ギョリュウバイ(檉柳梅)

 ギョリュウバイはフトモモ科ギョリュウバイ属の常緑低木で、ニュージーランドとオーストラリア南東部が原産。ギョリュウバイの名は、ギョリュウに似て葉が小さく、花がウメに似ていることからついただけで、ギョリュウ科のギョリュウ(檉柳)ともバラ科のウメとも関係がない。11月ごろから梅に似た白やピンク、赤紫の花を咲かせるタイプと、春咲き(3月―5月)のタイプがある。花は紙細工のような印象で、淡く香りがある。

 園芸品種では一重咲きの他、八重咲きの品種が多く流通していて、花色も白、赤、ピンク、赤紫と多彩。画像は八重咲の赤花品種である。ギョリュウバイはニュージーランドではマオリ語でマヌカ(Manuka)と呼ばれ、葉をお茶として利用し、蜂蜜はマヌカハニーとして有名である。

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人に故郷回帰本能があれば…

 秋が深まると、鮭の遡上の季節となる。サケには母川回帰本能があり、秋には自分の生まれた川を遡上する。以前は本能で生まれた川に戻ってくると言われるだけだったが、今ではサケが自分の生まれた川の水の中に溶けているわずかな物質をかぎわけて生まれた川に戻ってくることがわかっている。魚にも鼻があり、呼吸には使われないが、においはかぐことができ、自分の生まれた川を識別できるのだ。また、海では地磁気や海流などを利用して回遊していると考えられている。

 盆暮の帰省ラッシュはかつての日本の「風物詩」。それも最近は随分と緩和され出している。スシ詰めの新幹線はめっきり減り、長蛇渋滞の高速道路も僅かの期間だけ。お隣の中国の春節はかつての日本以上の帰省ラッシュが凄いらしい。そんな思いまでして人々が帰省するのはどうしてなのか。この問いに対して、人には「帰省本能」があるから、と答えたなら、どうだろうか。この仮説が正しいなら、これを利用しない手はない。
 その前に、「帰省本能」は「帰巣本能」の間違いではないのか。その通りで、「帰省」は本能的な行動ではない。それに対して、帰巣本能はれっきとした本能で、例えばハトの帰巣本能は有名である。残念ながら、今のところ私たち人間に帰巣本能があるかどうかは定かではない。多くのサラリーマンは仕事が終われば自分の家に帰るが、漂泊が好きな人も結構いる。また、私たちにとっては帰省は生まれてから学習した習慣に過ぎなく、帰省しない人も少なくない。とはいえ、暫くは帰省本能と帰巣本能を同じだと仮定してみよう。
 もし人にサケのような回帰本能があり、自らの子供を必ず生まれた故郷で産むのだとすれば、現在問題になっている故郷創生など問題にならなかったのではないか。何の対策も必要なく、放っておいても、人は自分の生まれ故郷に戻って出産するのだから、その生まれ故郷の人口減少は今ほどは問題にならないのではないか。すると、生まれ故郷の衰退を殊更に危惧する必要などないことになり、むしろその回帰本能を利用したアイデアを生み出せることになる。
 だが、自分の町で生まれた人たちはその町の何を目印に回帰するのだろうか。町の何に惹きつけられて帰巣するのだろうか。もし人に帰巣本能があるのなら、これは考えるだけでもロマンがあり、面白い。とはいえ、生まれた後の町の発展に惹きつけられるのでないことは確かである。現実に立ち戻って、人がどこで子供を産むかは自由であると言われると、この夢は途端にしぼんでしまう。どこで、いつ、誰の子供を産むのも本人の自由意志に任されているのが人の社会。その社会では人の帰巣本能などはなから否定され、自由社会の障壁として無視されるのが運命というもの。その結果、過密と過疎があちこちに生まれ、人々はそれを直そうと四苦八苦することになる。自由主義の社会とは何とも厄介な社会なのである。回帰本能の痕跡くらいはないのかと思いたくもなるのだが…、過去の子供の頃の記憶に頼って、それに訴えるくらいしか手はなさそうである。それでも、今故郷で生活している子供たちには懐かしく思い出せる記憶、よい想い出を残すこと位ならできるのではないのか。

