アカンサス・モリス

 アカンサスが濃緑色で光沢のある大きな葉を広げて、雄大な花穂を伸ばした姿は、力強く、人目を惹きつける。草丈が1mを越える大型の宿根草で、6月頃から咲く花は、紫色の萼と白い花弁のコントラストが際立つ。今年は既に咲き始めている。学名のアカンサスは「とげ」の意味があり、実際花のつけ根の苞に鋭いとげがある。アカンサス属は地中海沿岸を中心に50種ほど知られ、最も一般的な種が画像のアカンサス・モリス(和名ハアザミ)。

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ワイルドストロベリー

 ハイカラな名前だが、和名はエゾヘビイチゴあるいはエゾノヘビイチゴ。別名はヨーロッパクサイチゴ、野いちご、プチベリー、スノーベリーなど。ワイルドストロベリーは小さく可愛らしい草姿が特徴で、果実はフルーティな香りがあり、古くから食用や薬用に利用されている。原産地はヨーロッパやアジアだが、北米など世界各地に広く帰化し、日本には明治ごろに入り、北海道で野生化し、エゾヘビイチゴと呼ばれてきた。

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「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか(補足)

 因果連関とその表現についての基本的な疑問について述べておきたい。

(1)因果関係を条件法(conditional)と関数関係を使って表現する
 私たちは原因と結果の間の関係を因果関係(causal relation)と呼んできた。大抵は因果関係が実在的な関係で、この世界に在る物理的な関係だと考えられているが、それは直接知覚できる訳ではない。では、それを私たちはどのように表現してきたのだろうか。当然ながら、私たちが表現しようとして使うのは身振り手振りではなく、言葉である。「言葉をどのように使うと因果関係を正しく表現できるのか」という問いは、形而上学的な問いとしてはとても魅力的な問いだが、「因果関係とは何か」と並んで、その解決がとても難しい問いでもある。だから、科学革命に関わった私たちの先輩はその解答を避け、正確な因果関係の表現を自然言語ではなく、数学に委ねたのである。言葉としての数学は因果関係を関数関係として表現することに見事に成功した。だが、どの因果関係も関数関係として表現できるかどうかは未だに誰にもわからない。
 「Aならば、Bである(if A, then B.)」の「ならば」は上記の因果関係を表現する常套手段になってきた。この場合はAが原因、Bが結果と解釈されるのだが、実際は条件法の「ならば」である。さらに、AとBの関係が上記のように関数関係として、例えばB = f(A)のように関数関係として表現できるなら、正に御の字ということになる。関数関係として表現でき、推論の中で使うことができると、論理的な「ならば」を駆使しながら、因果関係を間接的に表現することができるようになる。つまり、関数関係として表現し、推論の中で使うことによって、因果的関係を間接的に表現するのである。

