キブシ(木五倍子)

 何とも奇妙な名前で、漢字を見ても解せず、好奇心をかき立てる。キブシはキブシ科キブシ属に属する雌雄異株の落葉低木で、別名キフジ、と言われても合点がいかない。
 キブシの樹高は3m、ときに7mに達するものもある。3月から5月の葉が伸びる前に淡黄色の花を房状(総状花序)につける。長さ3-10cmになる花茎は前年枝の葉腋から出て垂れ下がり、それに一面に花がつき、早春の花の少ない里山ではよく目立つ。花には長さ0.5mmの短い花柄があり、花は長さ7-9mmの鐘形になる。雄花は淡黄色、雌花はやや緑色を帯び、画像は雄花である。
 果実は径7-12mmになる広楕円形、卵形または球形で、緑色から熟すと黄褐色になる。和名は、果実を染料の原料である五倍子(ふし)の代用として使ったことによる。キブシは日本固有種。 植物学的には、キブシ科はキブシ属の1属のみで、6種からなる小さな科。日本にはキブシ1種のみが自生するが、地域的な変種が5種ある。

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雪解け、一茶、苗名の滝

 雪解けの水音が四方に轟き渡り、それがあたかも地震の如しということから「地震滝」と呼ばれ、「地震」と書いて「なゐ」と呼ばれていたことから「苗名(なえな)」に変わり、今では「苗名滝」と呼ばれ、日本の滝百選に選ばれているというのが観光案内の常套の説明です。雪解けが始まると川の水が増えることはわかっていても、子供の私はこの滝の存在さえ知らず、当然見たこともありませんでした。私が滝を実際に見たのは紅葉の中で、それも十数年前の事でした。
 それよりずっと前の文化10(1813)年の春、その滝の迫力に心打たれた小林一茶が詠んだ句があります。

瀧けぶり 側で見てさえ 花の雲

この句は滝の近くに刻まれています。一茶には同じ春の句に「雪とけて 村いっぱいの 子供かな」があります。力強く感動的な自然の中に人々の暮らしがあり、そんな村に遅い春が訪れ、春の陽気の中で遊びまわる子供たちで溢れている情景が浮かんできます。一茶が感動した自然、一茶が暖かい眼で見つめた村の子供たち、そんな里の生活が現在の私たちに何を教えてくれるのか、一茶が柏原で詠んだ句をいくつか挙げておきましょう。

しづかさや 湖水の底の 雲のみね
湖に 尻を吹かせて 蝉の鳴く

野尻湖を優しく詠い、そして、

是がまあ つひの栖(すみか)か 雪五尺
けふばかり 別の寒さぞ 越後山

と豪雪の中の生活を詠っています。

 一茶は宝暦13(1763)年、寒村柏原の中百姓の子として生まれました。3歳で実母と死別、産みの母の顔も姿も知りません。その後、8歳の時に継母がくるのですが、この継母と一茶の仲はすこぶる悪く、一茶は小動物や小鳥に関心を向けました。孤独な一茶は15歳で江戸へ奉公に出されます。奉公先を転々と変え、20歳を過ぎた頃には俳句の道をめざすようになりました。一茶は50歳の冬、故郷に戻ります。そして、52歳で28歳の常田菊と結婚し、長男千太郎、長女おさと、次男石太郎、三男金三郎と次々に子宝に恵まれますが、いずれも夭折。文政7年、62歳の一茶は再婚、さらに64歳で再再婚。文政10年6月1日、柏原の大火に遭遇し、母屋を焼失した一茶は、焼け残りの土蔵に移り住みます。この年の11月19日に一茶は中風により、65歳の貧寒な生涯を閉じます。

古郷やよるも障るも茨の花 

 彼の生れ在所は柏原、越後との境です。前には妙高山黒姫山飯綱山が肩を並べ、後は戸隠です。この山々の裾野と、後に聳える斑尾山の裾との縫い目が柏原。有恒学舎の教師をしていた会津八一は、往時短歌より俳句に関心を寄せ、大学生時代から小林一茶に傾倒していました。有恒学舎に赴任したのを契機に、一茶の研究に打ちこみ、新井町の醸造家入村四郎宅から一茶自筆の『六番日記』を見つけます。『一茶句帳』、『一茶句集』、『おらが春』にある従来知られている一茶の句は2,400~2,500句でしたが、この八一の新発見により、一茶の未公開の句が一気に2,500~2,600句ほど加わり倍増したのです。

