ハコネウツギ

 箱根空木はスイカズラ科の植物で、別名はベニウツギ、ゲンペイウツギ。日本各地の海岸近くに自生し、私の住む湾岸地域では庭園樹としてあちこちに植栽され、よく見かける。花期は今頃で、漏斗状の花を咲かせる。アサガオのように花は白からピンク、そして赤へと変わっていく。そして、これら三色が一つの枝に同時に見ることができる(画像)。ゲンペイウツギという名前はこのような色の変化に因む。
 「ウツギ」は、髄が空洞になっているため「空ろ木(うつろぎ)」、それが変化して「空木」になった。また、「ハコネ」とあるが、箱根に多く自生するのではないらしい。

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同じでない保護活動

 人の行動は利己的で、利害が伴うものがほとんどで、性善説では説明できないことになっています。そんな中で、性善説が採用されてきたのが環境保護活動。医療活動と並んで、人の善意がそのまま表れ、悪意は潜んでいないという建前になっています。
 人は「病原菌」をこの世界から抹殺することによって、病気を克服しようとしてきました。敵となる細菌は悪者で、容赦ない攻撃による絶滅が医学研究の目的となってきました。細菌類は人に害を及ぼす限りは悪の根源として絶滅の対象になってきました。
 一方、人に益となる動植物となれば、食料としての生物です。こちらは絶滅とは真逆で、増殖、品種改良を目指す試みが長年至上命令として実行されてきました。雑食で嗜好が多様な人は食を文化にまで発展させ、食べ物の追求を続けてきました。
 人に益にも害にもならないような生物についても、それらが益や害になる生物に繋がり、人にとって全くの中立的な生物となると、むしろ極めて少ないことに気がつきます。生物の進化を考えれば、どの種も互いにつながっているのですから。
 そこで、トキとライチョウの場合に目を転じてみましょう。トキと人の生息域は重なっていましたから、トキの方が人の生活の中によく登場していました。でも、ライチョウと人の関わりはほぼ皆無。また、ペンギンのように愛嬌があり、珍しいために動物園の人気者となる訳でもないのがライチョウ。野生の個体数は0で、動物園にしかいないとなれば、シロオリックス、ハワイガラス、クロスッポン、シフゾウなどですが、これらの動物は動物園で細々と生存していて、病院でしか生きられない人に似ています。それに比べれば、ライチョウはまだ自然に棲息し、個体群の存続が要注意という状態なのです。
 では、人と疎遠なライチョウを保護する意義は何なのでしょうか。生きることが善であり、生物種は絶滅すると再現不可能で、生物多様性に反する、という紋切り型の保護主張を横に置いて考えてみましょう。そうすると、ライチョウを人工飼育までして絶滅から救う意義は何なのか、改めて問い直したくなります。上記のほぼ絶滅種と同じ運命になると予想された日本のトキが実際に絶滅し、中国からのトキの移入、繁殖が行われました。その意義は何だったのか知りたくなります。
 そんなことを考え出すと、環境や分脈に応じて保護に対する温度差に気がつきます。保護の度合い、保護の質が異なり、人は環境や分脈に応じて異なる保護を採用してきたことがわかるのです。
<積極的に治療する保護>
 学名が Nipponia nipponで、新潟県の県鳥になっているトキが絶滅したことへの反応は集中治療そのもので、中国からトキを移入し、人工飼育を行い、放鳥するというものでした。これはトキの積極的復元であり、病気の完治を目指すことに似ています。それでも、日本では2003年に最後の日本産トキ「キン」が死亡し、生き残っているのは中国産の子孫のみとなりました。
<現状を維持する保護>
 ライチョウはトキと違って、人と共存していた訳ではありません。そのライチョウに対してもトキと同じような積極的な保護政策がとられるべきなのでしょうか。医療にも様々な方法があり、積極的な治療ではない、例えばホスピスのような(消極的な)保護も考えられます。絶滅が一方的に悪だと考えることを再考すべき時期でもあるのです。克明な記録の意味も変わり、将来に再生が可能な記録作りができ始めています。このような状況で、私たちの保護活動を再確認してみるべきだと思われます。
<共生しながらの在宅保護>
 「保護する」ことの基本は何なのか、「何のために、誰のために」保護するのか、を考え出すと、どんな生物にも同じ保護が通用するとはとても言えなくなります。それは「どんな患者にも同じ治療が通用する」ことが文字通り正しいから、「異なる患者には異なる治療をする」ことは必要ないと誰も考えないことと同じなのです。ですから、一般的な保護の議論ではない「火打山ライチョウ個体群」の保護が大切になるのです。「火打山ライチョウ」の保護はライチョウ一般の保護と異なるものをもっていて、火打山を自らの自然環境の一つとしている人たちこそが主体的に関わる必要があるのです。新潟県の県鳥トキと長野県の県鳥ライチョウは、国、それぞれの県の具体的な保護政策を考える上では格好の例になっていることは確かです。火打山ライチョウ妙高市民はどのような在宅での保護活動を展開するのか見守りたいものです。

