ハツユキソウ

 北海道には既に初霜があったらしいが、ハツユキソウ(初雪草)とは何ともロマンティックな名前である。確かにこの命名は、画像を見れば的を得ていると感じ入るのだが、夏に初雪とはTPOを心得ていないようでもある。
 ハツユキソウトウダイグサ科一年草。和名は、夏の花期になると頂部の葉が白く縁取りがされてよく目立ち、その姿を雪をかぶった様子に例えたものである。緑の葉縁に白い覆輪が入った葉色のコントラストが美しい。夏から秋にかけ白い小花を咲かせるが、観賞価値は圧倒的に葉にある。
 北アメリカが原産で、多くの園芸種がある。ハツユキソウポインセチアと同じ仲間で、高さは80-100㎝にもなる。

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自らを犠牲にするのは生物にとって不利なことなのか

 動物は自分自身に益のある行動をする。それが普通である。だから、自分を犠牲にして他人を救うような行動をするのは人間の動物的でない特別な行動だと思われてきた。というのも、どんな動物も利己的で、自分の生存を何より優先すると考えられてきたからである。利己的な動物の中で、人間だけは利他的な行動ができる。だから、人間は動物より優れていると見做され、利他的な行動は最終的に倫理や道徳に姿を変えて社会化されたと考えられてきた。そして、人は利他的であり、倫理的な生き物であり、利己的な動物とは異なる存在として特権的に特徴づけられてきた。
 では、人間の利他的な行動は非生物的な特徴で、生物学的に不可能な行動なのだろうか。利他的な行動が可能であるために、人のもつ利他性は進化生物学での「適応」であることの説明がなければならない。そこで、倫理や道徳という科学とは別のものを持ち出さずに、科学的な道具だけから利他性が利己性より適応度が高い場合が可能であることを示してみよう。これは20世紀後半の魅惑的な課題、挑戦であり、見事に解けたのである。
[個体の利他的行動はなぜ可能なのか存在]
 利他的な行動のほうが利己的な行動より適応度が高い場合があり得ることを示してみよう。私たちは利己的な生物のほうが自己犠牲を伴う利他的な生物より生存や繁殖に関して有利だと思っているし、実際生物学でもそのように考えられてきた。ところが、人間は時には利他的な行動をする。これこそが人間を他の生物から区別するものであり、利他性こそが倫理や道徳の基礎にあるものだと考えられてきた。この考えが正しいかどうかを調べてみるのがここでの目的である。利他的な行動が利己的な行動より適応度が低いという一般的にはもっともと思われる仮定の下で、グループが存在するならば、利他的な行動のほうが利己的な行動よりは適応度が高くなる場合があり、したがって、利他性が集団内に保持され、選択的に有利であることが不可能ではないことを示してみよう。この結果は利他性が生物学的に説明でき、したがって、利他性は人間に特有の非生物的な特徴ではないことを示している。

グループ1       グループ2     総計
1S; W = 4                      99S; W = 2              100S; W = 2.02
99A; w = 3                     1A; w = 1                 100A; w = 2.98 
(この表のSは利己主義者、Aは利他主義者である。W、wはそれぞれの適応度を表している。グループ1には利己主義者が1、利他主義者が99いる。グループ2は利己主義者が99で、利他主義者が1であり、その中間のグループも簡単に想像できる。W = 2.02は (1×4+99×2)/100である。w=2.98は(3×99+1×1/100)である。)

このような結果を別の仕方でまとめてみると、次のように言うこともできる。集団全体について、下の推論が与えられた場合、それは正しいだろうか。

  どのような部分集団においても、利己主義者は利他主義者よりも適応度が高い。
  適応度の高くない性質はその頻度が低下する。
  それゆえ、利他主義者はその頻度が低下する。

一見正しそうに見えるが、この推論は誤っている。総計の誤謬を犯しているのである。というのも、上の表での総計の数値(W = 2.02 < w = 2.98) がこの推論の結論の反例になっているからである。どのような部分集団においても頻度が低下する利他主義者は、全体ではその頻度が高くなることがあり得るのである。
 この説明は単なる例に過ぎず、もっと議論を慎重に進めなければならない。しかし、その核心はグループ概念を導入することによって、利他主義的な性質が集団の中に十分存続できるモデルをつくることができる点にある。ここから階層的な選択のレベルを考え,群選択(group selection)を認める考えが出てくる。そのもとでは、利己主義の変形ではない仕方で利他主義の存在を示すことができる。
 次に、総計にかかわる関連した例を考えてみよう。二つの同数の生物集団について、次のように遺伝子Aとaの頻度が与えられたとする。