(2)行為の同定、INUS条件、意図的な行為について
 同じ行為でも、ある側面は意図的だが別の側面は意図的でないということがある。例えば、公園を歩いていて虫を踏みつぶした場合、「公園を歩く」ことは意図していたとしても、「虫を踏みつぶす」ことは意図していなかった場合である。だから、意図の存在を問題にする際、行為のどの側面を問題にするのかを特定しておく必要がある。
 行為は低次(具体的な運動)から高次(抽象的な意味)まで様々なレベルで同定できる。たとえば、同じ行為でも比較的高次で同定すれば「歩く」、低次で同定すれば「左右の足を交互に踏み出す」となり、一方は意図的だが、他方は意図的でないことが可能である。
 また、行為とその結果を混同しないことが重要である。厳密には、行動の記述には行動の結果まで含めてはいけない。例えば、森を歩くという行為には、家に到着するという結果は含まれない。しかし、行為の高次同定には結果が含まれていることが多い。「森を歩く」という行為をさらに高次で同定すれば「知人の家を訪ねる」となり、家に到着することまでが含まれてしまう。
 因果関係における原因と結果は釣り合っていなければならない。意図と行為が因果関係で結ばれるためには、意図は結果を生じさせるための過不足のない必要条件でなければならない。
 行為を生じさせるためにちょうど釣り合った意図などあるのだろうか。Mackie(1974)は、因果関係のINUS条件を提案している。ある原因Cは、結果Eの発生に「不十分だが必要」(insufficient but necessary)な条件だといえる。Eの発生には、「必要ではないが十分」(unnecessary but sufficient)な条件のセットが関与しており、Cはそのセットの一部、すなわちINUS(insufficient but necessary part of unnecessary but sufficient set of conditions)なのである。例えば、「火災(E)の原因(C)は漏電だった」という場合、漏電(C)はそれだけでは火災(E)を生じさせるのには不十分(I)だが、火災を生じさせるのに必要ではないが十分な条件セット(U but S、可燃材料や酸素の存在、そして漏電)の一部だったという意味だ。これらの条件セットは、火災を生じさせるための必要条件ではないが(漏電ではなく煙草の消し忘れでも火災は生じる)、火災を生じさせるのには十分ではある。つまり、C(漏電)は、条件つきの(この条件セットに対してのみ有効な)必要条件だといえる。漏電がなかったら、この条件セットからの火災はなかった。しかし、漏電(C)がなくても火災(E)に通じる、他の条件セットは存在するかもしれない。条件セット内のC以外の条件をXとするならば、CXはEの十分条件セットの一つであり、Cを必要としない他の十分条件セットもあり得るということだ。
 いささか複雑だが、意図的な行為の厳密な定義は「意図がINUS条件的な行為」なのである。行為を生じさせた十分条件セットの中に、意図が必要条件として含まれていれば、それは意図的な行為だったと言える。もちろん意図だけでは行為を生じさせるのに十分な条件ではないが、その他に必要とされる多くの背景条件(たとえば、意図的に視覚刺激を処理するためには、部屋の明かりがついている、刺激が視野に入っている、参加者が盲目ではないことなど)は当然揃っているものと仮定される。ただし、意図を必要としない十分条件セットも存在するので、ある条件では意図的な行為でも、別の条件では意図的ではないこともある。このように、意図が必要条件かどうかの決め手となる背景条件の特定も、意図性の問題を扱う上では重要となる。
 このように、行為(のある側面)が意図的となるのは、その行為に従事しようとする目標表象(意図表象)が原因(INUS条件)となって、その行為が生じた場合だと言うことができる。
 心理過程のどのレベルが因果的に行為を生じさせる力を持つか(あるいは持たないか)は、哲学者たちが盛んに論じている問題でもある。原因と結果は同じ分析レベルに位置し、原因は結果に先行している必要がある。また、原因はINUS条件を満たし、過不足なく結果を生じさせる必要がある。

 (1)のような物理世界の因果的な出来事だけを扱う場合に比べ、(2)のような意図的な行為の因果関係となると、その厄介さがまるで異なることがわかる。意図や思惑が含まれる因果連関が当然ながら因縁や縁起に含まれていて、私たちの先輩も当然それを熟知していた筈だが、上記のような分析((1)と(2))が『中論』や『俱舎論』でどれだけ行われているのか素人の私にはうまく読み取れないのである。

 

ペパーミント
 和名はコショウハッカ、セイヨウハッカで、スペアミントとウォーターミントの交雑種と言われている。原産地はヨーロッパ大陸で、シソ科ハッカ属の多年草。乾燥に弱いものの、一度植えてしまうと、地下茎と種でどんどん生息範囲を広げていく。非常に強く、雑草を駆逐する。地下茎が柔らかく、スコップで土を割るだけで、細かく切れてしまい、その土を別の場所に移動させるとそこでも生えてくる。
 私のような世代だと、この香りはチューイン(グ)ガムに結びついている。

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「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか(7)