コバノランタナ

 コバノランタナは、ランタナの仲間ですが、葉が小さく(小葉)匍匐性で、枝がよく伸びるところに特徴があります。花はランタナより小ぶりです。ピンクや白の花が一面に咲くと、とても見事で、ツルを利用した楽しみ方がいろいろあります。
 コバノランタナ南アフリカ原産の植物で寒さにはあまり強くありませんが、匍匐性なので画像のようにグランドカバーに利用したり、鉢植えでは匍匐した蔓を下に垂らして育てられたりしています。花期は長く、5月から11月までです。

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少年少女のための論理のルール

 私たち人間は言葉を使って考える生き物です。考える時には好き勝手にではなく、ルールに従って考えています。あなたも私も同じルールを使っているため、お互いに相手の考えが理解でき、わかり合えるのです。では、どんなルールを使って考えているのか、それを探ってみましょう。

(1)
 私たちは言葉を使って考えます(言葉を使わないと考えることができないことを今自分で試してみてください)。その言葉は文法(grammar)というルールをもっています。また、私たちの思考は論理(logic)のルールを使っていて、私たちはそれを使わないと考えることさえできません。ですから、私たちが考える時には、言葉のルールと思考のルール、つまり文法と論理という二つの違うルールを使っていることになります。言葉が違うと文法は異なるのですが、言葉が違っても論理は同じです。では、どうして言葉のルールと思考のルールは同じではなく、異なっているのでしょうか。この問いはとても深遠だなどと痺れる前に、物理のルールや経済のルールも言葉や思考のルールと違っていることを知れば、平静に対応できる筈です。
 文法は退屈なので、言葉のルールの例として定型詩の俳句を考えてみましょう。俳句は季語を入れて作るものですが、一句に入れる季語の数は一つにしておくという原則があります。なぜなら、握り寿司のネタがなかったり、逆に重ねたりすれば、誰も食べないように、俳句の季語はネタにあたる最も重要な句の構成要素だからです。なければ駄目で、むやみやたらに重ねるのも駄目で、寿司を食べる側は、ネタ(つまり、季語)を楽しむことができなくなってしまいます。この月並みな説明に対して、ちらしずしや海鮮丼、パエリアは色んなネタを使っていて、それで寿司とは違う美味しさを生み出しています。寿司はそれぞれの季語が互いに持ち味を打ち消しあい、一句を台無しにしてしまう喩えになりますが、パエリヤはこの反対に、互いに旨味を出し合い、味を深める例になっています。一句に一季語という原則を寛容に捉え、例外を認めると考えた方がよさそうです。つまり、例外を許すだけでなく、時代や状況に応じてルールを変える可能性をもっているのです。これに対して、論理のルールはもっとずっと厳格です。
 私たちは論理のルールを使って何かを考え、話し、互いに意思の疎通を図っています。その際、どのような論理のルールを使っているかなど意識していません。そのためか、どんなルールを使ったかと問われたり、論理のルールそのものを挙げるように言われたりすると、大抵の人はまごつくだけで、うまく答えることができません。例えば、「Aの必要十分条件がBなら、Bの必要十分条件はAである」ことを論理ルールだけを使って説明(証明)せよと言われると、ほとんどの人はまごつき、右往左往するのです。ところが、私たちはその論理ルールを使いこなすことに関してはまず間違うことがありません。ルールを明示的に挙げたり、説明したりできなくても、ルールを正しく使いことに関しては正確に、しかも迅速にできるのです。
