オシロイバナ

 オシロイバナ白粉花、白粧花)はオシロイバナ科の多年草または一年草。メキシコ原産で江戸時代始めごろに渡来。美しい花のため観賞用に栽培されるが、今では広く野生化している。開花時期は、 6月末から10月末頃。「お寺の鐘」のような形の、熟した黒いタネをつぶすと、白粉(おしろい)のような「白い粉」が出てくる。それが名前の由来。名づけ親は江戸時代の博物学貝原益軒。夕方頃に活動する昆虫に対しては、花の多彩な色で引きつけ、夜に活動する昆虫には、その香りで引きつける。なかなかのしたたか者である。別名は「夕化粧」(ゆうげしょう)で、その名のごとく、夕方から咲く。

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図書館のテキスト

 本に対する桁外れの興味をもち、並みはずれた知識をもつ人たちは「書痴」と呼ばれてきた。彼らは音痴と違って、音に鈍感なのではなく、書物に異様に敏感なのである。彼らは本そのものにマニヤックなのだが、そのポピュラーな姿は古書マニア、古本コレクター(蒐書家)とも呼ばれてきた。そんな書痴を何人も知っているが、それが学術研究になると書誌学となり、私には美術史学と区別ができない領域となる。
 写本、あるいはマニュスクリプトは本の旧形態であり、原則的に一冊しか同じものはない。むろん、手書きによる本であり、パピルスや羊皮紙に書かれている。日本なら和紙に墨で書かれた古文書ということになる。古文書は虫に喰われるという欠点をもつが、和紙と墨の組み合わせは人類最強の組み合わせで、これほど長時間情報を保存できる媒体は未だにない。ファクシミリもCDもどれだけ情報の保持ができるか、誰も知らない。考え始めると不安しかないのだが、せいぜい二、三百年がいいところ。数千年以上持つだろう和紙と墨には遥かに及ばない。
 注釈による学問が中心だった古代、中世は洋の東西を問わず、テキストそのものが研究対象と言ってもよかった。広く木版印刷活版印刷が普及する以前、本は筆写するもので、直接の研究対象だった。プラトンアリストテレスの古典研究は彼らの著作の研究であり、それが注釈することであり、正に学問研究の正統的方法だった(パドヴァ大学の解剖学教室は1593年、ライデン大学の物理学実験施設は1675年で、ヨーロッパの大学は神学、法学、哲学の三学部中心で、正統的な方法は注釈だった)。中世ヨーロッパにおいて写本はキリスト教修道院を中心に行われ、写字生によって組織的に作られた。その当時の写本の中にはしばしば壮麗な挿絵がつけられ、美術品として扱われるものも存在する。教会は裕福で、御用学者の著作も当然豪華な装丁だった。そうでないガリレオニュートンの著作の装丁は実に貧弱で、本の内容と外観は関係がないのである。中国の北宋代以降、日本では、仏典の木版印刷が用いられ始めたが、修行の一環としての写経は今にまで引き継がれている。
 テキストから実験・観察へと研究方法がシフトするのは18世紀に入ってからであり、テキストの注釈と実験データからの仮説の構築や検証という学問の方法の違いは図書館の役割をも変えることになるのだが、それは20世紀まで待たねばならなかった。
  昔の図書館の狭く、薄暗く湿った書庫は大学院生にはこの上なく胸躍る空間だったのだが、そこで19世紀のイギリスの書物を手に取るのは注意を要した。和紙と違って酸性紙が使われた本がほとんどで、紙は炭化が進み、100年も経たずにとても脆くなっていたためである。その後、酸性紙の中性化が本格的に行われることになる。
グーテンベルク聖書は15世紀にグーテンベルクが印刷した西洋初の活版印刷の聖書。本文には漆黒のゴシック活字が使われ、ほとんどのページが42行の行組みであることから「42行聖書」とも呼ばれる。画像の聖書は紙に印刷されたもので、慶應義塾図書館所蔵。

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良寛とフレディ

 良寛が人々の注目を浴びだすのは、大正期の中ごろ以降です。それには相馬御風の一連の著作が大きな役割を果たしました。糸魚川出身の御風は早稲田大学で新潟出身の会津八一と同期で、坪内逍遙島村抱月らに薫陶を受け、その良寛論は良寛を生き返らせ、自我に目覚めた人たちに苦悩の中の良寛の生き方を教示することになりました。

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 良寛は越後出雲崎の名主の長子に生まれ、家を捨て出家します。禅の悟りを得て俗世を捨て、無私無欲のやさしさ、清らかさが、周りの人々の共感を呼ぶことになります。良寛の書は、ここにあげた「天上大風」(子供たちの凧のために書いたもの)のように童心にあふれたものばかりではありません。若いころから王羲之小野道風を本格的に学び、草書にも熟達していました。この書のどの文字も単純です。天の字だけが他より大きく、しかも第一画と第二画の間がずいぶん離れています。風も中の虫が極端に左に寄ってしまっています。落款の「良寛書」の位置も形もよくありません。各文字は稚拙に見え、何とも具合がよくありません。それでも、全体として収まってしまっているのが不思議です。何より、このほのぼのとした素朴さは意図したものではありません。それが私たちを魅了するのです。