縁起の物理学:力学的な決定論(1)
 どんな出来事にも原因があるというのが因果的な決定論の伝統的主張である。この形而上学的主張は、ニュートンの力学によって物理世界の決定論として精巧に具体化された。ニュートン決定論に洗練された、見事な表現を与えたのはラプラスの魔物(物理学者ラプラスが思考実験で考えた架空の万能者)である。ラプラス決定論は、すべての事象は原理上正確に予測できるという普遍的決定論(Universal Determinism)である。原理上予測できない事象はなく、例外は許されない。だから、予測できない事象があったとすれば、それは私たちの無知のためである。だが、これは私たち自身の予測、予言を含めた思考が決定論の範囲内にあれば成立しない(なぜか?私たちが自らの予言を破れることを考えてみよう)。それゆえ、私たちが「知る」ことは世界の中にはなく、世界は私たちが知る、知らないということとは独立している。確率は物理世界にはない私たちの無知のゆえに導入される。ある事象がどのくらいの確率で起きるかということは決定論的世界では何の意味ももっていない。決定論的世界ではどのような事象についてもそれが起きるか、起きないかのいずれか一方であり、起きるなら確率1で起き、起きないならその確率は0である。
 私たちはコイン投げやサイコロ振りを確率的な出来事の典型例だと考えている。実際、公平なコインは表、裏の出る確率が1/2とみなされ、それをもとに確率モデルがつくられる。このような確率的な出来事は私たちの生活にすっかり馴染んでおり、公平な選択のためにコインやサイコロが使われ、時には賭けの道具にもなっている。しかし、ニュートン的な普遍的決定論が正しいとしたら、公平なコインを投げた場合の表か裏かの結果は決まっていないのだろうか。ラプラスが生み出した魔物はコイン投げについての完璧な知識をもっており、投げられるコインの物理的な運命について完全に予測できる。魔物によれば、人間はコイン投げについて十分な物理的知識がなく、正確な予測ができないために、その過程が確率的に見えるに過ぎない。魔物はコイン投げで生じるバイアス(非対称性)は決して見逃さない。コインを投げるときの物理的な状態のバイアスが何であるかを的確に知り、それがどのようなバイアスを結果するかを正確に予測できる。コインを投げて裏か表が出たということは、その結果にバイアスがあったということであり、それは原因であるコイン投げのどこかに最初からバイアスが潜んでいたためである。これは理屈の通った話である。というのも、この話は既に述べた対称性の原理の一例と考えることができるからである。対称性の原理を因果的決定論に適用すると、

結果に現れる非対称性は、原因がもつ非対称性によって引き起こされる、

と表現できる。この原理が成立している限り、魔物は原因のバイアスに注目することによって結果の裏、表というバイアスの予測を物理的な法則を使って行うことができる。
 以上のことから、魔物は物理的な状況に関して予測ができ、確率などに頼らなくても、個々のコイン投げを一回毎に正確に予測でき、したがって、すべてのコイン投げの系列について正確な予測を行うことができる。つまり、魔物にはコイン投げの過程は全く決定論的なのである。それゆえ、自然の過程に確率的なものは何ら含まれていないことになり、自然の過程に対して確率を使うことを主張・擁護するのは誤っていることになる。

神の物理学:力学的な決定論(2)
 この説明によれば、確率は私たち人間には不可避的に必要だが、それは私たちが十分な知識をもつことができないために過ぎない。これが確率の古典的な解釈である。私たちが確率概念を使う理由は私たちの無知のためであり、十分な知識をもっていれば確率などに頼る必要はない。これがラプラスの魔物の主張である。
 さらに現存する確率的な科学法則についても、それは現象的な法則であり、時間対称的な物理学の法則とは違って派生的なものに過ぎないと魔物は断言する。対象の変化を述べる現象的な法則は厳密な意味で法則ではない。そもそも確率が無知の反映であるから、それを使っての確率的な法則は法則と呼ぶに値しない。幽霊はどこにも存在しないが、考え出された多くの幽霊についての一般法則はつくろうとすればつくれる。統計法則はそのような類の法則であるというのが魔物の主張である。ちなみに、現象的と言われる法則にはエントロピー増大の法則やメンデルの遺伝法則がある。
 未来の予測のためには、ラプラスの魔物は初期状態を正確に測ることができ、完璧な計算ができなければならない。元来、決定論は実在の決定性を主張するものであり、私たちの認識とは何の関係もない。その決定論と予測可能性を同一視させる理由は古典力学の第2法則にある。第2法則と、微分方程式系の解が存在して、しかもその一意性を保証する定理とが結びつくことによって、系の初期条件が定まれば正確な予測が可能であることが数学的に証明できる。これによって現在の状態から演繹される未来や過去の状態が存在するということが保証される。さらに、この決定論は上の予測が実際に構成的に計算可能であるという定理によって強化される。ただ単に予測が可能というのではなく、実際に予測を計算できる。こうして古典的な決定論は予測可能性と同一視されることになる。そして、このような「決定論=予測可能性」という認識論的な決定論理解が、ラプラスが魔物に対して与えた役割なのである。
 どのような物体に対しても、その位置や運動量を正確に測定でき、そして運動方程式を解くことができるなら、普遍的決定論が成り立つというのが古典力学の主張である。そして、物理量の確定性、運動の連続性が成り立っていれば、決定論が導出される。だが、それは神にしかつくれない物理学である。私たちは神の物理学の骨組みを認めるが、そこに挿入される物理量の具体的な値については正確に知ることはできず、それゆえ、神になることができない。その結果、人間の物理学は近似的な物理学ということになる。とはいえ、それは十分に正確で、信頼できる物理学であり、実に有用であることを誰も疑わない。
*現在私たちは普遍的決定論が成り立つ神の力学が正しい物理学理論だとは思っていない。