介入と二値性の原理

 

  過去の歴史は決まっていて、その歴史を私たちは変えられない。

 私たちが変えることができるのは未来の事柄である。

 

これら言明は誰も疑わないような自明の真理の典型例と考えられています。過去は私たちの認識、知識とは関係なく決まっていて、未来は私たちが自由に決めることができる、と普通に考えられています。でも、過去の何がどのように決まっているのかはけっして明らかではなく、むしろわからない場合の方が圧倒的に多いのです。昨日の事件を誰が正確に再現できるというのでしょうか。あらゆる箇所にわからないことが山積みなのだ、というのが私たちの実感です。同じように、未来もわからないことだらけで、変えることができるかさえわからないのです。これもその通りと相槌を打ちたくなるのですが、私たちが知らないだけで、実はすでに決まっているのだという考えも根強くあり、それを否定できる確たる証拠もどこにもないのです。私たちにはわからないが、実は決まっているというのは、都合のよい考えというだけでなく、時々は心地よく響く効果さえ持っているのです。

 このように見てくると、誰でもが「過去は決まっているが、未来は変えることができる」と信じていることが疑わしいものに思えてきます。では、何が本当のことなのでしょうか。私たちは過去に戻ることができませんし、未来を先取りすることもできません。私たちは現在から過去や未来について既存の知識を使って判断するしかありません。ですから、私たちが当事者として眼前の出来事に介入(intervene, intervention)できるのは現在だけであり、過去や未来の出来事には直接介入することができません。むろん、現在の出来事にも介入せずに傍観するだけ、無視するだけということも可能ですが、過去や未来の出来事には原理的に介入できないのです。「現在の介入が原因になって、過去や未来の出来事が結果として変わる」ことが私の言いたいことの一つなのですが、それを含めて少々丁寧に分類してみましょう。分類の基準に使われる「二値性の原理(the principle of bivalence)」とは「どんな言明も真か偽のいずれかの真理値をもつ」という論理学的な主張のことです。

 

(1)二値性の原理が成り立ち、言明が存在論的に解釈される場合

 私たちが個々の言明の真偽を実際に知ることを考慮せずに、それとは関係なく、どの言明の真偽も決まっていると仮定するのが伝統的な形而上学的な決定論の主張です。この決定論では、二値性の原理によって、過去、現在、未来に関係なく、言明の真偽はいずれかに決まっていますから、「過去も未来も、そして現在も決まっている」という完全な決定論に対応しています。つまり、これは世界の出来事、事態は私たちが知る、知らないこととは独立に決まっているという考え方になり、それが形而上学決定論と呼ばれる所以なのです。私たちが世界の出来事に介入し、その出来事を実証的に扱うことは一切考慮されていません。形而上学決定論にとって私たちの存在は無に等しく、私たちはせいぜい傍観者でしかないのです。ということから、この立場は近代以降の私たちには不自然、不十分であることがわかります。

(2)二値性の原理が成り立ち、言明が認識論的に解釈される場合

 古典力学的な言明がこの場合の典型例となります。古典力学の言明は過去、現在、未来に無関係に成り立ち、それゆえ物理的(古典的)決定論が成り立っています。それを端的に示すのが「ラプラスの魔物(Laplace's demon)」です。魔物は力学的な普遍的決定論が正しいことを象徴するもので、存在論と認識論が古典力学によって総合されることの表明となっています。魔物ではなく、通常の私たちの認識論的な適用は情報が完全ではないので、局所的決定論の主張になります。一見すると(1)と似ているのですが、現在についての情報をすべて知っていないと、普遍的決定論は掛け声だけに終わってしまいます。最初に前提される情報が十分でないと過去も未来も十分に予測できないというのが(2)の場合で、これが(1)との決定的な違いです。

