸の寺社奉行に上訴するのです。そこで、大詮議が再び始まります。詮議の結果はまたも願生寺方の負けで、本山に逆らった不届き者という裁定が下りました。信心のあり方、教義の解釈の問題は不透明で真偽の決着がつかないまま、願生寺側の訴えは却下されました。

 浄土真宗では、古来より小児往生論が議論されてきました。これは「ものの分別もつかない幼児が浄土へ往生することができるのかどうか」についての論争です。 寛文年間(1661‐1673)にその記録があり、当時の学匠の意見は『往生可能説』と『往生不可能説』に二分されていたようです。この論争の中、第四代能化(本願寺派宗学を統率する職)法霖(1693‐1741)は、「小児の往生は不定と知るべし。不定とは往生ならぬということにあらず。なるともならぬとも凡見にては定められぬという事なり」と述べて、判断を中止しています。結局、大論争は泰山鳴動して何も得るものがなかったことになったのです。ヨーロッパの異端審問が脱中世を促したのに対し、願正寺と浄興寺の間の異安心論争は真宗教団の運営以外の点で何を結果したのか、よくわかりません。でも、確実に言えるのは、ガリレオ天文学や物理学についての主張より、真宗の小児往生の疑義の方がはるかに厄介な問題だったということです。カトリックでの幼児洗礼に似た真宗の小児往生は信仰の基本にかかわることと捉えるならば、今のところ白黒の決着のつく問題ではありません。参考のために、キリスト教で幼児洗礼を行う主な教派は挙げるなら、以下のように分かれ、決着はついていません。

 東方正教会 、カトリック教会、聖公会ルーテル教会などは幼児洗礼を行っています。それらの教派では、洗礼式そのものが新生を与える恵みの手段であるとされています。幼児洗礼を授ける教派では、受洗した子どもが一定の年齢に達したときに、「堅信」を行う場合があります。幼児洗礼の根拠、新約に使徒たちが伝道した人の家族全員に洗礼を授けた記録があり、幼児もその中に含まれていたことにあります。
 一方、アナバプテスト(再洗礼派)派の諸教会やバプテスト教会、敬虔主義や信仰復興運動によって生まれた自由教会は幼児洗礼を行いません。人は悔い改めて、キリストに対する信仰を告白する時に新生の恵みにあずかり、その象徴として洗礼を受ける、と理解するからです。あえて比較すれば、浄興寺は幼児洗礼を認め、願正寺は認めないということになると想像できます。

 異安心論争の裁定を取り持った東本願寺は貞享二年(1685)敗れた英誓を追放し、その後を新井道場としました。元禄元年(1688)東本願寺十六世一如上人が荒井掛所と改称し、以後教化統制に力を入れ、高田別院や稲田別院(光明寺)などの支院や願楽寺、聞称寺、照光寺などの寺院を合わせて60を越える寺をまとめる中心道場となり、明治9年(1876)に新井別院と名前を改めました。

連休中のバラの花

 「野ばら」と言えば、ゲーテの詩、シューベルトの歌曲を指すのが普通だが、バラの原種、野生種(wild species)をも指している。そして、野生種だけでも約150種もある。園芸種となれば数万種のバラが登録されているが、その祖先は8,9種と言われている。

 私も野ばらとして既にナニワイバラ、モッコウバラを紹介したし、古来より日本に自生するバラの原種の一つ「ハマナス」については何度も言及してきた。ハマナスは西洋に渡り、私たちが現在見ている「モダンローズ」の誕生に大きく貢献した。

 ハマナスは既に3月には咲き出し、その園芸種を含めて湾岸地域ではポピュラーな花になっている。それらを見るだけでなく、人がバラの花弁に魅了され、人間好みにどのように手を加えたかを含めて、連休中にバラの花を楽しんでみるのもどうだろうか。一人で楽しむならば、誰も文句を言わないだろう。

f:id:huukyou:20210503045710j:plain

ハマナス

f:id:huukyou:20210503045735j:plain

ナニワイバラ

f:id:huukyou:20210503045801j:plain

f:id:huukyou:20210503045822j:plain

f:id:huukyou:20210503045839j:plain

f:id:huukyou:20210503045858j:plain

f:id:huukyou:20210503045913j:plain

f:id:huukyou:20210503045931j:plain

 

