変化の表現形式-科学での推論(2)

[仮説とは何か]
 仮説は自然に関する「知識に基づいた推測」である。では、ある言明を単なる推測ではなく、科学的な推測と判定するのは何によってなのか。科学的仮説は次の二つの条件を満たさなければならないと言われている。

(1)科学的仮説はテスト可能でなければならない。
(2)科学的仮説は反証可能でなければならない。

まず、(1)について考えてみよう。科学活動は自然について実験や観察をすることによって遂行される。仮説が観察できるテストを生み出さないなら、その仮説を使って科学者ができることは何もないだろう。次の仮説を考えてみよう。

仮説A:すべての物質は今の私たちには経験的に確かめることができない要素を含んでいる。

この言明は真かもしれないが、科学的な仮説ではない。それはテストすることができない。仮説が正しいかどうかを決定できる観察は存在しない。(どうしてか。)仮説Aが考察に値するとしても、科学はそれについて何も言うことができない。それは思弁的なものであり、科学的な仮説ではない。
 科学的仮説がテスト可能でなければならないという要請はしばしば「科学的仮説は予測ができなければならない」と表現される。未来に何が起こるかを述べるのが予測であると通常考えられているため、「予測」という語は誤解を生みやすい。科学的予測は未来に起こるというより、正に今何が起こるか述べている。予測は仮説のテスト(観察や実験)になる。仮説が「予測を生む」ことは仮説が「テスト可能である」と同じことを意味している。
 次に(2)について見てみよう。科学的仮説はテスト可能でなければならないが、テスト可能な仮説が真に科学的と考えられる前に満たさなければならない条件がある。それはポパー(Karl Popper, 1902-1994)が主張したもので、反証可能性と呼ばれている。次の仮説を考えてみよう。

仮説B:地球にはまだ発見されていない生物が存在する。

この仮説はテスト可能である。だが、これは科学的な仮説ではない。その理由は以下の通りである。仮説Bは正しいかもしれないし、誤っているかもしれない。正しいなら、それを証明する方法が幾つかある。例えば、生態学者が熱帯雨林で新しい生物種を見つけ出すかも知れない。既に現地の人がそれを見つけているかも知れない。あるいは、既に過去の自然誌の書物に記載されていたのに、誰も気づかなかったのかも知れない。
 だから、仮説Bが正しければ、それを証明するような観察がある。だが、仮説は誤っているかもしれない。仮説Bが誤りなら、それを証明するテストはない。生態学者が新しい生物種を発見できなくとも、未発見の生物種が存在しないと結論することはできない。現地の人が見つけていなくとも、仮説が誤りだとは結論できない。いずれにしろ、仮説Bの反証はできない。

(問)上の仮説Bが科学的でない理由を述べ、その理由が正しいかどうか示せ。

 だが、次の仮説はどうか。

仮説C:空気抵抗を無視すれば、同じ高さから地上に落下する二つの物体は同時に地上に達する。

この仮説は科学的仮説である。(実際、落体の法則と呼ばれている。)この仮説はテスト可能である。二つの物体を使って、真空中で落下実験をすることができる。そして、反証可能でもある。同時に地面に落下しない二つの対象が見出されるなら、そして、そこに空気抵抗が関与していないこともわかれば、仮説が誤りであることが証明される。理論上も、実験上も、仮説Cが誤りであれば、それを示すのは簡単で、直ぐにわかる。
 ポパーが指摘するように、仮説はそれが危険なものでない限り、本質的には役に立たない。仮説はそれに矛盾する予測ができなければならない。仮説に対する本当の信頼を獲得する過程は、それゆえ、有利な証拠を集めることではなく、その誤りが事実起こらないことを確立できる状況を示すことである。
[大半の科学的仮説は正しいことが証明できない]
 仮説Cが誤りであることを証明するのは全く簡単であるが、それが正しいことを証明するのは不可能である。仮説Cはどんな対象の対もある仕方で振舞うので、それが正しいことを証明するには対象のすべての組み合わせがテストされなければならない。仮説Cを何度もテストすれば、それだけ信頼度は増すだろうが、絶対に確実だという点にまでは至ることができない。誰かが明日仮説Cにしたがわない振舞いをする対象を見出すなら、これは仮説Cが誤りであることになるだろう。
[決着はつくか]
 科学的な事実、仮説、法則、そして理論が真であることが証明できないということは多くの人を不安にする。だが、科学者はそれに悩まない。科学的な仮説が真だと証明できるように書き換えることはできないのか。次の仮説で考えてみよう。

仮説D:ここの大きな物体とそこの小さな物体を同じ高さから落下させれば、同時に地上に達する(ガリレオの実験を思い出そう)。

この仮説は科学的な仮説である。テストできるし、反証可能でもある。だが、二つ問題がある。強力で有用な仮説Cに比べると、仮説Dは実際には役に立たない。そして、仮説Dは正しいことが確かめられない。誰かが明日今までにない精巧な測定装置を開発し、ここの大きな物体が100万分の1秒だけ速く落下すると言わないとも限らない。私たちにせいぜい言えるのは、現在両方の物体は同時に地面に達するようだというくらいである。

(問)仮説Cと仮説Dの違いを指摘し、仮説Dは通常の科学的仮説とどこが違うか説明せよ。(ヒント:科学的仮説を言明にすると、どのような論理形式の言明になるか。)

