シモツケゴールドフレーム

 シモツケは日本、朝鮮半島、中国に分布する落葉低木。和名は下野(しもつけ)(栃木県)に因むと言われると腑に落ちるのですが、「シモツケ」では頭を捻るばかりです。育てやすくて大きくならず、観賞期間もとても長い花木です。初夏に、紅色の小さな花を枝先にたくさんつけます。一週間程前が見頃でした。花色や葉色が変化した園芸品種が多く、「ゴールドフレーム」はシモツケの品種名です。普通のシモツケは紅葉はしませんが、ゴールドフレームは春の芽吹きの時と秋に紅葉します。

f:id:huukyou:20180516041844j:plain

f:id:huukyou:20180516041922j:plain

f:id:huukyou:20180516041952j:plain

 

「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか(5)

宗教と科学:「信じる」と「疑う」
 「宗教教義を真だと信じること」と「科学理論を真だと信じること」とはまるで違うものだと教え込まれていて、疑問を持つどころかその通りだと素通りする人がほとんどなのだが、それに疑問を抱いた人たちがいた。より簡単に、「神を信じる」ことと「自然法則を信じる」ことと置き換えても構わないだろう。その人たちは、あるまとまった信念、あるいはその信念を表現した言明の束を真であると信じることでは宗教教義も科学理論も違いはないと考えた。その人たちは、新しくつくられた科学理論について、その内容を経験的に確かめ、単なる信念を確実な知識に変えることが、その科学理論を真だと信じることだと考えた。一方、宗教は験証できない信念を真として信じることだと考え、それは験証によってではなく、神の命令によって、あるいは自ら悟ることによって真だと受け入れることだと主張した。すると、実験や観察の結果という証拠によってではなく、それとは別の証拠、あるいは証拠なしに直接の啓示によって真として信じることを認めることになる。信じるきっかけや理由は違っても、私たちは宗教も科学も真であると信じる(あるいは偽であると信じない)点では変わりないことになる。彼らはこのように考えた。
 このように同じだと考えることに対してごく自然に疑念が生まれてくる。「信じる」という述語は科学と宗教、さらには日常生活ではその意味が異なるのだろうか。「理論を信じる、神を信じる、隣人を信じる」に登場する「信じる」はみな異なる意味なのか。異なるとすれば、それは根本的に異なっていて、共通の部分はないのか。もし共通の意味がどこにもないのだとすれば、言葉のもつ基本的な原則、つまり同じ謂い回しは同じ意味という原則を自ら破棄することになる。
 信じることには過程があり、それが(認識の)風景になっている。「信じ、行為し、変わる」ことすべてが「信じる」ことの意味を構成していて、行為とその結果に至るまでの過程=風景が「信じる」ことの意味である。「信じる、信じない、疑う、疑わない」といったそれぞれの述語とその否定の使用について自由放任主義をとるのが科学だが、宗教はこれら認識的述語について独特の立場を取る。これは宗教認識論とも呼べる領域で、高階の認識的な述語は独特の文法をもつことになる。

 「Pを信じることを疑う」: 科学では自由に疑うことができる。
 「Pを信じることを疑う」: 宗教では疑うことが禁止されている。

*上の言明に登場するPが第1階の言明なら、「Pを信じる」は第2階、「Pを信じることを疑う」は第3階の言明となる。Pが第n階なら、「Pを信じる」は第(n+1)階、「Pを信じることを疑う」は第(n+2)階の言明となる。