 ルールのこのような実践的な学習と習得は母国語についても同じです。日本人は日本語を巧みに使いこなせますが、日本語の文法は学校で習わないとまるでわかりません。子供たちは文法のルールを明示的に知らなくても、正しい日本語を容易につくることができ、流暢に話せるのです。幼児の母国語の使用は暗黙知(tacit knowledge)と言ってもいいのかも知れません。
 このように、論理と言語のルールは使うことができるように習得されているのですが、何がルールかを明確に表現できないというのでは、例えば推論の仕組みをコンピューターでプログラムしたい、他の言語に、あるいは他の言語から翻訳したい場合、困ってしまいます。そこで、まずは論理や言語のルールをはっきり知ることが第一歩になる訳です。では、もっとも基本的な論理のルールに焦点を当てるとどうなるでしょうか。
 論理には直観主義論理、量子論理、多値論理と呼ばれるような、通常の論理ルールとは違うルールからなる論理システムが存在します。これらは、適用される状況が数学的対象の構成、量子世界での粒子の振舞い、真偽以外の値をもつ状況と言ったように、通常の世界や状況とは違った、独特の状況で成り立つ論理システムです。このようなとても特殊な状況は日常生活ではまず登場せず、日常世界では伝統的な古典論理(classical logic)が通用しています。非古典的な論理システムも古典論理とは僅かな違いしかありません。
 ルールを知ることとルールを使うことは表面上はとても異なると述べましたが、論理のルールが何かを初めて明瞭な仕方で表現したのはアリストテレスです。それが三段論法(syllogism)のシステムで、彼の『分析論前書』に述べられています。彼の三段論法のシステムは20世紀の中葉まで大学で「形式論理学」として講義名で教えられていました。それは正しく推論するための技術なのですが、大抵の人は学ばなくても無意識的に習得しているため、退屈極まりない講義の代名詞にさえなっていました。大学に入学したばかりの新入生に日本語の文法を教えるのであれば、まだ少しは意味があるのですが、日本語の文法の現在形の一部だけ教えるとなったら、誰も見向きもしない筈です。アリストテレスの三段論法のシステムは論理のルールの中の(一項述語だけからなる)簡単な代数ルールの集まりで、私たちが既に小学生時代にマスターし、無意識のうちに使っていたものだったのです。
 私が大学に入学したのは東京オリンピックの後でしたが、1年生の時に「形式論理学」を履修した経験があります。数回出席し、あとはつまらなくて放棄したのですが、翌年「記号論理学」を履修し、こちらは記号列の計算で結構楽しかった思い出があります。私のこの経験を落語のように語ると二つの論理学が扱う論理システムの違いが明瞭になってきます(是非、一度は高座で話してみたいものです)。現在の古典論理のシステムは「第1階の述語論理(first-order predicate logic)」と呼ばれ、19世紀末から20世紀にかけてフレーゲラッセルらによって構築されました。アリストテレスのシステムはこの述語論理のシステムの僅かな一部分で、今でも通用する正しいシステムです。さすがアリストテレスで、彼は誤っていなかったのです。でも、適用される範囲が狭すぎ、わざわざ三段論法のシステムを意識的に適用しなくても、常識でことは済むのです。ですから、多くの人がつまらないと感じたのです。
 論理のルールとその使い方を問うような問題を出して今日の話は終了にしましょう。

(1)Aの必要十分条件がBならば、「AかつB」はBの必要条件だろうか。
(2)「どんな人にも嫌いなものがある」から、「誰からも嫌われるものがある」は導き出せるか。