 主人公は葉っぱのフレディ。春に大きな楓の木の、太い枝に生まれた五つの葉っぱの一枚。そして、夏にはりっぱな身体に成長しました。当然木の葉っぱフレディには仲間の葉っぱがたくさんいます。フレディは、みんな自分と同じ形をしていると思っていましたが、皆違っていることに気づくのです。これは、人間と同じで、どんな生き物にも共通のことです。
 フレディの親友はダニエル。ダニエルはいちばん大きく、考えることが大好きで、物知り。哲学者ダニエルはフレディにいろんなことを教えてくれました。フレディが葉っぱであること、地面の下に根を張っているから木が倒れないこと、月や太陽や星が秩序正しく運動していること、季節がめぐること…そういった自然の法則から、夏の暑い時には葉っぱ同士で木かげを作る人間が喜ぶこと、それも葉っぱの仕事であること等々。
 フレディは自分が葉っぱに生まれたことを喜びますが、季節は移り、寒い霜の季節が訪れます。緑色だった葉っぱは紅葉します。フレディは赤と青と金色の三色に変わりました。他の仲間たちもそれぞれ、違う色に変化。同じ木の葉っぱであるにもかかわらず、全部が違う色に変化します。訝るフレディに、ダニエルは生まれたときは同じ色でも、皆違う経験をするから、違う色に変化することを教えるのです。
 そして冬の到来とともに、葉っぱたちは冷たい風に吹き飛ばされ、つぎつぎと落下。おびえる葉っぱたち。ダニエルはみんなが今の木から「引っ越す」ことをフレディに教えます。やがて木に残った葉っぱはフレディとダニエルだけになります。フレディはダニエルが言っていた「引っ越す」ということが「死ぬ」ことを意味するのだと気づくのです。
 「死」を恐れるフレディに対して、ダニエルは、未経験のことは不安になるもので、「無常(すべては変化するもの)」を説きます。死も逃れえぬ変化の一つであることを教えます。「ぼくは生まれてきてよかったのだろうか」と尋ねるフレディに、ダニエルは深くうなずき、やがて夕暮れに枝から離れていきました。
 ひとりぼっちになってしまったフレディは、雪の朝、風にのって枝を離れ、しばらく空中を舞ったあと、地面に舞い降りていきます。初めて木全体の姿を目にしたフレディはダニエルが言っていたい「生命」の永遠を思い出します。そして静かに目を閉じ、ねむりに入っていきました。そして。季節は巡り、また春がやってきます。
(レオ・バスカーリア(Leo Buscaglia、1924-1998)絵本『葉っぱのフレディ-いのちの歌-』絵島田光雄、訳みらいなな、童話屋)

 「無常」は仏教の基本的な教えで、一切のものはことごとく生滅してとどまることなく、移り変わり続けます。常がない。あらゆるものが生まれたら滅し、生滅を倦むことなく繰り返していきます。この仏教の教えは文学に見事に表現されてきました。日本人は無常観を自然に重ねて感じてきました。仏教は、自然の春、夏、秋、冬に重ねて「生、老、病、死」を説いてきました。自然の移ろいと人生とを重ね合わせ、融合させながら理解してきました。
 良寛の俳句に  
  裏を見せ 表を見せて 散る紅葉
があります。虚飾を捨て、裏も表も見せる。それを紅葉にたとえて、葉は綺麗な表だけ見せているのではなくて、裏表全部を見せて散るのだ、と詠うのです。
 フレディと良寛の無常観はとてもよく似ていて、共通した部分を多くもっています。

ボケの実

 ボケ(木瓜)は、バラ科ボケ属の落葉低木。瓜に似た果実から、木になる瓜で「木瓜(もけ)」と呼ばれ、それが「ぼけ」に転訛した、あるいは「木瓜(ぼっくわ)」から「ぼけ」に転訛したとも言われる。ボケは、庭木や盆栽として人気があり、200を超える品種が栽培されている。私が好きな花の一つである。
 今日の画像はそのボケの果実。ボケの果実は香りがあり、それを使って果実酒やジャムがつくられる。ボケは背が高く、枝のトゲはあまり目立たない。実はクサボケ(草木瓜)の実よりも大きく、縦に「彫り」が入っている。一方、クサボケは地を這うように背が低い。枝にトゲが多く、実はボケよりは小さい。

