越後高田の「第一義」:流れ、淀むその意味(2)

 道元の『正法眼蔵』の「正法」は、正しい教えという意味で、それは釈迦が説いた「仏法」そのもの。それが教典として「蔵」に納められている。その経典を正しく理解するには、経典を読み解く力、すなわち「知識、智慧」が不可欠。例えば、仏教は生き物を殺してはいけないと教えているが、では生き物を殺すとはどういうことなのか。植物も生き物に含めれば、私たちは生きていくことができなくなる。だから、私たちはこの教えを解釈せねばならず、それには知識、智慧が必要となる。そして、そのような「知識、智慧」を道元は「眼」と比喩的に表現した。曇りなき眼で対象を見たとき、私たちは対象を正しく捉えることができる。蔵に納められた経典も、そのような「眼」で読み取れば、仏の教えを正しく理解でき、それが正に「正法眼蔵」と呼ばれるのである。
 謙信が信じるのはこの禅だけではない。「毘沙門天」への深い信仰は謙信だけではなく、他の戦国武将にもよく見られることからして、真言宗の影響も禅宗に劣らず大きい。それは後日に譲り、その後の「第一義」の意味の変遷に話を移そう。

(3)「義」、戦国武将の「大義名分」、上杉の「義」
<仏教から儒教へ>
 戦国時代の動乱から、江戸時代の平和な時代に移ると、武士の行動原理が仏教から儒教、特に朱子学へと切り変わっていく。儒教の教えには、五徳の精神(仁・義・礼・智・信)がある。紋切り型で比較すれば、仁は人を思いやる心。義は、私欲にとらわれず成すべき事に当たる心(利による行動と対比される)。礼は、仁の人を思いやる心を体現した行い。智は、知識を持つこと。信は、信頼の心。自らは言明を違えずに約束を守り、他者には偽りを言わず誠実である。これでは余りに愛想なしなので、それらを垣間見ておこう。
 仁は人間が守るべき理想の姿。自分の生きている役割を理解し、自分を愛すること、そして身近な人間を愛し、ひいては広く人を愛することが仁である。義・礼・智・信それぞれの徳を守り、真心と思いやりを持ち、誠実に人と接するのが、仁を実践する生き方である。「武士の情け」は、仁から生じたもので、単純に情け深いのではなく、自分には厳しく周囲には寛容に、かつ正義に基づいた慈愛を持って接することである。
 義は人の歩むべき正しい道のこと。義をおろそかにすることは、道を踏み外すことになる。仁を実践する基本として、義を貫くことが不可欠。本当に人を愛し思いやる生き方は、正義を貫いてこそ成り立つ。武士道では、義の精神が重く考えられていた。信玄と謙信の「川中島の合戦」のとき、武田方が敵対する今川・北条側より商人の往来を制限され、塩の供給を絶たれ、これを聞いた上杉謙信は、塩を供給すると申し出る。敵であっても窮状を助けるのが武士で、弱みにつけこむのは卑怯と考え、謙信は義を貫いた。
 人の世に秩序を与える礼儀礼節は、仁を実践する上で大切なこと。親や目上の人に礼儀を尽くすこと、自分を謙遜し、相手に敬意をもつことが礼である。礼節を尽くして人を訪ねるという意味の「三顧の礼」という故事は『三国志』にある。
 智とは、人や物事の善悪を正しく判断する知恵。さまざまな経験を積むうちに培った知識はやがて変容をとげ、智となって正しい判断を支える。より智を高めるには、偏りのない考え方や、物事との接し方に基づいた知識を蓄えることが必要。
 信とは、心と言葉、行いが一致し、嘘がないことで得られる信頼である。嘘のために一度損なわれた信頼を、取り戻すのは難しいこと。たとえ、仁なる生き方を実践していても、人に信頼されないことには社会で生きていけない。
 以上が儒教のごく一般的な説明であり、中でも「義」が謙信以来柱となっていたのが米沢藩だった。
<謙信と上杉の「義」>
 「第一義」、「義」、「義理」はよく似ていて、意図的に混同される場合がよくある。意図的ならいいのだが、無意識に混同されている場合も相当ある。この無意識の混同は習慣として継承されてきたもので、それゆえその矯正は意外に厄介である。習慣的な混同の典型例には次のようなものがある。「山鳥毛を購入しようとする「第一義」はなにか。第一義は、義理人情に篤いという意味ではなく、根本的な意義、価値をいい、大義といってもよい。謙信は「その行為には大義はあるか」という意味で「第一義」と掲げていた。」この例の中では、謙信の第一義は大義のことであり、義理人情の義理ではないという使われ方をしている。このような表現が誤っていることは自明なのだが、この誤りが習慣、伝統、常識になってしまい、(気障な表現だが、特に越後高田では)共同幻想化しているようなのである。