(2)
<代数ルールと量化ルールからなる論理システム>
 論理ルールの具体的な説明。数式を変形し、計算し、答えを出すのと同じように、記号化された言明(論理式、logical formula)を変形し、別の言明を導き出す、これが論理的な推論の一般的なプロセスです。「計算する、証明する、推論する、思考する」といった述語はみな同じ事柄を指すと考えることができ、かつてアリストテレスが述べた、理性的動物である人間の「理性的思考」とはつまるところ、コンピューターの計算機能と同じということになります。これは大いに驚くべきことなのです。長い間、理性や合理性は人間の人間たる所以だと考えられてきましたし、西欧の学問の特徴の一つが合理主義にあったのですが、それは結局のところ計算(computation)がもつ特徴だということになったのです。
 「計算」についての具体的な研究は19世紀にイギリスを中心に始まります。ベンやブールという名前を聞いたことがある人が多い筈ですが、いずれも数学者で、推論の代数的な構造を明瞭にしようとしました。代数的な操作は文と文をつなげたり、分離したりするときの操作で、接続語句がそのカギを握っています。主な接続語句となれば、「…でない」、「…かつ…」、「…あるいは…」、「もし…なら、…である」の四つが代表的なものです。これはどんな自然言語でもほぼ共通のものです。そして、肝心な点は、これら接続語句は四則演算(加減乗除)と真偽(1と0)の計算に関して同じ振舞いをする、ということです。
 アリストテレスは二つの名辞(名詞、項、term)がbe動詞(…である)で結ばれている文を4通り挙げて、それを基本文型にして正しい三段論法(二つの基本文型から別の基本文型を導出する)を分類してみせました。その四つの文型を挙げてみましょう。AとBは共に名辞で、ここに一般名詞を代入すれば、具体的な言明をつくることができます。
(1)全称肯定型:すべてのAはBである。
(2)全称否定型:すべてのAはBでない。
(3)特称肯定型:あるAはBである。
(4)特称否定型:あるAはBでない。
(1)を否定すると(4)に、(2)を否定すると(3)に、(3)を否定すると(2)に、(4)を否定すると(1)になります。これを説明するのが量化(quantification)のルールです。主語の量について否定記号とどのような関係にあるかのルールが量化のルールです。「すべてのxはFである」を否定すると、「あるxはFでない」になると言ったルールで、次のように表現できます。∀は普遍量化記号、∃は存在量化記号、⏋は否定記号と呼ばれます。
∀xF(x) ⇔ ⏋∃x⏋F(x)
∃xF(x) ⇔ ⏋∀x⏋F(x)
⏋∀xF(x) ⇔ ∃x⏋F(x)
⏋∃xF(x) ⇔ ∀x⏋F(x)
例えば、最後のルールは、「Fであるxは存在しない」は「どんなxについてもFでない」と同値である、となります。主語の量的な表現が否定記号と規則的な関係になっているのがわかります。
 四つの基本文型の相互関係を洗い出し、それらを使って正しい三段論法を抽出したのがアリストテレスです。彼はこの正しい三段論法を組み合わせれば普通の長い推論が再構成できると考えたのです。現在の言葉を使えば、一項述語だけからなる言語で表現された推論はアリストテレスのシステムで説明できる、ということになります。一般に述語は何項でも構いませんから、これはとても大きな制約ということになります。例えば、「2は5より大きい」は普通は「2 < 5」と表現され、一般的にはF(2,5)という二項の述語です。「関係」と呼ばれるものは、さらに「AはBとCの兄である」のように三項のもの、さらにはn項の関係が一般的な形です。
