「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか(4)

 「唯識3年、俱舎8年」と言われ、それだけ教義の理解、習得が難しいと言われてきた。私もそれに同感で、部派仏教から大乗仏教が生まれ、盛んに経典がつくられる頃が仏教が最もアカデミックにその教義を体系化しようとした時期で、信仰だけでない真理の追求が行われたと思われる。それ以後、インドでは廃れ、中国、日本で受け継がれることになる仏教にはこの時代ほどのアカデミックな研究はなかった。確かに僧たちは学識豊かだったが、新しい知識を生み出し、教義を体系化し直すことはなく、人々を救済することに関心と努力が払われたのだ。
 仏教の異なる宗派の間での同床異夢の真理観の基本にあるものが龍樹や世親によって議論され、体系化され、それが新たな同床異夢を生み育てていく。この時代が仏教の最もアカデミックな時代だった。

中観派の空観
 信仰を主とする大乗仏教でも、その教義に対するアカデミックな探求が行われた。それを行ったのが中観派で、その祖は2世紀後半から 3世紀前半にかけて活躍した龍樹(ナーガールジュナ)、その主著が『中論』である。龍樹は般若経典般若波羅蜜の解釈を主眼として、空の思想を理論化したのだ。あらゆる存在(一切法)は、縁起によって成立していて、不変の独自性をもたない(無自性空)というのが空思想の主張である。縁起とは、他との関係が縁となって生起するということで、一切が空である理由は、全ての現象は原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものはなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるからである。一切が空であるという主張(空観)はニヒリズムのように聞こえるが、そうではない。「空」と「無」は似て非なるものである。この派が「中観派」と呼ばれるのは、世界を「実在」とする実在論と「無」であるとする唯名論のどちらでもない中道をとるからである。
 では、有でも無でもない「空」とはどのような存在なのか。日常生活で、普通私たちは知覚するものを実在すると考える。そして、何らかのものxが存在していて、それに対して「xがある」と表現される。存在するものは本や机、紙や鉛筆、何でも構わない。だが、それらのあり方について再検討し始めると、存在するという確信はあやしくなってくる。
 存在しているものを極小の構成要素の集まりから見ると、「鉛筆」だったものは鉛筆ではなくなる。逆にそのものからどんどん遠ざかり、はるか遠くから見ると、やはり「鉛筆」の姿は消えてしまう。存在すると思われているものが実は、私たちの眼に見えるものの大きさの次元でだけ成り立っていて、「xがある」ということは、xを見る私たちとxとの関係の上に成立していることがわかる。
*「鉛筆がある」、「鉛筆をつくっているものがある」、「鉛筆に見えたものがある」の「ある」は同じ意味かそれとも異なるのか、というのが肝心の問いである。xはそれを見る私たちとの関係で何かが変わるが、「xがある」の「ある」は同じままではないのか。この疑問だけみても、空論の議論に参加して、その内容を確かめる必要があることがわかるだろう。

 さらに、「xがある」と言うときのxは単語である。普通、xというものがあり、それに対してxという名詞が与えられるのだと考えられる。これがかつては、xには「x」と呼ばれるべきx独自の不変の本質があるから、「x」という単語が適用されると考えられていた。これが素朴な実在論。だが、xの存在は見る私に依存しているので、x独自の不変の本質なるものは、実は存在しない。これが空論の立場。そして、「x」ということばが適用されるのは、xを他のものから識別しようとする心のはたらき(分別)があるからだと主張される。
*この二つの段落の内容は中世哲学と中観派とでよく似ている。「…がある」、「…である」の違いが言われ、「存在する」が特定の述語として分析されてきた。上述のxはよく考えれば指示代名詞の「これ」や「それ」であり、数学での変数なのである。実在か観念かといった問いの立て方自体が誤りで、変数と同じで、それが何を指すかはより総合的な分脈によって決まってくると考えるべきなのである。それゆえ、以下の話の展開も、存在量化子と述語の混同という誤りに端を発したものであることを認識した上で読んでほしい。

 xは他のものとの相関関係において成り立っている。(xは他のものとの相互依存関係によって縁起するものである。)xなるものが「ある」と知られるのは「x」なる名詞にもとづく。(一切は戯論、つまり、言葉のレベルの虚構による。)xは「x」が適用されたもの、すなわち考え出されたものであって、真の意味では存在しない。だが、そこに何もないわけではない。何もなければ、名詞を当てることはできない。だから無でもない。有でもなく無でもない。現象するすべてのものは、そのようなあり方をしている。存在しているが、それ独自の存在を欠いている。いわば、空っぽな存在である。このようなあり方が「空」である。
*確かに見事な方便。有でも無でもないのではなく、指示代名詞であり、何を指しているかの具体的内容が不定であるところに指示代名詞の存在意義があるのである。「これ」、「それ」といった指示代名詞は存在するものの本質を表してはいない。だが、何もないことはなく、指示代名詞によって指されるものがあるという意味で存在しているのである。

 さて、この世界における現象のすべては「縁起」によって起こるが、それらは「空を本質とする(空性)」と説明される。それらは、何かに基づいた仮の生起でしかない。さらに、このようなあり方をしているものは、また「中道」に他ならない。というのは、あらゆるもの、あらゆることがらが、かならず他のもの、他のことがらと「相互に依存する関係」の上にはじめて成立し、自己同一を保つ実体的なものやことがらは何もないからである。このように言葉の虚構の上に成立している現象の世界で、分別を働かせることによって行為が生まれる。煩悩は世界を「空なるもの」と見ることによって、滅することができる。「分別」を否定し、言葉による思考や判断に惑わされることなく、一切を「空」とみるものの見方、これこそが般若波羅蜜、つまり「智慧の完成」である。
 このような立場から、龍樹は世界を構成する要素(ダルマ)を実在とする説一切有部実在論をとる諸学派を鋭く批判した。
*この批判は現在の私たちからは的外れだとしか思えない。だが、指示代名詞xが因果連関の中で意味をもつと考えるなら、結果はまんざら誤りでもない場合が出てくる。