            Aの頻度   aの頻度
集団 1   0.3           0.7
集団 2   0.7           0.3

外から変化を引き起こす要因が何も働いていなければ、遺伝子型の頻度はメンデルの法則から計算できる平衡状態にある。その結果は次のようになるだろう。

遺伝子型 AA                  Aa                            aa
頻度       (0.3)の2乗 = 0.09   2(0.3)(0.7) = 0.42     (0.7)の2乗 = 0.49 集団 1
              (0.7)の2乗 = 0.49   2(0.7)(0.3) = 0.42     (0.3)の2乗 = 0.09 集団 2
集団1と集団2の平均 0.58/2 = 0.29  0.84/2 = 0.42  0.58/2 = 0.29

ここで、二つの小集団が一つの集団になった場合、Aとa の遺伝子頻度はそれぞれ (0.3 + 0.7)/2 = 0.5であり、 遺伝子型の頻度は、

                          AA    Aa    aa
遺伝子型頻度   0.25   0.5    0.25

となる。この遺伝子型頻度は小集団の場合と異なっている。では、この違いはどのように説明されるのか。大集団や小集団が自然に存在する場合、その違いは小集団内での限られた交配と大集団になった場合の交配範囲の拡大によって説明できる。その説明は交配範囲の拡大という生物学的な裏付けをもっており、単なるモデル上の計算の違いではない。二つの集団が隔離されている場合とそうでない場合、交配の範囲は明らかに異なっている。集団のおかれた状況が交配に対して母集団の違いを実質的に生み出しているのである。
 上の状況を少し変えて、調査の必要上、二つの集団に分けてデータを取った場合と、大集団全体のデータを取った場合、上のようなデータがそれぞれ得られたとする。この場合、対象は同じであり、実際の変化は何も起こっていない。数値の変化は虚構にしか過ぎない。調査の都合上、分けたり、一緒にしたりするだけであるから、何の変化も生じない筈である。したがって、この場合は二つの小集団と一つの大集団での頻度の差はなく、大集団の頻度が正しいことになる。

(問)大集団全体の計算とそれを分割した小集団の計算が同じ場合と異なる場合の違いはどこにあるだろうか。

エビヅル(蝦蔓)

 ブドウ科のエビヅルは、蔓性で落葉する。古名は「エビカズラ」(葡萄蔓)。各地の野原や低い里山の林で普通に見かける植物で、秋にはブドウと同じで少し小さい果実の房をつける。果実は熟すと甘くなり、生で食べられ、果実酒にできる。
 日本に今のブドウが渡来する前、「エビカズラ」の名が当てられていたのがエビヅル。エビヅルは、秋にブドウのような黒い液果ができ、それをつぶすと出る薄紫色がエビ色だった。エビヅルは日本の野生ブドウの一つ。ノブドウ、エビヅル、ヤマブドウは古来から日本で自生するブドウ科の植物だが、現代のブドウとは別種である。現代のブドウは西アジア原産と北アメリカ原産の二種類があり、日本で栽培されているブドウの大半はこの二種類を交配させたもの。当初は西アジア原産のものが欧州や中国に広まり、日本には中国を経由して伝わった。その後、北アメリカ原産のブドウが導入された。
 ノブドウは野になるブドウ、ヤマブドウは山になるブドウの意味で、比較的新しい名前である。日本原産のブドウ類は古来からエビヅルやエビカズラの名前で呼ばれていた。古事記にはイザナギノミコトが黄泉の国から逃げ帰る時、追ってきた鬼にエビカズラを投げつけて、鬼がその実を食べている間に難を逃れたとある。
 ノブドウはいたるところに繁茂している。エビヅルもノブドウほど多くはないが、散歩道のところどころに姿を現す。ヤマブドウノブドウやエビヅルほど目立たず、山に入らないと見る機会は少ない。だが、いずれも秋になると急に存在感の増す植物である。画像は私が今年公園で見たエビヅルである。

