移民や移住の前に:日本に住む外国人

 経済協力開発機構OECD)の2017年の集計によれば、日本への移住者(90日以上滞在予定)数は43万人で、これはドイツ(172万人)、USA(118万人)、イギリス(45万人)に次ぐ数で、日本は第4位。2019年での在留外国人の数は280万人を越える。日本の総人口の約2%が外国人だが、20歳台では5.8%となり、東京都の20歳台では10人に1人が外国人である。2018年日本の外国人は16万人も増加したが、日本人人口は43万人減少している。少なくても、外国人の増加は日本の総人口の減少を和らげているのだ。

 東京都が発表した2019年の「外国人人口」によると、1月1日時点で東京に居住している外国人は55万1683人だった。10年前は2.44%だった外国人比率は3.98%にまで上昇している。国・地域別では中国(台湾を含まず)が最多の21万3767人で、全体の4割近くを占める。以下、韓国9万2418人、ベトナム3万6227人、フィリピン3万3219人、ネパール2万7290人、台湾1万9726人、米国1万8508人、インド1万2130人など。

 素人の私にはにわかに信じられない数字だが、自分が住む地域を見ての実感と妙に合致するのである。兎に角、新しいマンションが増え、それに応じて、特に中国人の居住者の数が増えるのである。旅行者ではなく、居住する人たちの行動はかつてのように一見して違いがわかるようなものではなく、服装や行動パターンも私たちと区別がつかなくなっている。年齢も若者から中年、さらに老年と万遍なく、中国化する東京とも多国籍化する東京と言っても決して大袈裟ではないのだ。

 日本全体の外国人人口については法務省の「在留外国人統計」、東京都については都の「外国人人口」を見ると詳しい数字が一目瞭然でわかる。ダントツに多い中国人について、都の23区内では、江戸川区江東区板橋区、新宿区、足立区が多く、少ないのは千代田区、目黒区、渋谷区、中央区、港区。

 1979年に9.3万人だった東京23区在住の外国人は2019年に55万人まで増加した。人口に占める外国人比率で注目すべきは、若い世代の外国人の比率が局所的に高い新宿区百人町1~2丁目、大久保1~2丁目。25~34歳人口の5割以上が外国人で、中国、韓国、ベトナムが目立つ。若い外国人のほとんどは留学生で、大久保や池袋には日本語学校が点在する。また、江戸川区では東西線西葛西駅を中心に、日本橋で働くディーラーなど専門職のインド人が多く、彼らはITエンジニアなどの優秀なエリート。かつて東西線を利用していた私には、それ以前に多かったアラブ系の人たちとインド人の電車内での振舞いの違いをよく憶えている。

 このところ地方では技能実習生が増えている。外国人居住者に関しても国内での格差を認めながら、大都市だけでなく、地方での外国人居住者についても真剣に考えるべき時期に来ている。

アオキの赤い実、青い実

 アオキは既にここでも紹介したが、アオキ属の常緑低木。「アオキ」という和名は常緑で、若い枝も緑色のため。日陰に強い庭木として知られ、現在では自然のものより人が管理する数の方が多いほど。実際、湾岸地域にもあちこちに植えられている。

 3月から5月にかけて花をつけ、花の少ない初冬に実をつけるため、江戸の昔から盛んに栽培されてきた。その実は最初は緑色だが、熟すと鮮やかな赤になる(画像)。だが、雌雄異株で雄木には実がならず、雄木は植木職人の間では「バカ」と呼ばれる。

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ミヤコグサからの老人性妄想(1)

ミヤコグサ(エボシグサ)の続き)

 ミヤコグサとセイヨウミヤコグサタンポポセイヨウタンポポの関係によく似ていると既に述べたが、その辺の関係が妙に気になってしまったのである。一応既述のものを再録しておこう。

  私が湾岸地域で初めて見たミヤコグサの群生は2m四方の小さなものだった。ミヤコグサは日本の各地から中国・台湾・ヒマラヤにも生育する多年生草本。路傍や荒れ地に生育していて、花期は長く、春と秋に数多く花を開く。冬の今でも花をつけている。近寄ってみると、つるりとした花は形も色もとても美しい(画像)。