 「当為」ということが昔はよく議論された。倫理や規則に従うことは助動詞(must)や形容詞(necessary)によって表現され、「事実」とは異なることが強調された。どのように異なるかがうまく説明できなかったのだが、可能世界意味論によれば、様相(modality)概念によって表現されるのは「ある世界で成り立つ事実」ではなく、「すべての世界で成り立つ事実」になる。だが、このモデルを使った様相概念によっても倫理と宗教の言明の違いを明らかにすることはできていない。そこで、第2階、第3階の述語を考え、それらの関係を考えることによって、科学と宗教の言明の違いを上述のように捉えたのである。
 科学は疑うことと信じることの間の平等性を守る。仮説を信じることと疑うことの民主主義とは、いずれに対しても平等に配慮するということである。だが、信仰は信じることを強要し、それを疑うことを禁止する。一度信じたならば、「信じることを疑う」ことを許さない。つまり、高階の認識的述語に関して厳しい制約を設けることが信仰の特徴となっている。
 新説、異説は時には歓迎され、新しい知識を獲得するきっかけとして役立つ。異なる主張そのものが否定されるのではなく、その異なる主張が誤っているゆえに否定されるのが科学だが、宗教における新説、異説は教派にとって異端、異安心であり、それだけで否定される。宗教は最初から新しい知識を獲得することを否定するのである。自らの信念以外を認めないことによって、その教団の結束を守るのである。
 『イソップ寓話』に「オオカミ少年」という話がある。ヒツジ飼いの少年が、退屈しのぎに「オオカミが出た」と嘘をつき、騙された大人たちは武器を持って出てくるが、徒労に終わる。少年が繰り返し同じ嘘をついたので、本当にオオカミが現れた時には誰も助けに来なかった。その結果、村のヒツジは全てオオカミに食べられてしまったという話である。嘘をつく少年に対して、それを信じることを疑うことによって悲劇となってしまったのである。疑わなければ、ヒツジはオオカミに食べられることはなかった。
 私たちはこのような寓話を含め、様々な経験をもとに、「信じる、疑う」の意味を分脈に応じて使い分け、その結果を行動に結びつけてきた。その中の極端な二つの形態が科学と宗教で、自由放任とその完全否定という対立になっている。日常生活ではこの二つの対立の間に「信じる、疑う」があり、それぞれの事態に応じて右往左往することになっている。
 このような基本的な事柄をまずは確認した上で、「「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか」を考えてみよう。その手始めに、中世ヨーロッパのキリスト教とスコラ哲学の関係を見てみよう。少々ステレオタイプの説明だが、我慢願いたい。
 古代ヨーロッパの政治秩序を守っていたローマ帝国は、ゲルマン民族の大侵攻、ローマの農業経済の基盤崩壊等によって瓦解、西ゴート族ヴァンダル族に蹂躙されて滅亡。ローマは最終的にはローマ軍の最高指揮権を掌握するローマ皇帝に全権力を集中させたが、ローマ帝国が滅亡した中世ヨーロッパでは「ローマ教皇の権威」と「国王の権力」が並立する二重構造が生まれてくる。ローマ帝国では他宗教や異端思想に対して寛容で、「多神教」が信仰されていたが、キリスト教ローマ市民統合の基軸にしようとしたコンスタンティヌス大帝のミラノ勅令(313)から、段階的に他宗教と共存が難しいキリスト教の影響力が強まっていく。他宗教の信仰を許さないキリスト教がテオドシウス帝の時代に国教化(380)され、ローマ世界から信仰の自由、思想信条の自由が失われていく。テオドシウス帝の時代にミラノ司教のアンブロシウスが宗教的権威として存在感を強め、ローマ世界の最高権力者であるローマ皇帝と対等な立場に立つ。宗教であるキリスト教が、俗世の最高権力者と対峙できるほどの強大な権威をもつ時代が近づいていた。
 古代ローマ人は他民族や異文化を受け入れる寛容の精神を持ち、戦争の敗者を自分たちの社会に同化させ、ローマの勢力圏を飛躍的に拡大させ、アレクサンドロス大王の帝国に匹敵する世界帝国を建設した。古代ローマ時代には、「心の中では何を信じても、何を考えても自由」という思想の自由の基盤が自明の原則だった。しかし、中世ヨーロッパでは、ローマ・カトリックの正統な教義に反する信仰や考えを持つことは罪悪であるという考えが強くなる。これは当時の哲学にも大きな影響を与え、精神的なもの、概念的なものが存在するという実在論によって物事を考える中世では「思考と行動の境界線」が曖昧になっていった。今の私たちには理解し難いことだが、教会や政治権力が道徳的に悪いと定めることを考えるだけでも実際に処罰される可能性があるという危険な状況が生まれたことを意味している(前述の高階言明参照)。