 上杉謙信に関する記述の多くは、「義」について「儒教の「仁・義・礼・智・信」の「義」であり、それは「利」の対局にあるもの」とされている。義は、人間の正しい行動について言われ、義の人とは正義を守る人のこと。大名にとっての「義」とは、「攻める正当な理由」という意味で、「大義名分」である。確かに、上杉謙信は「大義名分」にこだわる武将だった。
 謙信は信濃北部を確保する必要があった。信濃の国境から彼の本拠地、春日山城まで十数kmしかない。本拠地を移せないのは、春日山城下の直江津が彼の大事な収入源だったからである。そこで本拠地を守るために信濃に攻め込む必要があったのだが、彼は武田家に追いやられて逃げてきた信濃の人々を使った。地元の人々をもとの領地に戻す、というのは立派な「大義名分」になるし、彼らは領地を取り戻すために必死に戦う。一方、敵の武田信玄は足利将軍の任命で「信濃守護」になり、信濃国内の敵を追い払う正当な権利、つまり「大義名分」をもった。謙信の長尾家は単なる守護代の家柄で、武田家の守護の家柄の方が格上で、このまま戦っても「大義名分」がない。謙信は上洛して直接足利将軍に会い、「信濃に口を出す権利」を認められ、さらに守護より格上の「関東管領」になった。
 信濃の大部分は武田家の領国として守りが堅く、謙信は関東管領という新たな「大義名分」をもとに関東に攻め込み、領土を増やした。南関東の北条家も強く、今度は織田信長に虐げられている足利将軍を守るという「大義名分」を得て、北陸道を西に、領土を拡大し、今の石川県の半分くらいを手にしたところで謙信の寿命は尽きた。
 「義」とは「利が無くても正しい行いをする」ことであっても、大名にとっては義と利は行動の両輪で、片方だけでは行動できなかった。
 「義」という言葉は古代中国から使われてきた。孔子は「義を見てせざるは勇なきなり」と述べた。「人が道として当然しなければならないことを知りながら、それを実行しないのは勇気がない」という意味です。孟子は「仁は人の心、義は人の道」と説いた。江戸時代になって武士道が確立され、「義」が武士の行動規範にされると、さまざまな著述に「義」の定義が登場する。戦国時代は家臣が主君を追い落とす下克上や裏切りが当たり前の時代である。領地と領民、家臣の暮らしを守り、利益を与えられる強い大名、武将が、人心を集めていた。「義」の精神を掲げる武将などほとんどおらず、人々の心に「義」の大切さが積極的に伝えられるようになったのは江戸時代に入ってからである。
 弱肉強食の戦国時代、謙信は他の戦国大名と比べると、確かに変わり者だった。織田信長武田信玄は同盟を結んでいても、敵対すれば容赦なく攻めた。暗殺やだまし討ちという手段を躊躇いなく使った。だが、謙信はそのような手段を取らない。出兵は大義名分にこだわり、有利な状況というだけで敵国に攻め込もうとはしなかった。一度取り交わした約束事を決して破らない「義理堅さ」を持ち合わせていた。
 だが、関東や信濃への出兵はほとんど徒労に終わり、兵士の損出を重ねただけになる。関東と信濃は北条、武田の勢力範囲になっていき、徒労に終わる出兵が家臣に重い負担を強いる。その結果、有力武将や越後の豪族の反乱に生涯、悩まされた。ライバルの信玄が人の心をつかむことを最優先し、家中の団結を維持したのとは好対照である。
 上杉家は関ケ原の合戦のあと、徳川家康に臣従し、会津120万石の領地を米沢30万石に減封された。さらに、景勝から3代目に当たる上杉綱勝が1664(寛文4)年、後継ぎのないまま死亡すると、15万石に半減させられる。米沢転封以来、財政は逼迫する。これに対し、ライバル武田家は既に滅亡しているにもかかわらず、家康が野戦で敗れた唯一の相手として幕府から高く評価され、甲州流軍学がもてはやされていた。そんな折、定着し始めたのが儒教に基づく「義」の思想だった。信玄との川中島での激闘は講談などで語られ、広く知られるようになっていった。その中で、謙信の義理堅さが次第に評価を高めていき、上杉家も謙信の「義」を積極的に継承していく。
