哲学の未解決問題(1)

 まず、哲学の未解決問題は物理学の未解決問題とも政治の未解決問題とも違うものだということから話を始めましょう。どんな問題も解決されるために存在するというのが、個別科学での問題の在り方なのでしょうが、それでは余りに月並みでつまらないというのが哲学であり、哲学はあるパラダイムの中での問題と解答ではなく、パラダイムをつくり、それを疑問視し、パラダイム自体についてせっせと問題をつくるのです。
 となれば、解くために存在するのではない問題があってもよいのではないかということになります。そう考えるのが哲学者というものです。それが哲学的な問いであり、解くのではなく、問題をつくったり、様々な問題の間の関係を考えたりすることに関心をもつのです。こうなると、問題を解くための問題が哲学の問題だということになります。そのような意味では、哲学の問いは本質的に未解決なのです。こうして、問いを解くだけではなく、問いを使って他の問いを考えるのが哲学の仕事になってきたのです。
 これほどいい加減ではないにしても、ある程度はこれに同意して哲学の未解決問題の幾つかを逍遥してみましょう。

(1)意識と感覚経験
 私たちの周りにはさまざまな性質をもった対象が溢れています。どんな性質があるのかを見定め、それら性質の範囲を眺めてみましょう。それら性質は机、岩、樹木といったものに共通する性質です。サイズ、重さ、形態等がそれらに共通するものであり、要するに物質的な性質と呼ばれているものです。他の性質は動物に特有な、多分人間に最も特有な性質です。それらは、意識、感覚、欲求、信念、痛み、快楽、意図といったもので、心がもつ性質です。心身問題とは、これらまるで異なる二つの性質群がどのように一つのものの中で矛盾なく組み合され、結び合わされることが可能なのか、という問題です。
 デカルトは、二つの異なる性質群が単一の対象の中で共存・共栄することができない、と考えました。そのため、彼によれば、人間は二つの根本的に異なる「実体(ラテン語でsubstantia、真に実在するもののことと言われるが、結局なんだかよくわからないもの)」
」からできています。デカルトは第一原因である神以外には何にも依存しないものとして物体(=空間)と精神(=意識)を実体と見做しました。そして、彼は物質という実体は属性として延長をもち、精神という実体は属性として思惟をもつと考えました。この二元論は、近世以降の自然科学の発達に大きな役割を果たしました。それら実体は精神的な実体と物質的な実体です。デカルトは、私たちの心的性質は最初の実体(=心)の性質で、私たちの物理的な性質は第二の実体(=物質)の性質である、と考えたのです。人間は二つの実体からなる合成的なもの、二つの根本的に異なったものの接合、という考えが二元論と呼ばれますが、それがデカルトの選んだ主張でした。

(問)心がもつ性質と身体がもつ性質について、日常生活の中でそれらがどのように異なると考えられてきたか述べなさい。

心と身体は相互作用をしなければ意味がないと私たちは思っています。でも、この相互作用があらゆる種類の問題を生み出すのです。実体概念は今では死語のようなもので、哲学史の研究者以外は使わない概念になっています。そのため、多くの研究者は実体としての心と身体の関係については関心を払わなくなっています。多くの人が関心をもつのは、心的状態と物理的状態の関係です。その典型的な問いが、「痛みの状態はc線維の発火と同じ状態なのか」といった問いです。同一説はこれにYesと答えます。少なくとも、痛みという状態はある脳状態と同一であると答えます。でも、状態についての二元論者はこれを否定します。それによると、同一説の問題は通常次のように表現できます。

1. 少なくともいくつかの心的状態は性質Mをもつ。
2. どんな物理的な状態も性質Mをもたない。
3. もしx=yなら、xとyは同じ性質をもつ(ライプニッツの法則)
4. 心的状態の中には物理的状態でないものがある。