 ガクに毛があるものはミヤコグサと同科同属でも、ヨーロッパ原産のセイヨウミヤコグサ。私が見つけたものがそのいずれかを判別するのに少々時間がかかったが、ガクに毛がなく、ミヤコグサだった。ミヤコグサとセイヨウミヤコグサの関係はタンポポセイヨウタンポポの関係に似ていて、知らない間に在来種と外来種が身近な環境下で入れ替わっている。そこで、そのミヤコグサのルーツを辿ると、ミヤコグサ自体も遥か昔に農耕作物と共に移入した史前帰化植物(前川文夫が提唱した概念で、有史前後(3世紀前後)に日本に帰化した植物)だった。

 

 在来種は元々その地域にいたものだが、固有種は在来種のうち、そこにしかいものを指している。この二つの違いはわかりやすい。帰化種はその地域で定着に成功した外来種。在来種は人為的な事柄が大きく影響する外来種外来生物)や帰化種、栽培品種(園芸品種)などの対義語とされることが多く、何を在来種と呼ぶかはそれらの定義に依存し、それゆえ、「在来」という語の地域や時間の範囲は定まっていない。国際自然保護連合(IUCN)は在来種を自然に占有している生息域内に存在するもの、あるいは人間による直接的、間接的な導入、あるいは世話などがなくても存在できる可能性のあるものとしている。これは自生種、野生種と呼んでもいい。また、 一般的には明治期以前から生息している種に対して使われることが多い。こうなると、在来種は遥か昔に帰化した種であってもよいことになる。「在来」とは何かはとても相対的であり、「江戸っ子」の定義が相対的であることはその例の一つである。

 つまり、動植物の区別で用いられる「在来種」、「外来種」に明確な線引きはなく、便宜的に次のように分類されてきたようである。「在来種」は、従来からその地域に棲息・生育する動植物の品種や系統を指す。「外来種」は、元々その地域に棲息・生育しておらず、人為的に持ち込まれた動植物の品種や系統を指す。それは、意図的に導入されたかどうかに関係なく、人間の活動によって直接的・間接的に自然分布域外に移動した種で、移入種や侵入種、帰化種と呼んでもいいだろう。「外来種」の中でも、生態系や人間の生活に多大な影響を及ぼすようなものは特に「侵略的外来種」と呼ばれる。日本で「在来種」とされるカブトムシ、金魚、タヌキ、ワカメなどが日本国外において「侵略的外来種」に分類されることも多い。
 セイタカアワダチソウセイヨウタンポポなどは「帰化植物」と呼ばれるが、既述のごとく、帰化植物は(意図の有無に関わらず)人の手によって外国から日本にもたらされ、野生化した植物のこと。明治維新前後以降に日本に入り、野生化したものだが、ヨーロッパ諸国との交流が始まった安土・桃山時代以後に入ってきたのものも帰化植物と呼ぶ場合がある。いずれにせよ、帰化植物として扱われる植物は「いつ頃入ってきたのか」という情報が、過去の記録として残っているもの。では、記録が残るより前に人の手により入ってきた植物、つまり帰化植物としての記録がない帰化植物はないのか。

 そこで出てきたのが史前帰化植物で、これは前川文夫によって1943年の論文において提唱されたもの(前川文夫「史前帰化植物について」、『植物分類地理』13、274-279、1943)。前川は史前帰化植物を大きく三つのグループに分けている。最初はヨーロッパなど大陸に分布し、越年生草本や春に開花する多年生草本であるもの(スイバ、ナズナ、グンバイナズナカタバミ、オオバコ、ハハコグサ)。これらは、有史(日本は3世紀頃)初期に日本人が大陸文化と接触した際、中国大陸から入ってきたと考えられる。次は南方にも分布し、一年生草本や夏~秋に開花する多年生草本であるもの。アキノノゲシエノコログサ、コナギなど。これらは、有史以前の稲作伝来と共に入ってきたと考えられる。三つ目が中国大陸に分布し、多年生草本であるもの。ツルボヒガンバナなど。これらは大陸から芋類などの運搬時に混入したと考えられる。史前帰化植物というアイデアは、前川が第二次世界大戦中に兵士として中国大陸にいるときに、現地の植生を見たのがきっかけとなっている。史前帰化植物として挙げた種が農耕地周辺では生育しているのに、自然植生の中には生育が見られないことがこの説の根拠の一つとなっている。

