ライチョウを知る

(昨日のものを補充したもの)
上野のライチョウ
 上野動物園でもライチョウが飼育され、見ることができると述べました。ライチョウの絶滅を恐れ、保護を訴える人たちには、これは青天の霹靂に思えるのでしょうが、一体どのような理由、経緯で飼育されることになったのでしょうか。それを丁寧に解説したのが以下の記事です。6回分に分けて掲載されていますので、順次読んでみてください。
https://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&inst=ueno&link_num=25365

ライチョウの飼育
 上野の動物園でもライチョウが飼育され、見ることができます。上野だけでなく、日本の幾つかの動物園でも然りなのです。ライチョウの絶滅を恐れ、保護を訴える人たちには、これはどうしたことかと映るのではないでしょうか。その理由については、環境省のホームページ「ライチョウ生息域外保全実施計画の策定について」、そこでの幾つかの資料(https://www.env.go.jp/press/press.php?serial=18936)」に詳しく述べられています。補足のPDFの文書は珍しく読みやすく、ライチョウ保護の一端がよくわかります。

ライチョウ総説
 環境省上野動物園のことがわかると、肝心のライチョウについてきちんとしたReviewを読みたくなります。少々時間が立っていますが、中村先生のReviewは信頼でき、知っていれば鬼に金棒。是非読んでみてください。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjo/56/2/56_2_93/_article/-char/ja/

 これまで国立公園をもつ妙高市の課題の幾つかについて書いてきましたが、頚城山塊のライチョウについては述べてきませんでした。理由は至極簡単で、私が鳥類の知識に乏しく、頚城山塊のライチョウを一度も見たこともないからです。それでも、上野動物園に行くとなると気になるのは故郷のライチョウのことです。妙高ではライチョウはどうなっているのかやはり気になるのです。「人里のトキ、山奥のライチョウ」と表現できるように、人にとってトキとライチョウはまるで違う鳥にもかかわらず、絶滅という言葉がついて回るのです。二種類の鳥の運命はひどく違っていながら、見た目はよく似た経過を辿るように見えるのです。

 ところで、ライチョウの飼育や研究で有名なのが大町山岳博物館。やはりライチョウ関連の研究調査が数多く報告され、展示されています。地域に密着した自然観察や研究活動の参考にすべき一例です。妙高市にも同じような博物館があれば、昨年のライチョウ会議だけでなく、子供たちの自然観察や実験の報告をまとめる中心になることができると思われますから、少々残念な気持ちになります。大町の博物館が行う研究、収集も地に足がついていて、日頃の地道な活動が窺えます。妙高にもこのような博物館がほしいものです。
 妙高市、生命地域妙高環境会議、妙高高原ビジターセンター等がまとめた第18回ライチョウ会議新潟妙高大会の報告書を読みたいと探したのですが、簡単な記述程度で、しっかりした報告書は見つからず、紹介いただければ助かります。大町山岳図書館の活動成果は次のものを見ると、よくわかります。
http://www.omachi-sanpaku.com/information/books/

 環境省の「第1期ライチョウ保護増殖事業実施計画」(このタイトルの検索でPDF文書が見つかる)は平成31年3月まででしたが、それを受けて、環境省の今年度計画の活動がホームページに掲載されており、妙高火打山地区の協働型の環境保全活動(http://chubu.env.go.jp/shinetsu/pre_2019/31_1.html)となっています。第1期の計画の一つに大町山岳博物館の企画展があります。展覧会のカタログを遥かに超えた意欲的な冊子が用意されていて、これまでのライチョウ研究が見事にまとめられています。

 これから何度かライチョウについて考え、私見を述べて行こうと思います。その際、トキと対比しながら考えることによって、生物多様性地球温暖化といった概念を国立公園と重ね合わせることによって、何がしか未来について語ることができれば上出来というものです。

センダン

 東京メトロ豊洲駅から豊洲新市場に向けて歩いていくと、歩道に4、5mの木が並び、今その木に花が咲いている。それがセンダン(栴檀)で、センダン科センダン属に分類される落葉高木。別名はオウチ(楝)、アミノキなど。
 樹高は15mにもなり、成長が早い。若い樹皮は紫褐色で楕円形の小さな横斑が点在するが、太い幹の樹皮は縦に裂け、顕著な凹凸ができる。今頃、若枝の葉腋に淡紫色の5弁の花を多数、円錐状につける。花にはアゲハチョウ類がよく訪れるという。秋に楕円形の実が枝一面につき、落葉後も木に残る姿が数珠のようであることから「センダマ」(千珠)の意味でで命名された。
 「栴檀は双葉より芳し」の栴檀はこのセンダンではなく、ビャクダン(白檀)を指す(白檀の別名が栴檀)。残念ながら、センダンの双葉にはビャクダンのような芳香はない。

f:id:huukyou:20190522044256j:plain

f:id:huukyou:20190522044320j:plain

f:id:huukyou:20190522044350j:plain

 

