アウグスティヌス再考:時間を捉える(3)

過去と未来が存在せず、現在だけが存在するという主張=現在主義
 時間は普通、現在、過去、未来に分けられる。だが、アウグスティヌスは現在のみが存在すると考えた。これはどういう意味なのか。アウグスティヌスにとって、現在の時点が過去になるならば、それは存在せず、また、あることが未来であるのならば、それはやはり存在しない。なぜなら、過去はもうすでに過ぎ去って消えているし、未来はまだ到来しておらず、経験していないからである。さらに、アウグスティヌスは「……存在するすべてのものは、どこに存在しようとも、ただ現在としてのみ存在する」と述べている。つまり、過去や未来も、それ自身が現在となる時点では、現在として存在する。だが、時間が経過し、現在として存在するという時点が過ぎ去ると、たちまち過去となり、存在しなくなる。
 過去は、それが現在であったとき、存在するということが成立していて、未来は、それが現在となるとき、存在するということが成立するようになる。しかし、その時点で過去や未来の場合、過去はもう存在せず、未来はまだ存在しない。このような考えは現在主義(presentism)と呼ばれている。アウグスティヌスは現在主義の立場から、過去、未来の非存在を唱えた。
 アウグスティヌスによれば、神は過去、現在、未来を同時にすべて見ることができるが、人間には現在だけしか存在しない。ここで一つ疑問が生じてくる。未来は私たちがまだ経験していないことだから、まだ存在しないと考えても違和感はないのだが、過去が存在しない、過去になったその瞬間に存在しなくなるというのは、どのようなことなのか。私たちのように時間の中に生きるものは、過去に遡ることができない。なぜなら、過去の時間は、過去であるので、もう存在しないからである。一瞬前の私はもう存在しないし、机にしても、現在目の前にあるのは、現在の机であって、一瞬前の机ではない。この考えに納得できる人は少ないと思う。それが正しいとすれば、私たちは持続した知覚を持つことができない。だが、私たちの知覚は持続し、バラバラにはならず、今あるものと以前にあったものは同じで、時間が過ぎ去ったと感じることができる。これはどのようにして可能なのか。
 過去や未来は存在しないので、計測して長い、短いなどということはできず、過去、未来の時間は計測することができない。だが、私たちは「病院の待ち時間が長かった」、「この仕事は長くかかるだろう」などと言うことができる。なぜなら、それはただ現在であったそのとき、長かったからである。もう過ぎ去ってしまったり、まだ到来していなかったりした場合は、存在しないので、長く存在することもできない。だが、現在は存在するので長くあることができる。私たちが経験していた(経験するだろう)その過去や未来は、経験しているその時点では過去や未来ではなく、現在だった(現在である)のである。さて、ここまでは現在が計測できると想定しているが、実際に現在の時間は計測できるのだろうか。アウグスティヌスはできないと考えた。時間を計測するには、その時間がある一定の長さをもっていなければならない。アウグスティヌスは、現在という時間が持続するかどうか考察した。彼によれば、百年が現在のままであるかどうか考えると、最初の一年が経過しているとき、その一年は現在だが、他の九十九年は未来である。第二年が経過しているとき、最初の一年はすでに過去であり、次の一年は現在であり、他の年は未来である。だから、百年は現在であることができない。同じように、一時間も同じように過去と未来に分かれるので、現在という時間は一時間の長さももたないということがわかる。このように、現在が少しでも持続している、幅があるなら、それは過去と未来に分かれる。アウグスティヌスが述べているように、現在と私たちが呼んでいる中で、すでに経験したものは直ちに過ぎ去り、過去となり、これから経験するものは未来となるので、現在という時間は持続しない。私たちが普段考えている、長さを持つように見える現在は、習慣的な思考が産み出したものに過ぎない。