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ゼノンのパラドクス:子供の立場と大人の立場

 ゼノンのパラドクスは頓智のようなものだと真剣に受け取られることが少ないのですが、世界の中の変化をどのように理解し、表現するかという基本的で目立たない土台についての問題を明らかにしてくれたという点で、第一級の重大な頓智なのです。ギリシャから中世までの考えは現在なら小学生レベルの健全な思考に対応していて、科学革命以降の考えが中学生以上の人たちの常識に対応していると考えることができそうです。これはまた、小学生から中学生への数に関する知的成長が数に関する歴史的な経緯に対応していると解釈することもできます。
 ゼノン(Zenon, 490 BC頃-425 BC頃)はギリシャの哲学者で、帰謬法を使った推論で大変有名です。彼の推論の目的は師であるパルメニデス(Parmenides, 510BC頃生)の主張を擁護することにありました。パルメニデスは実在を一つで、不変不動のものと考え、それゆえ、運動、変化、複数性などはすべて錯覚に過ぎないと主張しました。ヘラクレイトスと違って、変化を一切否定するパルメニデスの主張は多くの批判を浴びましたが、ゼノンは師の主張を擁護するために、運動や変化が存在するとすれば、矛盾に陥るという帰謬法を使った推論を幾つもつくってみせたのです。ゼノンの論証は4種類伝えられています。ここではそのうちのアキレスとカメの競走を考えてみましょう。
[アキレスとカメの競走:子供の立場]
 アキレスとカメが100m競走をするとします。アキレスは1秒に10m走り、カメは1秒に1m走るとしましょう。これでは明らかにアキレスが勝つので、ハンディキャップレースにします。カメはスタートラインから10m先のところから90m走ることにします。二人が同時にスタートするとするなら、スタートでは10mの差があります。1秒経つと、アキレスはスタートラインから10mのところまで達します。カメは1m進むので、スタートラインからは11mのところまで達します。したがって、1秒後の二人の差は1mです。次に0.1秒後を考えましょう。アキレスは1m進むので、1.1秒後の進んだ距離は11mとなります。一方のカメは0.1m進むので、その進んだ距離は11.1mとなります。まだ、カメの方がアキレスより先にいます。次に考えるのは0.01秒後です。同じような計算から、アキレスは11.1m、カメは11.11mとなります。まだ、カメの方が先にいます。次は0.001秒後です。このように前の1/10の時間間隔でアキレスとカメの進んだ距離を計算していきます。さて、こうしてできあがるアキレスとカメの距離の系列において、いつアキレスはカメを追い抜くことができるのでしょうか。この問題に対して、常識はアキレスがカメを簡単に追い越すことを主張しているのですが、系列はいつまで経ってもアキレスの進んだ距離はカメの進んだ距離を超えることができません。したがって、これはパラドクスです。
 ゼノンのパラドクスを構成的(constructive)に考える場合と非構成的に考える場合とに分けてみましょう。非構成的な解決の仕方は反事実的な状況を仮に設定してみること、あるいは帰謬法を用いてその問題を扱うことです。あるいは、アキレスが既にa秒走ったとすればどうなるかを尋ねてみることです。また、アキレスがa秒後にまだカメを追い越していなかったと仮定して議論を進めてみることです。このような対処の仕方は簡単にアキレスがカメを追い越していることを証明します。例えば、4秒後にアキレスがまだカメを追い越していないと仮定してみましょう。アキレスは既に40m走っています。一方、カメは14mに過ぎません。したがって、この仮定は矛盾しています。それゆえ、4秒後にはアキレスは既にカメを追い越していなければならないのです。
[数列の収束:大人の立場]
 一方、構成的な考え方はスタートから実際に変化する状態に合わせて一歩一歩議論を進める方法です。この方法は反事実的な仮定や帰謬法を用いず、アキレスとカメの走りを再現していくという意味で数学の構成主義的な議論の進め方と同じです。このような議論の進め方のすべてについてアキレスがカメを追い越せないというのではありません。実際、二人の走りの追跡方法を少し緩和し、1秒毎にアキレスとカメの走りをモニターしたとしてみましょう。2秒後にはアキレスはカメを追い越してしまっています。問題はどのような仕方で二人の走りを追跡しても同じように追い越しの確認ができるかどうかです。上述のように時間間隔を1/10にしていく仕方ではそれが確認できないところに問題が生じるのです。なぜ確認できないかは無限個の位置や時間間隔の存在に由来しています。無限の級数の和をゼノンは計算できなかったし、それが計算できるのは19世紀のコーシー(Augustin L. Cauchy, 1789-1857)まで待たなければなりませんでした。そこで、コーシーの考えに基づいてアキレスとカメのパラドクスを考えてみましょう。
 まず、無限の数列 {Sn} がLに収束する、あるいは極限(limit)Lをもつとは、任意のε> 0について、ある正の整数Nが存在して、どのようなn > Nについても、|Sn – L| <εとなることです。これが「数列の定義」です。例えば、