まずはライチョウを知ろう

上野のライチョウ
 上野動物園でもライチョウが飼育され、見ることができると述べました。ライチョウの絶滅を恐れ、保護を訴える人たちには、これは青天の霹靂に思えるのでしょうが、一体どのような理由、経緯で飼育されることになったのでしょうか。それを丁寧に解説したのが以下の記事です。6回分に分けて掲載されていますので、順次読んでみてください。
https://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&inst=ueno&link_num=25365

ライチョウの飼育
 上野の動物園でもライチョウが飼育され、見ることができます。上野だけでなく、日本の幾つかの動物園でも然りなのです。ライチョウの絶滅を恐れ、保護を訴える人たちには、これはどうしたことかと映るのではないでしょうか。その理由については、環境省のホームページ「ライチョウ生息域外保全実施計画の策定について」、そこでの幾つかの資料(https://www.env.go.jp/press/press.php?serial=18936)」に詳しく述べられています。補足のPDFの文書は珍しく読みやすく、ライチョウ保護の一端がよくわかります。

ライチョウ総説
 環境省上野動物園のことがわかると、肝心のライチョウについてきちんとしたReviewを読みたくなります。少々時間が立っていますが、中村先生のReviewは信頼でき、知っていれば鬼に金棒。是非読んでみてください。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjo/56/2/56_2_93/_article/-char/ja/

 これまで国立公園をもつ妙高市の課題の幾つかについて書いてきましたが、頚城山塊のライチョウについては述べてきませんでした。理由は至極簡単で、私が鳥類の知識に乏しく、頚城山塊のライチョウを一度も見たこともないからです。それでも、上野動物園に行くとなると気になるのは故郷のライチョウのことです。妙高ではライチョウはどうなっているのかやはり気になるのです。「人里のトキ、山奥のライチョウ」と表現できるように、人にとってトキとライチョウはまるで違う鳥にもかかわらず、絶滅という言葉がついて回るのです。二種類の鳥の運命はひどく違っていながら、見た目はよく似た経過を辿るように見えるのです。
 これから何度かライチョウについて考え、私見を述べて行こうと思います。その際、トキと対比しながら考えることによって、生物多様性地球温暖化といった概念を国立公園と重ね合わせることによって、何がしか未来について語ることができれば上出来というものです。

マツバウンラン

 マツバウンラン(松葉海蘭)は、ゴマノハグサ科一年草、あるいは二年草。葉の形が松葉、花がウンランに似ているのがこの名前の由来。北アメリカ原産の帰化植物で、京都の伏見で1940年代に最初に確認され、翌年には初めて採集された。現在では北関東、北陸地方以西に普通に見られるようになった。茎は細く、基部で分岐して高さ50cmほどになる。直径1cmほどの紫色の仮面状花を穂状につける。
 既にマツバウンランについてはこのようなことを紹介したのだが、ちょうど今が花盛りで、昨年できた豊洲ぐるり公園(豊洲新市場の周りの公園)の斜面のあちこちで花をつけている。他の花ならうるさいほどなのだが、うるさいと感じないところがこの花のいいところである。

f:id:huukyou:20190521045502j:plain

f:id:huukyou:20190521045524j:plain

f:id:huukyou:20190521045546j:plain

 