[仮説がテストに失敗したら]
 仮説がテストに失敗すれば、それは真ではあり得ないし、修正か廃棄を余儀なくされる。科学では、観察と仮説の間に衝突があるなら、観察に対して仮説が敗れる。誰の仮説か、それが如何に有名な仮説かは問題ではない。仮説が事実に合わなければ、それは廃棄されなければならない。
[オッカム(William Occam, c. 1280-1349)の剃刀]
 二つ以上の競合する仮説が両方ともテストに合格するなら、どうしたらよいのか。確かに、仮説が異なる予測をするなら、適するほうを選べばよいから話は簡単である。しかし、競合する仮説が区別できない場合はどうすればよいか。そのような場合に使われてきたのが「オッカムの剃刀」と呼ばれる選択方法である。オッカムは中世の論理学者で、オッカムの剃刀と呼ばれる原理を主張した。その原理は次のようなものである。

二つの仮説が実験的に区別できない場合、より単純な仮説を選べ。

(問)オッカムの剃刀が正しくない例を挙げよ。

[科学的法則]
 科学法則は一見関連のない多くの事実をまとめるものである。例えば、気体の振舞いを研究していて、気体への圧力が増すとその体積は減ることがわかったとしてみよう。そして、他の有能な研究者もその観察結果を確証して、事実として認められたとしてみよう。さらに、ある日突然にその観察結果があるパターンを含んでいることに閃き、それが簡単な式、
圧力×体積=一定
で表現できることがわかったとしてみよう。
 この単純な仮説は気体の振舞いについて多くのことを述べている。さらに、新しい多くの実験や観察ができることも示唆している。それら観察や実験が仮説の正しいことを語っていれば、その仮説は法則と呼ばれるようになる。
[科学法則の特徴]
 上の科学法則(圧力×体積=一定)はボイルの法則と呼ばれている。この法則は次のような内容をもっている。ボイルの法則はなぜ自然がそのように振舞うかは説明しないで、どのように振舞うかを記述する。この法則は気体の圧力が二倍になったら、その体積は半分になることを述べている。ボイルの法則から気体がなぜそのような性質をもつかという理由はわからない。
 以下に代表的な物理法則を挙げておこう。

法則の名前    数学的言明     法則の内容
ボイルの法則   PV = k       気体の圧力と体積の関係
理想気体の法則  PV = nRT     理想気体の圧力、体積、温度の関係
反射法則     i = r        反射する光線の角度の関係
スネルの法則  n1 sinθ1 = n2 sinθ2  二つの媒質を通過する光線の方向の関係
ニュートンの第二法則  F = ma    物体への力と質量、加速度の関係

(問)上のそれぞれの法則が何を述べているか復習し、法則が普遍的な言明として表現されることを確認せよ。

[法則はどのように他の法則に置き換えられるか]
 物理法則が何度テストされても、新しい事実が見つかり、それが法則に反することが起こるかもしれない。その場合、法則は新しい事実を説明するために再考されなければならない。科学では観察が他の何より優先している。また、法則がより一般的で強力な法則に置き換えられることもある。例えば、上の表から、ボイルの法則は理想気体の法則の特殊な場合であることがわかる。
[科学理論]
 科学理論は自然のある領域についての十分テストされ、験証された仮説を含む命題の集まりである。気体の振舞いについて考えていて、動いている、小さな、相互に独立の粒子から気体ができていると仮定することによって、その圧力、体積、温度についての事実と法則が説明できるとわかったとしてみよう。これは興味深い仮説で、さまざまな実験ができる。この仮説からの予測がうまく行くと、科学者はこれを理論と呼ぶようになる。
 「理論」という語は科学の中ではもっとも曖昧で、誤解されている用語だろう。理論の特徴を幾つか挙げてみよう。基本的な物理理論は説明的である。理論は自然がなぜそのように振舞うかを説明しようとする。そのため理論はしばしば「モデル」とも呼ばれる。ボイルの法則は自然がどのように振舞うかを記述するが、気体の運動理論はなぜ自然がそのように振舞うかを説明する。

(問)説明的でない理論にはどのような理論があるか。また、理論とモデルは同じものだろうか。

 物理理論は数学的で、よくテストされたものである。「私は理論をもっているが、それはまだ理論でしかない」という表現をよく聞くが、これは理論と仮説を混同したものである。しかし、この混同は意識的になされる場合もある。超紐理論は仮説だが、理論と呼ばれている。
[実際はそれほど単純ではない]
 数学で言明が正しいことの証拠となるのは、その証明である。証明は演繹的な規則を使って行われる。新しい数学を思いつくのはどのような方法を使ってもよいが、それが受け入れられるためには数学の演繹的な構造の中で整合的に証明されなければならない。
 他方、物理学者は数学を始終使う。この400年くらいの間の主要な物理理論は数学的に表現されてきた。理論物理学は数学的物理学とほとんど同義である。理論から何が導き出されるかを探るために物理学者は数学を使ってきた。
 だが、科学において証拠として受け入れられているのは観察、つまりは演繹的でない帰納的規則を使ったものである。これは科学者が演繹的方法を使わないということではない。発見されたものが科学の一部として受け入れられるためにはその発見が観察と一致しなければならない。

(問)1でなされた科学と経験との関係を批判的にまとめ、科学的知識の特徴を述べよ。

 この節では平易な表現で科学の特徴を述べてきた。科学的知識の常識的な基本特徴は述べたつもりであるが、これだけでは物足りない、曖昧である、あるいは一部誤っていると思う人がいるだろう。そこで、述べられた事柄の中から重要な点をさらに掘り下げて見なければならない。以下の節では科学の形式的側面についてだけ考えてみよう。そして、科学の経験的な側面は次章で扱うことにしたい。