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良寛の転向、あるいは禅宗から詩歌へ

 良寛の生家は代々神職かつ村落の長。彼は経済的にも恵まれた家に育ち、そして、十分過ぎる教育を受け、抜群の学才を発揮した。18歳で名主見習いとなるが、生来の人の良さが仇となり、うまくいかない。何が青春の蹉跌になったか定かではないが、地元の曹洞宗光照寺で修行を始める。22歳で光照寺住職の師である国仙に従って、備中の国(岡山県)の円通寺に入り、国仙和尚のもとで修業。曹洞宗道元の開いた禅宗の宗派で、最も戒律と修行が厳しかった。
 良寛道元に傾倒していて、禅の思想こそが仏教の思想の中で最も核心のものであり、その禅の思想の中で最も根本的なのは道元の開いた禅だと考えていた。道元の主著『正法眼蔵』を読み、それに心奪われていた。その道元も厳しい正統意識を持っていて、釈迦に始まり、中国に伝来した仏教の正統性を継いでいるのは自分以外にはないと自負していた。仏教本来の思想を保持しているのは、自分の師匠である天童山の和尚であり、その印可を許されたのは自分であるから、自分こそが正統的にそれを守っていると考えるのが道元であり、それが彼の『正法眼蔵』の骨格になっている。
 釈迦以前の原始インド思想では、眼に見えるものを微細にしていくと、ついには眼に見えなくなり、それがいわば霊魂、精神であると考えられた。霊魂が人間の肉体に宿っていて、その肉体が失われるとると、眼に見えない霊魂はそこから出て、他の肉体に宿る。他の肉体に繰り返し宿っていき、人間の霊魂はいつまでも続いていく。それは仏教以前のインド思想の中にあり、中国思想でも荘子老子のようにインドに近い南中国の思想は原始インド思想とよく似ている。
 道元によれば、仏教の方が老荘より永続的な時間や生命の時間について詳しく、荘子老子の思想には、肉体を修練することによって、天地に合一し、永続的な生命に合一するような考え方もない。ところが、仏教以前のインド思想、例えばヨーガ思想には肉体的な修練によって、天地と合一することができる、あるいは、眼に見えない自然のエッセンスと合一することができるという考え方がある。老荘思想には肉体を修練するという観点が何もなく、それが仏教と老荘思想との大きな違い。
 肉体を修練し、天地自然に合一する、つまり、解脱することが釈迦の目的。釈迦が新しい問いのタイプとして提出したのが、現世の悩みからどうやって脱却できるかということ。この問いはそれまでなかった新しいタイプの問いで、釈迦の解答は、人は肉体的な修練を重ねることによって無機物と同じようになれるということ。
 釈迦が見事だったのは、現世的な悩みという概念を前面に出し、原始インド思想によってその解決を示したこと。自分を天地と合一させる、あるいは、生死を脱却するという問題は、インド思想で考えられてきたもの。釈迦の意義は、そこに「現世」という概念を導入して、その解決にインド思想を巧みに使ったことにある。
 良寛は33歳で国仙から印可を受ける。それで良寛がわかったことは、道元の厳しさ。道元が『正法眼蔵』のなかで厳しく禁じているのは、文学、そして老荘思想。だが、良寛は詩や文学への関心を棄て去ることができず、それに惹かれ、傾いていく。道元の『正法眼蔵』と詩歌とは両立しないと思った良寛は詩歌の方を選んだのではないか。これが良寛の二番目の躓きだった。最初の青春の躓きで禅僧になり、二番目の大人の躓きで禅から離れるのである。
 良寛は師の国仙が亡くなったのを機に34歳で全国行脚を始めた。38歳の時に実父が亡くなり、越後へ帰り、40歳で国上山(現燕市の山)の五合庵に入る。59歳で、国上山麓にある乙子神社の草庵や島崎村の木村屋敷内の離れへと居場所を移し、座禅や子供たちとのふれあいに明け暮れ、70歳で貞心尼と出逢い、74歳の生涯を閉じた。当時、越後は浄土真宗が広く浸透していた。良寛曹洞宗の禅僧だったが、村人に南無阿弥陀仏を揮毫して欲しいと頼まれれば、それに応じるなど、宗派にこだわらなかった。詩歌や学問を通して良寛と交流を深めた人物には、貞心尼、儒学者亀田鵬斎国学者の大村光枝などがいる。
 良寛は自然が好きで、彼が自然が好きな意味は、禅宗のコンテキストで自然と合一するのが好きというのではなくて、文字通りに眼前の山河や草木が愛おしいという意味である。良寛永平寺の正統な思想と正統な衣鉢を継ぐという考えを棄て、郷里へ帰る。郷里へ帰ってからの良寛は詩人としての良寛になる。良寛はそこでも座禅し、仏教書を読んでいるが、それは修行のためではない。曹洞宗の正統な後継者として、仏教の最も根本的な部分の衣鉢を継ぐという目的は既にない。修行の座禅ではなく、荘子老子と同じように、天地自然と一緒になって遊ぶ座禅だった。
 親鸞道元はほぼ同じ年代で、一茶と良寛が同じ時期に生きたのに妙にダブるのである。親鸞道元の比較研究はこれまで数多くあるが、今の私たちが知りたいのは、良寛道元の『正法眼蔵』ではなく、親鸞の『教行心証』、あるいは後の『歎異抄』に強く惹かれていたなら、彼はどんな人生を歩んだろうかという問いである。良寛の時代の浄土真宗親鸞の時代と違って幕府の体制に組み込まれ、宗教としての迫力を失っていた。その上、他力本願の宗教には修行という概念がそぐわない。それでも彼が浄土真宗を選んでいたなら、彼のもう一つの望みである詩歌の世界とも対立することが少なかったと思われる。世俗の家に生まれた良寛には出家する強い決断が必要で、そのためには余程の魅力が宗教にいなければならない。道元曹洞宗は修行に厳しく、本来の仏教を継ぐものという自負があり、良寛もそれに惹かれたのだと思われる。
 禅宗カトリック神学は形而上学という学問を重視するが、学問は本来自力で行うもので、何かを自ら説明することを目的にしている。一方、浄土真宗などの鎌倉新仏教は学問ではなく宗教実践を重視し、文学は本来他力でなされ、何かを表現することを目的にしている。良寛は自力の曹洞宗から他力の浄土真宗へと転向したのではなく、曹洞宗の僧としての責務から解放され、無宗派になっただけなのである。彼には宗教の代わりが文学で、文学がそれまでの彼の生活、その後の生活を支える枠組みになった。和歌や俳句は貞信尼と良寛を結びつけただけでなく、荘子の思想を背景に自然や日常生活の表現に活用されていく。そして、詩歌という文学は現象的には(そして本来的にも)他力の姿をもっていた。
 私は宗教学者でも文学史家でもない。だから、これまで私が自分の想像を勝手に述べてきたことをそのまま信じるのは危険極まりないのだが、述べた限りでは誤っていないと信じている。