 キリスト教に限らず宗教の特徴は、「個人の内面の自由」に対して基本的に非寛容であり、道徳と法律の境界線が曖昧になることで自由な発言や表現を禁止することである。宗教教義がそのまま罰則のある法律となるような原理主義的政治では、民衆が相互に道徳的な監視を行うことになりやすく、正しいことをしなければ処罰される、悪いことを考えれば制裁を受けるという強迫観念が一般化する。淫らな事柄を想像さえしてはいけない、生殖と無関係な性的快楽は罪悪であるという性的欲求の抑圧というのは、中世ヨーロッパ社会において普遍的な信仰であると同時に法でもあった。信仰心が高い村落共同体は、性を罪悪視する余りに男女差別の観念を集団的に強調し、異端審問の名を借りた魔女狩りや共同体によるリンチなどへと暴走することもあった。また、地方領主自身が率先して神聖裁判や魔女狩りを行うこともあり、中世封建社会では地方領主の権力は絶大で、国王といえども各領主に対して強制力のある命令を下すことは難しかった。ローマ的な実利優先の法治主義は、キリスト教の聖書、教義や信仰に基づく慣習法よりも劣るものと見なされ、「内面の自由、自由意志」は被造物が神の意志を否定する許されない自由だと考えられていた。
 個人の自由な意志と性的な想像力が徹底的に抑圧された中世期にも独自の哲学(=スコラ哲学)が発展する。中世のスコラ哲学は神学の婢女であり、キリスト教の正統性と権威性を証明するという役割をもっていた。スコラ哲学は文献学や理性的な討論を重視した学問を意味するが、神学を論理的、かつ実在論的に補強する哲学だった。批判精神や懐疑主義、そして自由意志を表明できないという意味では、スコラ哲学は不自由な哲学で、最終の解答がわかっている命題を証明するために文献学的、論理学的な証拠をかき集めるという性格を濃厚に持っていた。しかし、キリスト教とスコラ哲学は中世ヨーロッパが分断するのを押し留めた精神的な礎石だった。アリストテレス哲学を使ってキリスト教実在論的神学をつくり出したトマス・アクィナスは、「神の実在」を論理的、文献学的に証明したのである。
 トマス・アクィナスの『神学大全』によるスコラ哲学の完成の意義は、キリスト教の正統教義に対する反論、疑問、異説に対する「解答マニュアル」をつくったことにある。だが、スコラ哲学を基盤とした壮大かつ煩雑なマニュアルは、「精神的な普遍的概念や観念」が「物理的な事物(実際の個物)」に先行して独立的に存在するという実在論を前提にしていたため、ウィリアム・オッカムによる実在論を論駁する唯名論の提唱によって、スコラ哲学自体の根拠が揺らいでいく。オッカムの唯名論によって普遍的概念は「単なる記号(ことば)」と見なされるようになり、人間中心の人文主義の影響もあってスコラ哲学の権威は失われていく。その結果、信仰(宗教)と哲学(学問)の分離が起こり、「主観的な思考(心の内面)」と「客観的な行動」の境界線が明瞭になり出す。
 普遍的概念が実在するという実在論は、理性的な思考によって導かれたイデア的な真善美の規範から、被造物である人間は逸脱してはいけないという行為規範を導き出した。これは、「普遍的な知性に対する意志の従属」という帰結を導き出し、宗教的に正しいとされる知識に反する行動も思考も決して許されないという世界観を作り上げた。中世ヨーロッパでは、人間が自分の行動を自由に選択できるという自由意志の存在を認めず、人間は、イデア(神の実在)のような普遍的な観念の実現に向けて行動するだけの「受動的知性」として定義されていた。しかし、オッカムがその剃刀を駆使して、人間を従属させていた普遍的な観念が具体的な事物を言葉で表現するために用いる「記号」に過ぎないと論じたことで、実在論による自由意志の呪縛が解け出したのである。人間は普遍的な知識に無条件に従うだけの受動的知性ではなくて、自分の人生を自分の善悪観に従って選択できる自由意志を持つ主体的存在(=能動的知性)であると認識することによって、内面の自由が拡大し始めた。
 そして、キリスト教的な禁欲や魂の実在を前提とするヨーロッパ世界の普遍主義は、イタリア・ルネッサンスによって世俗の世界での支配力を失うことになる。中世哲学は「神」ではなく「自我」を理性的思考の出発点とする人文主義にその座を譲り、市民社会形成の基盤となる近代哲学が登場することになる。