 こうして、関係を表現するn項の述語はn個の論理的な主語をもった述語ということになりますが、「一つの文の中には主語は一つ」という文法の鉄則が見事に崩れることになります。論理的な主語と文法的な主語は違っていて、思考、推論するには論理的な主語を信用すべきだということになります。自然言語の文法を信用してはダメだということの教訓そのものなのですが、自然言語を信じてシステムを考えたのがアリストテレスですから、アリストテレスも推論の仕組みを知るには言語表現が大切だと眼をつけた点は見事なのですが、残念なことにそれが自然言語ギリシャ語)だったため、一部しか成功させることができなかったのです。
 日本語は英語、フランス語、中国語などと並んで自然言語の一つで、しかも他の言語との系統関係がわからず、世界で孤立した言語と言われています。ですから、かつては「象は鼻が長い」という文の中に「象」と「鼻」の二つの主語があり、文法さえ脆弱だと馬鹿にされたのですが、複数の主語が一つの文の中にないと関係を表現できないことを考えると、一概に日本語の文法はいい加減だなどと結論できないのです。
 少し難しいことを言うと、第1階の述語論理ではゲーデル不完全性定理が成り立っていて、自らのシステムが矛盾していないことを自ら証明することができませんが、アリストテレスのシステムではこれが可能です。適用範囲は狭くても、その推論の仕方は完全だということになります。
 ここで主語と述語はどんなものか考えてみましょう。これは論理学の仕事というより、解釈や意味論の問題になります。自然数論や実数論に登場する変数x、yは任意のもので構いません。敢えてそれが何かわからなくても計算はできますし、定理の証明には何の支障もありません。でも、私たちの好奇心は「数とはないか」という問いに誘惑されて、その答えを探したくなるのです。主語は、私たちの住む世界の中の物理的な対象で指で指すことができるもの、というのが大方の人が認めるものです。その結果、心的な対象、概念や意識は排除されます。これを少々エレガントに述べると、論理的な主語は代名詞「これ」、「それ」で指すことが容易にでき、確認できるものということになります。ですから、「日本人は日本語を話す」という文の文法的な主語は「日本人」ですが、言い換えると、「どんなものについても、それが日本人なら、それは日本語を話す」となって、「それ」が主語になります。そしてこの「それ」は変数、変項と呼ばれてきたものなのです。数学でお馴染みの変数とは実は代名詞のことなのです。ですから、「実数という集合の中を動くもの」というとんでもない表現はこの際捨て去るのがいいでしょう。
 これで記号言語、人工言語の説明は終わりです。この言語によって私たちの世界についての基本的な表現がすべてでき、言明の間の推論、計算を自動化することも可能です。つまり、私たちの外部世界についての知識を表現し、それを使って推論することができる信頼できる人工言語なのです。この言語を使って数学理論、物理学理論を形式化し、それが実験や観測結果と合うかどうかチェックするという研究のアウトラインが描けることになります。
 誰もが受け入れ、拒絶することができないルールが論理ルールです。人間として何かを考える際、論理ルールを拒絶することは考えることを放棄することと同じことです。私たちは論理のルールを土台にして言語や科学、倫理や宗教の規則をその上に整合的に設けようとします。でも、どの規則も取り換えが可能という点では心底信じることができるという訳にはいかないのです。論理ルールは普遍的でも、他のルールは局所的なのです。そこに人間がこの世界について生み出す理論や思想、宗教や倫理の特徴が滲み出ているのです。でも、そこがスリリングで、私たちを惹きつけるのです。私たちは自由にこのルールが駄目なら、別のどんなルールにするか、こんな議論に熱中する経験を誰ももったはずです。