 次回にタイトルの問いに解答したいが、三つの視点からの解答になるだろう。まず、因果性。次に、刹那滅の瞬間性、最後は物語の中の真偽。これらはいずれもとても興味深い視点である。それぞれの視点をかいつまんで挙げると次のようになる。

(1)形而上学的問題としての因果性はギリシャ時代以来論じられてきた、とても古い形而上学的問題である。論理的な「ならば」と因果的な「ならば」の比較を通じて、議論されてきたが、因果性は明瞭にはならず、それゆえ科学の領域では使うべきないことが一致した見解である。だから、科学理論は論理的な「ならば」を使って、数学的に因果的な「ならば」を表現してきた。では、因縁や縁起はどのように理解されたのか。
(2)刹那や瞬間もゼノンのパラドクス以来私たちを刺激し続けてきた概念である。刹那や瞬間は物理的な概念であるとともに、数学的概念でもある。特に、変化を理解する上では欠かせない概念となってきた。刹那や瞬間を心理的な直感として使ったのでは変化を理解できないのではないか。
(3)科学理論、物語、経典という異なる文脈の中での真偽は単純な真偽の対応説では不十分なことは自明であり、ある種の整合説がさらに求められる。運動変化の「ならば」だけでなく、系統的な進化や発生・発達といった様々な「ならば」をどのように一つの変化にまとめ上げるのかと言う課題に対し、真偽の全面的な心理化は答えになれるのか。

バイカウツギ

 バイカウツギは落葉低木で、初夏枝先に白いさわやかな花を咲かせます。梅の花に似ていることから「梅花空木」と言われますが、中国名は「山梅花」です。また、茎が中空のためにウツギ(空木)の名前がついています。カタカナ表記だけでは判じ物です。花はウメの花(5弁)に似ていますが、花弁は4枚、白色で、ほのかな芳香があります。

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「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか(6)

 龍樹の空論や世親の唯識論の世界観からタイトルの「「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか」に対して答えを出すために、これまで主に仏教側の歴史的経緯を説明してきた。それらが仏教の最もアカデミックな試みの結果であることを確認するとともに、その後の大乗仏教の理論的な根拠になってきたことを述べてきた。それは既に言われていることであり、その再確認だった。そこで、因果的な相互作用からなっている現象や出来事について仏教以外の考えを参照しながら、タイトルの問いに仏教以外の観点も含め、どのように解答できるか考えて行きたい。まずは龍樹や世親の大先輩であるアリストテレスの考えを瞥見しておこう。

アリストテレスの四原因と運動の説明
 アリストテレスは形相(本質)は対象の外にではなく、具体的な個体(個物)の中にあると考えた。プラトンイデアと違って、形相は個体に内在し、すべての個体は形相と質料が一体となったものである。アリストテレスは存在するものの変化を説明するために可能態と現実態という区別を考えた。そして、彼は可能態と現実態の間に起こる変化を四つの原因によって説明した。アリストテレスは自然に四つの原因を認め、それらを使って事物の現実あるいは可能な状態とその変化を因果的に説明しようとした。『自然学』では四原因を使って「なぜ」という質問に答える、つまり、現象を説明する。自然な運動として物体はその構成要素の可能性を満たすように運動する。主に土や水からなる物体の自然な運動は地球の中心へ、空気や火からなる物体はその逆の運動をする。
 それぞれの原因について家を例に考えてみよう。質料因は家を造る材料、石、木等である。形相因は家を造る設計者の心の中にあり、質料によって実現されるデザインである。機動因は家を造る主体、つまり、建築家である。目的因は家を造る目的である。アリストテレスはこれらの異なる役割を下のように考えている。

