変化を知る

(2)花の時間的な変化

 飛翔する鳥が連続的に運動していると私たちが見る理由は一体何なのか。ここでは花の時間的な変化を取り上げてみましょう。一輪の花が咲き、それが終には萎んでいく時間的な変化は運動変化と同様、時間の連続的な経過を通じての変化と捉えられてきました。たった数枚の画像で花が連続的に変化していく様子を表現できないのは誰でも知っていますが、私たちは経験的に連続的変化を仮定して数枚の画像から変化の経緯を半ば自動的に作り出します。誰もが似た仕方を経験しているため、まず異論は出ません。でも、その連続の作成を省略なしに、細部まで説明するよう求められると、私たちは狼狽するしかありません。静止画像の集まりから滑らかな運動を生み出す過程を克明に記述し、説明せよとなると、誰もが困ってしまうのです。

 さて、ラナンキュラスの画像(1)から(6)までを見比べてみましょう。同じ花の画像で、次第に花が開いていくものだと言われると、その通りだと辛うじて見て取れるのではないでしょうか。動く画像を省略した断片6枚の画像だと考えることができます。静止画像にしたのは、連続性を再考するためです。動画の一コマはどれも静止画像ですし、それを暗号化したものも記号列で、動いていません。ですから、6枚の静止画像は花の「動的な」変化を切り取ったもので、運動の一部としての静止画像だと私たちは勝手に解釈しています。それは、点から線をつくることができるかのように、静止画像から動画をつくることができると考えることとほぼ同じです。

 こうして、6枚の静止画像は同じ花の動的な変化の断面を切り取ったものと解釈されることになり、画像の背後には動的変化があることになります。日常生活で動くものを見慣れている私たちは、動くものの瞬間の知覚像は静止した像であり、それらの像が並び重ねられることによって、運動変化する知覚像が得られると思っています。

 では、「連続」はどこにあるのでしょうか?生物は遺伝情報を変化させながら進化してきました。生物個体の遺伝子はDNAの系列として存在し、A、T、G、Cの並びによって情報が表現されています。それに対して、人間は脳で三次元空間を認識し、時間と空間が連続することを意識しています。脳は神経細胞の長い軸索によって感覚器や運動器と繋がり、その軸索を通じてやりとりされるのは離散的な活動電位です。

 人間と物理世界の力では連続的なユークリッド平面は描けないのですが、ユークリッド幾何学ニュートン力学も時間と空間の連続性を前提にしています。哺乳動物は運動する物体の軌道を予測する能力を発達させました。そのために私たちは時間と空間を連続的に認識します。では、人間は運動をどのように認識するのでしょうか。運動は人間の視覚脳によってつくられるという証拠がいくつもあります。これを利用したのが映画。映画は毎秒24枚の静止画像を各3回フラッシュさせ、毎秒72枚の静止画像を入れ替えていて、それを見る人間が動画をつくり出します。動画は時間と空間の連続性が成り立つと前提されています。

 では、空間は連続、あるいはアナログなのか、それとも離散、あるいはデジタルなのか、いずれなのでしょうか。リーマンは「曲がった」空間を考え、その結果としてユークリッド的でない幾何学を含むリーマン幾何学が誕生しました。そのリーマンが空間の不可欠の条件にしたのが「連続体」。連続体とは直感的に滑らかであるということ。アナログ量の代表は実数で、デジタル量の代表は整数です。では、私たちが生活する空間はアナログかデジタルか?空間を動くものは滑らかに動いていてアナログに見えます。空間がデジタルだったら、そこを動くものは連続的には動けず、離散的に動く筈です。

 空間が連続的なら幾何学は容易につくることができて、多くのことが証明できます。でも、物理空間が連続的という証明はありません。物理空間が離散的だという実証的な状況証拠はたくさんあります。それなら、離散的な空間の幾何学をつくればよいと誰も考えますが、その幾何学は途方もなくわかりにくいのです。ここまでの議論は空間だけでなく、時間についても成り立ちます。

 これまでのことは何かとても厄介な状況に見えます。それを避けるために私たちが採用したのが仮説の設定と変更の組み合わせです。時空とそこでの変化が連続的であるという仮説を設定し、その仮説が実験や観察の結果と合致する限りは採用し続け、それが壊れた場合はその仮説を廃棄し、別の仮説を採用し直すという方法です。つまり、科学が経験科学である限り、いつも仮説的なもので、誤り得る可能性を持っていて、いつも更新が可能であるという姿勢、立場の採用です。仮説的な真理として「運動変化は連続的」だとしたのが古典力学、「不連続的」だとしたのが量子力学ですから、二つは異なる仮説を採用した理論であることになります。

 心を仮説として認めるか否かでも私たちは異なる理論を持っています。それが社会科学になると、異なる仮説が増え、それに応じて異なる理論や教説が併存することになります。いずれにしろ、連続する運動の「連続」という性質は私たちの経験と大抵は矛盾しない仮定になってきました。

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