唯識派
 大乗仏教を代表するもう一つの学派が唯識派で、『華厳経』十地品にみられる「あらゆる現象世界(三界)はただ心のみ」という唯心思想を継承、発展させた。4、5世紀のアサンガ(無着)、ヴァスバンドゥ(世親)の兄弟がその代表的な思想家である。唯識という学派名は、一切は心から生まれるもの(識)であると主張する。唯識派の特徴は、心とは何かを問い、その構造を探求した点にある。この派は、瞑想(ヨーガ)を重んじ、それを通じて心の本質を追求した。
 アビダルマ哲学によれば、私たちの存在は刹那毎に生滅をくりかえす(刹那滅)心の連続(心相続)である。唯識派は心相続の背後ではたらくアラヤ識(阿頼耶識)を立てた。アラヤ識は、表面に現れる連続的な意識の深層にあって、その流れに影響をあたえる過去の業の潜在的な形成力を「たくわえる場所(記憶の貯蔵庫)」である。これは瞑想の中で発見された深層の意識であるが、整合的に教義を展開する上で重要な役割を果たした。つまり、無我説と業の因果応報説の調和という難問がこの想定によって解決された。
*刹那滅と意識(心)の持続的同一性を両立させるための工夫が唯識思想の動機だとすれば、刹那滅を疑うのが現代人なのではないか。

 無我説は、自己に恒常不変の主体を認めない。自己は、刻々と縁起して移り変わっていく。すると、過去と現在の自己が同一であるということは、なぜ言えるのであろうか。無我説では、縁起する心以外に何か常に存在する実体はない。これでは過去の行為の責任を問うことができなくなる。これは難問に見えた。解答がなかったわけではない。後に生ずる心が先の心によって条件づけられているということが、自己同一性の根拠とされた。いいかえれば、因果の連鎖のうちに自己同一性の根拠が求められた。だが、業の果報はただちに現れるとは限らず時間をおいて現れることがある。業が果報を結ぶ力はどのようにして伝えられるのか。先の解答はこの点について、十分に答えていない。深層の意識としてのアラヤ識は、この難問を解消した。心はすべて何らかの印象を残す。ちょうど香りが衣に染みこむように、それらの印象はアラヤ識の中で潜在余力となって保たれ、後の心の形成に関わる。アラヤ識が個々人の過去の業を種子として保ち、果報が熟すとき表面に現れる心の流れを形成する。
 これによって、アートマン(自我)がなくて、なぜ業の因果応報や輪廻が成立つのかという問題に対する最終的な解答が与えられた。ところで、アラヤ識自身も刻々と更新され変化する。アートマン(自我)のような恒常不変の実体ではない。しかし、ひとはこれを自我と誤認し執着する。この誤認も心の働きである。これは、通常の心の対象ではなく、アラヤ識を対象とする。また、無我説に反する心の働きである。そこで、この自我意識(末那識、まなしき)は特別視され、独立のものとみなされた。こうして「十八界」において立てられていた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に加えて、第七の自我意識、第八のアラヤ識が立てられた。心は、これらの層からなる統体とみなされた。そして、このような層構造をもつ心の働きから生じる表象として一切の現象は説明された。
*子供や意識障害をもつ人たち、あるいは人以外の生物についてはどのように説明されるのだろうか。このような説明に対してThe Matrixを連想するのは私だけではないだろう。

 一切は表象としてのみある。だが、人は表象を心とは別の実在とみなす。こうして、みるものとみられるものに分解される。このように捉えざるをえない認識構造をもつ心は誤っている(虚妄分別、こもうふんべつ)。虚妄分別によってみられる世界は実体があるかのように構想されたものでしかない(遍計所執性、へんげしょしゅうしょう)。そして、誤った表象をうみだす虚妄分別は、根源的な無知あるいは過去の業の力によって形成されたものである。すなわち他のものによって縁起したものである(依他起性、えたきしょう)。こうして依他起なる心、アラヤ識のうえに迷いの世界が現出する。しかし、経典に説かれる法を知り、修行を積み、アラヤ識が虚妄分別として働かなくなるとき、みるものとみられるものの対立は消え、アラヤ識は別の状態に移り、「完全な真実の性質」をあらわす(円成実性)。
 さて、「遍計所執性」「依他起性」「円成実性」は、あわせて「三性(さんしょう)」といわれる。迷いの世界がいかにして成り立ち、そこからどのようにすれば解脱しうるかを説く唯識の根本教義である。この説明は実証性は全くないが、整合的であり、説得力もある。この唯識思想は『倶舎論』とともに仏教の基礎学として尊重されてきた。
*様々な部派、大乗のどれも異なった真理概念をもっている。これまで簡単に述べただけでも、真理概念はカメレオンの如く、時空が異なればほぼ確実に違っている。真理が一つだけという考えが如何に理想的なものかわかる。それでも、私たちはタルスキーに従って、
Aは真である⇔A
を認め、Aであることを経験的に承認できれば、それはAが同じ真理概念によって承認されていると信じてきたのである。それがどのような概念かは通常は意識されないのである。実在論唯識論、唯名論、観念論のどの立場であれ、Aであるなら、Aは真であり、どの立場かは気にされないのが日常の世界なのである。