自然と不自然

 今年もそろそろ桜の開花の時期です。サクラはわが国を代表する花。落葉高木で、大きいものは高さ20m、直径1mまでになり、天然記念物に指定されているものもあります。その代表的なものが、山桜の一群です。ヤマザクラあるいはシロヤマザクラはほとんど白に近い薄紅の花をつけ、北は本州の宮城、新潟から、南は屋久島まで分布します。また、オオヤマ桜(紅ヤマザクラ、エゾヤマザクラ)はシロヤマザクラより花の色が濃く淡紅色で、形も少し大きく、本州北中部から北海道、樺太に分布。最後はカスミザクラあるいはオクヤマザクラで、花はほとんど白色で、シロヤマザクラよりも半月以上も花期がおそく、北海道、本州、四国、九州の山地に分布します。ここまでが自然のサクラです。
 春になると、ウメ、コブシ、モクレン、サクラ、モモなど、新芽が出るよりも先に花が咲く樹木に気づきます。葉がまだ出ていないのに花だけ咲いていて、とても目立ちます。でも、目を凝らして観察を続けるなら、同じサクラでも葉の出るのとほぼ同時に花が咲くものや、葉の出た後で花が咲くものなど、千差万別。サクラの仲間には、「10月桜」のように秋に花を咲かせたり、秋と春に二度開花するものもあり、条件次第で春に咲くサクラが秋に花をつけることさえあります。
 ところで、植物の増殖の過程では、花が開くのが春であるか秋であるかには関係なく、「まず葉が茂ることで光合成が行われエネルギーが蓄積し、それを受けて花芽が成長し、開花、受粉の過程を経て果実がつくられ、果実が成熟して新しい個体に育つ」というシナリオが一般的です。このシナリオの実現過程には大量のエネルギーが必要で、生殖の過程と光合成によるエネルギーの獲得が同時に進行するのが好都合なのですが、ヒガンバナのように栄養成長と生殖成長の段階が明瞭に区別されていている場合もあります。
 「ソメイヨシノ染井吉野)」のように葉が出るより先に花が咲く理由は何でしょうか。開花と新芽は実際にはほぼ同時に進行するのですが、花芽が休眠中に大きく成長しているため、見かけ上では花の展開が芽生えに先行するようになって現れるか、あるいは、仕組みとして開花と開葉は別々に制御されていて、場合によっては開花によってもたらされるシグナルが芽生えのスタートに関わっていることも考えられます。何れの仕組みによるにしても、結果として生ずる開花と開葉の時間差は植物にとっては重大で、受粉の過程が影響を受ける可能性が高いのです。受粉の効率化の視点から解析がなされているようですが、結論はまだ確定していません。
 ソメイヨシノの起源には謎が多く、最近の遺伝子解析による研究の結果、ソメイヨシノの起源はエドヒガンザクラ(母種)とオオシマザクラ(父種)の交配によって、生まれたことがわかりました。栽培の歴史は新しく、江戸(染井:現在の豊島区)の植木屋が、はじめ「吉野」の名で売り出しました。奈良の吉野山ヤマザクラと混同しやすいというので、明治33年に染井吉野という名前に改められました。花は3、4個集まって咲き、香りはなく、花弁は5枚の一重咲きです。
 ソメイヨシノは、クローン植物です。ですから、ソメイヨシノという栽培品種は自然に増えることができません。種子で増やすと親の形質を必ずしも子に伝わることがないため、ソメイヨシノというすぐれた形質を残し、増やす方法は接木もしくは挿し木などに限られ、結果クローンとなってしまうのです。ソメイヨシノは、人の手を介さないと生存することができません。美しい花を咲かせ、たくみに人々の心をとらえた結果、人と共存の道を選んだ桜なのです。クローン植物で遺伝子が同じソメイヨシノは、条件が整えば一斉に開花します。ですから、全国に配した生物気象観測レーダーになれるのです。ソメイヨシノは寿命が短いと言われますが、片親のエドヒガンザクラは大変長命で、全国には樹齢千年級のものが数多く存在します。長命の桜から誕生したソメイヨシノは皮肉なことに薄命です。
 今年も直に桜が咲きます。桜は私たちに自然を理解するヒントを数多く提供してくれます。「自然なサクラと不自然な桜」となれば、自然に自生するサクラと人が繁殖した人工的な桜の対照が思い浮かびます。そして、後者、つまり不自然な桜の代表が「染井吉野」です。確かに、盆栽、野菜、穀物、いずれも不自然な植物です。私たちが食べている植物はみな不自然な植物ですが、不思議なことにかつては自然な植物だったのです。不自然な動物となれば、サラブレッド。18世紀初頭、イギリスでアラブ馬やイギリス在来の品種等から競走用に品種改良されました。競走時には60〜70kmの速度で走ることができます。
 ソメイヨシノは自然のものではないので、自然の美しさをもっていないと言えるのでしょうか。吉野山の桜の美しさとは違うのでしょうか。ソメイヨシノの美しさは美術的作為が働いた、美容整形されたような美しさなのでしょうか。そんなことはなく、私たちはソメイヨシノにも山桜にも同様の美しさを感じます。
 自然に見える自然(の風景)の中には不自然に見えない不自然(の風景)が紛れ込んでいるのですが、その一例がソメイヨシノなのです。私たちはソメイヨシノの花を日本の原風景であるかのごとくに眺めるのが普通です。それと同じように、常識に見える非常識の中には科学的に見える常識が、常識に見えない常識の中には科学的に見える非科学が潜んでいるのです。科学的な知識と常識がミックスしている状況は、私たちが当たり前のようにソメイヨシノの花を愛で、楽しむのと同じように、自然がもっている、ごく当たり前の状況なのです。自然が生み出したサクラも、人が生み出したソメイヨシノも、人自体が自然の産物であることを認めるなら、何ら変わるところはないのです。

