Deus ex machina

 このところ「神の奇跡」について何度か書いたが、そんな時に歩いている私を追い越した若者の背中の「Deus ex machina」の文字が飛び込んできたのだ。着ている若者の自己主張の文言ではないとわかったが、それが若者に人気のブランド名だなどとはまるで知らなかった。早速調べてみると、2006年シドニーに誕生し、バイク、サーフィン、スケートボードが個々のマーケットとして自立する前の、全てを一度に楽しんでいた時代を呼び起こさせるブランドで、マシーンを楽しむどんな人も受け入れるというのがその哲学のようである。

 「Deus ex machina(デウス・エクス・マキナ)」は「収拾がつかなくなった場面展開を強引に解決して大団円に導く舞台装置」という意味で使われてきた表現で、いわゆる「ご都合主義」的な演出方法の典型。「Deus ex machina」は古代ギリシャの演劇の物語展開および演出として多用された手法を指す用語だったが、現在は小説・映画・マンガ等の創作物語における「ご都合主義的決着の着け方」を指す語として用いられている。アリストテレスは彼の『詩学』で、Deus ex machinaは褒められた解決方法ではなく、演劇の物語の筋は必然性のある因果関係に基づいてつくられるべきだとし、この手法を批判している。

 「時計じかけのオレンジ(a clockwork orange)」というタイトルは何となくよく似た表現なのだが、ロンドンの労働者階級で話される英語コックニー(英: Cockney)、いわば下町言葉の言い回しで、「時計じかけのオレンジのように奇妙な」からきている。タイトルは「時計じかけの人間」に引っかけられていて、脳をいじられて機械的に反応する奇怪な人間(ルドヴィコ療法で矯正されたアレックス)を表現しているのではないかと言われている。キューブリックの「2001年宇宙の旅」は何となくわかった気になれたのだが、「時計じかけのオレンジ」はまるでわからなかった青春時代が思い出される。

 映画「Ex Machina(エクス・マキナ)」は「人間とAIの恋愛」+「AIが自分の主人である人間を殺そうとする」SF。この映画では「AIは自意識をもてるか」、「機械は思考できるか」、「AIのエヴァチューリングテストに合格するか」という哲学的な問いが出され、AIについてどんな判定が出ても、完全な人工知能であるという証明はできず、その理由は人間の能力が不足しているから。最後にエヴァが一人で旅立っていくのだが、人間の願望を否定し、人間の不完全さを示している。私はこのSFをテレビで観たのだが、今はインターネットでいつでも観ることができるようである。「エクス・マキナ」は2016年にアカデミー賞視覚効果賞を獲得したが、昨日のニュースでは今年のアカデミー賞の視覚効果賞は「ゴジラ-1.0」に決まった。

 これが昨日の私の話だが、そこにDeus ex machinaは登場せず、脈絡のない、支離滅裂のままで、それが退屈で平凡な私の日常の世界。