変化の歴史(8)

小中生のための哲学(12)

アリストテレスプトレマイオス、ビュリダン

アリストテレスは天体の運動を支配する法則と地上の運動を支配する法則は異なると考えたのですが、ガリレオはそのような区別をしませんでした。彼の慣性概念はアリストテレスの運動の考えと全く正反対でした。慣性の法則によって、飛ぶ矢は空中を飛び続けることができます。でも、摩擦力のためにテーブルの本は手で押し続けなければ止まってしまいます。さらに、慣性概念は質量と速度の積として数学的に表現されます。そして、加速度を単位時間当たりの速度変化とし、ニュートンによって速度、加速度が一階、二階の微分として定式化されます。このような大きな転換がどのように起こり、何を意味していたかを探ってみましょう。

[中世の世界像]

 ヨーロッパではその後プラトン説の採用で、アリストテレスの考えは消えます。1000年ほどの間新プラトン主義が横行し、科学的探求は見かけの現象世界の探求であるゆえに一段低く受け取られました。この時代の文化的、学問的な中心はイスラム世界にあり、そこでは哲学、数学がさらに発展しました。ギリシャの主要な哲学は12世紀以後アラビア語からの翻訳でようやくヨーロッパでも利用できるようになります。アヴェロエス(Averroes)はアリストテレスの自然学をヨーロッパに導入しようとしましたが、キリスト教世界はそれを好みませんでした。例えば、1210年パリ大学は学生にアリストテレスを教えることを禁止しています。13世紀のトマス・アキナス(Thomas Aquinas)によるアリストテレス説の採用は容易ではなかったのです。新プラトン主義では科学的探求は単なる現象世界に関連するだけのもので高い価値は認められませんでした。

 トマス・アキナスは13世紀に教会によるアリストテレス主義の採用に直接関わりましたが、その目的はキリスト教の教義とアリストテレスの哲学、そして科学を統一することによって、単一で、すべてを包容する世界像を打ち立てることにありました。つまり、神学、哲学、倫理、物理学、生物学、天文学すべてを切れ目なく総合することでした。これは彼の『神学大全Summa Theologiae)』によって実行されました。

プトレマイオスコペルニクス革命]

 プトレマイオス(Ptolemy, Claudius Ptolemaeus, 85-165)が著した『アルマゲストAlmagest)』はギリシャ天文学の総合であり、ヒッパルコス(Hipparchus, 190BC-120BC)の成果を伝えています。その第1巻では天動説の説明とその論証が与えられています。例えば、すべての物体は宇宙の中心に向かって落下するので、地球はその中心に固定されていなければなりません。そうでなければ、落下する物体が地球の中心に向かって落下するのを見ることができないでしょう。また、地球が自転していれば、真上に投げ上げられた物体は同じ場所に落下しないでしょう。このようなことが観察できないことから彼は天動説が証明できたと考えました。プトレマイオスの天動説は15世紀のコペルニクス(Nicolaus Copernicus, 1473-1543)の登場までキリスト教社会で広く信じられることになりました。

 プトレマイオスは中心の地球、そして月、水星、金星、太陽、木星土星の順序を受け入れました。その上で、これら天体の運動の違いを従円と周転円を使って説明しました。従円は地球を中心とした大きな円で、周転円はその中心が従円の円周上を動く小さな円です。従円は地球を取り巻き、天体あるいはその周転円の中心がその円周上を運行します。このような複雑な仕組みを考えたのは惑星が見かけ上逆行する現象を説明するためでした。太陽、月、そして惑星は自らの周転円の円周上を動きます。このようにシステムを考えても観察される天体の現象は完全には説明できません。そのため彼は別の概念を導入します。彼は地球が各惑星の従円の中心から僅かに離れており、惑星の従円の中心と周転円が一様な円運動を記述すると考えました。この円運動の中心は従円の直径上にありますが、従円の中心から地球とは反対の方向にあります。つまり、従円の中心は地球とこの円運動の中心の間にあります。さらに、彼は地球から従円の中心までの距離と従円の中心からこの円運動の中心までの距離が同じであると仮定して、観察できる現象の見事な説明をつくり上げました。

 プトレマイオスは惑星が恒星より地球に近いことを知っていましたが、透明の球体の存在を信じていたようで、そこに恒星が張り付けられていました。恒星の球面の外に他の球面が想定され、宇宙に運動力を与える第一動因で最後になっています。

 コペルニクスプトレマイオスのシステムの複雑さに疑いをもち、より単純な説明を求めました。オッカムの剃刀(Occam’s razor)を信じ、多くのギリシャの文献を漁り、太陽が宇宙の中心であるという考えに到達しました。彼はプトレマイオスの理論を棄て、太陽を宇宙の中心に置きます。その結果、天体運動に関してそれ程単純ではありませんでしたが、エレガントな説明をすることができました。

 

(問)天動説と地動説について、「単純である」という美的評価だけで一方の理論が他方の理論より優れていると言えるでしょうか。

 

