俳句二句とふるさと度

 「煮炊きする落葉はいつでも風が運んでくれる。そんな自然まかせの暮らしに満足」というのが次の二句の意味だろう。

焚くほどは風がもてくる落ち葉かな(良寛
焚くほどは風がくれたる落ち葉かな(一茶)

良寛出雲崎、一茶は柏原(今の黒姫)となると、妙高人はいずれが同郷の人、ふるさとの人だと思うだろうか。少々意地悪な質問だが、いずれが妙高人に同郷の人と言わせる人なのだろうか。ごく常識的には二人とも故郷妙高の人ではないのだが、いずれが故郷の人に近いかとなれば、一茶ではないだろうか。旧妙高高原町や旧妙高村の人なら、はっきりと一茶に軍配を上げるだろう。柏原ではなく柏崎の人なら良寛だが、上越市となるとやはり一茶か。二人が生きた時代はほぼ重なり、互いに相手のことを知っていたのではないか。だが、多分直接の面識はなかったと思われる。それにしてもよく似た句で、今ならいずれが真似たのか、大問題になること必至で、いずれかが傷つくことになる。
 良寛は一茶より7年早く生まれ、一茶より6年後に亡くなった。となれば、二人はこの世に65年間も一緒に暮らしていたことになる。良寛は1795(寛政7)年、38歳で越後に帰る。翌年から国上五合庵に住む18年。その後、乙子神社境内の草庵に約10年、最後は、三島郡島崎の木村元右衛門の庵に住み、74歳まで生きる。一茶が柏原に帰ったのは50歳(1813年)で、良寛が五合庵時代の56歳の頃。一茶が亡くなったのは1813年、65歳だった。15年の間、二人はそれぞれ柏原と出雲崎に住んでいた。
 さて、良寛も一茶も同郷の人とは判定しない妙高人ははっきりした故郷境界をもつ人。反対に二人とも同郷の人だと考える妙高人は寛容な故郷境界しかもたない人。一茶は同郷だが、良寛は違うと感じる人はごく普通の故郷境界をもつ人。こんな風に三つに分類した場合、あなたはどこに属することになるのだろうか。こんな分類を通じてあなた自身のふるさと度を確かめてみてほしい。

ヘメロカリス

 ヘメロカリスはユリ科多年草で、ニッコウキスゲノカンゾウヤブカンゾウユウスゲなどがこの仲間の野性種として知られている。ヘメロカリスという聞き慣れない名前は品種改良された園芸品種を指す。「ヘメロカリス」はギリシャ語で「一日の美」のことで、花は朝開いて夕方には萎んでしまう。だが、1本の花茎には多くの蕾をつけ、次々と咲いていくため、花は二週間程楽しめる。花が一日で萎れてしまうので英語では「Daily lily」とも呼ばれる。園芸品種は2万以上あるといわれ、花色、花形、草姿など様々。午前中の花が美しいと言われるが、画像はいずれも午後のものである。

f:id:huukyou:20190708054528j:plain

f:id:huukyou:20190708054549j:plain

f:id:huukyou:20190708054607j:plain

 

ハマボウ

 ハマボウ(浜朴、黄槿)は、アオイ科の落葉低木。西日本から内湾の海岸に自生する塩生植物である。夏の今頃に黄色の花を咲かせる。直径7cm程度の、中心が赤褐色の黄色い花が咲く。花の形態は同属のハイビスカス、ムクゲ、フヨウ等に似ている。花は1日でしぼむが、大きな株は夏季に毎日次々と開花する。秋には先端が尖った鶏卵形の実をつけ、中には長さ4-5mmの豆のような黒褐色の種子が十数個できる。
 和名は「浜辺に生えるホオノキ」を指し、漢字も「浜朴」と書くが、牧野富太郎は「フヨウ」の転訛ではないかとしている。牧野はまた、もう一つの漢字名「黄槿」(黄色のムクゲ)も誤用としている。結局、よくわからない。
 潮水につかっても育つため、「温帯のマングローブ」とも呼ばれている。妙に人工的な感じのする色と形をもつ花で、何となく落ち着かないのだが、(画像の)アリにはそれもどうでもよいことらしい。

f:id:huukyou:20190707051037j:plain

f:id:huukyou:20190707051037j:plain

f:id:huukyou:20190707051059j:plain

f:id:huukyou:20190707051124j:plain

 

えちごの良寛の宗派は禅宗、それとも浄土真宗?