命名まつり

 概念、普通名詞、自然種(Natural kind)、ステレオタイプ、パターン、形、形態等、いずれも認識を単純明解にする工夫であると考えられます。どれも一種のマニュアルで、当てはめるだけで機械的に判断できる手立てになっているのです。見ているもの、聞いているものが何かを苦労せずに、ほぼ瞬時にわかることができます。それが既製品の知識と言われる所以なのです。使い捨てができ、手軽に修正もできる知識、今では「情報」と呼んだ方が適切なのでしょう。
 美人、筋肉質、痩身、白髪等々、私たちの身体を形容する名詞、絶景,断崖、高山、雪景色等々、自然を形容する名詞、このような例は枚挙に暇がありません。私たちの普通の認識は既成の概念を組み合わせたもので、それゆえに見ること、聞くことによるストレスは少なくて済むのです。ですから、経験がストレスを起こすほどである場合、その経験は余程大切な経験、あるいは異常な経験ということになります。「辰巳八景」という長唄がありますが、「深川八景」、「江戸近郊八景」等も同じアイデアを使ったパターン化された綺景です。ついでながら、深川八景とは、「二軒茶屋暮雪 袖ヶ浦帰帆 塩浜の秋月 一の鳥居夕照 永代寺晩鐘 木場の落雁 洲崎の晴嵐 佃島の夜雨」であり、江戸近郊八景となると、「飛鳥山暮雪 行徳の帰帆 玉川の秋月 小金井橋夕照 池上の晩鐘 羽根田落雁 芝浦の晴嵐 吾嬬社夜雨」です。
 日本百景日本百名山等々、今でも風景や山水のパターン化された要約は観光と絡み合って沢山あります。では、妙高についてはどうなのでしょうか。それぞれの観光名所をまとめ上げてパターン化してみてはどうでしょうか。七巡り、三滝、三山等々、節度ある命名はタダで自由ですから、いくらでもアイデアは出てきそうです。人は言葉の生き物、ならば、その言葉を駆使して観光に利するのが人には自然なことなのです。
 「命名まつり」とでも銘打って、地元を表現する言葉を適確に増やすのも自然を楽しむ観光には必要だと思うのです。その一方で、昨今このような命名が溢れていて、識別が厄介になっているのも確かです。人は言葉を駆使し、言葉に溺れるもののようです。

ムラサキツユクサ

 ツユクサムラサキツユクサ属に分類される多年草。北米から中南米にかけて約20種が分布し、日本には明治時代に入ってきました。ムラサキツユクサは梅雨の中で大きな3枚の花弁を優雅に広げるのですが、今年は既にしっとりと美しい花を咲かせています。園芸種で種類が多く、色とりどりに競い合うように咲き続けます。
 高さ50cmほどの小さい花の「紫露草」と、高さ1mほどの大きめで色数豊富な花の「大紫露草」がありますが、普通は両方とも「紫露草」の名で呼ばれます。一般的に見かけるものはムラサキツユクサオオムラサキツユクサの交配種です。オオムラサキツユクサの園芸品種もあります。花色は青紫のほか、赤紫、ピンク、白。

f:id:huukyou:20190520042548j:plain

f:id:huukyou:20190520042642j:plain

 

岡倉天心と河鍋暁斎:異なる役割

 2007年は地域振興策の一つとしてバルビゾン村構想があった頃で、岡倉天心河鍋暁斎の子孫の対談が妙高で行われた。この構想はその後すっかり消えてしまうのだが、天心と暁斎の組み合わせには二人のお雇い外国人が関与していて、これら二人を抜きにしては彼らの明治を語ることができないのである。その二人とは、ジョサイア・コンドルとアーネスト・フランシスコ・フェノロサで、共にいわゆるお雇い外国人である。
 人の出会いは偶然に左右されるのだが、出会ったときの年齢の差はその後の運命を決定するほどに大きい。圧倒的に年上の兄貴が暁斎(1831-1889)、ほぼ同じコンドル(1852-1920)とフェノロサ(1853-1908)、そして最も若造が天心(1862-1913)である。私には、暁斎とコンドル、フェノロサと天心の組み合わせの決定的な違いの一つが年齢差だったと思われる。