 アウグスティヌスは時間を計測できる条件について、次のように考えている。私たちは、現に過ぎ去っている時間しか計測できない。また、物体の運動の始点と終点を知覚しているときのみ、時間を計測できる。アウグスティヌスは、現に過ぎ去っているとき、かつ、その始点と終点を知覚していなければ時間を計測することはできない、と考えている。彼の考えを確認してみると、私たちは知覚することによって、時間を測るので、すでに存在しない時間や、まだ存在しない時間は知覚できず、測ることができない。だから、知覚できる今の時間だけを測ることができるということである。また、始点と終点を知覚していなければ、長い間物体の運動を見ていたとしても、いつ始まったか、またはいつ終わるかがわからないので、それが長いということは言えても、どのくらい長いかを測ることはできない。そのため、物体の運動の始まりと終わりを知覚することが不可欠となる。これまでの考察から、過去、未来は存在しないので、現に過ぎ去っているものでない上に、始点と終点も知覚できない。また、現在も幅を持たず、一瞬のうちに過ぎ去ってしまい、もはや過去になってしまうので、現に過ぎ去っているときに計測することは不可能であり、始点と終点を知覚することもできないということがわかっている。よって、アウグスティヌスの考えに従えば、時間は計測できないという結論が出てくる。
 アウグスティヌスの現在主義では、存在するのは現在だけなので、過去や未来は存在しない。だから、存在しないものについて語ることはできないので、過去や未来について私たちは何も語ることができない。そうであるにもかかわらず、私たちは日常、過去や未来について当然のことのように語ることができる。アウグスティヌスは、この矛盾を回避するために、「過去と未来を別の姿で現在のうちに捉える」という解決策をとった。過去は記憶、未来は期待として現在に存在するとした。だが、ここに疑問が出てくる。過去は、記憶として現に存在すると言われるのだが、忘れたものについては、どうだろうか。忘れたものは、記憶として残っていないので、完全に存在しないということになるのか。神は、すべてを知り、把握しているので、人間が忘れたとしても、神はすべてを見ているので存在しないことにはならない、とアウグスティヌスは答えるのではないだろうか。だが、私たちが知りたいのは認知症の人の過去や、人間の忘れる記憶についてである。
 アウグスティヌスのこのような議論は失敗なのだろうか。私は成功していないと思う。

 日常生活では時間を使って運動を測る。では、時間は、どのようにして測られるのか。アリストテレスは運動を使って時間を測ると考えたが、アウグスティヌスは、時間を心の延長として捉え、心の内で時間が測られると考えた。彼は、過去、現在、未来がそれぞれ存在するということも、過去、未来は存在しないということも正しくなく、過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在すると主張する。過去のものの現在、未来のものの現在とは、現在に存在するものとしての過去、現在に存在するものとしての未来という意味。残された記憶、現れる期待というように、共に心に刻まれた印象である。そして、心の内で現在に対応するもの、つまり、現在のものの現在は、直観である。これら記憶、直観、期待は、心の内に刻まれた印象として、私たちの心の中に現在的に存在するものである。私たちはこれらの印象を測ることによって時間を測っている。印象は、記憶も直観も期待もすべて現在的に存在するので、運動し始める始点を記憶として心の内に刻み込み、残しておくことができ、その始点の記憶と終点の直観との間を測ることができる。そのため過ぎ去っているときに始点と終点を知覚できる。よって、時間を計測できる条件が揃っているので心の内に刻まれた印象を測ることによって、時間の計測が可能となる。これがアウグスティヌスの考えである。
 現在は幅を持たなく、一瞬のうちに過ぎ去って存在しないものとなるので、計測することはできないが、印象はすべて心の内に現在的に存在するので、過ぎ去って消えてしまうことはない。少しでも延びている時間は、過去、現在、未来と分かたれ、それぞれ記憶も直観も期待として心の内に刻まれるので、その中で幅を持つことができ、計測できる。アウグスティヌスは、私たちが過ぎ去っていくときに心に刻まれた印象を測ることによって時間を測っている、という結論を導き出した。
