越後高田の「第一義」:流れ、淀むその意味(3)

(5)第一義、義、正義、義理人情
 『雪椿』(平成21年p.37)に久島士郎氏が竹澤攻一著『新潟県立高田高等学校沿革史余話』に鈴木卓苗(たくみょう)第9代校長の訓辞が記され、「…偲ぶべき唯一の宝物林泉寺山門の大額に跡をとどむる第一義をそのまま採って以て本校の修養目標と定めたい…」(一部改変)と引用されている。この9代校長とは誰なのか。鈴木校長は1879(明治12)年岩手県稗貫郡湯口村(現花巻市中根子字古舘75)の延命寺に生まれ、16歳で如法寺(曹洞宗)の養子となる。中学卒業後、第二高等学校に入学。東京帝国大学哲学科に入学し、学生時代も参禅三昧、曹洞宗の内地留学もしたという。東大卒業後、まず仙台の私立曹洞宗第二中学校の教諭となり、次いで新潟県新発田中学校の教諭になった。新発田中学校から、新潟県立村上中学校校長に転任し、さらに同県立佐渡中学校校長となる。続いて、同県立高田中学校校長となり、この在任中に自ら率先して全校生による「妙高登山」を始めた。この「全校登山」の行事は、現在の高田高校でも続けられている。その後も鈴木先生は西日本中心に校長を歴任され、昭和15年(1940年)定年退官。
 この(宮沢賢治の詩にも登場した)鈴木校長が「唯一の宝物林泉寺山門の大額に跡をとどむる第一義をそのまま採って以て本校の修養目標と定め」た張本人だろう。曹洞宗、東大哲学科、座禅三昧となれば、「第一義」が採用される状況証拠は相当に強力で、禅問答を敢えて校是に採用したのではないのか。言語レベルの違いを無視した「第一義」は、禅問答にしばしば登場する頓智のような効果をもっている。「第一義」と書き、それを肝に銘じることによって、各人にとっての「第一義」を自覚してほしい、という願いを表現していると解することができる。高校教育の一つとして各生徒に自らの第一義を見出してほしいと言うためには、特定の内容をもつ校是ではなく、「自らの第一義を見出せ」という意味で「第一義」と書くのが効果的なのだと解釈すればいいのである。謙信の第一義が「諸行無常」という仏教の原理だとすれば、それをそのまま生徒に強いるのは酷というより、野暮でしかない。
 もし山門の扁額の文字が「第一義」ではなく、「不識」だったとしたら、どうだろうか。それを鈴木校長が見たなら、「唯一の宝物林泉寺山門の大額に跡をとどむる不識をそのまま採って以て本校の修養目標と定め」たに違いない。「不識」であれば、ソクラテスの「無知の知」とよく似ており、彼にとっては校是として頗る好都合だったのではないか。だが、校是「不識」では生徒たちにはその意味は不識でしかない。幸か不幸か、扁額の文字は「第一義」だった。
 「雲は天にあり 鎧は胸にあり 手柄は足にあり」と謙信は述べたが、これなら座右の銘としてとてもわかりやすい。また、謙信から九代目の上杉鷹山の「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」も多くの人の座右の銘になっている。いずれもわかりやすい主張だが、それらに比べると「第一義」は一筋縄ではいかない、とてもひねくれた座右の銘なのである。禅問答のような文脈を前提にして考えないと、正しく理解できないことは、グローバルな主張ではなく、極めてローカルで特殊な主張になることを忘れてはならない。
 1866年高田藩は長州に出兵し敗れる。帰藩後に藩校「脩道館」を急遽つくるが、慶應義塾が1858年創立であるから、随分と新しい。だが、その意義は上杉藩の「興譲館」とはまるで異なる。そのためか、脩道館を母胎にしながらも、榊原家よりは上杉家への偏愛、謙信への片思いが強く、それが校是に既に現われていたのではないか。それは林泉寺の扁額のみならず、最近の国宝「山鳥毛」の取得についても言えることである。越後の英雄謙信の遺物は春日山には唯一扁額の自筆のみとなれば、それをシンボルとして謙信の生き様を讃え、それを糧にしようということになったのではないか。こんな風な推測が正しければ、「第一義」は謙信を模範に人生を拓けという合言葉、題目のような(越後高田独特の)役割を持って使われてきたことになる。
