我流の哲学史雑感(6)

原子論とその世界観
 原子論は、タレスに始まる初期ギリシャの自然哲学的世界観の一つの到達点である。ギリシャの哲学者たちは、世界を形作っている根本的なもの、つまり、アルケーとは何かについて考察を進めるうち、質量としてのアルケーについてはますます多元論的な方向に向かう一方、存在を非存在から峻別し、存在者を存在させている理由や原因についても考察を深めていった。レウキッポスとデモクリトスの原子論はこれらの問題に対する解答だった。まず、質量因としての世界の構成要素については、アナクサゴラスが多元的世界観を説いていたが、原子論者たちはその説をさらに推し進めて、世界は無数の原子によって構成されていると説いた。この考えを最初に抱いたレウキッポスはパルメニデスのほぼ同時代人であり、デモクリトスはこの説を精錬し、多元論の流れの中に位置づけた。
 既述のようにパルメニデスは存在と非存在の問題についてアポリアを提出していた。パルメニデスは世界には存在するものしかなく、非存在なるものは形容矛盾だと主張した。ギリシャ人にとって、空虚は非存在の典型のように受け取られていたが、彼によれば、われわれの眼には何も存在しないと見える空虚も、実は実体として存在する。それを証明するために、パルメニデスは空のバケツをさかさまにして水の中に突っ込んだりして見せた。パルメニデスはその説を更に進めて、消滅は存在から非存在への移行であるとか、生成は非存在から存在への移行であるとか、およそ変化として説明されることを否定した。世界には変化はなく、ただ存在だけがある。私たちの眼に変化として映るものは、感覚のもたらした仮象でしかない。
 これに対して、原子論者は世界が原子と空虚からなると主張した。原子は存在者であり、空虚は非存在である。原子は存在者としては分割不可能な実体であり、消滅したり、生成したりしない。その意味ではパルメニデスの存在者と同じ性質を持つ。世界は空虚という大きな容器の中に無数の原子が納まったものとして捉えられる。そして、原子が集合離散することによって、様々な物体や事象が生ずる、というのが原子論の主張だった。
 レウキッポスはパルメニデスから大きな影響を受け、パルメニデスの提出した問題に答えようと原子論を生み出した。つまり、彼はパルメニデスの主張した一元論にイオニア自然学の多元論を結びつけ、理念的な世界観と多様な感覚知覚像を融和させようとした。その試みが原子論だった。レウキッポスの原子は、アトム、つまり分割不能なものという意味であり、パルメニデスの「一者」を引き継いだものでいる。レウキッポスがパルメニデスと違うのは、このアトムの容器として空虚を持ち出した点である。このことによって、レウキッポスは空虚の中でのアトムの運動を説明し、私たちの感覚のもつ多様性を説明しようとした。
 デモクリトスは、ソクラテスソフィストたちと同時代に生きた。彼が生まれたトラキアオルフェウス教が盛んで、東方的な色彩の濃いところだった。だが、デモクリトスイオニアの自然学に流れる合理的な精神をもっていた。彼はレウキッポスの原子論を引き継ぎ、それを体系化した。世界のアルケーはアトムと空虚である。世界は絶えず生成消滅しているように見えるが、それはアトムが空虚の中で結合したり分離したりすることによる。アトム自体は変化せず、不変の性質をもつものであり、すべてはアトムの運動によって成り立っている。こうしたデモクリトスの見方は、あまりにも機械論的だと批判を受けた。だが、デモクリトスは世界に偶然などはなく、すべては必然の法則にしたがって動いていると主張した。デモクリトスは徹底した唯物論者だったのである。彼は人間の精神でさえアトムから成っていると考えていた。彼にとっては思考もまた物理的な過程である。つまり、宇宙は機械的な法則に完全支配されている。
 幸か不幸か西洋哲学の主流は、プラトンからアリストテレスへと人間主義的な方向をたどった。そのため、デモクリトスの主張はその流れの中で傍流にされてしまう。実際、プラトンデモクリトスについて一言も言及せず、無視した。
 そのプラトンに至るまでの経緯を以下にまとめておこう。まずはソフィストたち。プロタゴラスゴルギアスを始めソフィストは、プラトンの多くの対話篇で取り上げられている。だが、彼らは哲学者というより実際的な理由から言論を操った人々であり、今風には弁護士のような人々だった。事実、彼らは自分がイオニアやイタリアの哲学者たちと同じような研究をしているとは思っていなかった。ソフィストたちが出現する背景にはアテナイの民主政治がある。アテナイペルシャ戦役での勝利を契機に、ギリシャの中心となっていく。アテナイが躍進する原動力となったのは民主政治である。アテナイではどんな公職でも、くじ引きによって選ばれた者がそれを担当した。くじ引きには貴賎の区別なく誰でも参加できた。女と奴隷は市民の範疇から外されていたが、市民であれば誰もが平等の権利を行使する。これがアテナイの民主政治の原理だった。ペリクレスの活躍した紀元前5世紀の末近くには、アテナイの国力は全盛を迎え、地中海の覇者として、政治的、経済的、文化的な優位を示すに至った。