形相因: 物質的なものを現実化する、決定する、特定するものである。
質料因 :それなしには存在や生成がない、受動的な可能態であるものである。
機動因 :その作用によって結果を生み出す。それは結果を可能な状態から現実の状態に変える。
目的因 :そのために結果や成果がつくられるものである。

 アリストテレスの四原因は事物の構成と変化の両方を含んでおり、変化の時間軸に二つの原因(機動因と目的因)、構成の階層軸に二つの原因(形相因と質料因)を置いたと考えられ、それぞれ時間的因果性、存在的因果性と呼ばれている。その後、いずれの軸も一方向だけ取り上げられ、時間軸からは目的因が、階層軸からは形相因が排除されて行った。それが現在の因果的、還元的説明のもとになっている。階層軸は科学の研究の仕方もあって個別科学の研究領域に分けられ、階層的に分割された各領域では機動因だけがもっぱら研究対象として取り上げられることになる。
アリストテレスの自然科学)
 アリストテレスの自然科学への大きな貢献は生物学にある。生命現象は形相因と目的因の多くの証拠を与えてくれる。彼は約500種の動物を詳細に研究し、一部解剖まで行なった。アリストテレスプラトンも生物に目的因の証拠、自然におけるデザインを見出した。
 現在の私たちの周りには生きていなくとも動くものがたくさんある。だが、アリストテレスの時代は違っていた。地上で動くものの主役は動物だった。動物の運動は目的をもち、有機体の意思や欲求にしたがっている。成長が生物の本性を満たすように、運動も動物の本性を満たしていると彼は考えた。
 生命のないものの運動を説明するために、彼はものの本性という概念を拡張した。事物の秩序の中で「元素はその自然な場所を求める傾向をもつ」と仮定することによって、生命のない事物の運動を理解できると考えた。だから、4元素について、土はもっとも強く下へ、水はそれほど強くはないが下へ、火はもっとも強く上へ、空気はそれ程強くはないが上へ動く。元素とその組み合わせがどのように動くかの一般理論は、元素以外の事物に適用するにはもっと細部を詰めなければならなかった。
(自然な運動(Natural Motion)と不自然な運動(Violent Motion))
 石がもつ自然な傾向は落下することだが、私たちはその石を投げ上げることができる。アリストテレスはこのような運動を「不自然な」運動と呼び、自然な運動と区別した。「不自然な」という語は外部から無理に力が働き、運動を強制的に生じさせることを意味している。(現代では重力が原因となってリンゴを落下させるというのが常識である。だが、ニュートン以前にはリンゴの落下は外部の助けを必要としない自然な運動であり、したがって、説明する必要のないものだった。)最初に速度を量的に扱ったのはアリストテレスである。彼は落下に関して二つの量的な法則を述べている。

(1) 重いものほど速く落下し、その速度は重さに比例する。
(2) 落体の速度はそれが落下する媒質の密度に逆比例する。

これらの法則は単純で、しかも数学的な量的表現をとっている。石と紙を落下させれば、(1)が成り立ちそうである。(現在でも子供たちに対する質問調査ではアリストテレス的な考えが普通に見受けられる。)(2)についても、空中から落下する石は水中では速度が落ちるように見える。だが、アリストテレスはこれらの法則を厳密な仕方で確かめることを怠った。(1kgの石と500gの石を空中や水中で落下させたら、(1) と(2)からどのようなことが予測されるか。)また、(2)より、真空は存在できないと彼は結論した。真空が存在したら、その密度は0なので、どんな物体も無限の速度で落下することになり、これは不合理であると考えたからである。
*(問)真空が存在しないとすれば、ギリシャの原子論は成立するだろうか。

 不自然な運動について、彼は運動する物体の速度はそれにかかる力に比例すると述べている。これはまず、押すことを止めれば、物体は動くことを止めることを意味している。これも確からしく見える。だが、箱と床の間の大きな摩擦力を説明できない。箱をそりに載せ氷面を滑らすと、押すのを止めてもそりは滑り続ける。
 物体の運動がその自然な場所を求めてのものであるという説明は天体には適用できない。天体の運動は落下や上昇ではなく、円運動だからである。そのためアリストテレスは天体が4元素からできているのではなく、5番目の元素からできていて、その自然な運動は円運動だと仮定した。では、どこまでが地上で、どこからが天上なのか。太陽が熱を成分としてもっていないなら、なぜ太陽光は温かいのか。このような疑問がすぐに出てくる。