性質Mはさまざまなものであることが可能です。「心的状態は確実に知られる」、「私的なものである」、「性質を感じる」、「状態の中にあるような何かがある」、「それらは生き生きしていて、形もサイズもない」、等々。これらはいずれも性質Mの例として考えられてきたものです。これらは心的性質と呼ばれ、感じたり、意識したり、内観したりできる性質と考えられています。
また、対照的にすべての物理的状態は性質Pをもつと言うこともできます。そして、この物理的な性質Pを使って、ある心的状態は性質Pを欠いていると考えることもできます。この性質Pは物理的性質と呼ばれ、質量や運動量のような物理量に代表される性質です。それら性質はいずれも実験や観察によって間主観的に知ることができ、物理科学の領域で扱うことができるものです。
 有名なジャクソンの知識論証(knowledge argument)を同一説反対の論証として述べ直してみましょう。メアリーの思考実験の前提となる条件やメアリーがおかれた状況はここでは省きます。

1. メアリーは色が溢れる外の世界に出る前に、すべての物理的な事実を知っている。
2. 外の世界に出て、彼女は新しい事実を学ぶ。その事実とは色経験がどのようなものかという知識である。
3. それゆえ、色経験がどのようなものかについての事実は物理的事実ではない。

この論証が正しいとしてみましょう。物理的なものは因果的に閉じています(causally closed)。つまり、物理的な結果はみな物理的な原因をもち、物理的なものは物理的なものから生まれ、それ以外ではありません。もし痛みが物理的でないなら、私たちを苦悶の表情にする痛みの状態はないことになります。痛みの状態にあるためには何か物理的なものが必要です。上の論証をさせたのは色経験をしたからでしょうか。あるいは、色経験は物質的なものに還元できないと主張するのは色経験をしたからでしょうか。そうではありません。たとえ還元できない経験が何もないとしても、上の論証はなされたはずです。これが随伴現象論(Epiphenomenalism)の本質です。上の推論の結論がその主張です。結論3を否定し、1を前提にして、2の否定を帰結すれば、それは同一説となります。

(問)随伴現象論と同一説はどのような論理的な関係にあるのか説明しなさい。

オイディプス王はソポクレスが書いた『オイディプス王』の主人公であり、はからずも自分の母親イオカステと結婚してしまいました。その真相が明かにされると、母イオカステは自ら首を吊って死に、高潔なオイディプス王は、激しい心の苦しみの果てに、みずから両目を突きつぶして、放浪の旅に出ます。この物語は悲劇として有名なだけでなく、エディプス・コンプレックスの語源ともなっています。オイディプスにとって、イオカステを知ることと母親を知ることが同じであるなら、悲劇など最初から存在しなかったでしょう。オイディプスが妻イオカステを知ることと、母イオカステを知ることとは、根本的に異なった知識だと考えることができるところに悲劇の誕生があります。これをヒントに、解決案を考えることができます。例えば、メアリーは白黒の部屋を出る前にすべての物理的な事実を知っていて、その知識には、

私が熟れたレモンをみると、私はある物理状態Lになる、

ことも含まれています。メアリーが部屋を出て、周りをみると、彼女は次のような新しい事実を学ぶと思われます。

熟れたレモンをみると、心的状態Yになる。

ここでYは黄色の経験です。同一論者は、どうしてL=Y、新しい事実=古い事実と返答できないのか、と切り返します。メアリーが学んだことは事実を概念化する新しい仕方です。今や彼女はあたかも「内側から」反応を知るのです。これは新しい情報を獲得することではありません。せいぜい新しい能力を獲得することです。それは古い情報を他の人が知るのと同じように知る能力です。
事実とそれを知る仕方の間の区別は最初の前提にも関連しているでしょう。白黒の部屋に閉じ込められている間の物理的な事実すべてについて知ることからメアリーを妨げているものは何かを知るのは大変困難です。私たちが二つの仕方で知ることができる事実があるとすれば、そのいくつかは片方の仕方でしか知ることができないのかも知れません。恐らく状態Lは、完全に物理的であったとしても、第三者の物理的な表現では有限の表象をもつことができません。メアリーが近づける唯一の方法は知覚的、内観的なものです。

(問)メアリーが知覚経験をもつこととメアリーが何かを経験的に知ることの間にどのような関係があると思いますか。

 こうして、多くの人にとって、精神と身体との相互の関わりの詳細は、自らの寿命のように 知りたくもあり 知りたくもなしの事柄だとなれば、問いに答えることだけに一途になり過ぎてもいけないのかも知れないという気持ちが少しはわかるのではないでしょうか。