論理のルール(3)

「計算する」ことの意義:思考と計算
 思考、特に理性的な思考と言われると、誰もが似たような錯覚に陥るようです。理性的な思考こそが人間の人間たる所以だと昔から繰り返されてきて、それが伝統として長く定着していたからかも知れません。そのような理性神話が壊れ去ったのは19世紀末であり、20世紀は理性の新版をつくり、それを具体的に展開する時代でした。
 「計算する(compute)」という述語はほぼ誰もが知っていて、実際に私たちは計算することができます。計算するとは、もしチューリング・マシーンを使うのであれば、左右に限りなく伸ばすことのできるテープの上の一つのマス目に0か1の数字、あるいは空白をつくる操作を繰り返すことによって遂行されます。これは子供の頃に習わされた算盤よりずっと単純な操作の集まりからなっています。計算がこれほど単純な動きの集まりに過ぎないと割り切る人は少なくても、「算術(arithmetic)」は理論というより実用的な技、習得すべき技術だと思われてきました。それに対して、「考える」、「思考する」、「知る」といった述語は人間の誇るべき本性だと受け取られ、それを強調あるいは象徴するかのように「理性」などという概念がつくられ、人間は理性的な動物だと理解(誤解)されてきました。また、「感じる」、「感覚する」は感覚器官を働かせる動作として、理性とは異なることを強調して「感性」という概念がつくられました。そして、感性は動物ももつが、理性は人間だけがもつという(人間中心的な)博物学的区別はギリシャ以来の(科学的な根拠など無視した)伝統的な分類でした。
 人工知能(AI)の典型的なモデルは人間です。ペットでもいいのですが、私たちの関心は圧倒的に私たち自身にあります。人間と同じように感じ、知り、同じように考え、判断する機械の仕組みは単純な計算の組み合わせから成り立っています。人工知能には感性、悟性、理性と言った区別は本質的な区別ではなく、それら機能の違いは同じ計算からなる異なるシステムに過ぎないのです。
 「何かを計算する」という謂い回しは計算にはそぐわない表現です。計算自体は盲目的で十分。計算結果が何を計算したかを明らかにしてくれます。一方、「何かを知る」という表現の「何か」は不可欠で、単に知ることは無意味に等しいのです。ですから、考える、感じる、意識するといった述語は「志向的(intentional)」と言われてきました。それは考える対象、感じる対象、意識する対象がないと意味不明だからです。あるいは、それが私たちに備えつけられた能力で、外の世界との関わりを保持するための工夫なのだと考えることができなくもないのですが、「計算する」は志向的ではなく、外界を必要としません(この自己完結性は計算の利点であるとともに、欠点でもあります)。
 私たちはAIにどう対処すべきか戸惑っています。その理由をかいつまんで言えば、同じものなのに違った説明、理解がなされているからです。「私たちは何なのか」についてのギリシャ以来の説明は迷走だらけでしたが、それでも人間を知りたいという点では一致していました。その結果、人間は心をもち、理性をもち、自由意志をもち、責任と権利をもつもので、単なる機械ではないという考えに強い反対はありませんでした。
 AIは機械であり、人間がつくります。そのAIがチューリング・テストをクリアーし、人間と同じように振舞うことができるのは直ぐ先のことです。その基本は計算であり、単純で盲目的な計算がAIを人間並みにしているのです。
 さて、ここからが哲学的な思索。「計算する」というのは一体どのような述語なのでしょうか。むろん、それは最終的には数論に帰着するのですが、哲学者は明らかに「計算する」ことをバカにしてきました。カントもヘーゲルも計算に特段の関心を寄せたとは思えません。でも、19世紀末から数学の基礎に関する議論は一変します。フレーゲラッセルらの論理学の研究はゲーデルチューリングの数学の基礎に関する研究、つまり、計算理論へと結びつくのです(算術化)。
 ゲーデル不完全性定理や万能チューリングマシーンは「考えることが計算する」ことであることを説得的に説明するだけでなく、カントのアンチノミーのような推論を数学的に昇華し、人間の合理的思考のシステム(算術を含む論理システム)の不完全性を計算によって証明することになりました。
 感じ、考え、決断することは、基本的に計算することです。これがAIという考えの基本中の基本です。これほど明晰にして判明な結論を20世紀になるまで私たちは知りませんでし。人間の本性はかつて合理性に求められたのですが、計算に求めるべきなのです。人間とは計算する生き物なのです。