 ジョサイア・コンドルは、イギリスの建築家。オックスブリッジ出身ではなく、たたき上げの建築家。工部大学校(現東大工学部)の建築学教授として来日(1887)。明治政府の建物設計を手がけ、東京駅を設計した辰野金吾は最初の教え子。河鍋暁斎に師事(1881)して日本画を学び、日本舞踊、華道、落語まで手を伸ばし、いずれもマスターする。1883年設計を担当した鹿鳴館が竣工し、1891年には設計を担当したニコライ堂が竣工。1893年芸妓前波くめと結婚。1894年設計を担当した三菱一号館が竣工。今でもニコライ堂の鐘の音を聞き、三菱一号館のレプリカを見て、修復された辰野金吾の東京駅を歩くなら、コンドルの仕事を身近に知ることができる。
 そのコンドルが『河鍋暁斎』(ジョサイア・コンドル著、山口静一訳、岩波文庫、2006)を著す。これは河鍋暁斎の人生、作品、またその製作技法について書かれた本。日本が生んだ偉大で異色の画家河鍋暁斎について弟子のジョサイア・コンドルが書いたのだ。コンドルが述べるのは二つのエピソード。暁斎が自作の絵画を標準より高額の値段で博覧会に出品すると、ある審査官が苦言を呈した。それに対し暁斎は「この作品は長年の研鑚修行の成果であり、この値段はそのごく一部に過ぎない。」と反論。暁斎の隠居後の作品は雄渾かつ独創的な構想力に溢れ、それ以前の自身の作品を凌駕した。隠居後も「画人としての技倆はいまだ最終的完成の域には達していない」と絶えず口にしていた。これが二番目。
 アーネスト・フランシスコ・フェノロサの専門は政治学や哲学であり、美術が専門ではなかった。コンドルと違って、フェノロサは名門ハーバードの出身で、技術者ではなかった。来日後は日本美術に深い関心を寄せ、岡倉天心を助手にして古寺の美術品を精力的に調査した。来日は1878年で、コンドルが来た翌年である。東京大学では哲学、政治学、理財学(経済学)などを講じた。
 フェノロサが美術に公式に関わるのは1882年のことで、展覧会での狩野芳崖の作品に注目し、1884年には文部省図画調査会委員に任命され、岡倉天心らに同行して近畿地方の古社寺宝物調査を行っている。法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を開扉させた有名なエピソードはこの時のもので、日本美術開帳のシンボルとなった。
 天心については既に何度か述べているので、ここでは割愛することにする。一つだけ妙高絡みで言えば、妙高は天心の終焉の地であり、天心が仕事をした地ではなかったことである。彼がもっと長生きして活躍したなら、その場は確実に妙高の地だったろう。

 人の行為の中で「考える」ことと「つくる」ことは本来分離してなどおらず、「考えてつくる」ことによって一つの作業が完結する筈のものだった。それがいつの間にか、分業なるものが人間社会にはびこり、「考える」ことと「つくる」ことも分かれるようになって久しい。正に悪しき近代化の一例である。そして、「考える」ことだけを受け持つように制約されたのが哲学や思想であり、「つくる」を新しく受け持ったのが工学や技術である。とはいえ、賢い人間は二つの分離は見かけのもの、便宜的なものに過ぎなく、分離したままでは共倒れになるだけであることを熟知していた。
 タイトルの岡倉天心河鍋暁斎はそれぞれ思想家と職人絵師と分類され、近代化された明治期には考える人が天心、つくる人が暁斎ということになる。私自身が考えることを生業にしてきたことから天心に近く、暁斎からは遠いのだが、近年考えることの無力さを痛感している。そのためか、つくることへの老いの憧れが疼いているのである。天心の終焉の地は妙高。赤倉が死に場所ではなく活躍の場所であったらと悔やんでも詮無きことで、よく見る東京駅や三菱一号館ジョサイア・コンドルの影を見て、さらに人気の高くなった暁斎の絵を見ると、フェノロサや天心を身近に感じることができないもどかしさは「考える」ことの当然の結果だと観念するしかないのかと溜息をつくのである。
 「つくる」人はつくったものを長く残すことができる。「考える」人は「考え」が心の中にしかないようにものの形で正確に残すことはできず、せいぜい言葉や画像を使って間接的に表現するのが関の山なのである。唯一正確に残せるとなれば数学化された理論くらいしかない。河鍋暁斎ジョサイア・コンドルの師弟は「つくる」ことによって固く結ばれ、アーネスト・フェノロサ岡倉天心の師弟は「考える」ことで柔らかく結ばれていた。ニコライ堂の鐘の音のような具体的なものがフェノロサと天心にはない。それでも天心の著作、天心の弟子である横山大観らの日本画家たちは多くの日本人の心に今でも強く焼き付いている。
 農業や工業に比べてサービス業が上部構造や砂上の楼閣と受け取られるのは、上述の二組の対によく似ている。「考える」が知的な好奇心にだけ基づいているのに対して、「つくる」は好奇心だけでなく、人の欲求そのものに結びついていて、圧倒的に人は「つくる」に執着するのである。「つくる」は所有につながるだけでなく、「考える」を一部に含むのであり、その逆ではないのである。
 暁斎が師でコンドルが弟子であることは「つくる」で結ばれた二人には重要な関係であるが、フェノロサが師で天心が弟子であることは「考える」で結ばれた二人には無きに等しいとは言わないが、なくてもよい関係なのである。この違いは決定的であり、知識と技術の根本的違いをはっきり示しているように思われる。