ヘビイチゴ

 イチゴの一種。湿気の多い、蛇の出そうなところに生え、蛇が食べるようなイチゴと喩えられたことから「蛇イチゴ」の名になった。別名は「毒イチゴ」で、毒はないがこう呼ばれる。確かに子供の頃はこのイチゴの周りで何度か蛇を見た憶えがある。茎は地面を這い、春から夏にかけて、黄色い花が咲く。イチゴの実はうっすらと甘味を感じるのだが、その僅かな甘さが宙ぶらりんで、酸っぱかったら反応が違うのだが、酸味は一切ないのである。スポンジのような歯触りも相俟って、二度と食べたくない気持ちになるのは私だけか。

f:id:huukyou:20180515051902j:plain

f:id:huukyou:20180515051922j:plain

 

カルミア

 カルミアは、7種からなる小さな属で、北アメリカとキューバに分布する常緑低木です。カルミアの花が開くと五角形の皿の形になり、蕾の様子とは全く異なった印象を与えます。開いた花をよく見てみると、雄しべの先は花弁のくぼみの中に収まっています。この雄しべは、飛来した昆虫などによって刺激を受けると飛び出して、花粉も散るというおもしろい仕組みをもっています。

f:id:huukyou:20180514214538j:plain

f:id:huukyou:20180514214628j:plain

「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか(4)

 「唯識3年、俱舎8年」と言われ、それだけ教義の理解、習得が難しいと言われてきた。私もそれに同感で、部派仏教から大乗仏教が生まれ、盛んに経典がつくられる頃が仏教が最もアカデミックにその教義を体系化しようとした時期で、信仰だけでない真理の追求が行われたと思われる。それ以後、インドでは廃れ、中国、日本で受け継がれることになる仏教にはこの時代ほどのアカデミックな研究はなかった。確かに僧たちは学識豊かだったが、新しい知識を生み出し、教義を体系化し直すことはなく、人々を救済することに関心と努力が払われたのだ。
 仏教の異なる宗派の間での同床異夢の真理観の基本にあるものが龍樹や世親によって議論され、体系化され、それが新たな同床異夢を生み育てていく。この時代が仏教の最もアカデミックな時代だった。

