スペインとの国境にあるピレネー山脈のフランス側の山麓に、カトリックの聖地ルルドがあります。1858年、ルルドに住む貧しい少女ベルナデッタ・スビルーが、村はずれの洞窟で聖母マリアを見たということが発端で、聖母マリアに言われて、彼女が洞窟の土を手で掘ると、そこから病気を癒す力をもつ泉が湧き出し、多くの巡礼者が集まり始めたのです。日本人なら、弘法大師を思い浮かべる人がいるでしょうが、彼の奇跡よりずっと新しく、ずっと有名になったのがルルドです。
このルルドの泉で病気が治ったと申告した人は、1862年以来6,700人いるが、ルルド聖地当局が正式に奇跡と認定したのは66人。奇跡の正式認定者の数は次第に減少し、1960年から2000年までの40年間では4人だけで、とても少数です。ルルドでは、カトリックの国際医師団が厳しい医学的なチェックをおこなっていて、最近ではMRIなどの最新の診断技術や分子生物学的方法を駆使して判定しています。
1902年アレクシー・カレル医師は、ルルドの奇跡を科学的に調査する目的で、ルルドへの巡礼団の随行医師になることを志願。カレルは、1912年組織培養法と新しい血管縫合術および臓器移植法の考案などの功績により、フランスで最初のノーベル生理・医学賞を受賞しています。彼自身が書いた『ルルドへの旅 ノーベル賞受賞医が見た「奇跡の泉」』(田隅恒生訳、中央公論新社、2015)という本に一人の若い女性の上に起こった奇跡が述べられています。結核性の腹膜炎のマリー・フエランという若い女性はモルヒネ注射だけで痛みを抑えていました。ルルドへの列車の中で、彼女の状態はますます悪化。ところが、列車がルルドに着き、マリーが洞窟の前の病人用に設けられた場所に行くと、彼女の顔に突然変化が現れ、顔の蒼白い色が消えたのです。その日の夕方、カレルがマリーのもとを訪れると、彼女は輝く目をしてベッドに座っていました。彼がマリーを診察すると、脈は正常で、腹膜炎で膨らんでいた腹は白くて平らで、身体のしこりは夢のように消え去っていました。
神の恩寵という理解の仕方の他に、プラシーボ効果という説明があります。病気を治したいという強い願望が、ルルドというプラシーボによって、一瞬にして心身的な変化をもたらすという説明です。ルルドでは、カトリックの信者でない人にも奇跡が起こっていることから、ブラシーボ効果が奇跡を起こさせるのかもしれないと思われています。ルルドのように様々な病人が集まり、病人が主人公として迎えられ、医療、食事、宿泊、介護などを受けられるところでは、病気に対する意味づけが変化するのかも知れません。
私たち人間は自然を理解し、さらに自らの脳を理解しようと頑張るものです。脳が複雑過ぎて、今はその一部しか理解できないとしても、脳で起こる奇跡の解明はいずれ可能なはず、というのが私を含めあらかたの希望ではないでしょうか。そして、多くの人はこの希望は奇跡ではないと信じている筈です。