 良寛は禅僧なのにその和歌には念仏がよく登場します。

良寛に 辞世あるかと 人問わば 南無阿弥陀仏と 言ふと答えよ
草の庵(いお)に 寝ても覚めても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 何が共通点かと探すなら、禅宗浄土真宗も経典を丁寧に読みながら、その内容を理詰めで理解するというやり方ではなく、座禅を組み、念仏を唱えるという身体行為を伴って悟る、救われることを目指しています。理屈や知識を使って理性的、形而上学的に世界や人間を理解するのではなく、直観や信念、そして信仰に基づいて魂の解脱や救済を実現しようとする点ではよく似ているのです。
 仏教もキリスト教もその創始者を考えれば、宗派など何の意味もありません。釈迦は禅宗だったか、門徒だったかなどナンセンスで、滑稽な問いですし、キリストは当然ながらカトリックでもプロテスタントでもありませんでした。
 良寛が出家した理由は幾つか推定されていますが、定かではありません。でも、出家した彼はしっかりと禅の修行を積むことになります。修行に専心し過ぎたのかどうかわかりませんが、その修行の結果が正に良寛自身です。良寛の才能は宗教実践や思想の展開にではなく、文学や書道に発揮されました。その文学とは和歌、俳句であり、そして書なのですが、それらは感情や情緒の表出が中心であり、知識や思想を正確に述べるものではありません。和歌や俳句によって仏教の各宗派の違いを正確に表現することなどできません。詩によってカトリックプロテスタントの違いを表現することなど、そもそもどんな詩人も考えない筈です。
 科学理論が完全であれば、議論の必要はなく、解けない問題は基本的にないことになっています。でも、理論が不完全だと、その穴を埋めるために解釈や説明、そして物語までが生まれることになります。莫大な経典はそのようなものと考えることができます。宗教の創始者であるキリストやブッダが特定の宗派に属していたなどということは毛頭なく、不完全な宗教理論の不備が解釈を許し、そこから解釈の違いが生まれ、無数の宗派が生まれたのです。科学理論は経験的であるゆえに、完全な理論は定義上ありません。でも、宗教理論は経験を越えていますから、完全な理論があっても一向に構いません。でも、そんな完全な宗教理論を見たことがありません。となると、理論でわからない部分は信仰、信念で埋めることになりますが、それらに寄与し、準じるのが文芸です。詩、和歌、俳句、音楽、絵画、書を通じて感覚的に信仰を表出することによって、人々に訴えることになります。この文芸による表現は文字による説明と違って、とても直観的ですが、その分正確さに欠けます。残念ながら、文芸は宗派の違いを正確に描き出すことはできません。
 こうして、良寛が文学に長じていて、権威や伝統にとらわれない性格を持っていたことから、彼にとっての宗教実践は自ずと宗派を超えていたということになります。宗教は滑稽なことだらけです。「神と子と聖霊が一体」とは一体どうすれば可能なのでしょう。お経の数は一桁程度なら微笑ましいのですが、その数が莫大過ぎて方便と言い張るのは滑稽でしかありません。それでも人は真面目に信仰に生きようとします。それは滑稽ではありません。でも、沢山の偶像を見境なく拝むのは自然崇拝と違ってやはり少々滑稽です。

ノリウツギ ミナヅキ

 アジサイの終わりは少々惨めな気持ちになるのですが、ノリウツギはそのアジサイの仲間。でも、円錐形の花序(花房)をもつため、開花時の趣は一般のアジサイとは異なります。開花期もアジサイより遅く、今咲き始めたところで、花の少ない夏にはありがたい植物です。
 花弁のように白く円錐花序を彩るのは装飾花の萼片で、雄しべと雌しべをもつ両性花には装飾花のような大きな萼片はありません。「ピラミッドアジサイ」の名で市場に出回っているミナヅキは、ほとんどの花が装飾花となり、円錐花序全体が白色で覆われます。

f:id:huukyou:20190706052501j:plain

f:id:huukyou:20190706052524j:plain

 