中観派の空観
 信仰を主とする大乗仏教でも、その教義に対するアカデミックな探求が行われた。それを行ったのが中観派で、その祖は2世紀後半から 3世紀前半にかけて活躍した龍樹(ナーガールジュナ)、その主著が『中論』である。龍樹は般若経典般若波羅蜜の解釈を主眼として、空の思想を理論化したのだ。あらゆる存在(一切法)は、縁起によって成立していて、不変の独自性をもたない(無自性空)というのが空思想の主張である。縁起とは、他との関係が縁となって生起するということで、一切が空である理由は、全ての現象は原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものはなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるからである。一切が空であるという主張(空観)はニヒリズムのように聞こえるが、そうではない。「空」と「無」は似て非なるものである。この派が「中観派」と呼ばれるのは、世界を「実在」とする実在論と「無」であるとする唯名論のどちらでもない中道をとるからである。
 では、有でも無でもない「空」とはどのような存在なのか。日常生活で、普通私たちは知覚するものを実在すると考える。そして、何らかのものxが存在していて、それに対して「xがある」と表現される。存在するものは本や机、紙や鉛筆、何でも構わない。だが、それらのあり方について再検討し始めると、存在するという確信はあやしくなってくる。
 存在しているものを極小の構成要素の集まりから見ると、「鉛筆」だったものは鉛筆ではなくなる。逆にそのものからどんどん遠ざかり、はるか遠くから見ると、やはり「鉛筆」の姿は消えてしまう。存在すると思われているものが実は、私たちの眼に見えるものの大きさの次元でだけ成り立っていて、「xがある」ということは、xを見る私たちとxとの関係の上に成立していることがわかる。
*「鉛筆がある」、「鉛筆をつくっているものがある」、「鉛筆に見えたものがある」の「ある」は同じ意味かそれとも異なるのか、というのが肝心の問いである。xはそれを見る私たちとの関係で何かが変わるが、「xがある」の「ある」は同じままではないのか。この疑問だけみても、空論の議論に参加して、その内容を確かめる必要があることがわかるだろう。

 さらに、「xがある」と言うときのxは単語である。普通、xというものがあり、それに対してxという名詞が与えられるのだと考えられる。これがかつては、xには「x」と呼ばれるべきx独自の不変の本質があるから、「x」という単語が適用されると考えられていた。これが素朴な実在論。だが、xの存在は見る私に依存しているので、x独自の不変の本質なるものは、実は存在しない。これが空論の立場。そして、「x」ということばが適用されるのは、xを他のものから識別しようとする心のはたらき(分別)があるからだと主張される。
*この二つの段落の内容は中世哲学と中観派とでよく似ている。「…がある」、「…である」の違いが言われ、「存在する」が特定の述語として分析されてきた。上述のxはよく考えれば指示代名詞の「これ」や「それ」であり、数学での変数なのである。実在か観念かといった問いの立て方自体が誤りで、変数と同じで、それが何を指すかはより総合的な分脈によって決まってくると考えるべきなのである。それゆえ、以下の話の展開も、存在量化子と述語の混同という誤りに端を発したものであることを認識した上で読んでほしい。

 xは他のものとの相関関係において成り立っている。(xは他のものとの相互依存関係によって縁起するものである。)xなるものが「ある」と知られるのは「x」なる名詞にもとづく。(一切は戯論、つまり、言葉のレベルの虚構による。)xは「x」が適用されたもの、すなわち考え出されたものであって、真の意味では存在しない。だが、そこに何もないわけではない。何もなければ、名詞を当てることはできない。だから無でもない。有でもなく無でもない。現象するすべてのものは、そのようなあり方をしている。存在しているが、それ独自の存在を欠いている。いわば、空っぽな存在である。このようなあり方が「空」である。
*確かに見事な方便。有でも無でもないのではなく、指示代名詞であり、何を指しているかの具体的内容が不定であるところに指示代名詞の存在意義があるのである。「これ」、「それ」といった指示代名詞は存在するものの本質を表してはいない。だが、何もないことはなく、指示代名詞によって指されるものがあるという意味で存在しているのである。