(3)二値性の原理が成り立たず、言明が認識論的に解釈される場合

 二値性の原理を否定すると、真でも偽でもない言明があることになります。その言明の真理値は真偽以外の第三の値であり、それゆえ言明は三つの真理値をもつことになると考えるのが三値論理(three valued logic)です。そこから、さらに一般化すれば、多値論理(many valued logic)、ファジー論理(fuzzy logic)と呼ばれるものになり、真理値の数は様々に考えることができます。また、直観主義論理(intuitionistic logic)も二値性の原理が否定され、認識論的に数学的対象を捉えるため、多値ではありませんが、多値論理と同様に排中律(law of excluded middle)は成立しないことになります。

(4)二値性の原理が成り立たず、言明が存在論的に解釈される場合

 この適用は滅多にないように思われるのですが、その唯一と言ってよい例が量子力学コペンハーゲン解釈です。確率的な値をもつ言明がそのままミクロな世界の現象に対して成り立つというものです。このようなことはマクロな物理世界では成り立ちません。ですから、マクロな世界ではシュレーディンガーの猫は生きているか死んでいるかのいずれかなのです。そのため、ネコが半ば生きていて、半ば死んでいるようなことが許されるミクロな世界は古典的な決定論的世界に慣れた私たちにはとてもわかりにくい、ほとんど了解不能な世界ということになります。

 

 これまでの話から、存在論や認識論が過去や未来に関して適用される場合、その適用のマナーがはっきりしていないことがわかります。特に、存在論的に真偽いずれかの値をもつことは私たちの介入を必要とせず、それとは独立に決まっていることなのです。私たちが介入することによって実証的な判断をし、真偽を決めたものは修正の余地があり、それが科学的知識が暫定的だということの理由となっています。現在が確定していれば、過去も未来も確定しているという主張は無害に思えるのですが、その確定にはいつも修正の余地が残されているのです。むろん、未来の出来事もそのような意味では決まっていないのが普通です。

 私たち人間は実に老獪で、上記の四つの場合を状況に応じて巧みに使い分けています。ですから、「過去は決まっているが、未来は変えられる」とも「過去も未来も変えられる」とも言い抜けることができ、万物流転論も運命論も共に主張して憚らないのです。残念ながら、四つの立場がどのような使い分けをされるべきかは不明なままです。とはいえ、これまでの話から介入とその介入の前提状況について詳しく確認することによって、ある程度は混乱が避けられることは確かです。

ヤエコデマリの花

 コデマリは庭木としてよく使われるが、八重咲きのものがヤエコデマリ。共に江戸時代に中国から渡来。コデマリほど丸い鞠の感じはないが、一つ一つの花が柔らかい感じで何とも可愛い。葉はコデマリより細長く、葉の上半分にある鋸歯の切れ込みも少ない。
 ヤエコデマリバラ科シモツケ属のコデマリの変種で、湾岸地域でも公園樹あるいは庭木として植えられている。4月から5月にかけ、球形で八重の純白の小花をいっぱいに咲かせる。画像はまだ咲き始めでポツリポツリの花だが、細い枝や葉が見えなくなるほど白い多数の花を咲かせ、枝垂れる姿がとても見事である。同じ仲間にユキヤナギシモツケがあり、これらもよく見かける。

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「村格」、「都市格」に触発されて

 大抵の人は「人格」が何かと問われると、それが茫洋としていても、個別の性格や性質とは違うことに気づくのではないでしょうか。そして、人権や人間性といった語彙と共通すると感じる筈です。「品格」と「性格」は明らかに異なり、英語ならcharacter(性格)とdignity(品格)と訳し分けるでしょう。一方、人格はpersonやpersonalityと訳されるのですが、個人の性格、性質がpersonalityをつくるとしても、それはpersonとは違うと多くの人が直感するのではないでしょうか。