ネモフィラ

 ムラサキ科(旧ハゼリソウ科)ネモフィラ属のブルーインシグニスが一面に咲く光景で有名なのが国営ひたち海浜公園。花は4月に開花し、花径2cmくらいで、白に空色または青紫色の深い覆輪がある。みはらしの丘一面が青く染まり、空と海の青と溶け合う風景は、インスタ映えする絶景で、多くの人が訪れる。
 ネモフィラは北アメリカ原産の一年草で、和名が瑠璃唐草(るりからくさ)。ネモフィラは集団の美がもてはやされ、確かにそれは圧巻なのだが、一輪でも結構な美しさをもっている。今の野原にはオオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)が花盛り。この別名が「瑠璃唐草」で、花姿の似ている「ネモフィラ」と混同されがちである。いずれが正当な「瑠璃唐草」かなどという野暮な疑問は棄て、ネモフィラオオイヌノフグリを共に楽しむのが得策である。

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連続性と無限

 運動はどんなにギクシャクしていても、連続的で途切れることがないというのが私たちの常識です。その運動変化の連続性、平たく言えば、スムーズな運動変化、途切れることのない、流れるような運動変化とはどのような変化なのでしょうか。変化に対する、この問いこそギリシャ以来多くの人が関心をもってきた謎でした。私たちの眼には運動変化は連続的な変化として映ります。どんな対象も連続的に位置を移動しているようにしか見えません。その変化の妙は時には美的な感動さえ引き起こします。私たちの適応は運動変化が連続していることを前提にしたものとしか言いようがないほどに、運動が連続的であることを生活や行動の基礎にしています。つまり、自然の変化は運動を基本にしており、その運動の基本的な特徴は連続性にある、これこそ人が経験的に獲得してきた疑い得ない想定となってきました。でも、この感覚的に明らかな特徴は、それを非感覚的に理解しようとすると厄介な事柄となるのです。命題の真偽が二値的であることが自明であるのと同じように、運動の連続性は疑いえない自明のものと考えられてきたのです。
 自明としか見えない運動の連続性の本質を見極めようとすれば、どのようにすればよいのでしょうか。運動変化の表象装置として感覚知覚を使わない、別の装置が考案できれば、感覚的でない仕方で運動の連続性をより冷静に、別の視点から理解できることになる筈です。この見込みこそ、数学と物理学の関係を説明してくれる基本にあるものです。運動を感覚知覚的に表象するのではなく、数学的に表象することこそ二つの関係を築いてきたものなのです。運動を適確に表象する装置が幾何学であり、幾何学によって世界を非感覚的に描くということがギリシャ以来人類の採ってきた方法でした。
 運動の表象装置としての幾何学は、運動を描くのに不可欠な時間や空間の表象を含んでいました。それが幾何学の解析化であり、それに伴い「無限」概念が重要な役割をもつようになりました。それまで避けられてきた「無限が物理世界に存在するかどうか」といった問いに正面から立ち向かわなければならなくなります。確かに、時空の存在と無限の関係は多くの人を惹きつける問いなのです。
 点が連続的に並んでいることが線であることを認めるには、点が無限になければならず、これは連続性の背後に無限が横たわっていることを示しています。でも、無限はギリシャ時代には忌むべき概念でした。それがアリストテレスの「可能無限」という折衷的な概念になり、カントールの「実無限」概念が登場するまで解析学を支えてきたのです。