 昔から馴染のある日本の植物は在来種ではなく、外来種が意外に多い。古くから親しまれてきた外来植物を渡来時期順に挙げてみよう。

(1)桃は縄文時代前期の史前帰化植物弥生時代の遺跡から種子が見つかり、弥生時代に日本に渡来したと考えられていたが、近年、長崎県多良見町にある伊木力遺跡から桃核が出土し、縄文時代前期には日本に伝来したことがわかった。
(2)彼岸花弥生時代以前の史前帰化植物。具体的な渡来時期や経路はわかっていない。稲作と共に中国からもたらされたとも云われ、田んぼのあぜ道などに植えられていた。その毒性を利用してモグラなどに田畑を荒らされるのを防ぐためだったらしい。

(3)梅は飛鳥、奈良時代にかけて遣唐使によって中国大陸から日本に伝来したらしい。食用、観賞、薬、など様々な形で親しまれてきた。

(4)牡丹は奈良時代(724年)に空海により中国から渡来した。『枕草子』によると8世紀には栽培されているようだが、もともとは薬用として栽培されており、観賞用に広く栽培されるようなったのは元禄時代になってから。

(5)朝顔奈良時代末期に遣唐使によって中国から種が伝来。朝顔の種には下痢になる成分を含んでおり、奈良時代から平安時代に掛けて薬用として使用された。江戸時代に観賞用として園芸種がたくさん栽培されるようになった。

(6)菊は日本の国花だが、日本の固有種ではなく、平安時代前期に中国から日本に渡来した。鎌倉時代後鳥羽上皇が菊の花を天皇家の家紋としたことから日本を象徴する花となった。栽培が活発になったのは江戸時代前期で、沢山の品種が生まれた。

 この他にも、蓮、水仙、向日葵、秋桜外来種であることがわかっている。

 このように見てくると、在来種、外来種、固有種、帰化種などの定義は相対的であり、本来のもの、派生的なものなどの区別は曖昧であることがわかる。このような区別は無害なものに見えるのだが、動植物ではなく人間の場合になると、すっかり様相は変わり、しばしば差別と呼ばれることになる。試みに、次のような語彙について考えて見てほしい。どれも議論が尽きない事柄で、定義など曖昧そのものの語彙である。

 

人口問題、移民、移住、日本と妙高(国家と地方)、万世一系、固有種(の弱さ)

 

 日本が移民を大幅に認め、それを具体化するとなれば、まず解決すると思われるのは人口減少問題ではないか。イギリスのEU離脱の理由の一つが移民問題と言われるが、上述の外来の動植物に関する記述から推測できるのは、帰化植物の強さであり、移民は在来の人々と共により強い子孫を生み出すことはほぼ確かなように見える。移民に対する根強いアレルギーがあっても、国内での移住については誰も反対などしない。移民と移住は概念的には共通なものが多いにもかかわらず、大抵の人は移民と移住は大違いと考えている。その違いの理由は「国の存在」である。国民と県民の概念的な違いは歴史的、文化的なものに過ぎないのだが、それが人の本質にかかわるかのように思われ、論じられてきた。

 日本への移民と妙高への移住を同じ枠組みで考えてみると、議論は随分と変わってくるのではないか。移民と移住を共通の視点、観点から議論するとどうなるか、私にはとても興味深いのである。環境を妙高ではなく、東京、新潟と置き換えてもよい。それによって、議論の内容やターゲットが変わり、結局はそれらが環境(地域)相対的なものであることがわかるのではないか。

 日本が一つの民族からなっていたという麻生さんの最近の失言は万世一系天皇家も含まれていた。今話題になっているイギリス王室のヘンリー王子の結婚相手は外国人で、元女優である。そのような婚姻は日本の天皇家で認められているだろうか。普通の日本国民なら婚姻の自由があるし、離婚も自由なのだが、それと同じことが天皇家にも適用されるのか。多民族からなり、他民族が入ることが許される国や社会が動植物の自然の生態に近いのに対し、万世一系は不自然な存続形態であり、その持続可能性は極めて低い。純粋な民族は幻想でしかなく、多くの人々が自由に交流し、帰化する個体の効果によって集団がより強くなることは生物レベルであれば自明この上ないことなのである。となれば、「よそ者」こそが身内だけの純粋な集団を強くし、持続可能にするということになる。

 さて、このような一連の乱暴な議論は慎重に扱わなければならないのは当然のことで、まずは読者への刺激になれば十分というのが最初の老人性妄想である。

ミヤコグサ(エボシグサ)