 ところで、その人格の類推として村格(柳田國男)、都市格(中川望)、さらには国の品格等々、「格」があちこちで使われてきたことがわかります。大阪商工会議所の会頭を務めた大西政文の著書『都市格について 大阪を考える』のタイトルにある都市格は、広く政財界や都市問題研究者の関心を呼びました。「都市格」とは都市を一人の人間に喩えたときの「人格」に相当するもので、大阪府知事だった中川望は「都市格と云ふのは恰も個人における人格を指す」と述べています。中川によれば、大阪は明治以来、日本の商工業の中心地として成功を収めてきたが、それを個人に喩えるならば、「成功者」ということになります。しかし、 事業に成功して一大財産を築いても、人から尊敬を受けるかどうかとなると、それは別の話。彼は「人格」との類比による「都市格」の向上が、経済的な成功を収めた大阪市に必要だと力説しました。では、「都市格」はどのようにして向上させることができるのでしょうか。中川は、都市や自治体を個人とみなし、「人格」がどのようにつくられるかを考えれば、自ずから明らかになるだろう、と述べています。ここで使われた「人格」はパーソナリティのことで、性格、気質、能力の複合を指しているようです。いずれも学習によって形成、変形できる心理的な性質です。

 榛村純一は、そうした都市格を表すための指標について様々に論じています。都市の評価指標について、10種類の分類を考え、それぞれを五段階で評価し、自分の町の姿を確認します。「評価指標」によって、都市を差別、区別、等級化し、それによって都市格を定めようというのです。でも、学習によるパーソナリティ形成が等級化できそうに見えるのに対し、人格概念の歴史は等級化に馴染まないものでした。

 類推の出発点にある人格は実は彼らが考えた以上に厄介な代物。「人格(person, personality)」という語は、具体的には生身の人物(person)を指します。ペルソナ(仮面)をつけることは「本当の私」を隠して仮の顔を他人に見せることと思われがちですが、ペルソナが「本当の私」を覆い隠す仮面を意味するだけなら、それが後に「パーソナリティ」、「役割」、「性格」といった意味をもつようになることはなかったはずです。社会の中の私たちは、他人との関係の中で「役割」を演じ、「性格」を表現します。社会的相互作用の様々な場面ごとに表現されるペルソナのなかに「自我」のあり方が表現されるのです。

 人格の直接の語源は、キリスト教神学によって「ペルソナ」の抽象概念として新造された中世ラテン語 personalitas(位格性)で、三位一体論の用語です。トマス・アクィナスによれば、人格性は本質や本性とは別であって、神のうちには父と子と聖霊という三つの人格性があります。人格という概念は、神が単一の実体でありながらも「父・子・霊」という三つの異なる「位格(persona)」をもつ、というキリスト教神学の三位一体(trinity)論において、中枢的な役割を演じていました。

 人格概念のこうした機能的性格は、近代以降も一貫しています。ジョン・ロックは、人格とは「自分自身を自分だと考えることのできる知性あるもの」と特徴づけ、『人間知性論』で「人格の同一性」を問い、それを自己意識に求めました。私は自己意識によって過去の諸行為の当事者となり、その責任を引き受けることになります。

 カントは『人倫の形而上学の基礎』で、人格が理性的存在者として「尊厳」であり、「目的それ自体」として実存すると考えました。カントは、物件と対比して人格を特徴づけ、人格は「尊厳の担い手」として手段にされてはならないものと考えました。『実践理性批判』では、「人格」はみずからの人格性に服従するものとして、叡智界と感性界の二つの世界にまたがり、自然から独立した自由な自己立法者です。『人倫の形而上学』では、「人格」が「自分の行為に責任をもてる主体」と定義されています。

 人格がまず機能的な概念であり、かつ尊厳・権利という規範的な概念が帰属するものということから、人格の「定義」と、その外延の決定は、整合性によるしかなく、常に改訂可能ということになります。人格が機能的な概念であることは、人格が状況依存的で、文脈に応じて可変的な概念であることも意味しています。これは人格の概念が別の概念を使って定義できるものではなく、論理的に原初的であることに由来します。

