量子力学の哲学

 標準的な量子力学によれば、物理システムの時間発展(time evolution、物理的な対象が時間を通じて運動変化すること)を支配する自然法則が二つあると想定されています。

(1)シュレーディンガー方程式で表現される法則で、それは決定論的な特徴をもっている。
(2)崩壊仮説が適用される法則で、それは非決定論的(確率的)な特徴をもっている。

 決定論古典物理学のもつ基本的な特徴ですが、他の領域にも大きな影響をもっています。例えば、自由意志(free will)についての論争は、私たちのどんな行為も過去の出来事によって完全に決定されるならば、私たちは自由意志をもつことができるのかに答えることを目指しています。決定論によれば、ある時(例えば、現在)の宇宙の状態が、自然法則と共に完全に与えられるなら、他のどんな時の宇宙の状態も計算可能です。そして、自然の物理法則がそのような計算を許すのであれば、それら法則は決定論的な法則です。一方、量子論は非決定論的だと言われます。崩壊仮説(collapse hypothesis)によれば、ある瞬間の宇宙の状態が与えらえても、宇宙が後のある状態になることを(確定的ではなく)確率的にしか計算することができません。
 では、これら二つの法則は両立可能なのでしょうか。上述のように、それらは物理システムの基本的な発展を同時に支配することはできません。したがって、どのような状況であれば、一つの法則が適用でき、他の法則が適用できないかを明らかにしなければなりません。標準的な解答によれば、シュレーディンガー方程式は物理システムが測定されていない時にそのシステムに適用されるのに対して、崩壊仮説はシステムが測定されている場合に適用されます。測定するのは最終的に私たちですから、物理システムは私たち次第で決定論的、あるいは非決定論的となってしまいます。こんな馬鹿なことがあってもいいのでしょうか。「測定(measurement)」概念はうまく定義できません。 測定の過程は、測定を含まない基礎的な物理過程であるようには見えません。では、どのような種類の過程が測定なのでしょうか。波束の収縮、崩壊に横たわる物理的なメカニズムがどのようなものかは理解されていません。量子力学では物理システムがある性質に関する確定値をもたない物理状態にあるのが普通です。その代わりに、システムはある性質に関する異なる値をもった重ね合わせの状態にあると見做されています。すると、シュレーディンガー方程式は重ね合わせの決定論的発展を記述するということになります。また、崩壊仮定は重ね合わせの状態が私たちにより馴染のある確定状態への非決定論的な時間発展を記述することになります。
 このような話をさらに続けようとすると、測定だけでなく解釈の問題も登場することになり、これまで通りの少々見通しの悪い議論が続くことになります。そこで、決定論の見直しからじっくり下準備をして見直してみようというのがここでの戦略です。

