深川と怪談(2)

(3)善悪、白黒、美醜で知る人間と社会

 まだ学生の頃、教育学専攻の友人に分厚い翻訳書を見せられ、人の体型のモノクロ写真にびっくりし、それが目に焼き付き、博物学的な臭いを感じたのを憶えている。それはクレッチマーの研究書で、体格と気質の相関関係を、やせ型・肥満型・闘士型の三類型で説明したものだった。やせ型は分裂気質で、物静かで非社交的であり、肥満型は循環気質で、社交的で明るいが、時に落ち込む。また、闘士型は粘着気質で、頑固、融通が利かず、時に爆発的に興奮する。シェルドンも外胚葉型(やせ型)、内胚葉型(肥満型)、中胚葉型(闘士型)の三類型を導き出したが、これはクレッチマーの三類型とほぼ一致している。

 こうして、人は身体的、心理的に分類され、それに従って性格、嗜好、行動パターン等が説明されるのだが、倫理の分類となれば善悪。すべき行動、すべきでない行動はこの善悪の基準に従って分類されてきた。善を勧め、悪を懲らしめることを物語の柱においたのが勧善懲悪小説。坪内逍遥は『小説神髄』でこれを時代遅れと否定した。「勧善懲悪」という言葉遣いは十七条憲法の第六条に「懲悪勧善 古之良典」(悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである)と記され、それ以来のもの。

 個人主義の立場から一人の人間を克明に描こうとすれば、その人をクレッチマーの分類や善悪の見地から述べることは的外れで、ユニークな個人の特異性はパターン化された分類項目に当てはめてわかるものではないと考えられている。紋切り型のやり方を対応させるだけでは一人の人間の独自の生き方は描けないというのは自明のように見える。

 だが、このような話は根本的に誤っている。私たちは分類表、パターン一覧といった知識を使って人を考え、表現するのではユニークな個人は描き切れないと教え込まれ、実際それが正しいと思っているのだが、それは実はとんでもない誤り。真実はこうだ。言葉を使って述べる限り、知識は概念の組み合わせで表現されており、概念とは分類項目につけられた名前であるから、私たちは善悪、白黒、美醜、硬軟といった分類を使ってしかユニークな事件や人柄を語ることができない。だから、作家は独自の表現に悩む。一般的なものをどううまく組み合わせてユニークなものを表現するかに思い悩むのが物書きなのである。

 個体(individual)は文の主語として変項(variable、指示代名詞)や定項(constant、固有名詞)で表現するしかなく、概念はどれも述語で表現するしかない。自然言語の手法は、個体を個体として表象する術ではなく、パターンや性質の組み合わせを述語にして、その述語を使って個体を表象する手法であり、その典型が善悪、濃淡、白黒と言った二分法的な分類なのである。言語が工夫を重ねるのは主語ではなく述語。述語を豊かにするとは、パターン化した見方を充実させることであり、分類を精緻にすることなのである。

 こうして、善悪、白黒、美醜は古臭い分類というより、私たちの表現の本質的な特徴を象徴していることがわかる。実際、巧みな仕分け、分類によって人の思惑や振舞いを見事に描いてみせたのが南北や円朝であり、怪談は舞台設定も心理設定も実に好都合な表現手段だった。日常と非日常の両方の述語を含む怪談の方がずっと豊かで、多彩な表現力をもつことを彼らは見抜き、それを巧みに使って見えない世界を表現してみせたのである。

(4)「義と不義」、あるいは『忠臣蔵』と『四谷怪談

 黒船稲荷神社の祭神は五穀豊穣の神である宇迦魂命(うかのみたまのみこと)で、浅草の黒船町に創建された。黒船町は現在の台東区寿辺りで、オランダの黒船が町名の由来に関わっていた。享保17年に浅草に火災があり、黒船町も被災し、社地も焼失。それで町ともども現在の地に移転した。当時の境内は木が生い茂る「すずめの森(阿三の森)」と呼ばれていた。江戸時代後期に四世鶴屋南北が境内に住み、晩年を過ごすことになる。

 まずは鶴屋南北の代表作『東海道四谷怪談』の内容を確認しよう。塩冶家(えんやけ)の浪人四谷左門(よつやさもん)の娘お岩とお袖の姉妹を巡る怪談劇で、お岩の夫民谷伊右衛門(たみやいえもん)の極悪非道な振舞いを通じて物語は進行する。伊右衛門を孫娘の婿に迎えたい伊藤喜兵衛が仕込んだ毒薬によって、お岩の面相が変わり、恨みを残して死んでいくのが「元の伊右衛門浪宅の場」。この後、お岩の幽霊が色んな場面で伊右衛門を悩まし、伊右衛門の母や仲間を次々に死に追いやる。最後に、伊右衛門はお袖と夫の佐藤与茂七によって討たれる。 伊右衛門は「二枚目」の色男でありながら、四谷左門や内職の手伝いに雇った小仏小平(こぼとけこへい)を殺し、お岩を殺す悪人として描かれ、「色悪(いろあく)」と呼ばれる役柄の代表として知られている。また、この作品は『仮名手本忠臣蔵』を背景として、 登場人物の多くは『仮名手本忠臣蔵』の世界と関係している。

 毒薬で顔が醜くなったお岩が、「下座音楽(げざおんがく)」の「独吟(どくぎん)」の流れる中、鉄漿(おはぐろ)を塗り、櫛で髪を梳く場面がある。梳かれる髪が抜けていく壮絶な場面で、「独吟」はお岩の恨みと悲しみをせつせつと表現している。シエクスピアも顔負けの見事な場面である。

 中村座での初演は文政8年(1825)。『仮名手本忠臣蔵』と『東海道四谷怪談』が二日間にわたって入れ子に上演された。二つの狂言は「実」と「虚」の関係にあり、互いに正反対の内容で、とんでもない趣向。初日は、『忠臣蔵』の初段から六段目までをやり、次に『四谷怪談』の序幕・中幕を見せて「隠亡堀の場」まで。次の日はその隠亡堀から始めて、『忠臣蔵』七段目から十段目のあと、『四谷怪談』の四幕・大詰(「夢の場」「蛇山庵室」)を入れ、最後は赤穂浪士討入りの十一段目大切で終わる。江戸の人々は存分に二つの正反対の芝居を楽しんだ。二つを結ぶのは「義」の解釈。正義の芝居『忠臣蔵』は義士討入りの物語。その忠臣に入れなかった者が何人もいて、当時は義士に対して「不義士」と呼ばれた。芝居の『忠臣蔵』では五段目「山崎街道」の斧定九郎と早野勘平が不義士。その不義士の一人民谷伊右衛門を『忠臣蔵』の外に出し、これを色悪に仕あげ、四谷左門町のお岩伝説を下敷きにして、不義の芝居『四谷怪談』を仕上げたのが南北だった。