ガラパゴス諸島、京都、そして妙高

(自然と歴史・文化とはいずれが強いか?)
 チャールズ・ダーウィンが訪れ、生物進化のデータを収集したことで有名なガラパゴス諸島。1978年に自然遺産第一号に指定されたガラパゴス諸島は、観光地化が進み、外来種の侵入で環境が悪化し、2007年危機遺産に登録された。エクアドル政府の必死の取り組みによって、2010年にリストから除外された。
 ガラパゴス諸島は、太平洋上の赤道直下に位置し、エクアドルからは約1000km。冷たいペルー海流が通るガラパゴス諸島には淡水がなく、土地も痩せ、農業に不向き。そのため、開拓されず、豊かな自然が残った。ガラパゴスでは、エコツーリズムの代わりにマネージメントツーリズムという言葉が使われ、観光客の行動を管理することによって地域を保護しようとしてきた。入島する観光客はレクチャーを受け、ガイドと共にガラパゴスを観光することになる。だが、地元のエクアドル住民がガラパゴスの自然をあまり顧みず、ナマコ密漁をめぐって政府と対立、ガラパゴス諸島への外来種の持ち込みなども次々起こった。観光客のコントロールに成功したが、エクアドル人のコントロールには失敗したのだった。 観光客に対する適切な情報提供やガイド、さらにはコントロールは国立公園内では必要なことだが、そこで生活する住民に対しては、彼らへの配慮だけでなく、公園を存続させるための啓蒙や指導も不可欠。これがガラパゴス諸島危機遺産登録からの教訓。
 歴史・文化を観光に使う典型例が京都。なぜ京都は観光都市かと問えば、長い間日本の歴史の中心にあり、多くの歴史的、文化的な遺跡、建造物、芸術作品が残存し、日本文化のエッセンスが残っているからだと答えが返ってくる。歴史遺産と文化が観光の手段として使われ、今では世界中の人々を惹きつけている。
 ガラパゴス諸島と京都を比べて、観光を見直してみると、色んなことが見えてくる。自然と歴史・文化という違ったものを手段にして人々を集めている。観光客の数は京都の方が圧倒的に多いだろうが、京都が危機遺産登録される危険は極めて少ない。ガラパゴス諸島の脆さは自然のもつ脆さであり、京都のもつ強さは歴史や文化のもつ強さである。自然の物が壊れるようには、過去や文化は壊れない。自然の保護より、歴史・文化の保護の方が容易である。だから、京都はガラパゴス諸島よりずっと強いのである。仏像も寺院も修復や改築ができるが、絶滅した生物種の復元はまだできない。歴史も文化も生き物ではないが、自然は限りなく生き物に近く、しかも多くの生き物を自ら抱え込んでいる。
 さて、我らが妙高ガラパゴス諸島と京都のいずれに近いのか。答えは明白で、妙高ガラパゴス諸島に近い。ガラパゴス諸島のように進化の証拠となる生き物で溢れている訳ではないが、ライチョウはじめ多くの貴重な生物のいる自然をもつのが妙高である。幸い妙高の自然の方がガラパゴスの自然より頑丈である。それでも、妙高は、その歴史や文化に比べると自然の比重が圧倒的に大きく、従って、その脆い自然の保護、保全が極めて重要なのである。妙高ガラパゴス諸島より強いが、京都よりずっと弱い。これこそ肝に銘じることなのである。

紫色の花たち:園芸種二種

(1)アゲラタム ブルーハワイ
 和名がオオカッコウアザミで、ブルーハワイは商品名。アゲラタムはキク科のカッコウアザミ属の植物。アゲラタムは、メキシコやペルーなどの熱帯アメリカ原産で、原産地では宿根草だが、耐寒性がないので春まき一年草として扱われる。アザミを小さくしたような花が特徴的。日本でも沖縄県に野生化している品種がある。品種改良によって矮性の品種ができ、花壇やプランターなどには矮性の品種が植えられる。
(2)アンゲロニア エンジェルフェイスウェッジウッドブルー
 オオバコ科の植物。原産地は中央アメリカ、南アメリカで、花は小さめで、遠目から見ると爽やかな印象。花色は青紫やピンク、白など。葉は濃緑でやや細長く、株は根元から枝分かれして自然にまとまる。中央アメリカ、南アメリカの熱帯から亜熱帯に約30種が分布する。暑さと強い日ざしによく耐え、花は骸骨が口をあけたような姿に見える。

f:id:huukyou:20190705043832j:plain

f:id:huukyou:20190705043857j:plain