 指示の因果説を使って「第一義」をクリプキ風に考え、鈴木校長が校是を探しているとしよう。彼は扁額の「第一義」を知り、校是に決める。鈴木校長はそれを友人たちに話す。他の人々が彼に会う。様々な種類の会話を通じて、その名前は結節点から結節点へとあたかも鎖のように広がっていく。この連鎖の末端にいて、上越妙高駅かどこかで「第一義」のことを聞いた話し手は、たとえ最初に誰からそれを聞いたのかさえ思い出せないとしても、「第一義」のことを「謙信のあれだ」と指示することができるだろう。
 命名儀式から順々に社会の中にその名が伝わっていき、その社会が語の意味を持っていてくれる。だから、話し手がその名のみによって名の対象を特定することができなかったとしても、その社会での名の意味の使われ方を確かめることによって名の対象をはっきりさせることができる。
 上越は「第一義」の町である。上杉謙信上越の傑出した英雄であり、その彼が残した自筆の寺額が「第一義」だからである。この「第一義」が高田高校の校是になってきた。上越の人々にとっての「第一義」は、何より市民の誇りであり、観光の目玉として利用できれば、実にありがたいキャッチフレーズなのである。だが、校是としての「第一義」はそれでは困る。「第一義」が何を意味しているか明確でなければならない。
 校是としての第一義は体をなしていないと述べてきた。それは単純に言葉の誤用なのである。例えば、「校是は公理である」は無意味な言明。「幾何学の第一義」なら、ひょっとするとプラトンアカデメイアの校是になり得たかもしれない。鈴木大拙の書名も『禅の第一義』であって、ただの『第一義』ではないし、成城学園の標語も「所求第一義」である。扁額は寺院の山号に見られるように、何かの名前を象徴的に掲げたもので、第一義、聖諦第一義、不識のどれが書かれても不思議はない。謙信が「不識」を扁額に掲げたら、それを校是にしただろうか。「無知の知」ならソクラテスを敬した校是としてわからないこともないが、「不識」では戸惑うしかない。
 『碧巌録』や『正法眼蔵』の「達磨廓然無聖」での「第一義」が扁額の文字の元の意味なのだが、扁額としては何らおかしなところはない。だが、校是となると言葉の誤りとしか言いようのない事態になる。禅問答のようなレトリックは通用しないからである。そこで、「第一義」を補い、本来の「聖諦第一義」にするか、より意味の深い「廓然無聖」にするか考えられないこともないが、いずれも禅特有の不立文字の色合いが強く、校是としては要領を得ないのである。
 謙信の唯一の自筆である「第一義」を謙信を敬う意味を込めて使い、その意味は夏目漱石の『虞美人草』の第一義、すなわち道義、あるいは遡って、謙信から続く米沢藩の「義」の思想と同じものとみなす、という混同が越後高田での「第一義」となってきた。この混同は意図的というより、半ば無意識のものだったと思われる。そこでの大人の対応、あるいは苦肉の策が、字面は謙信の扁額(とその逸話)から、意味内容は上杉の「義」、漱石の「道義」、はたまた義理まで、歴史的に変化する多重基準の採用だった。そして、不思議なことにそれが習慣となり、いつの間にか文化にまでなってきた。故郷の英雄、偉人の後世の使い方としてはうまくいった例なのかも知れない。
 だが、「第一義」が日常語として変化していくにつれ、謙信の「第一義」もそれに引きずられていくことは覚悟しなければならない。とりわけ、校是が世の変化につれ、何を指すかが変わっていくことには誰もが複雑な気持ちになるのではないか。
 禅問答風にまとめれば、これは謙信の「第一義」の風化であり、活用なのであり、その結果、ただの「第一義」にシフトすることである。このことに一同心すべきなのである。