 連続性の解明は実数の連続性(そして実数値関数の連続性、数学用語では「完備性」)として考察の対象となり、実数の解明は解析学の基礎として不可欠なものとなりました。実数を解明する研究者の一人であったカントールは、無限概念を実無限として解明しようとしました。その結果、実無限がどのような概念であり、その内容は連続体仮説(continuum hypothesis)の証明によって明らかにできたのでしょうか。
 パルメニデスによれば、実無限と可能無限の区別はなく、二つは同じ無限で、完結した無限だけが意味をもっています。でも、アリストテレスは二つの無限を区別し、実無限の存在を否定します。「数が増えていく、減っていく…」といった変化する数の並びは認識上有効でも、数学的対象として無限を考えた場合、他の確定した数学的概念と自動的に組み合すことができなくなります。その意味で可能無限は曖昧です。可能無限は外延が曖昧な、反パルメニデス的概念であり、物理世界や心理世界の変化を数学世界にもち込んだようなものです。「完結した運動」だけが意味のある運動であると考える人は、完結した実無限だけが数学的に完結した意味をもつと考えるでしょう。でも、数学の直観主義者や構成主義者は変化する過程を変化し終えた結果として考えることに同意しません。確かに、変化の只中に身を置くなら、そこは排中律が成立しない、典型的な非決定論的世界となっています。
 最も実数らしい性質が「連続性」であり、この性質のお陰で微積分が可能となり、それを使って私たちは自然を扱ってきました。[1]連続性を支える「限りなく近づく」ことのできる性質[2]が点と線の不思議な関係を基本にして成立しています。連続する時間や空間を表現する最も適した数学的対象として、実数は数学者の関心の的となってきました。
 「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到る」という点と線の関係が実数における無限分割可能性という語のもつ意味を独特なものにしています。自然数の集まりも無限に分割できますが、自然数をすべて集めても線をつくることはできません。では、その自然数からどのようにして実数をつくり出すことができるのでしょうか。それを示すことが集合論の研究目標でした。この目標はいまだ実現できず、実数が自然数より高い濃度をもつことはわかりましたが、その濃度が自然数の濃度の次の濃度か否かは今の公理的集合論においては証明できません。[3]
 実無限、可能無限という区別は一見重要な区別に見えます。[4]無限を扱う認識レベルではそうなのかも知れませんが、存在レベルでは大きな意味をもっていません。認識レベルの話とは別に、「集合」は実数のもつ無限性を明らかにできる基本的概念なのです。

「要素が集まると集合ができ、集合は要素に分解できる」
「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到る」

上の文は比べるまでもなく、類似したことを主張しています。点や線、そして実数のもつ基本性質は集合概念によって表現し直され、したがって、集合の基本性質から点や線、実数の性質が証明できることが保証されています。これが意味することは実に大きいのです。それは、

(1)集合論は古典的世界観を支える数学である、

ことを帰結します。と言うのも、実数を基礎付けるのが集合論であり、その実数によって表現されるのが古典的世界であるからです。特に、その時空は実数によって表現されています。古典的世界観の時空に関するアプリオリな前提は古典力学の時空に関する前提と同じであり、その前提は実数のもつ幾つかの性質そのものなのです。