 アウグスティヌスは、心において時間を測ろうとしているので、この時間は心の内に存在し、心により測定される内的時間である。アウグスティヌスは、時間が心がなくても存在するような外的なものではなく、心と密接に関係した内的なものと考えている。過去、現在、未来という概念自体が心によって認識されるので、心がなければ存在しない。アウグスティヌスにとっては、時間は私たちの主体的な関与がなければ、存在すらしないもの。アウグスティヌスは私たちの心の内のこのような時間を「内的時間」と呼ぶが、彼はそれとは別に外的時間があるとは考えていない。つまり、時間とは内的時間であり、客観的な外的時間は存在しないのである。人間の心にある内的時間の他にあるのは神の永遠性だけと考えるアウグスティヌスには、人間の時間と神の永遠性の二つしか存在しない。私たちは時間の内にある自分というものを意識し、今までの行動を記憶し、今何をしているかを直観し、これから何をするかを期待する。この一連の行為が心の中で行われることにより、それぞれバラバラであった過去、現在、未来が連続的につながり、知覚は継続して意味のあるものとして理解できるようになる。時間は人間の心が生み出したもので、人間がいなければ存在しないものである。
 アウグスティヌスは、時間を心の内で測ると述べているが、時間を測ることなどそもそも可能なのか。アリストテレスは、時間は運動によって測られるとしたが、アウグスティヌスは、心が印象を測ることによって、直接時間を測ると考えた。この印象そのものを測るという行為が、時間を測っているといえるのか。そもそも印象を測るというのはどのようなことか。ある運動を始めから終わりまで測るとする。印象を測るとは、運動を始めたという記憶から、運動が終わったという直観(または記憶)までを測ることである。つまり、自分に体験された時間を、自分の内部で測るということである。
 アウグスティヌスは、時間の計測の問題を、自分の中で時間がどのように体験されるかという問題に置き換え、「体験の時間」を念頭に置いている。時間を測るときには、基準が必要である。例えば、より短い時間を基準にして、ある時間は、もう一方の時間の何倍であるというように表すことができる。しかし、自分に体験された時間は計測の基準となるものがない。つまり、自分の主観で時間の長さを決定してしまうのである。たとえ五分であっても、その時間が長いと感じたら長い、短いと感じたら短いということになり、実際の時間とは程遠いものである。これでは時間を測っているとは言えないのではないか。
 アウグスティヌスは、外から世界に生きるものとして人間を考えているのではなく、内側から世界を生きる、変化の内側にいるものとして人間を考えているのであろう。よって、客観的時間、外的時間を主観化したのではない。私たちはなにものかを体験したときに、印象を刻み込むことで、その体験を外的なものではなく、自分のものとするのである。
 時間を測るには基準が必要であると述べたが、では、心における時間の計測の基準とは何なのか。アウグスティヌスは、時間はある種の「拡がり」であるとしている。心によって時間を測るとは、刻まれた印象を心の拡がりに基づいて計測しているのである。この心の拡がりこそが時間を測る基準である。
 ここまでが標準的なアウグスティヌス解釈で、次は私の意見。拡がりをもつ、心に刻み込まれた記憶、直観、期待の印象内容は本当に心の内にあるのか。何かの記憶、何かの直観、何かの期待という時の「何か」は志向的な対象として外部世界にあるという表象主義が正しいとすれば、アウグスティヌスの主張は「何かの拡がり」を使っての時間の計測であり、その何かは心の表象として外にあるものなのである。私は表象主義者であるので、心は何かを表象し、意識し、意志するが、その何かは生活する世界の何かであり、心の中の意識過程ではないと考えている。意識の内容は心の中にではなく、生活世界の中に存在する。「私が妻を意識する、表象する」とき、その妻は私の心の中になどなく、私の横にいるのである。だから、記憶、直観、期待の内容が計測でき、生活に活用できるのである。