 さて、この世界における現象のすべては「縁起」によって起こるが、それらは「空を本質とする(空性)」と説明される。それらは、何かに基づいた仮の生起でしかない。さらに、このようなあり方をしているものは、また「中道」に他ならない。というのは、あらゆるもの、あらゆることがらが、かならず他のもの、他のことがらと「相互に依存する関係」の上にはじめて成立し、自己同一を保つ実体的なものやことがらは何もないからである。このように言葉の虚構の上に成立している現象の世界で、分別を働かせることによって行為が生まれる。煩悩は世界を「空なるもの」と見ることによって、滅することができる。「分別」を否定し、言葉による思考や判断に惑わされることなく、一切を「空」とみるものの見方、これこそが般若波羅蜜、つまり「智慧の完成」である。
 このような立場から、龍樹は世界を構成する要素(ダルマ)を実在とする説一切有部実在論をとる諸学派を鋭く批判した。
*この批判は現在の私たちからは的外れだとしか思えない。だが、指示代名詞xが因果連関の中で意味をもつと考えるなら、結果はまんざら誤りでもない場合が出てくる。

唯識派
 大乗仏教を代表するもう一つの学派が唯識派で、『華厳経』十地品にみられる「あらゆる現象世界(三界)はただ心のみ」という唯心思想を継承、発展させた。4、5世紀のアサンガ(無着)、ヴァスバンドゥ(世親)の兄弟がその代表的な思想家である。唯識という学派名は、一切は心から生まれるもの(識)であると主張する。唯識派の特徴は、心とは何かを問い、その構造を探求した点にある。この派は、瞑想(ヨーガ)を重んじ、それを通じて心の本質を追求した。
 アビダルマ哲学によれば、私たちの存在は刹那毎に生滅をくりかえす(刹那滅)心の連続(心相続)である。唯識派は心相続の背後ではたらくアラヤ識(阿頼耶識)を立てた。アラヤ識は、表面に現れる連続的な意識の深層にあって、その流れに影響をあたえる過去の業の潜在的な形成力を「たくわえる場所(記憶の貯蔵庫)」である。これは瞑想の中で発見された深層の意識であるが、整合的に教義を展開する上で重要な役割を果たした。つまり、無我説と業の因果応報説の調和という難問がこの想定によって解決された。
*刹那滅と意識(心)の持続的同一性を両立させるための工夫が唯識思想の動機だとすれば、刹那滅を疑うのが現代人なのではないか。

 無我説は、自己に恒常不変の主体を認めない。自己は、刻々と縁起して移り変わっていく。すると、過去と現在の自己が同一であるということは、なぜ言えるのであろうか。無我説では、縁起する心以外に何か常に存在する実体はない。これでは過去の行為の責任を問うことができなくなる。これは難問に見えた。解答がなかったわけではない。後に生ずる心が先の心によって条件づけられているということが、自己同一性の根拠とされた。いいかえれば、因果の連鎖のうちに自己同一性の根拠が求められた。だが、業の果報はただちに現れるとは限らず時間をおいて現れることがある。業が果報を結ぶ力はどのようにして伝えられるのか。先の解答はこの点について、十分に答えていない。深層の意識としてのアラヤ識は、この難問を解消した。心はすべて何らかの印象を残す。ちょうど香りが衣に染みこむように、それらの印象はアラヤ識の中で潜在余力となって保たれ、後の心の形成に関わる。アラヤ識が個々人の過去の業を種子として保ち、果報が熟すとき表面に現れる心の流れを形成する。
 これによって、アートマン(自我)がなくて、なぜ業の因果応報や輪廻が成立つのかという問題に対する最終的な解答が与えられた。ところで、アラヤ識自身も刻々と更新され変化する。アートマン(自我)のような恒常不変の実体ではない。しかし、ひとはこれを自我と誤認し執着する。この誤認も心の働きである。これは、通常の心の対象ではなく、アラヤ識を対象とする。また、無我説に反する心の働きである。そこで、この自我意識(末那識、まなしき)は特別視され、独立のものとみなされた。こうして「十八界」において立てられていた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に加えて、第七の自我意識、第八のアラヤ識が立てられた。心は、これらの層からなる統体とみなされた。そして、このような層構造をもつ心の働きから生じる表象として一切の現象は説明された。
*子供や意識障害をもつ人たち、あるいは人以外の生物についてはどのように説明されるのだろうか。このような説明に対してThe Matrixを連想するのは私だけではないだろう。