 とはいえ、あるものが人格であるためには、単一性、持続性という条件をみたしていなければなりません。つまり、人格は個体的同一性をもっていなければなりません。次に、単に自発的な能動性だけではなく、自分のことを一人称で描写して考えることができなくてはなりません。つまり、自己に対して再帰的に関係しうる主体でなければなりません。結局、人格をもつものは自己意識をもつ生身の個人であり、具体的な人物ということになります。

 このような人格についての特徴づけから、人格のアナロジーとしての都市格は、少なくとも上記の使い方を見る限りは、心理学的なパーソナリティ概念のアナロジーに基づくもので、本来の人格とは少々異なったものです。ですから、都市格は人格の一部の類推であることになります。これをフルの類推にしようとすれば、都市とは何かについても人格から類推しなければなりません。多分、そんなことをする人はいないでしょう。というのも、都市は原初的で、定義できない概念ではないからです。

 とはいえ、最初の柳田の「村格」は大いに気になる点です。柳田とは日本民俗学の父、『遠野物語』の著者柳田國男(1875-1962)です。その柳田が初めて対象として研究したのが、農業でした。柳田は農商務省に入省した法学士第一号です。それまでの農村研究は僅かしかなく、そのために民間に残る伝承や習慣を集めることによって研究を始めたのが柳田で、これが日本の民俗学のスタートです。明治の農政思想には大農論と小農論があり、井上馨らはアメリカのような大規模農場を育成すべきであると主張しました。これに対し、農業の現状を維持しようとするのが小農主義で、勢力的には小農主義が圧倒的多数でした。柳田が農商務省に在籍したのは2~3年でしたが、彼は大農でも小農でもない中農養成策を提案し、小農保護論に異を唱え、企業として経営できる規模をもつ2ha以上の農業者の育成を考えたのです。農業基本法に規定されている『自立経営』に似た考えが、既に柳田はもっていたのです。農業だけで生活できる規模の農家経営を目指した「中農」は柳田民俗学の「常民」の概念につながっていきます。柳田は日本が零細農業構造により世界から立ち遅れてしまうことを懸念し、農業構造の改善のためには農村から都市へ労働力が流出するのを規制すべきではなく、農家戸数の減少により農業の規模拡大を図るべきであると論じています。柳田は幼少期に目にした農村の惨状を思い、「なぜ農民は貧なりや」と自問し、地主のもとで狭隘な田畑を耕す小作人制度に病弊を診てとり、自前の土地を持つ中農の創設こそ急務と訴えました。

 このような柳田の主張を考慮すると、地主と小作からなる農村が農地解放によって自作農の村に変わることがそれまでの村格(=農村格)がなくなることであり、自作農が自立した常民(folk, Volk)として農業経営ができるという新しい村格が新しい農村の成立には不可欠である、と考えたのではないかというのが私の推測です。そして、私にはこの村格は人格の類推として適切だと思われるのです。というのも、農村概念そのものが小作中心から自作中心の村へと変わり、それが村格の変更と捉えられているからです。そして、良い村、駄目な村といった評価は次の段階の事柄なのです。

ツバキの花

 サザンカやカンツバキが多い湾岸地域にはツバキもある。ツバキ(椿)はツバキ科ツバキ属の常緑樹で、光沢のある濃い緑の葉が特徴。厚みのある葉の意味で「あつば木」、光沢のある葉の「光沢木(つやき)」等、いずれも花より葉の美しさが名前の由来となる。和名のツバキは野生種のCamellia japonicaのことだが、園芸品種も単にツバキと呼ばれ、間違いを避けるため、ヤブツバキと呼ぶこともある。