1/10, 1/102, 1/103, 1/104,……

という数列の極限は0です。数列の極限という概念が定義されると、それを「無限級数の和」を定義するのに使うことができます。無限の級数s1 + s2 + s3 +…+ sn +…の和を定義するために、次のような部分和を考えます。
 S1 = s1
S2 = s1 + s2
………
Sn = s1 + s2 +…+ sn
各Siは有限で通常の加算ができるので、問題はありません。各Siが有限でないと、無限の和となり、それは和の定義上ありえません。それで、まず有限の和の数列を考え、その数列の極限をとると、それが無限の和にあたることになる、という工夫が行われたのです。この工夫が極限操作で、コーシーが考えたものです。それまでは、ニュートンライプニッツ、そしてオイラーも「無限小(infinitesimal)」概念を使って解析的な計算をしていました。既に無限の数列の極限を定義してあるので、数列 {Si} についてそれが極限をもつなら、上の級数は収束することになります。この結果を容易にアキレスとカメの場合に適用し、収束の時点でアキレスがカメに追いつけることが示されます。
 子供のレベルではアキレスはいつまでたってもカメに追いつけないのに、大人になるとアキレスはカメに追いつくことになります。このように書くと、わかったような気持になるのですが、本当にわかったと納得したかどうか今一度考えてほしいものです。数列、級数、無限、極限、収束といった単語が使われて何が正確に主張されているのか、丁寧に見直してみる必要がありそうです。それら概念は実数に対して定義されていて、子供の立場では存在しないものです。

観るトウガラシ

 最近はトウガラシがよく話題になる。内藤唐辛子について既に触れたが、それは食用としての唐辛子だった。だが、その横に植えられていたのが「ブラックパール」という観賞用の園芸種で、2006年のオールアメリカセレクションズ(全米草花品種審査協会)で、金賞を受賞した品種。ブラックパールによく似たオニキスレッド、ザモラオレンジなど、いずれも食べるのではなく見るためのトウガラシで、味は二の次。
 ブラックパールの原産地は中南米でナス科トウガラシ属の多年草。黒葉で赤い実がなる唐辛子で、葉は若い時は緑がかっていて、生長すると艶々した黒色になる。常識に反して、若い実は黒く、熟すと赤くなる。画像には紫色の花、黒い実、そして熟した赤い実、黒い葉が見える。                                                              
 オニキスレッドは実が丸いボール状で、特徴的な黒い葉に赤い実の色がよく映える。実の色はブラックパールと同じで黒から赤へと変化する。ザモラオレンジは文字通りオレンジ色の唐辛子。

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ブラックパール

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オニキスレッド

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ザモラオレンジ

 

魔法の「ならば」:「論理的」な「ならば」、「因果的」な「ならば」

 私たちは前回、神の存在証明から数学的な無限に話を転じたのですが、自然哲学と結びついた形而上学にはどのような問題があるのでしょうか。それら問題は物理学の基礎に結びついたものが多いと述べましたが、そのような代表的な項目を列挙すれば次のようなものがあります。

実在、自然法則、時間、空間、因果性、時間の向き(過去、現在、未来)、決定論

これらのいくつかは別の機会に議論することにしますが、因果性や決定論を考える上で基本的な役割を演じる「ならば」という言い回しについてまず触れておかなければなりません。原因と結果が因果作用を構成するのですが、原因はその結果の十分条件である必要も、必要条件である必要もありません。つまり、原因と結果、前提と帰結の二つの関係は類似しているように見えても、根本的に異なったものなのです。私たちは前提と帰結の論理関係についてはある程度知っていますが、原因と結果の因果関係については思っているほどは知っていないのです。そこで、「ならば」の二義性について考えてみましょう。
[前提と帰結、原因と結果]
 「Aならば、Bである」という表現は単純ですが、原因-結果と前提-帰結の二つの(根本的に異なる)関係を二重に意味しています。それを次の例で実感してみて下さい。

(1) a + b = cならば、2c = a + b + cである。
(2)太郎が怒るならば、花子が泣く。

文(1)の「ならば」は論理的な「ならば」であり、前提a + b = cと帰結2c = a + b + cの含意関係を主張しています。実際、a、b、cが自然数や実数であれば、(1)は正しい文であり、含意関係が成立しています。それに対して、文(2)の「ならば」は因果的な「ならば」で、太郎の怒るという心理状態と花子の泣くという行為の間に因果的な関係があることを主張しています。二つの「ならば」の違いは極めて重要です。例えば、(1)の前提と帰結はそれらがいつ成立するかは考慮されませんが、(2)の二つの状態は時間的な制約を受けています。太郎が先に怒り、その後で花子が泣くのでなければ、因果関係は成立していません。日常的な表現である「ならば」が論理的、因果的の二つの意味を併せもつことは日本語だけの偶然的な特徴ではありません。英語でも「if then」は日本語と同じように二義的に使われています。

