歴史的な「ならば」

 昨日の「歴史について哲学する(2)」は断片的で、わかりにくかった。それを補填する意味で、異なる観点から歴史について考えてみたい。

 私はこれまで論理的な「ならば」と因果的な「ならば」の違いについて何度か述べてきた。それは、「Aならば、Bである(If A, then B.)」の「ならば」について、二つの異なる意味があるということだった。その二つとは、

(1)論理的な「ならば」

(2)因果的な「ならば」

であり、通常は直感的に区別されて使い分けられてきた。この二つの区別はとても重要で、知識の根幹に関わるのだが、ここでは、さらに三番目の

(3)歴史的な「ならば」

があることを指摘しなければならない。(3)については、「ならば」よりは、

「AがBになる」

という表現の方が適切かも知れない。例えば、「高校生が入学試験に受かって、大学生になる」。AがBになるのは論理的でも因果的でもない。私たちはそれをAがBになる物語として理解している。物語化するのが私たちの常套の手段で、そのため、神話から童話まで、世界の現象変化の多くを物語として伝承してきた。そして、その物語形式は近代以降小説として、あるいは系統的な進化過程として私たちの行為や知識となってきた。

 小説や進化となれば、多くの人が関心を示すのではないか。小説の展開を支える表現がつまるところ「ならば」にあり、それは因果的でも論理的でもなく、歴史的だということである。「天動説が地動説になる」というのが歴史的であり、確かにそれは論理的でも因果的でもない物語として理解される変化である。そして、そのような変化を私たちは歴史と呼んできたのである。

 よく歴史物語と呼ばれるが、歴史の大半は物語として記述され、物語と歴史の間の距離は極めて近い。ここで注意すべきは、(1)や(2)と違って(3)の歴史的な「ならば」はその構造を形式化することができないということである。それが(1)や(2)と違う点である。むろん、(2)も一意的に形式化できるかと問われれば、その答えはNoで、状況を仮定しなければ形式化できないのである。その点では(2)と(3)は類似していて、(1)こそが例外的なのだと考えることもできる。状況の仮定を必要としないことが普遍的ということであり、普遍性とは論理性のことであり、これは単なる規約に過ぎないと見做すこともできる。それに対して、(2)と(3)は世界に実際にコミットするゆえに、世界の条件を組み込まねばならず、それが状況依存性を生み出すのである。

 それにしても歴史的な「ならば」は捉えどころのない「ならば」である。本物と偽物の区別がつかない代物で、それゆえに神話や小説は嘘八百と言われるのであろう。では、本物は何かとなるが、これが実は正体不明であり、歴史的事実が常に前提付きで、その前提の真偽は揺れ動くのである。安定した前提を求めての追求が歴史研究であり、歴史的な「ならば」はその結果でしかない。(2)と(3)は共通点をもちながらも、相違点の多さに驚くべきなのだろう。(2)の場合のAやBは物理的なシステムの状態であるのが標準的なのだが、(3)の場合のAやBは事件や出来事といった場合が想定されている。