 

エゴノキとヒトツバタゴの実

 エゴノキエゴノキ科の落葉小高木。日本全国の雑木林に多く見られ、今では公園や庭の樹木としても人気が高い。果皮には、10%ものエゴサポニンが含まれ、果実をかじると「エゴイ、エグ味」を感じることが和名の由来。万葉集にも「ちさ」の名で登場している。果皮のエゴサポニンは、界面活性作用がある。その果皮をすりつぶして、水に入れて振ると白濁して泡立ち、石鹸水になる。古くから親しまれてきた万葉植物の一つで、昔はこの果実をすりつぶして川に流す漁法が行われていた。
 ヒトツバタゴは「一つ葉のトネリコ」という意味。タゴとはトネリコの別名で、外にナンジャモンジャという名前がある。限られた地域に自生しているからか知る人が少なく、木の名前がわからず「何の木じゃ」と言っていたものが転じて「ナンジャモンジャ」になったという話がある。白い花をたくさんつけ、4つに深く裂けた花びらは細く、満開時には全体に雪が降り積もったように見える。花の後にできる実は楕円形の核果(水分を多く含み中に種が1つある)で、9月頃紫黒色に熟す。

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エゴノキ

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エゴノキ

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ヒトツバタゴ

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ヒトツバタゴ

 

ムクゲ

 ムクゲは見る場所や時間によって印象が大きく変わる。とても日本的で、茶席に合うかと思えば、韓国の国花であり、ハイビスカスとなれば異国の夏。それぞれに日本的、東洋的、そして世界的と形容して何らおかしくない。かつて、ヨーロッパで植物園がつくられ、植物のグローバリズムがスタートした。栽培することによって植物は人によって変えられ、広まった。ムクゲも日本的であると同時に世界的になった一つで、思想も文化も、そして何より政治がそうなれば、何と世界は平和を享受できるのにと思うと、花の栽培のごとくにグローバル化することにもっと学んだ方がいい筈である。
 和名の「むくげ」は木槿、槿。別名は「ハチス」。白の一重花に中心が赤い底紅種は「宗丹木槿(そうたんむくげ)」、すべて白い種は「遠州木槿(エンシュウムクゲ)で、画像はエンシュウムクゲだろう。早朝の3時頃に開花した花は夕方にはしぼんでしまう。最近は園芸種が多く、白のムクゲだけでも玉兎、ホワイトシフォン、白祇園守など様々。
 ムクゲはめしべの先端が伸び、フヨウは先端が曲がる。タチアオイは花の中心部が淡い緑色。花の時期は、タチアオイが一番早く5月下旬~7月上旬。ムクゲがその約1ヵ月遅れ、フヨウはさらにその後になる。だから、フヨウはまだ咲いていない。

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