(3)
<「計算する」ことの意義:思考と計算>
 思考、特に理性的な思考と言われると、誰もが似たような錯覚に陥るようです。理性的な思考こそが人間の人間たる所以だと昔から繰り返されてきて、それが伝統として長く定着していたからかも知れません。そのような理性神話が壊れ去ったのは19世紀末であり、20世紀は理性の新版をつくり、それを具体的に展開する時代でした。
 「計算する(compute)」という述語はほぼ誰もが知っていて、実際に私たちは計算することができます。計算するとは、もしチューリング・マシーンを使うのであれば、左右に限りなく伸ばすことのできるテープの上の一つのマス目に0か1の数字、あるいは空白をつくる操作を繰り返すことによって遂行されます。これは子供の頃に習わされた算盤よりずっと単純な操作の集まりからなっています。計算がこれほど単純な動きの集まりに過ぎないと割り切る人は少なくても、「算術(arithmetic)」は理論というより実用的な技、習得すべき技術だと思われてきました。それに対して、「考える」、「思考する」、「知る」といった述語は人間の誇るべき本性だと受け取られ、それを強調あるいは象徴するかのように「理性」などという概念がつくられ、人間は理性的な動物だと理解(誤解)されてきました。また、「感じる」、「感覚する」は感覚器官を働かせる動作として、理性とは異なることを強調して「感性」という概念がつくられました。そして、感性は動物ももつが、理性は人間だけがもつという(人間中心的な)博物学的区別はギリシャ以来の(科学的な根拠など無視した)伝統的な分類でした。
 人工知能(AI)の典型的なモデルは人間です。ペットでもいいのですが、私たちの関心は圧倒的に私たち自身にあります。人間と同じように感じ、知り、同じように考え、判断する機械の仕組みは単純な計算の組み合わせから成り立っています。人工知能には感性、悟性、理性と言った区別は本質的な区別ではなく、それら機能の違いは同じ計算からなる異なるシステムに過ぎないのです。
 「何かを計算する」という謂い回しは計算にはそぐわない表現です。計算自体は盲目的で十分。計算結果が何を計算したかを明らかにしてくれます。一方、「何かを知る」という表現の「何か」は不可欠で、単に知ることは無意味に等しいのです。ですから、考える、感じる、意識するといった述語は「志向的(intentional)」と言われてきました。それは考える対象、感じる対象、意識する対象がないと意味不明だからです。あるいは、それが私たちに備えつけられた能力で、外の世界との関わりを保持するための工夫なのだと考えることができなくもないのですが、「計算する」は志向的ではなく、外界を必要としません(この自己完結性は計算の利点であるとともに、欠点でもあります)。
 私たちはAIにどう対処すべきか戸惑っています。その理由をかいつまんで言えば、同じものなのに違った説明、理解がなされているからです。「私たちは何なのか」についてのギリシャ以来の説明は迷走だらけでしたが、それでも人間を知りたいという点では一致していました。その結果、人間は心をもち、理性をもち、自由意志をもち、責任と権利をもつもので、単なる機械ではないという考えに強い反対はありませんでした。
 AIは機械であり、人間がつくります。そのAIがチューリング・テストをクリアーし、人間と同じように振舞うことができるのは直ぐ先のことです。その基本は計算であり、単純で盲目的な計算がAIを人間並みにしているのです。
 さて、ここからが哲学的な思索。「計算する」というのは一体どのような述語なのでしょうか。むろん、それは最終的には数論に帰着するのですが、哲学者は明らかに「計算する」ことをバカにしてきました。カントもヘーゲルも計算に特段の関心を寄せたとは思えません。でも、19世紀末から数学の基礎に関する議論は一変します。フレーゲラッセルらの論理学の研究はゲーデルチューリングの数学の基礎に関する研究、つまり、計算理論へと結びつくのです(算術化)。
 ゲーデル不完全性定理や万能チューリングマシーンは「考えることが計算する」ことであることを説得的に説明するだけでなく、カントのアンチノミーのような推論を数学的に昇華し、人間の合理的思考のシステム(算術を含む論理システム)の不完全性を計算によって証明することになりました。
 感じ、考え、決断することは、基本的に計算することです。これがAIという考えの基本中の基本です。これほど明晰にして判明な結論を20世紀になるまで私たちは知りませんでし。人間の本性はかつて合理性に求められたのですが、計算に求めるべきなのです。人間とは計算する生き物なのです。