 そんなアテナイ社会で市民が主張を通す手段は、他者を説得する弁論の術だった。当時の裁判では弁護士のような専門家はおらず、原告、被告とも、自ら法廷に赴いて意見を主張した。裁く者も専門家ではなく、くじ引きで選ばれた者だったから、彼らをいかに説得できるかが勝敗の分かれ目となる。プロタゴラスをはじめソフィストとして名高い者はみな報酬を得て弁論の技術を教授していた。ソフィストの弁論術の目的は人を説得することにあるから、永遠の実在とか、客観的真理とかいったものは関心の対象とはならず、依頼者である具体的な人間にとって有用なことがテーマとなった。ここから人間中心的な発想が次々と生み出されていった。ソフィストたちの中でも、プロタゴラスは独特の地位を占めている。プラトンソフィストたちを軽蔑の念をもって描いているが、プロタゴラスだけは別扱いしている。
 プロタゴラスデモクリトスと同郷だが、そのデモクリトスとは違って、自然ではなく人間を研究した。プラトンは『テアイテトス』の中でプロタゴラスの説を詳細に論じている。プロタゴラスによれば、人間は万物の尺度である。その意味は、一人一人の人間が物事の尺度なのであり、人々の間で意見が一致しないような場合には、だれか特定の人が正しく、別の人が間違っているというような客観的な基準は存在しない。その理由は、人間の感覚というものは、非常に誤りやすいものだからである。ここから、プロタゴラス懐疑論が導き出される。彼は真理の絶対性を信じない。あらゆるものは人間とのかかわりの中で意味を持つ。人間こそがものごとの尺度である。しかし、プロタゴラス懐疑論を主張してこの世界を否定的に解釈したのではなかった。もし客観的な真理が存在しないのだとすれば、そのかわりに人びとがよりどころとすべき真理は、意見の一致を制度として現した慣習や法律であるとプロタゴラスは経験論的な主張をするのである。
 さて、ソクラテスの方法はディアレクティケー(弁証法)と呼ばれる。ヘーゲルがこれを自分の方法として使って有名になったが、元来、弁論、弁証を通じて、真理とは何か、徳とは何かについて探究する方法だった。これは、人々の抱いている観念や知識を巡って、それらの中に含まれているさまざまな要素について、互いに比較検討を繰り返しながら、誰にも反駁できない、普遍的な知識を求めようとする態度である。
 プラトンの『パルメニデス』は、若きソクラテスパルメニデスとその弟子ゼノンに出会うところを描いているが、その際ゼノンはソクラテスを相手に弁証を繰り広げた。ソクラテスはそのときにゼノンの弁証術をその後自分の方法として取り入れた。ソクラテスの方法を特徴づけているのはエイロネイア(アイロニー)である。ソクラテスは対話の相手が信じて疑わない事柄について、質問を浴びせ、そこから思いもかけぬ結論を導き出して、相手を混乱させる。その結果、相手は答えに窮して、自分は実は本当のことについて何も知ってはいなかったのだと悟る。このように、世の中の常識や思い込みを打破するところにエイロネイアの意義がある。その結果、ソクラテスは多くの人を敵に回すことになった。他方、ソクラテスは相手に質問を浴びせながら、相手の抱いている観念を分析し、その中から当人が認識していなかった思想を生み出すのを助ける。最初は身近な事柄から出発し、個別的なものを相互に比較して、偶然的なものを本質的なものから分離し、普遍的なものを抽象しようとしたのである。これは今でいう帰納法である。つまり眼前の個別的な事柄の中から、共通するものや相違するものを取り分け、そこから普遍的で一般的な知識を導き出す。個別から普遍へ、特殊から一般へ、具体的なものから抽象的なものへと向かうことによって、ソクラテスは概念的知識の獲得を目指したのである。
 概念的な知識は人々の表象の中から出てくるものであり、既に人びとの意識の中にあって、しかもそれとははっきりと認識されていなかったものを、明瞭な概念に変える作用である。ソクラテスはこの作用を「産婆術」に喩えた。もともと相手が持っていたものを、形あるものとして生み出すための手伝いをするというわけである。ソクラテスにとってイデアは人びとの意識の中に現れてくるだけのものだったが、プラトンはそのイデアに客観的な実在性を与えたのである。