運動変化の古典的描像(1)
古典力学の誕生]
 ギリシャ哲学から古典物理学への移行については既に述べたのですが、整理のためにその経過と結果をまとめることから始めましょう。
 天動説と惑星の円軌道という主張の下では、天文学者たちは惑星の運動を説明するために周点円を導入しなければなりませんでした。それでも説明できない場合は周点円の周点円を導入する必要がありました。プトレマイオスはこれらを集大成し、『アルマゲスト』 を著したのですが、これはコペルニクスの革命的な理論が登場するまで規範的な天文学書となっていました。
 コペルニクスプトレマイオスの主張を研究し、その問題点を地動説によって克服しようとしました。その結果は彼の死後に刊行されますが、当時の状況からほとんど無視されました。天体観測による正確な天文表はコペンハーゲン近くの天文台でのティコ・ブラーエによってつくられました。その観測データをもとに天文学を大きく変えたのがケプラーでした。彼は天体の運動をデータに合致する三つの法則にまとめました。最初の二つは『新天文学(Astronomia nove)』(1609)で、最後の法則は『世界の調和(Harmonices mundi)』 (1619)で述べられています。
 ガリレオがいなければニュートンの力学は生まれなかったと言われています。彼は振り子の法則、落体の法則を発見し、球の実験等を行ない、理論と実験の両面にわたって物理学を一新しました。彼が行った多くの実験はその後の実験科学の基礎となりました。また、彼は等速運動の法則も発見しています。彼の主要著作『二つの科学についての対話』(1638)では等速運動の法則と落体の法則を結びつけ、放物線を描く軌跡の証明を行なっています。さらに、彼は望遠鏡を改良し、多くの天体観測を行なっています。デカルトガリレオの等速運動の法則をニュートンの運動の第一法則に一般化しました。ガリレオの研究にこのデカルトの成果が加わり、それがニュートンの力学の研究に統合されていきます。
 ニュートンは『プリンキピア』を1687年に刊行しています。その中で彼は現在ニュートン力学あるいは古典力学と呼ばれている物理学を展開しました。ニュートン物理学の基本となるのは、運動の三法則、重力の法則、絶対空間と絶対時間の存在の三つです。
 ケプラーガリレオの考えをまとめ、物理世界のさまざまな部分の記述を普遍的原理から論理と数学を通じて与えることがニュートンの仕事でした。彼はこれらの原理を明らかにし、そこからケプラーガリレオの主張を運動法則と重力の法則から演繹できるような数学をつくり出しました。ニュートンが後世に残した遺産は演繹的科学の概念そのものです。彼は物理世界の数学的考察が可能であるだけでなく、不可避なものだと考えました。『プリンキピア』で展開された世界の完全なシステムは以後の物理学の基本枠組となりました。
古典物理学の構成]
 運動は私たちの周りに溢れており、運動なしには動物である私たちの生活は立ち行きません。運動は物体の時間的な位置変化だと言われてきましたが、それだけでは運動の理解には不十分です。私たちは運動を経験しています。では、その運動は存在するのでしょうか。パルメニデスは運動が存在せず、それは錯覚に過ぎないと言いましたが、ヘラクレイトスは運動しか存在しないと主張したことを思い出してみましょう。ここではギリシャ以来なされてきた自然変化の追求結果の一つとして、ニュートン革命によってできあがる古典的世界観の中での運動変化の集約をしてみましょう。この古典的世界観は20世紀に入ってしばらくは物理的世界観そのものと信じられ、今でも多くの人にとって物理的自然についての重要な常識の一部となっています。
 まず、古典物理学で描かれる物理世界はどのような構成になっているのでしょうか。その基本要素は多くの研究者によって絞り込まれ、余計なものはすべて消去され、明確にまとめ上げられています。では、どのような世界なのでしょうか。それは、対象(物体)、出来事(相互作用)、そして世界(背景)の三つの基本要素からなっています。何と単純な構成なのでしょうか。では、このような構成からどのように物理的な変化が表現されるのでしょうか。
 私たちが目にする椅子や机、ボールといった物理的な対象は変化する部分と、変化しない部分をもっています。それらの重さや形は刻一刻と変化するものではありませんが、それらの位置や速度といった状態はいつでも連続的に変化することができます。ギリシャ以来、対象の不変の部分はその対象の本質として、可変の部分は偶然的な性質として考えられてきました。ロックの第一性質と第二性質の分類はその代表的な一例です。電磁気学も含めた古典物理学では質量、電荷を不変的な性質として、位置、運動量、エネルギーを可変的な性質として分類します。そして、不変の性質を持つ対象が時間的、空間的に運動変化することを対象の状態変化として記述・説明します。これが古典物理学の変化の表現の基本です。
 対象は互いに相互作用しますが、それは力が対象の外から働くことによって起こり、その変化は出来事として私たちに理解されます。出来事の一連の系列は因果的な変化として表象され、複雑な相互作用は色、形、音といった感覚的な変化を引き起こすことになります。対象の時間的、空間的な変化は背景のモデルである相空間(phase space、物理空間の数学的モデル)の中で表現されます。対象の変化を表現するための相空間は次元、距離、位相、時空といった性質をもっています。相空間は古典物理学の世界像の骨格をつくるモデルとなっているのです。
 形而上学的に語られ、分類されてきた世界についての構成が古典物理学では上述のように極めて単純に整理されています。登場した項目はいずれも変化を考える上で欠かせないものです。特に、状態は対象のもつ可変的な側面であり、時間、空間は対象が異なる状態に変化することを可能にしてくれます。「昨日ここにあった赤いものが、今日は青くなってそこにある」ことが自然で、何の矛盾もないのは時間、空間の存在によってです。「昨日」と「今日」、「赤」と「青」、「ここ」と「そこ」が同じ時刻、同じ場所で成立することは端的に矛盾です。ですから、どのように状態とその変化を記述するかが、状態変化としての運動変化を理解する鍵となります。そして、それは古典物理学では次のようにまとめられます。

