AIにできること、そして人間にできること

 最近はAIが私たちの話題の中心になっていて、毎日ニュースになっています。20世紀のAI研究は浮き沈みが激しいものでした。チューリング・マシーンを学び、チューリングの映画に衝撃を受け、チェスや囲碁のAIもプロ棋士たちを脅かし始めていました。自動車の自動操縦が話題になり、それが今ではほぼ可能になり、工場のロボットはますます製品を自在に生み出し、日常生活にもロボットが入り込み続けています。AIは局所的な能力をもつものから、真に普遍的なものに日々進化を続けています。

 では、AIと人間との間に「知る、できる」ことに関してどんな違いがあるのでしょうか。このような問いを考える上で欠かせないことがあります。それは人間自身が「知る、できる」ことをどれだけわかっているのかということです。「人間にできることはAIにもでき、AIにできることは人間にもできる」と極めて雑に考えてしまいがちで、「人間にできないことはたくさんあり、それはAIにもできない」と楽天的な解答さえしてしまいます。では、「人間にできること、できないこと」は判然としているのかと問われると、すっきり明解に答えるのは大変厄介で、曇天にならざるを得ません。

 まず、「できる」ことと「知る」こととが同じかどうかが判然としません。知っていないのにできること、知っているのにできないことの他に、できるかどうかわからないこと、知っているかどうかわからないこと等が数多く存在します。人間自身が自分に何ができるかわからない部分をもつ限り、人間が設計するAIはそのわからないものを取り込むことができるのでしょうか。つまり、AIは知識に関して悩み続ける人間たちを乗り越え、人間を凌駕できるのでしょうか。この問いに対しても、ある人はYes と答え、別の人はNoと答えます。

 曖昧で不明な、よく言えば、謎だらけの人間は、自らつくるAIが神のように完璧になれないことをしっかりわかっているのではないでしょうか。それならば、それを自ら認めるしかありません。でも、このような悲観的な見方ではなく、より楽観的に「AIが何を知り、何をできるかを学びながら、それによって、人間自身の知恵も増やしていこう」という日和見的な見方ができるのがこれまた人間なのです。