アリストテレスの自然学(Physica、物理学)とガリレオの思考実験

 机の上に本を置き、横から押してみる。押す力を強くしていくと、本は机の上を動き出す。力を加えるのをやめると、本は止まってしまう。このことから、物体は力を加えれば動き、力を加えなければ止まることがわかる。さて、ここで力と運動を区別することが重要。運動という概念は、物体が運動するというだけでなく、静止していることも含んでいる。でも、力=運動ではない。力は物体に加わる力で、動く、止まるというのが運動。このような「力による運動」という考え方を最初に思いついたのがアリストテレス。この考え方は非常に長い間支持されてきた。アリストテレスの自然学をまとめると次のようなものになる。

 

1.すべての運動には原因がある。この原因は力である。力がなければ物体は止まる。

2.力には2種類ある。一つは押したり引いたりする力で、接触することによって起こる。もう一つは、物体に内在する力で、坂を転がり落ちていくときなどに必要な力である。

3.重力とは物体が落ちようとする性質によっておこる。重い物体の方がよりその性質が強くなる。つまり、重力は物体に内在する力である。

4.重い物体は、軽い物体よりも速く落ちる。速さは重い物体の方が大きくなる。

 

 例えば、物体を放り投げると、地面に落ちるまで運動し続けるが、これはどのように説明されるのか?アリストテレスによると、空中に投げた石の後方には空気の渦ができ、これが石を押し続け、運動が持続される。その頃でもこの説明は何かおかしいと考えた人がいたはずだが…

 アリストテレスノ考え方に果敢に反旗を翻したのがガリレオ。机の上で、パチンコの玉を転がしてみよう。すると、ほぼ一定のスピードで転がっていく。ガリレオはこれを、アリストテレスのように空気が押していると考えるのではなく、「力が加えられなければ、パチンコの玉は一定のスピードで転がり続ける」と考えた。これは発想の転換。では、本の場合はなぜ止まるのか?どんなに平らに見える表面もよく見ればごつごつしている。そして、本と机の表面がざらついているために、運動を止めようとする力が働く。実際、机の上に手のひらをあてて左右に手を動かしてみると、机上を動かさないようにする力を受けているのを感じる。これが「摩擦力」。物体が重いと、接する面が増加し、摩擦力が強くなる。本の表面の分子と机の表面の分子が引き合う力が摩擦力。こすれ合う力を生み出すのは分子間引力があるためである。

 上の4が間違っていることを示すためにピサの斜塔を使って実験したのもガリレオだった。ガリレオは、「物体の落下速度は その物体の重さよらず一定である」ということを証明するために、ピサの斜塔から大小二つの鉛の玉を同時に落とし大小両方の玉が同時に地面に落下することを確認した。

ガリレオの思考実験>

 ガリレオピサの斜塔で落体の実験をするだけでなく、アリストテレスの落体についての法則は誤っていることを「思考実験」で示していた。それを見てみよう。まず、アリストテレスの法則は次のように表現できる。

 

アリストテレスの法則:重い物体はそれより軽い物体と比べ、より速く落下する。

 

さて、ガリレオはこの法則が誤りであることを「帰謬法(reductio ad absurdum)」によって示した。アリストテレスの法則が正しいとすると、矛盾が出てくる、したがって、法則は誤りというのがガリレオの論法だった。

 「重い物体Mと軽い物体mがあり、アリストテレスが信じていたように、重い物体ほど速く地上に落下すると仮定しよう。最初の仮定から、Mmより速く落下する。さて、m M が一緒になった物体を考え、それをm + M だとしてみよう。すると、何が起こるだろうか。m + MMより重く、それゆえ、Mより速く落下しなければならない。だが、一緒になった物体m + Mの中で、Mmはそれが一緒になる前と同じ速さで落下するだろう。だから、遅いmは速いMに対してブレーキのように働き、m + M Mだけの落下の場合よりゆっくり落下するだろう。それゆえ、m + MMだけの落下の場合より、速く、かつ遅く落下することになり、これは矛盾である。したがって、アリストテレスの法則は誤りである。」