観測者に依存するシステムのすべての側面は対象の状態によって記述される。

(問)観測者に依存しない対象の性質にはどのようなものがあるでしょうか。対象の色は観測者に依存するでしょうか。また、「観測者に依存する、依存しない」とはどのような意味でしょうか。

対象と背景の区別ができると私たちは対象の運動を知覚できます。そして、この運動を使って対象や背景を定義することもできます。運動によって対象の状態変化が明らかにされます。

それゆえ、運動の完全な記述には対象とその状態についての完全な記述が必要となる。

ある瞬間の対象はある場所にあります。その対象は運動し、そこでの時間は瞬間から、空間は点からなり、速度の集合はユークリッド的なベクトル空間をつくります。時間は出来事の一連の流れを記述するために導入された概念であり、時間そのものは流れる必要がありません。流れない時間を使ってその中で流れるように見える変化を記述するのです。また、空間は対象のすべての可能な位置の集合です。時刻も位置も連続的に存在しています。このような定義をつなぎ合わせた表現から古典力学の世界が浮かび上がってきます。位置変化の詳細な記述は動力学(dynamics)と呼ばれますが、その記述に必要な連続的な無限が古典力学の最初から仮定されています。ゼノンのパラドクスを運動の存在の否定ではなく、それを正確に記述することができないことの証明だと解釈することができますが、古典力学では仮定される連続的無限とその数学的な性質によってパラドクスが生じないようになっているのです。連続的無限の仮定から、古典力学では任意の量がいくらでも小さい値をもつことができますし、いくらでも短い区間を考えることができます(でも、量子力学ではそうではありません)。

(問)古典物理学において連続的な無限が前提になっていることを示す具体的な証拠を挙げてみなさい。

 運動量は対象がどのくらい距離を変化させるか教えてくれますし、エネルギーは対象がどのくらい時間変化するか教えてくれます。また、不変の質量については、次の二つの概念があります。

慣性質量:対象の運動を持続させる性質、対象の運動変化に抵抗する性質の量
重力質量:近くの対象の加速度に関与する性質、近くの対象によって加速させられる性質の量

加速度はどんな物体でも同じであるというガリレオの見事な論証から、古典力学は上の二つの質量が同じであるという前提のもとで展開されます。力とは運動量の流れであり、力は質量をもつ物体の速度を変えます。
[古典的決定論
 元来、決定論は実在の決定性を主張するものであり、私たちの認識とは何の関係もありません。その決定論と予測可能性を同一視させる理由は古典力学の第2法則にあります。第2法則と、微分方程式のシステムの解が存在して、しかもその一意性を保証する数学的定理とが結びつくことによって、システムの初期条件が定まれば正確な予測が可能であることが数学的に証明できます。これによって、システムの現在の状態から演繹される未来や過去の状態がただ一つ存在することが保証されます。さらに、この決定論は上の予測が実際に構成的に計算可能であるという定理によって強化されます。ただ単に予測が可能というのではなく、実際にその予測を計算できるのです。こうして古典的な決定論は一意的で、正確な予測可能性と同一視されることになります。
 あるシステムの任意の時点での完全な状態は、その完全な初期条件(=その時点の状態の値)を与えることによって決定できます。システムのすべての可能な状態の集合が相空間であったことを考えれば、初期条件とはそのシステムの過去に環境が与えた結果のある時点での状態に関するまとめでもあるのです。
 システムの運動は決定論的ですが、(巨視的な熱力学的過程の)不可逆性と矛盾しません(ミクロな世界では決定論的運動は常に可逆的です)。対象の系列的な変化は唯一つだけであるという信念を古典的な決定論は表しています。決定論を加えて、今までの古典的世界の話をまとめてみましょう。

古典力学は単純な仕方で自然を記述する。対象は恒常的で、時空内に局在する質量をもった存在である。状態は対象の変化する性質であり、空間内の位置と時間的な瞬間によって、エネルギーと運動量を使って記述される。時間は時計によって測られる出来事の間の関係である。時計は位置が観測できる運動の工夫である。空間と位置はメートル棒によって測られる対象の間の関係である。メートル棒はその形が印を使って分割できる工夫である。運動は位置の時間的な変化である。それは決定論的で、何の不思議もなく、保存される。また、運動は重力や他の相互作用によって引き起こされる。

これが古典的変化とその記述のあらましです。