(「義理人情」も江戸時代に広まる行動パターンだが、それが「義」と相俟って上杉藩の中で醸成されたように思われる。後述参照。)
 その継承の結果の一つが藩校「興譲館」の教育方針に表れている。細井平洲と上杉鷹山は学問を興すことによって目指す基本が「譲るを興す」ことにあると考えた。細井平洲は人間にとって最も大切なことは「譲る」、つまり「相手を思いやる」ことであると説いている。人と人との交わりにあっては、この思い上がりの気持ちをなくして譲り合う気持ちをもてば、お互いの心が通じ合い、物事もうまく運ぶと考えたのである。今風に言えば、倫理の基礎を謙信の正義から善へ移行したのが平洲や鷹山なのである。
 高田高校と米沢興譲館高校の違いは謙信と上杉家の倫理思想の違いを表現しているのかも知れないが、「興譲の精神」を第一義としたのが興譲館高校と言ったのでは、越後高田の人々は「では、高田高校の第一義は何か」と改めて問い直すことになる。

(4)「義」から「義理」と「人情」へ
 高倉健がもろ肌ぬぐと、背中の唐獅子牡丹が躍動する。そして、壮絶な斬り合いとなる。やがて健さんが本望を遂げ、表へ出ると、警察が待っている。脇でヒロインのお嬢さんが走り出ようとする。健さんは黙って掴まり、終わりとなる。
 健さんが義理と人情を秤りにかけて悩むのである。お嬢さんとの人情はもちろん、組の連中に対する人情もすべては義理のために犠牲にされる。欧米風には、正義のために幸福が犠牲になるという構図にダブっている。
 その義理が重たいものかどうかというと、大したものではなく、かつて組の親分に一度か二度の恩義をこうむった程度。それでも義理がボディーブローのように効きはじめ、健さんは殴りこむしかなくなる。この義理とは何か。そして、その義理と比較される人情とは何か。義理人情と一つになる場合もあるが、この義理と人情がわからなければ、なぜ私たちが高倉健に憧れるのかがわからないのである。
 ところが、これを適確に指摘するのは至難の技。仮に日本人の根底に流れる心情だろうとしても、それがいつごろできたのか、はっきりしない。。下剋上の中では義理人情を浮き出させるのは困難。そこで江戸の社会があやしいということになるのだが、そうなると、そこには儒教朱子学、武士道や町人思想、あるいは侠客や凶状持ちまで絡んでくることになる。 これまで義理については、「義理とは、当事者が平等の関係にあるばあい、すなわち当事者の地位の差なきばあいのポトラッチ的・契約的社会意識である」が有名。これは従来の津田左右吉の「義理とは意地である」や福場保州の「義理は体面の哲学である」のような印象批評を超えているが、義理は公事、人情は私事」という分類が常識となっている。
 江戸社会では、まず林羅山が義理について「人の履むべき道」と述べ、朱子学が日本に義理を導入した雰囲気を伝える。次の中江藤樹では「明徳のあきらかなる君子は義理を守り道を行ふ外には毛頭ねがふ事なく」となり、儒教が次第に浸透していく。これが大道寺友山では一気に「義理を知らざるものは、武士とは申しがたく候」となる。これは町人文化が台頭し、「利欲にさとき町人」が跋扈してきたため、これに対して「利欲にさときものは義理にうとく候」と見て、武士の真骨頂を称揚するためのものだった。
 これで義理が一般化したかというと、そうではなく、このような義理に関する朱子学的な解釈が急速に薄れ、新たな義理の意味が広まっていくのが江戸社会だった。そのスタートは西鶴の『武家義理物語』であり、その展開は近松によって完全な日本化を果たした。かつて亀井勝一郎が「仮名の誕生によって日本文化の草化現象がおこった」と言ったが、義理こそ「江戸文化の草化現象」の一つと言える。朱子学儒学が正統的な位置から滑り落ちて、まったくそれとは異なった日本的な義理人情の思想の様相を呈したのが江戸文化だった。
*明治以降の「第一義」は3月8日の「越後高田の「第一義」:幕間」を参照。