 私が湾岸地域で初めて見たミヤコグサの群生は2m四方の小さなものだった。ミヤコグサは日本の各地から中国・台湾・ヒマラヤにも生育する多年生草本。路傍や荒れ地に生育していて、花期は長く、春と秋に数多く花を開く。冬の今でも花をつけている。近寄ってみると、つるりとした花は形も色もとても美しい(画像)。

 ガクに毛があるものはミヤコグサと同科同属でも、ヨーロッパ原産のセイヨウミヤコグサ。私が見つけたものがそのいずれかを判別するのに少々時間がかかったが、ガクに毛がなく、ミヤコグサだった。ミヤコグサとセイヨウミヤコグサの関係はタンポポセイヨウタンポポの関係に似ていて、知らない間に在来種と外来種が身近な環境下で入れ替わっている。そこで、そのミヤコグサのルーツを辿ると、ミヤコグサ自体も遥か昔に農耕作物と共に移入した史前帰化植物(前川文夫が提唱した概念で、有史前後(3世紀前後)に日本に帰化した植物)だった。

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奇跡のような時間:団塊世代の私が田舎で経験した自然

 これからの話は私の感傷的な個人的想い出。恐らく似た想い出は団塊の世代がもったであろう経験で、私たち団塊世代以前の人たちが経験した、今はなき自然であり、その後の子供たちには想像しかできない貴重な経験なのだと思っている。日本の田舎で育った団塊の世代がもつかけがえのない間主観的な共通記憶で、誇りに思っていい貴重な奇跡の集まりなのである。

 日本が戦争に敗れ、そこから立ち直り、経済成長が始まるまでの短い期間となれば、1945年から1955年頃までの約10年間で、農地解放で自作農になった農家が戦前の農業スタイルで農業を再スタートさせ、それが軌道に乗るまでの期間で、その後日本の農業は農薬や機械化によって大きく変わっていく。それまでの10年ほどは牛や馬が田畑で働き、山羊、豚、鶏が農家に飼われていて、家畜が身近なものだった。そのような日本の古い自然を経験した最も若い、そして最後の世代が団塊の世代なのである。
 何が奇跡かといえば、自然が生きていたことである。生きた自然とは、田畑に昆虫や雑草が溢れ、生命が見える世界、生物の展示場のような自然のことである。生命の賑わいのためか、子供の私が一人でいても寂しいと感じるよりは、うるさいと感じるほどで、生命がここそこに満ち溢れていた。生命の賑わいを子供でも十分に感じ、堪能できた。まさにこぼれ出るような生命に満ちた自然が眼前にあり、それは奇跡だった。

 バッタ、タニシ、ドジョウ、カエルたちが密集していたのが田んぼ。子供の私には田んぼはイネを栽培するところというより、そんな小動物が賑やかに生を満喫するところだった。水が張られた田んぼには水生の生き物が、イネが刈り取られた後には陸生の生き物が入れ代わり立ち代わり生きていた。田んぼの横の畑にはナスやキュウリ、トマトやピーマンと一緒にやはり生き物が棲みつき、小動物の豊かな動植物園になっていた。地球は何と豊かなのかを子供でもしっかり実感できた。

 だが、奇跡の世界は農薬によって死の世界へと変貌する。農薬がこれでもかと田んぼに撒かれ、人々は農道の歩行を禁止され、毒が蔓延するような自然がいきなり登場する。農薬散布後の田んぼからは生き物の姿が消え、すっかり静かになってしまった。その世界は今の田んぼとも違って、殺戮後の世界だった。

 タニシが溢れ、カエルの鳴き声がうるさく、ドジョウだらけの田んぼを見ることはもうないかも知れない。再現できなくもないが、それは私のような団塊世代の多くの子供たちが生まれ故郷で体験した奇跡だったのだ。

 農薬が大量に使われ、耕運機が走り回り、水車がなくなり、耕地整理が進み、農村の風景は急速に変わっていく。私が10歳を過ぎる頃には田んぼの単位面積当たりの生き物数はすっかり減り、今の田舎(の人の数)のように寂しくなってしまった。