(問)「ならば」の因果的な意味と論理的な意味の違いを具体的に述べなさい。

 このような「ならば」の二つの意味は物理学と物理的な世界を考えてみると鮮明になる。例えば、力学の言明は数学を使って表現されています。運動方程式は論理的な「ならば」を使って数学的に変形され,解が見つけられます。一方,そのような運動方程式によって記述される物理世界の変化は因果的な変化であり、その変化は因果的な「ならば」で表現されます。ですから、数学が物理世界を表すのに役立つ理由の一つは、私たちがこれら二つの「ならば」を巧みに利用し,相互の関係をつけているからなのです。実に見事な綱渡りなのですが、概念上、二つの「ならば」は全く異なったものです。

(問)次の文章を読んで、因果的な「ならば」と論理的な「ならば」を見つけ出し、それらの使い分けがどのようななされているか説明しなさい。また、述べられている内容がカオス(chaos)に関わることから、線型性、非線型性、カオスを検索してそれぞれの内容を確かめてみて下さい。

「仮説とそこからの推論の例としてハエの人口動態について考えてみよう。仮説の効果的な適用と験証はモデルをつくり、具体的に記述、説明、予測することによって行われる。実際の観察から、ハエの個体数は前の年の個体数によって決まることがわかったとしてみよう。この事実はNt+1 = F(Nt)と表現できる。t年の個体数Nt がt +1年の個体数Nt+1を決める関係Fが、t年の個体数に関してt+1年にR倍になるとすると、Nt+1 = RNtとなる。これは線型(形)の方程式で、Rの値によって異なる変化を描く。だが、実際はハエの個体数が増えると次第に食物が減り、捕食される率も高くなり、単純な比例関係にはないだろう。そこで上の仮説の修正のため、(R – bNt)という関数を選んでみよう。係数bは集団が大きくなるにつれ成長率が減少する割合を示している。前の式を書き換えると、Nt+1 = (R – bNt)Ntとなる。この式は非線型で、不思議なことにR = 3.570のとき、それまでの安定した周期的なサイクルからカオス的な振舞いに変わる。この式はNtの値が一つ定まると、Nt+1の値も一つだけ定まるという意味で決定論的な式であるが、N0の値が僅かでも異なると、数世代後の個体数はすっかり異なってしまい、長期にわたっての正確な予測ができないことを示している。これが初期状態への鋭敏性といわれる特徴である。」

 

ヨウシュヤマゴボウ

 ヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)とは何とも野暮な名前である。ヤマゴボウ科の多年草で、別名はアメリヤマゴボウ。ヨウシュ(洋種)とは読んで字のごとくで、北米原産の帰化植物、日本に入ってきたのは明治元年ヤマゴボウ(山牛蒡)は我が国に古くから自生する野草で、根がゴボウに似ているのでこの名が付けられた。そのヤマゴボウに似ているところから、海外から入ってきたヤマゴボウという意味でヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)となったようである。高さは2m前後に達する。茎は無毛で赤く、根は太く長い。葉は大きく、秋になると紅葉する。6月から9月にかけて白色ないし薄紅色の花からなる花穂を枝先に付け、夏に扁平な果実を付けた後に初秋に黒く熟す。画像のような熟した果実は柔らかく、潰すと赤紫色の果汁が出る。この果汁は染料になり、衣服や皮膚に付くとなかなか落ちない。黒く熟した実をつぶすと、赤紫の汁が出る。昔はこれを赤インクにしたらしい。
 子供の頃からあちこちでヨウシュヤマゴボウを目にしていたのだが、雑草にしては目立つという程度の関心しかなく、そのせいか実を食べた経験はなかった。偶然にも街の整備された歩道の並木の下にそれを見つけたのだ。元気に実をつけるヨウシュヤマゴボウは眼を引く存在で、つい凝視してしまった。ヨウシュヤマゴボウは有毒で、果実の中の種子は毒性が高い。ブルーベリーと間違えて食べると大変で、要注意である。 誤食すると、約2時間後に強い嘔吐や下痢が起こり、摂取量が多い場合はさらに中枢神経麻痺から痙攣や意識障害が生じ、最悪の場合には呼吸障害や心臓麻痺を引き起こし、死に至る。

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