 ツバキは、本州以南に自生する植物で暖地・沿岸部にヤブツバキ、積雪地帯にユキツバキが見られる。種子(椿油)や材は縄文時代から生活に利用され、花も古くから貴族に愛され、日本書記にツバキを天武天皇に献上した記録がある。室町時代以降、武士がツバキを好み、庭園、華道、茶道で使われるようになり、園芸化が進む。江戸時代には諸大名らに広がり「寛永のツバキ」の流行が起こる。また、シーボルトが冬のバラとしてヨーロッパに日本のツバキを紹介している。

 ツバキとサザンカはよく似ている。ツバキは花弁が萼と雌しべだけを木に残して丸ごと落ちるが、サザンカは花びらが個々に散る。だが、園芸品種は多様で、見分けにくい場合がある。ずいぶん昔だが、「神代植物公園」のツバキ、サザンカ園で様々なツバキを見た記憶がある。200品種以上のツバキがあった。

 雪国のユキツバキは雪に覆われて、地表に押しつけられて過ごし、春に雪解けが始まるとその姿を現す。すると、倒れていた枝は次第に立ち上がり、花をつける。

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それぞれの正義

 先日右京さんの正義について述べた。未だに人気のテレビドラマ『相棒』の杉下右京さんは共同体、国家といった組織の安泰より正義を優先する孤高の一匹狼。高倉健が人情ではなく義理のために戦うように、右京さんは警察組織の存続、維持などより、あくまで法の正義を優先し、そのために行動する。『相棒』は謎解きと正義をダブらすことによって日本人の心を掴んだ。「義理と人情」、「正義と善」は同じ対ではない。義理と正義は違うし、人情は善や幸福ではない。だが、それらを敢えて重ねれば、義理の健さんも正義の右京さんも共にヒーロー。

 ところで、正義とは何なのか。何の正義か、自由とは何か、平等とは何か、といったことを問い、理想とする社会へと至る道を探るのが「正義論」の役割。人の権利、財産、自由、平等などをどのような価値に基づいて配分するかという配分の正義が主要な問題となる。ロールズノージックは権利の善に対する優越性を主張するのに対し、サンデルらは「善」の優越を主張する。

 ジョン・ロールズ正義論』(1971)は、現在まで続く正義論の活発な議論の出発点。『正義論』は「無知のベール」と「正義の二原理」という社会契約論からなっている。議論はロールズ『正義論』への賛成か反対からなっている。反対の代表が功利主義ロールズ功利主義を批判し、社会契約論と系譜を同じくする。一方、功利主義も発展を遂げており、ピーター・シンガーが主要な論者の一人。ロバート・ノージックは著書『アナーキー・国会・ユートピア』においてリバタリアニズム自由至上主義を提唱。リバタリアニズムとは、自由への権利がもっとも重要であり、国家は治安維持等の最低限のことだけをおこなう最小国家であるべきとした。マイケル・サンデルが主張するコミュニタリズム(共同体論)は、人間はそのコミュニティと関わり生きていて、コミュニティを排除した「無知のベール」は「負担なき自己」であると批判し、歴史・伝統・文化をふまえた「位置ある自己」が重要であると主張する。普遍的な正義よりも、共同体の絆や美徳の促進による正義の実現を目指す。

 このような原理的な話から目を転じて、ゴーンさんが日本から違法に逃亡した事件、アメリカとイランの間の一連の爆撃事件は共に正義という観点から見るならば、右京さんなら果たしてどのように判断し、行動するか気になるのは私だけではあるまい。ゴーンさん、イラン、そしてアメリカの行動はいずれも正義の行動からは程遠いことは誰の目にも一目瞭然。とはいえ、ジャーナリストを含め、多くの識者は保守的な右京さんの明瞭な決断とは違って、既存の法制度や外交常識に対して批判的であり、法の遵守や平和一辺倒の考えに反対はしなくても、それと同時に今の制度の不備、日本の非常識を主張する。その際、上記のような正義に関わる諸説がどのような役割を演じているのか、なかなか見えてこないのである。