(2)いつでも、どこでも対象とその状態が存在し、各状態の物理量の値は決まっている。

対象の性質で重要なのはその性質の内容であって、性質そのものではありません。人には体重があり、「体重とはどのような性質か」という問いと「君の体重は何か」という問いは同じではありません。君の体重が60kgであることが体重の具体的な内容であり、体重という性質そのものは通常は体重の定義において問題になるに過ぎません。対象の状態を定義する際には状態がどのような性質によって構成されているかが問題になりますが、対象の状態の内容こそが状態を決めるのに必要となるのです。状態の内容は位置や速度の具体的な数値で表現されます。
 上の文の物理量の値を満たすように実数を使う際、実数のどのような性質を使うか考えると、時空の表現と状態の表現に使われる実数の性質は、実数そのものをそのまま使うことによって済まされてきました。というのも、実数を使えばすべてが同時に満たされ、実数の性質のうちのどれといったものではなかったからです。実数の数学的性質がいつも物理的に有意味だとは言えませんが、どんな数学的性質もいつかどこかで物理的に有意味になる可能性をもっています。運動の連続性は変化がすべて連続的ではない中で、運動がもつ特徴です。運動が起こる時間、空間が連続する中で、運動が不連続になるような状況があるでしょうか。古典力学は通常次のような仮定を認めています。

(3)連続する時空の中で対象が不連続に運動することは物理的に不可能である。[5]

運動する対象が不変、つまり、生成消滅しない場合、その対象の運動は不連続ではありません。というのも不連続な運動が起きるとすれば、対象は消えたり、現れたりしなければならなくなるからです。無論、数学的に不連続な運動を表す不連続な関数を考えることは数学的には十分有意味なことです。でも、そのような対象は物理世界には存在しません。
 古典的世界観を支える(1)、(2)、(3)の前提は日常世界にしっかり浸透しています。それらを前提にすべき理由より、前提にしないといかに不自然で、非常識的な事態が生じるか考えてみる方がよいでしょう。そのように考えた場合、結果があまりに不自然、非常識だという理由から、三つの前提が正当化されたと誤って考えないように注意すべきです。
 運動の表現に実数を用いるということ自体が三つの前提を認めることを帰結します。「時間と空間の量子化」という表現は時間や空間を物質の原子論と同じように考えようということを意図しており、正に「時間と空間の原子論」です。すると、すぐに実数が不都合な装置であることがわかります。実数をそのまま使ったのでは原子論の主張と両立しないからです。そこで点ではなく区間で時間や空間の最小単位を考えるといった工夫が必要となってきます。区間を最小の単位にした場合、対象の運動はどのようになるのか、どのようにそれが表現できるのかという二つの異なる問題が出てきます。前者は物理学の問題であり、後者は言語、つまりは数学の問題です。


[1] 数学では常識的な連続性を完備性(completeness)と呼び、関数について連続性(continuity)という用語が使われます。
[2] 収束は「限りなく近い」点の存在によって定義され、いわゆるε-δ方式によって教えられてきました。
[3] これが連続体仮説が公理的な集合論から独立しているということであり、ゲーデルとコーエンの結果です。
[4] アリストテレスやカントが二つの無限概念を区別し、直観主義にも大きな影響を与えたと言われていますが、「無限の対象を含む集合を考えることができたら、そこから何が見えてくるか」という問いを優先したのが20世紀の大勢であり、その姿勢が集合論を生み出すことになりました。そこでは「完結した無限」が集合と考えられ、「生成途上にある無限」は集合とさえみなされません。したがって、運動に関しても同じように完結した運動を対象にすることになります。
[5] 不連続は純粋に(数学的に)不連続と擬似的に(経験的に)不連続の二つに分けられそうです。単なるストップモーションと、時間、位置の断絶は異なっています。

 