 このガリレオの結論を別の思考実験で考え直して、もう少し強い結論を導き出してみよう。まず、同じ重さの立方体Mを二つ用意し、この二つをピサの斜塔から同時に落とすとする。同じ重さの二つは同時に地面に落ちる。次に、二つを縦に重ねて間をおいて落とすことを考える。二つは同じ速度で落ちていくから、二つの落下速度は変わらない。では、その間隔をどんどん短くしていったらどうか?間隔が0、つまり縦に重なったまま落としたらどうか?間隔が0になった途端に落下速度が変わる、とは考えられない。重さは別々の時の2倍になっている。それでも落下速度は変わらない。同じように、3個、4個、5個…と立体の数を増やしても思考実験ができる。あるいは、逆に1個の立方体を2つ、3つ…に分割する実験もしてみることも考えられる。重さを何倍にしても、何分割してもそれぞれの落下速度が同じなら、落下速度に違いはでない。よって、「物体の落下速度は物体の重さにはよらない」ということになる。

 

 二つの異なる思考実験によって二つの異なる結論を得たが、それらはどのように異なる結論なのか?そして、さらに重要なことだが、思考実験とピサの斜塔での落体の実験との違いは何か?連休中に考えてみてはどうだろうか。

ハクチョウゲ(白丁花)の花

 一見するとイヌツゲのようだが、初夏に緑の葉の上に雪が降ったように小さな花を咲かせるのがハクチョウゲ。花は一重で直径は1cmほど。花の先端は5つに裂け、外側には淡い紫色が入る。庭園や公園などに広く植栽されている。根元からよく分枝して株となり、あまり太くならない。刈り込みに強く、球造りや生け垣などに仕立てられることが多い。葉は長さ1~3cmで、やや厚く、斑入りのものがよく植栽されている。

 沖縄、台湾、東南アジア等を原産とする常緑低木で、元禄年間以前から本州でも園芸用に使われるようになった。熊野川四万十川の流域に自生する同じアカネ科の落葉低木「シチョウゲ(紫丁花・イワハギ)」に対してハクチョウゲ(白丁花)と名付けられた。「白い丁型の花が咲く」ことが命名の理由。茎葉及び根は肝臓やのどの痛みを和らげる作用があるとして漢方薬に使われる。

 ツゲはイヌツゲに似る。イヌツゲはハクチョウゲに似る。だから、ツゲはハクチョウゲに似る、とはならず、ツゲとハクチョウゲは似ていない。「AはBに似る。BはCに似る。だから、AはCに似る。」とはならない理由は、「最初の二つの言明の「似る」が違う意味をもっているからである。最初は形が似る、次は花が似るのかも知れず、そうなら「似る」は推移的ではないのだ(実際のところ、イヌツゲとハクチョウゲの花は似ていない)。こんなことを改めて確認するとは…職業病の名残か、それとも三つ子の魂か。

f:id:huukyou:20210502025034j:plain

f:id:huukyou:20210502025058j:plain

f:id:huukyou:20210502025117j:plain

f:id:huukyou:20210502025131j:plain

 

中学生のための頭の体操:シラン

 「白山吹」と「白花山吹」が違うように、「白花紫蘭」と「白蘭」が違う訳ではなく、「白花紫蘭=白蘭」です。二つを「白い紫蘭」と呼んだとすれば、「白い紫蘭」は「丸い三角形」と同じように、矛盾した概念で、それゆえ、存在しないものだと結論してよいでしょうか(このような問いはどこか間抜けな問いに見えます)。
 紫蘭の定義は経験的なもので、歴史的、地域的に変化します。普通なら、シランの定義の中に特定の花の色は入っていません。定義は随時改定可能で、それが経験的な知識の本性の一つなのです。でも、三角形の定義は時空を超えていて、その定義の中には円も曲線も入っていません。ですから、白色の紫蘭は存在可能ですが、丸い三角形は存在できないのです。
 紫蘭の定義は既述のように、経験的なもので、経験が変化すれば、それに応じて定義も変化して構いません。三角形の定義も幾何学の種類が変われば、変わって構わないのですが、ユークリッド幾何学の中では円と三角形は異なる定義をもち、円は三角形ではなく、三角形は円ではありません。
 ですから、白い紫蘭の画像は見ることができるのですが、ユークリッド的なモデルの中では(つまり、君のノートには)丸い三角形を描くことができないのです。