自力と他力の区別について:メモ

 自力と他力の区別について、それは「人が煩悩をもったまま浄土へ行けるかどうか」に対する解答の違いだという考えがあります。その解答は、自力仏教も含めて普通ならNo、浄土真宗はYesと答えるというのが世の常識です。では、浄土真宗ではどうして煩悩をもったままで成仏できるのでしょうか。この問いへの解答は(意地悪な言葉遣いをすれば)言葉遣いのトリックにあります。「往生」とは、極楽浄土へ「往」って、仏に「生」まれ変わることですが、阿弥陀仏が本願を起こしたのも、それを実現するために修行したのも、それを民衆に働きかけ続けるのも阿弥陀仏の仕事で、それを人が受け取る(信心する)ところに、人が必ず浄土に生まれて仏になる(つまり、悟る)ということが決まります。浄土真宗の通常の言葉遣いでは「往生」と「悟り」が同義の用語として使われていて、それがYesの理由なのです。釈迦以来の仏教では煩悩を消し去ることが悟りなのですが、浄土真宗ではその悟りは往生に転化しています。
 浄土真宗では、「悟り」は認識レベルで、「往生」は存在レベルで「弥陀の本願を信じる」ことを説明しているように私には思われてなりません。既にどこかのコメントで書いたのですが、利己的な人はいつも利己的な行動をするわけではなく、利他的な人もいつも利他的な行動をするわけではありません。自力も他力もそれと同じで、常識的な概念で人の行動を二分するのは横暴です。ですから、「自由意志は自力、それとも他力か」などという問いはやはり意味不明な問いなのです。