二つの街道

 北国街道は旧新井市の真ん中をくねくねと曲り、その両側に主な旧家や商家が並び立ち、街道を中心に新井がつくられてきたことを示しています。北国街道以外の道は脇道か新道という判断が子供にもできました。
 私の生家は妙高市の小出雲にあり、その北国街道に面していました。子供の頃、その道はまだ舗装などされておらず、夏は車が通るたびに土ぼこりが勢いよく舞い上がり、そのためかよく水撒きの手伝いをさせられました。雨が降れば、水たまりがあちこちにでき、自動車が通るたびにたまった水を通行人に容赦なく浴びせる道でした。冬には雪のために1.5mほどの幅の道に狭まり、車など通れず、そりだけが物資の輸送手段になっていました。道路全体の除雪など誰も想像せず、冬にはバスも運行しないものと決まっていました。
 私の家の前あたりから坂道になり、頸城平野の終わりを実感させる地形になっていました。道に沿って小さな川が流れていて、冬には雪のために水がせき止められて、洪水がしばしば起こったものです。人々はこの洪水を「水突き」と呼んでいました。積もった雪の下を川から溢れた水が暴れ流れるため、どこに水が溢れ出るかわからず、突然に縁の下から水が突き出し、溢れ出ることなど珍しくありませんでした。実際、新井の街がほぼ平地にあるのに対し、小出雲は傾斜地にあったのです。
 町は下町、中町、上町と続き、渋江川を過ぎると小出雲でした。上流で日曹の工場廃液が垂れ流されていたためか、いつも悪臭が漂い、時には魚の死骸が浮き上がるというのが渋江川でした。今なら大問題となっているはずですが、当時は大した苦情もなかったようです。その汚い川を渡ると、直に飯山への分岐の三叉路があります。それを過ぎると小出雲の集落で、新井の街とはちょっと違った感じで、田舎染みてきます。どの家にも屋号があり、共通の姓が多かったために、屋号で呼ぶ方が便利でした。勾配のきつい坂を上ると杉の巨木が天を突く賀茂神社が左手に見えてきます。境内は静寂が支配し、子供には怖い感じさえしたものです。年代物の拝殿はなかなか立派なものでした。新井の街中にある白山神社は明るい境内ですが、賀茂神社は背後がすぐに山のせいか、薄暗く不気味な雰囲気がいつも漂い、子供の私には近づきたくない場所でした。  
 私の家の手前から始まる坂が小出雲坂だと思い込んでいましたが、それは間違いで、小出雲から次の板橋までの杉林の中の坂道が小出雲坂です。坂を登れば高田平野はもう見えなくなります。古来北国街道の旅人の感傷を誘った坂で、新井小唄にも歌われています。御館の乱では景虎を支援する武田軍約二万がこのあたりに陣を張って景勝を牽制したとのことです。

   越後見おさめ小出雲坂で    泣いた昔は夢じゃない (新井小唄)  
 
 詩は相馬御風で、中山普平が曲をつけたもので、そんなに古い歌ではありません。ここで「ほろりと泣いた」というような馬子唄があったのかも知れません。今歩けばさほどの急坂とも思えないのですが、昔は相当な難所だったようです。

 さて、上町から横町へと左折すると、飯山へ向かう道があり、それが飯山街道です。この道は中学生になっての最初の夏休みに何度か自転車で富倉峠まで往復した想い出があります。今風にはサイクリングと言ったところなのですが、行きは登りだけ、帰りは急降下と呼べる道筋で、そのスピードを楽しむのが私の目的でした。今はこの飯山街道の付近を北陸新幹線が走っています。
 飯山街道は高田平野と北信濃を結ぶ幹線で、新井から飯山城下に通じていました。今頃は両脇に2メートル近い雪壁をもつ坂道で、長沢川沿いを上っていきます。一生懸命にペダルを踏み続けると、やがて県境となり、飯山市富倉地区に到着するのです。自力で県境を越えた最初の経験でした。そこから方向転換すれば、後は下りだけの坂道であっという間に小出雲に着きます。ひと夏に何度もこの小旅行を一人で楽しみました。

 北国街道と飯山街道という江戸時代以降の幹線道路についての私の想い出はこんなものです。私にとっては圧倒的に北国街道の方が生活の道。飯山街道は私にはレジャーの道でしたが、横町のバス停で長沢や猿橋に向かうバスを待つ多くの在郷の人たちを憶えています。今はどちらの道も狭く、曲がりくねった、目立たない道となっていますが、戦後暫くは人々の生活を支える重要な道だったのは子供の私にもわかっていた気がします。

ヤグルマギク

 すっかり春めいた公園にはヤグルマギクが咲いている。ヤグルマギクは、一時ヤグルマソウと呼ばれたこともあったが、ユキノシタ科のヤグルマソウと混同しないように、今ではヤグルマギクに統一されている。その青紫色の美しさから、「コーンフラワーブルー(ヤグルマギクの花の青)」と呼ばれている。
 ナポレオンがプロイセンに攻め入ったとき、ベルリンを逃れたプロイセンのルイーゼ王妃は、子供たちと一緒に麦畑に隠れた。王妃は王子たちを慰めるために、ヤグルマギクで花冠をつくった。この王子の一人が後に初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(1797~1888)となり、ヤグルマギクの花を皇帝の紋章にきめた。そのため、ヤグルマギクはドイツの国花となった。
 ヤグルマギクはヨーロッパ原産で、明治初期~中期に渡来。春から夏にかけて色とりどりの花が咲く。鯉のぼりの柱の先につける、矢車に似ていることから「矢車菊」の名前になった。

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