別の変化は重力システムにありました。アリストテレスは対象がその自然な場所、あるいは宇宙の中心に落下すると信じていました。でも、コペルニクスが宇宙の中心を太陽に動かすと、アリストテレスの理論は変えられねばならなくなりました。例えば、地球が中心の場合、物体の落下は自然な運動でしたが、太陽が中心になると何が自然な運動になるのでしょうか。この問題はニュートンの重力理論によって最終的に解かれることになります。

コペルニクスは地球を宇宙の中心でなくしたために教会から厳しく攻撃されました。地球を一つの惑星に過ぎないと見ることは地球と人間が神の創造によるものだという信念を著しく傷つけたからです。

 

(問)次の各点についてプトレマイオスコペルニクスの説明モデルを比較しなさい。(カッコ内は解答)

天文学者を悩ませた火星の見かけの運動とはどのような運動か。(逆行運動、通常は恒星に対して東に動くのが、逆行して輪を描く運動をする。)

・この見かけの運動を説明するプトレマイオスのモデルとコペルニクスのモデルはどのようなものか。(プトレマイオスは火星が地球の周りを回る軌道をもっているためと説明する。コペルニクスは火星と地球は太陽の周りを円軌道で運行し、地球は火星より内側でより速く、太陽により近くを動くためと説明する。)

・地動説と天動説の論争を解くのに恒星の距離はなぜ重要なのか。(恒星の視差運動がないのは地球が動かないためか、恒星が地球から大変遠くにあるからかのいずれかによって説明される。)

・なぜ初期の天文学者は惑星が円軌道を描くと考えたかったのか。(全く美的なもの。天上の世界が完全で、円はそれに好都合だったから。)

 

[インペトス理論]

運動しているどんなものも何かによって動かされなければなりません(『自然学』VII.1)。 アリストテレスは対象の運動を続けさせるには力を与え続けなければならず、どんな対象の自然状態も静止であると信じていました。アリストテレスの説明では不自然で、暴力的な運動は、外的な起動力の直接的で、連続的な作用を必要とします。常に外から力を直接に働かせてやらなければ、不自然な運動は続きません。ですから、遠隔作用といったものはありません。この起動的な力が働かなくなると、運動は止まります。この考えの問題は、ボールを投げるといった日常的な事柄をうまく説明できないだけでなく、それと矛盾する点です。ボールが手から離れると、それはすぐに止まらなければなりません(なぜか)。でも、実際にはボールは地面に落ちるまでしばらく飛び続けます。これを説明するためにアリストテレスは空気や水のような媒体を使いました。そして、彼はこれらが不自然な力を助けると考えました。ボールの周囲の媒体(普通は空気)が飛んでいるボールの後ろを占め、ボールを押すのです。でも、なぜボールは最後には止まるのでしょうか。アリストテレスの答えは、運動している物体、つまり、ボールは媒体である空気に不自然な力を与え、それによって空気は運動を助けるのと同じように運動に反対する、というものでした。この説明は満足できるものではなく、新しい満足できる説明が追求されることになりました。

ビュリダン(John Buridan [Iohannes Buridanus], 1295/1305-1358/61)は当時の学者の常識的な経歴とは違って世俗的な立場を貫き、生涯を通じて宗教的な関わりをもちませんでした。また、彼の著作のほとんどはアリストテレスの注釈です。彼は言語、論理、形而上学、心理学と多くの領域を研究しています。デュエム等の研究で明らかにされてきた彼の自然哲学はアリストテレス的コスモスの終焉をもたらすのに大きな役割を演じました。彼の力学は投げられた物体の運動を物体に加えられた力を使って説明するインペトス理論(impetus theory)です。アリストテレスは投げられた物が運動を続けるのは近くの(空気のような)外的な原因にあるとしましたが、彼はこれを退け、運動を起こすものから投げられた物体に伝えられる内的な力こそが運動の持続を説明できると考えました。インペトス理論はビュリダンが最初ではありませんが、その説明はアリストテレスの欠点をカバーするものでした。投手がボールを投げると、ボールは投手によって与えられたインペトスによって動き始めます。そして、ボールは抵抗よりインペトスが強い間は飛び続けるでしょう。さらに、抵抗が何もなければ、無限に飛び続けるでしょう。

インペトスは可変の量でその力は速度と物質の量で決まります(運動量はどのように定義されたでしょうか)。ですから、落体の加速度はインペトスの単位の蓄積によって理解できます。でも、その革命的な意味にもかかわらず、ビュリダンはインぺトスの概念を使って力学を再構成することはありませんでした。彼はガリレオの先駆者にはならず、アリストテレス主義者に止まります。彼にとって運動と静止は物体の反対の状態であり、世界は有限でした。

ベネディッティ(Giovanni Benedetti, 1530-1590)はガリレオの同時代人ですが、アリストテレスに反対し、媒体は運動を助けるのではなく、妨害すると主張し、インペトスの考えを採用しました。インペトスは物体を運動させるために物体に移された量です。物体は長くこのインペトスにさらされれば、よりたくさんのインペトスを獲得します。ガリレオはこのインペトスの考えをより整合的なものにしていくことになります。ガリレオは熱に喩えてインペトスを説明します。物体を熱すると、熱が物体に移り、熱が冷めるまで物体は温かいままです。これと同じように、媒体が抵抗して、インペトスを散逸させるまで運動は続きます。