*これまでの話の中に登場した哲学者、論理学者、数学者の名前は以下の通りで、本文中では一切説明がありません。ですから、彼らについてWebで検索してみてください。
アリストテレス、カント、ゲーデルチューリングフレーゲ、ブール、ヘーゲル、ベン、ラッセ

ストレリチア・レギナエ

 けばけばしい鳥の頭部かと見誤るような不思議な物体に見えます。でも、れっきとした植物の花です。正体は枯れ尾花ではなく、ストレリチア・レギナエ(Strelitzia reginae)。和名は極楽鳥に似ていることから「極楽鳥花」。花は鮮やかなオレンジ色の萼と青色の花弁からなり、温度を保てば周年開花し、切り花としても人気があります。レギナエは高さ1mほどで草丈は高くならないのですが、ほかの種類のストレリチアは10mほどにもなります。寒さにも比較的強く、海沿いの霜が降りないような暖地では戸外でもよく冬越しします。極楽鳥はニューギニアなどに生息する鳥ですが、ストレリチア南アフリカ原産。今では世界中の暖地で栽培されています。

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君はカオスを見ることができるのか?

 「カオス」という言葉は流行語になったこともあり、今でもあちこちでよく使われている。ケイオスと言うと通じないのは、バイルスと同じで、ウィルスだと通じるのとよく似ている。アプリオリだと通じるのだが、アプライオライだと通じないのにも似ている。だから、「これはケイオティックだ」などと言わない方がいい。兎に角、20世紀後半から流行するこの言葉の意味は何だったのか。カオスはギリシャ神話に登場する原初神で、「大口を開けた」、「空虚な」を意味していたが、君はそのカオスを見ることができるのだろうか。
 カオスが混沌を意味していると言われて、成程と納得できる人はいないだろう。混沌と言われても、わからないカオスを同じようにわからない混沌で置き換えたに過ぎないからである。混沌は見えそうで見えないし、これこそ混沌の見えだという例も見つからない。つまり、カオスを現象として知覚することはできず、想像するしかなく、想像したとしてもケイオティックで混沌としているのである。君がカオスを見たかどうか断言できないとなれば、タイトルの問いには答えられないし、カオスを見るのではなく、カオスを知ろうということになる。そこで、科学概念としてのカオスの起源の一つを振り返ってみよう。
 仮説とそこからの推論の例としてハエの人口動態について考えてみよう。仮説を効果的に適用し、それを験証することは、モデルをつくり、具体的に記述、説明、予測することによって行われる。実際の観察から、「ハエの個体数は前の年の個体数によって決まる」ことがわかったとしてみよう。この事実はNt+1 = F(Nt)と表現できる。t年の個体数Ntt +1年の個体数Nt+1を決める関係Fが、t年の個体数に関してt+1年にR倍になるとすると、Nt+1 = RNtとなる。これは線型(形)の方程式で、Rの値によって個体数は異なる変化を描くことになる。だが、実際はハエの個体数が増えると次第に食物が減り、捕食される率も高くなり、単純な比例関係にはないだろう。そこで上の仮説を修正するために、Rの代わりに(R – bNt)という関数を選んでみよう。係数bは集団が大きくなるにつれ、成長率が減少する割合を示している。前の式を書き換えると、Nt+1 = (R – bNt)Ntとなる。この式は非線型で、不思議なことにR = 3.570のとき、それまでの安定した周期的なサイクルからカオス的な振舞いに変わる(ロジスティック写像あるいはロジスティック方程式と呼ばれている)。この式は「Ntの値が一つ定まると、Nt+1の値も一つだけ定まるという意味で決定論的な式である」が、N0の値が僅かでも異なると、数世代後の個体数はすっかり異なってしまい、長期にわたっての正確な予測ができないことを示している。これが初期状態への鋭敏性といわれ、カオスのもつ特徴である。
 これはカオスの一例に過ぎないが、カオスの知覚ではなく、カオスを生み出す仕組みである。このようなカオス発生の仕組みは様々にわかっている。私たちの知覚は何かを知覚することをもっぱら課題にしてきた。知覚するとは何かを知覚し、その何かを知ることを目指している。知覚は志向的であり、何かを知ることをターゲットにしているのだが、それが混沌であると、何を知るのかがわからなくなる。それを解決したのが上記のような捉え方である。カオスを知るとはカオスを発生させる仕組みを知ることなのである。
 カオスの知覚だと哲学者の遊びのように聞こえるが、カオスの経験の例として気象現象を考え、強力な低気圧の中での経験となれば現実味を帯びてくるだろう。

テイカカズラ(定家葛)

 テイカカズラキョウチクトウ科テイカカズラ属の有毒植物。6月頃に開花と言われるが、有明では既にあちこちで花を咲かせている。花ははじめ白く、次第に淡黄色になり、ジャスミンに似た香りがある。花は7月頃いったん途絶えるが、その後新しい枝が伸びてまた開花する。解熱の薬効がある。
 名前は謡曲の「定家」に由来する。式子内親王を愛した藤原定家が、死後も彼女を忘れられず、ついに定家葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説(能『定家』)に基づく。僧侶が夕立にあい、雨宿りで駆け込んだのが、歌人の「藤原定家」が建てた家。どこからか女性が現れ、語った。「藤原定家式子内親王を慕い続けていたが、内親王は亡くなってしまい、式子内親王を想う執心が葛となって内親王の墓にからみつき、内親王の霊は苦しんでいる。」僧侶の読経によって成仏できたが、このからみついた「葛」に「定家葛」の名前がつけられた。

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