フユザクラの花

 フユザクラ(冬桜)は本州を原産とするバラ科の落葉高木。一般的にはヤマザクラ(山桜)とマメザクラ(豆桜)の自然交配によってできたものとされる。主な開花期は11-12月と4月の年2回であるが、その間も細々と咲き続ける。冬に咲く花芽は全体の3分の1であり、残りは春に咲く。季節外れのサクラとして群馬県藤岡市桜山公園のフユザクラ「三波川の冬桜」は国の天然記念物に指定されている。

 花は一重で咲き始めは薄いピンク、後に白色になるのが普通。花の直径は3センチ前後で、花柄は短く、寒気が強くなると花弁は枝に張り付くように萎む。また、フユザクラの葉は長さ5~6センチほどで、他のサクラ類に比べて小さいため「コバザクラ(小葉桜)」という別名がある。

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好奇心が満たされる社会と地球環境の保全

 人の好奇心がもっぱら形而上学的な探求に向けられたのがギリシャ時代。熱やエネルギーを伴わない研究活動は人に影響を与えても、地球にはおおむね無害な活動だった。キリスト教が支配するようになると、好奇心は悪として人の心のうちに閉じ込められ、欲望として表面化することはなかった。だが、人の好奇心をコントロールし続けることはできず、ルネサンス産業革命を通じて好奇心は心の内から解き放たれることになる。越境した好奇心は欲望の実現としての資本主義を生み出す。それが知識と富を結託させることによって、欲望と化した好奇心は地球そのものを破壊するまでに至っている。このような物騒な表現も今では誰も大袈裟なものとは受け取らなくなっている。

 資本主義万能の社会が21世紀に入っても相変わらず続いていて、人々の活動は破壊のために絶え間ない活動を繰り返すばかりとしか見えない。豊かな生活のために破壊を続けなければならないことが嵩じて、それら破壊の蓄積が未来を脅かすまでになっていることが単なる可能性ではなく、ほぼ確実だということになりつつある。20世紀にあった社会主義体制が変形した現在、資本主義の独占状態はその予言をさらに倍増している。

 経済活動がもたらす自然環境の破壊が進み、地球自体がそれを回復できないまでになっている。地球は人間によって大きな痛手を受け、今や自力でそれを直せない状態なのである。そして、その結果を象徴的に表現したのが地球温暖化温室効果ガスの増加によって気温が上がり、気候変動がもたらされ、食糧生産を不安定にしている。

 資本主義世界での労働、教育、文化、科学などはいずれも破壊のための手段と化している。「破壊のための労働」、「破壊のための教育」等々という訳である。人間が生きることはそもそも破壊なくしては不可能なのだが、では、その破壊から私たちを守る理論はあるのか。これは「破壊する私たちが私たちを破壊から守る」というパラドクシカルな仕事であり、「私たちを守る」とは「私たちの住む地球(地域)を守る」ことだと理解されている。だが、そんなアクロバティックな理論など簡単には見つけることができず、今のところ自然保護のための理論として考えられているのは、単に「昔の(良き)ものを守る」という至極素朴なお題目、目標である。つまり、文化遺産を守るのと同じように自然を遺産として守るということであり、それはとても理論と呼べるものではない。だから、保全の哲学はなく、幾つかの手段についての知識しかないのである。

 新しい商品の絶え間ない開発は、古いものを容赦なく破壊することである。消費とは破壊することで、どれだけあがいても壊すことによってしか欲望を満たすことはできない。それでも、古典芸能(能や歌舞伎など)は守られなければならない、保存されるべきだということになっている。遺跡、美術品、民芸品等は、かつてはそれらと異なる古いものを破壊することで登場したものだった。単に古いから守るのではなく、優れているから守るのだが、何が優れているかとなると、その最低限の理由さえなかなか見つからないのである。だから、伝統的なものは保存することにしているのだが、保存されるべき理由は過去の記録を保存するためと言う以外になかなか見つからないのである。

 地域での活動、例えば妙高のいもり池とその周辺の環境保全にも確たる思想がある訳ではなく、私たちの資本主義的な活動による環境破壊を部分的に修復することでしかない。修復目標はかつてのいもり池の環境に近いもの。環境保全はこうして消極的な過去の復元に帰着するのである。何とも歯痒い話である。そして、実際の細やかな保全活動の隣には暗い近未来が控えている。

 人間の活動が環境の破壊を伴うことへの責任として環境保全があるだけではなく、環境を保全しないと地球そのものが破壊され、死んでしまうという危険が確実に迫っている。そして、それは私たちの「自滅」、「自殺」を意味している。