 一切は表象としてのみある。だが、人は表象を心とは別の実在とみなす。こうして、みるものとみられるものに分解される。このように捉えざるをえない認識構造をもつ心は誤っている(虚妄分別、こもうふんべつ)。虚妄分別によってみられる世界は実体があるかのように構想されたものでしかない(遍計所執性、へんげしょしゅうしょう)。そして、誤った表象をうみだす虚妄分別は、根源的な無知あるいは過去の業の力によって形成されたものである。すなわち他のものによって縁起したものである(依他起性、えたきしょう)。こうして依他起なる心、アラヤ識のうえに迷いの世界が現出する。しかし、経典に説かれる法を知り、修行を積み、アラヤ識が虚妄分別として働かなくなるとき、みるものとみられるものの対立は消え、アラヤ識は別の状態に移り、「完全な真実の性質」をあらわす(円成実性)。
 さて、「遍計所執性」「依他起性」「円成実性」は、あわせて「三性(さんしょう)」といわれる。迷いの世界がいかにして成り立ち、そこからどのようにすれば解脱しうるかを説く唯識の根本教義である。この説明は実証性は全くないが、整合的であり、説得力もある。この唯識思想は『倶舎論』とともに仏教の基礎学として尊重されてきた。
*様々な部派、大乗のどれも異なった真理概念をもっている。これまで簡単に述べただけでも、真理概念はカメレオンの如く、時空が異なればほぼ確実に違っている。真理が一つだけという考えが如何に理想的なものかわかる。それでも、私たちはタルスキーに従って、
Aは真である⇔A
を認め、Aであることを経験的に承認できれば、それはAが同じ真理概念によって承認されていると信じてきたのである。それがどのような概念かは通常は意識されないのである。実在論唯識論、唯名論、観念論のどの立場であれ、Aであるなら、Aは真であり、どの立場かは気にされないのが日常の世界なのである。

チガヤ

 チガヤはイネ科の植物。地下茎が横に這い、あちこちから少数の葉をまとめて出す。葉には細くて硬い葉柄があって、その先はやや幅広くなる。葉はほとんど真っすぐに立ち上がり、高さは30-50cm程になる。葉は冬に枯れるが、東京では残る場合が多い。初夏に穂を出す。穂は細長い円柱形で、葉よりも高く伸び上がり、ほぼまっすぐに立つ。分枝はなく、真っ白の綿毛に包まれていて、よく目立つ。今年は既に画像のように穂が出て、空き地を占領している。
 日向の草地にごく普通に見られ、道端や畑にも出現する。大変生命力の強い、しつこい雑草で、「世界最強の雑草」という称号まである。

f:id:huukyou:20180514044440j:plain

f:id:huukyou:20180514044500j:plain

 

ゴクラクチョウカ

 ゴクラクチョウカは南アフリカ原産の植物で、明治初期に日本に渡来した。「極楽鳥花」という日本語名は、花の姿が「極楽鳥」のトサカに似ていることからこの名前がついた。画像はストレリチア・レギネで、温室育ちではなく、露地物である。オレンジ色の萼(がく)をもち、これがとても目立つ。
 ところで、どうしてゴクラクチョウカは極楽鳥のトサカに似ているのか。動物を呼び寄せるための擬態でありながら、攻撃や捕食を目的としないものがある。オーストラリアのハンマーキッドというランは、その花がある種のハチのメスの姿に似ていることで有名である。その種のオスがこの花を見つけると、花に抱き着いて交尾しようとして、この時に花粉媒介を行う。ゴクラクチョウカについてこのような説明があるのだろうか。

f:id:huukyou:20180513065742j:plain

f:id:huukyou:20180513065810j:plain