数学的な構成と直観:自己流の短絡的なメモ

 カントが数学をどのように考えていたかはずっと気になっていたこと。彼は『純粋理性批判』で数学を「概念の直観と構成による理性認識」と考えているようです。でも、この「直観」と「構成」は多くの人にとっては謎めいた用語です。私が若い頃にHintikka、暫くしてFriedmanの解釈が登場しました。それまでの注釈研究とは違い、私にとっては目から鱗でした。Hintikkaによれば、カントの「直観」は単なる表象を意味し、「構成」はその直観を使って、一般概念を例化(存在量化記号を外すこと、存在例化)することです。例えば、三角形が与えられると、その三角形を表象することが直観であり、単称名辞、つまり固有名aをその三角形の表象を指すために用意しておき、例化によって、「表象された三角形を(暫定的に)aとする」ことが構成です。数学が「総合的」なのは新しい個別的表象の導入が行われるからです。これなら私にも容易に納得できたのです。
 カントによれば、概念をもっぱら分析することが哲学的な認識であり、数学が行うのは概念を直観し、その構成を使って定理を証明することです。哲学は概念を知るだけで、直観を使いません。例えば、哲学者に三角形の概念を与えても、その概念を分析するだけですが、数学者は実際に三角形を作図し(構成し)、その図形の直観を使って諸々の性質を証明できます。哲学者は形式論理学を使うだけですが、それに満足せず、直観と構成を創造的に補ったのが数学者という訳です。幾何学の定理を形式論理を使っただけでは証明できず、図形の助けを借りて証明していたことに着目し、形式論理以外の直観と構成の助けを借りてでき上るのが幾何学理論だとカントは解釈したのです。ラッセルが着目したのは、直観と構成が形式論理学の不備を補うために必要とされたということ。そして、その形式論理学が一新され、カントの数学観は時代遅れになったとラッセルは考えました。
 このラッセルの考えに同意したのがHintikka。数学における直観の役割は当時の形式論理学の不備を補う点にあり、カントの「直観」は具体的な表象や心的な図像のようなものと解釈されていました。でも、Hintikkaが強調するのは個別的な表象としての直観です。個別的なものの表象ならどのようなものでも直観だと彼は考えます。ですから、固有名や単称名辞の指示対象の表象は直観の典型になります。
 カントの直観と構成という語は、ユークリッドの『原論』を使って理解できます。例えば、「三角形の内角の和は2直角である」を証明する際の作図を考えてみましょう。与えられた図形を見るだけでは不十分で、証明する前に補助的な構成をします。つまり、線や図形を作図します。この場合、直観されるのは、作図される特定の線や図形です。新しい個別的な数学的対象が、証明の中に入ってきます。数学が「総合的」であるのは、この「直観を使った構成」なのです。数学は個別的表象の導入を必要としています。そして、これに対応するのが述語論理学の「存在例化規則」なのです。
 まとめれば、図形を表象することが「直観」、表象された図形に名前をつけ、存在例化することが「構成」です。
(このメモが批判されるのは必至ですが、私にとってはこれがカント理解の出発点の一つ。)