私が生きる世界(3)

<生活世界は物語の世界>

 自然言語で表現される生活世界は私たちがそれぞれに物語る世界。物語からなる世界は科学が説明する世界とは違って、多世界であり、一人一人がそれぞれの世界をもち、共通の自然言語を使ってその世界で生きている。一方、私たちがつくりだした科学は世界を説明する知識のシステム。だが、そのシステムが世界を解釈することによって描く世界は物語の世界である。生活世界とは自然言語によって表現される世界であり、その表現結果は物語からなる世界である。

 フッサールは科学と生活世界を対立したものと捉えた。だが、今では物語の世界と科学の世界の両立は当たり前のことである。ある人が神話で満足し、疑問をもたないのは、その人が世界を観察し、現象に疑問をもち、他の人とそれらについて話し合わないからだが、なぜそうなったのか。大抵の人には世界を眺め直す余裕などなく、眼前の仕事に追われ、生死をかけて生きていたからである。教育が適切な時期に行われなければ、人は盲信に気づくことはなく、社会的、家族的な眼前の事柄だけにもっぱら気を回すことになる。

 物語を読めば、様々な疑問が出てくるが、その疑問に答えることは物語について説明することである。「物語る」ことと「説明する」こと、「物語を味わう」ことと「説明を知る」こととは違っている。私たちはしばしば自らが物語ること、あるいは他人が物語ることに心を突き動かされて物語の世界に没入する。説明は自ら世界から離れて、外から世界を眺め、距離を置いて述べることである。「描く、語る」ことは確かに「説く、写す」こととは違っている。それは、注釈を必要とする古典画と自ら想像する抽象画の違いでもある。

 

5 私が表象し、行為する生活世界

 私の生活する世界は私が表象し、意識し、記述・説明する世界である。私は学校で習った古典力学を使って物理現象を表象し、記述し、そしてそのような現象の集まりとして世界を理解する。実を言えば、私自身が古典力学を使うのではなく、物理学者が使うのをそのまま私が鵜呑みにするのであるが…兎に角、それが私たちの生きる世界の基本である。このように書くと、私の世界には物理的でないものは何もないような印象を与えるが、私の世界は私が意識できるものをすべて含むような世界であり、私の信念や欲求を含み、併せて他人の信念や欲求も含んだ世界である。生活世界は多種多様なものから成り立っており、日々変化する世界であるが、その世界は物理的な世界を最も基本的なものとして含んでいると多くの人が確信している。[1]中世のキリスト教信者なら神の国こそ自分たちの世界の最も基本的なものと考えていただろう。「時代とともに移り変わること」、それも忘れてならない生活世界の大切な特徴である。現在はと言えば、古典力学が私たちの古典的世界観を生み出し、その世界観が生活世界の基本的な枠組みとなっている。[2]

 神話を信じ、それに従っていた昔と同じように、神話に代わって信じられる理論や知識は神話と同じような地位に置かれることになるが、そのプラグマティックな文脈を明らかにしておこう。神話の内容が真かどうかを探求するのではなく、それを信じ、それに盲目的に従うのと同じように、理論が真かどうかではなく、知ったかぶりして理論を正しいと信じて使うのが私たちの普通の使い方である。[3]神話と科学理論は大変異なるが、それを使って生活する際の使い方にはこのような共通点がある。それは共に「信じて使う」という共通点をもち、それゆえ、二つともプラグマティックに使われ、生きることに同じように役だっている。[4]

 「色とは何か」に答えずに「これは何色か」に答えても何の支障もない。二つの問いの間に優劣はなく、色が何かを知らなくても、これは何色かに答えることができる。これは知ったかぶりが無害であることを例示している。「色とは何か」の答えが探求する知識であり、「これは何色か」は色についての知識を活用して具体的に答えるという相違がある。二つの問いはこの意味で互いに独立している。

 知識についてのプラグマティズムについて一言述べておきたい。A を説明する、Aを探求する、という場合の主題はAである。探求の対象であるAは、A is such that B.のような結果として、Aの知識はBである、として確定する。この時、Bの中に登場するCDはここでの探求の対象ではなく、Aの探求のために使われる知識、つまり情報である。

 

[1] K.ポパーの分類によれば世界は三つに分けられる。その世界1、世界2、世界3の区別(それぞれ、物質世界、意識世界、知識世界のこと)によると、生活世界はそれらをすべて含んだ世界というのが適切ではないだろうか。

[2] 現在の世界は古典力学の成り立つ世界ではないと思われていて、確かにそれは誤っていない。だが、私たちが住む世界はマクロな世界で、その世界では相対論や量子論ではなく、古典力学が成り立つ。宇宙では相対論が、ミクロな世界では量子論が、そして普通のマクロな世界では古典力学が棲み分けているのが現状である。

[3]自分の周りのものが実在していると信じる「素朴実在論、直接実在論」は、理論や知識をプラグマティックに使う際の方法に似た、適応的な省略と考えることもできる。

[4] プラグマティズムの真意は、生活世界で使う知識は探求される知識と違って、それを盲目的に信じて使うことである。知ったかぶりをして使わないと生活できないというのがプラグマティズムの主張である。知覚はプラグマティックな知識に似た仕方で使われ、知覚の仕組みがわからなくても、それを気にしないで使うことができる。そして、見えるものは端的に実在するとプラグマティックに想定しなければ、うまく生きていけない。