私が住む生活世界と知識

 私の生活する世界は私自身が表象し、意識し、思考し、記述・説明し、そして行動する世界である。私の生活世界では私がいつも主役なのだが、私が属する生活世界には多くの主役が共存している。私は学校で習った古典力学を無造作に無意識に使って、物理現象を表象し、思考し、記述し、そしてそのような現象の集まりとして世界を理解している。実を言えば、私自身が古典力学を使うのではなく、物理学者が使うのをそのまま私が鵜呑みにするだけなのだが…兎に角、それが私たちの生きる世界の把握のされ方で、その結果が自然の姿、像ということになる。このように書くと、私の世界には物理的でないものは何もないような印象を与えるが、私の世界は私が意識できるものをすべて含むような世界であり、私の信念や欲求を含み、併せて他人の信念や欲求も含んだ、いわば魑魅魍魎のごった煮の世界である。
 生活世界は多種多様なものから成り立っていて、日々目まぐるしく変化する世界である。そこでの主人公は私自身を含む人間たちであり、家族や共同体が幾重にも私を取り囲んでいる。さらに、そこに文化や歴史が覆いかぶさり、身動きが取れないほどの混雑ぶりである。それでも、その世界は物理的な世界を最も基本的な土台にしていると多くの人が確信している。かつてポパーは世界を世界1、世界2、世界3に分けたが、生活世界はそれらをすべて含んだ世界と言うことができる。中世のキリスト教信者なら神の国こそ自分たちの世界の最も基本的なものと考えていたのではないか。「時代とともに移り変わること」、それも忘れてならない生活世界の大切な特徴である。現在はと言えば、古典力学が私たちの古典的世界観を生み出し、その世界観が私たちの住む生活世界の基本的な枠組みとなり続けている。とはいえ、現在の世界は古典力学の成り立つ世界ではないというのが常識で、確かにそれは誤っていない。だが、私たちが住む生活世界はマクロな世界で、その世界では相対論や量子論ではなく、古典力学が立派に成り立っている。宇宙では相対論が、ミクロな世界では量子論が、そして普通のマクロな世界では古典力学がそれぞれ棲み分けているのが現状である。
 神話を信じ、それに従っていた昔と同じように、神話に代わって信じられる理論や知識は神話と同じような地位に置かれることになるが、そのプラグマティックな文脈を明らかにしておこう。神話の内容が真かどうかを探求するのではなく、それを信じ、それに盲目的に従うのと同じように、理論が真かどうかではなく、知ったかぶりして理論を正しいと信じて使うのが私たちの通常の使い方である。すると、自分の周りのものが実在していると信じる「素朴実在論、直接実在論」は、理論や知識をプラグマティックに使う際の方法に似た、適応的な省略と考えることもできる。実際の生活では、知識は利用するものであって、知識自体の探求は別枠に置かれている。神話と科学理論は大変異なるが、それを使って生活する際の使い方にはこのような共通点がある。それは共に「信じて使う」という共通点であり、それゆえ、二つとも実用的に使われ、生きることに同じように役だっている。プラグマティズムの真意は、生活世界で使う知識は探求される知識と違って、それを盲目的に信じて使うことである。知ったかぶりをして使わないと生活できないというのがプラグマティズムの主張である。知覚はプラグマティックな知識に似た仕方で使われ、知覚の仕組みがわからなくても、それを気にしないで使うことができる。そして、見えるものは端的に実在するとプラグマティックに想定しなければ、うまく生きていけない。プラグマティックな文脈では神話も科学理論も同じ使われ方をするのである。神話も科学理論も常識も、それらを使って生活するという点では何ら変わりなく、信じ、頼って使い、結果を出す有用な情報=力なのである。
 「色とは何か」に答えずに「これは何色か」に答えても何ら不思議なことはない。二つの問いの間に優劣はなく、色が何かを知らなくても、これは何色かに答えることができる。これは知ったかぶりが無害であることを示している。「色とは何か」に答えるのが探求する知識の例だとすれば、「これは何色か」は色についての知識を使って具体的に仕事するということで、二つの間には大きな相違がある。二つの問いはこの意味で互いに独立している。
 知識についてのプラグマティズムについて一言述べておきたい。A を説明する、Aを探求する、という場合の主題はAである。探求の対象であるAは、A is such that B.のような結果として、Aの知識はBである、として確定する。この時、Bの中に登場するCやDはここでの探求の対象ではなく、Aの探求のために使われる知識、つまり情報である。探求される対象としての知識と、その探求を支えるための知識は違っていて、後者の知識がプラグマティックな知識なのである。つまり、探求される知識(本来の知識)はプラグマティックな知識(使われる知識)を使って探求されるのである。