脳は生存コンピューター、だから人は夢を見る

 最近は脳が関心の的になり、「脳死」などという言葉が普通の会話によく登場します。脳に対する私たちの興味や知識が深まり、脳は人の活動のすべてをコントロールし、私たちの日常生活は正常な脳に支えられているという理解が常識になっています。つまり、脳なくして、人なしなのです。
 記憶や情報処理、機能のコントロールといった脳の機能はよくコンピューターに例えられますが、夢を見る、感情をもつことはコンピューターにはありませんし、自らを評価したり、誇ったり、そして悩んだりということもコンピューターにはありません。さらに、私たちと間違いは切っても切れないものですが、私たちが間違えるのは私たちの脳が間違えるからです。コンピューターはプログラムが正しい限り間違えません。では、なぜ脳だけが間違えるのでしょうか。間違いの典型の一つとなれば錯視です。錯視の例は近年数多く考えられ、知覚心理学の面白さを存分に教えてくれています。なぜ人は錯覚するかと言えば、その方が現実の生活に便利だからです。実利の方が数学的正しさに優先するのです。でも、錯視を敢えてさせるような情報処理をコンピューターで実現するには複雑なプログラミングが必要になります。でも、脳はそれをこともなげに、無意識に実行しています。そのような脳の情報処理は、正に実生活に即したものなのです。
 私たちの脳はものを認識するときに経験する情報のすべてを記憶するのではなく、最低限の特徴を抽出して、アバウトな情報しか記録しないのです。なぜかと言えば、まず脳には記憶容量の限界があるため不必要な情報を減らしてできるだけ多くの情報を保持できるようにするためです。もっと重要な理由は、そうすることによって、似たような情報を同じ種類の情報として類系化して認識するという、とても高度な情報処理が可能になるからなのです。例えば、正面から写したペットの写真をコンピューターのように正確に認識すると、僅かに斜め横を向いただけで同じペットと認識されなくなってしまいます。その点、アバウトな情報、例えば輪郭とか目や鼻の位置関係とかを特徴として記憶しておけば多少横を向いても同じペットとして認識できます。
 要は、脳の情報処理はアバウトだということ。これは脳が単なる記憶装置ではなく、世界を認識し、生き残るための判断を行う高度な情報処理装置だからです。つまり、脳は単純な記憶装置ではなく、その情報をどう活用し、生き延びるかを考える装置なのです。人が生活するとは色んな経験を重ねることです。人はその度に情報を類系化して関連づけながら記憶していきます。この情報の集積、つまり記憶の塊を「マインドセット(心の枠組)」と呼びます。マインドセットは人それぞれの経験がつくり出すもので、個人によって違ったものになります。では、経験によって蓄積される情報とはどんなものなのでしょうか。私たちは生物で、生存(個の保存、自然選択)と生殖(種の保存、性選択)の二つの原則に従って生きています。つまり、個体としての生命が生き続けられるように行動し、生物種として生命が続くように行動します。情報を蓄積するときにも、その情報を処理して行動を起こすときにも、脳はこの二つの原則に従っています。このとき脳は、生き残るために有益かどうかの価値を測ります。例えば、「木が多いところには果実が多い」といった食欲を満たす有利な情報や、「岩場には崖があり、危険だ」といった情報はどちらも生命維持のためには有益な情報となります。このような場合、脳は情報の重み付けを行うのですが、生きるためにプラスの情報には「快(嬉しい、楽しい)」、マイナスの情報には「不快(怖い、悲しい)」といった付加的な価値を客観的な情報と併せて記憶します。感情は生きるために必要な情報の重みを判定するための脳の機能なのです。コンピューターは生物ではないので情報を記憶したり処理したりするときに個の保存や種の保存などに縛られず、したがって、「感情」を持つ必要はないのです。
 このように説明することは簡単なのですが、生存にどれだけ有利かを測ること、そしてそれを感情によって表現することはとても巧みな工夫で、その仕組みとそれをどのように進化の歴史の中で獲得してきたかは今のところ推測の域を出ていません。でも、そのシナリオを描くためのヒントになるのが生存のための脳であり、その脳のもつ夢の存在と役割なのです。

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オディロン・ルドン「夢」(1878-82)

 マインドセットはいわば脳が作る仮想世界のようなもので、脳はこの内なる仮想世界での情報を使って、外の世界で起こることを予測しながら命令を出しています。私たちは経験によって蓄積されてきた類系型の記憶に基づいて、何があってもそれほど戸惑うことなく日々生活しています。脳の間違いは、それまでに蓄積された膨大な記憶の塊に基づいて脳が判断した結果がその時の状況に合わなかったことに過ぎないのです。脳は単なる記憶装置ではなく、生命を維持するための情報蓄積処理装置であり、脳が何のために働いているかと言えば、生命を維持するために働いているのです。
 脳は寝ている時も働いていて、マインドセットという記憶の塊を最適化するために情報の整理を行っています。この時、様々な情報がランダムに呼び出されて生命の原則に沿って自分に必要な情報を取捨選択しています。前頭連合野という部分が活動して、作業記憶と呼ばれる一時的な記憶に呼び出されて必要かどうかが検討されるようです。この作業記憶にはランダムに色んな情報が入っていて、それぞれにはあまり「意味的な」関連はありません。この状態で目がさめると頭の中にはいろいろな情報が、イメージの形で残っています。このイメージを私たちの「意識」が知ることになり、そのイメージが鮮明に残っていると「ああ、夢を見ていた」となるのです。さらに、脳は都合の良いように情報を結びつけてストーリーを作ってしまう習性があるため、ランダムなイメージを無理矢理結びつけてしまい、しばしば夢が荒唐無稽な物語になってしまうわけです。つまり、夢とは、睡眠中の脳の重要な作業の一部を覚醒した意識が知り、補完作業を行った結果であると解釈できるのです。この作業は私たちが生き残るために必要なマインドセットを作り上げていくことですが、マインドセットは私たちの経験に基づく情報であり、私たち自身そのもの、つまり個性や人格形成に関わっているのです。
 もう少し細かい視点で見てみると、寝る前に経験した情報を脳の中だけで再度体験すること、その時にいらない情報は消去、排除していくことを行っています。これは生きるためのリハーサルのようなもので、次に同じような状況になった時により効率よく行動するための作業なのです。さらに、脳内で何度も再体験することによって、例えば辛い体験やトラウマなどに伴う大きな感情の動きをできるだけ小さくしていくような自己治癒的な役割も持っているようです。夢の元になっている情報は私たちに必要な情報、つまり気になっている情報がたくさん含まれて、より感情が表出した情報でした。そうすると楽しかった思い出や苦しかった出来事などが同じくらい夢に出てきても良さそうなものなのですが、どちらかというと、怖い、不安な、不思議な夢の方が多いようです。生命の原則から考えると、プラスの要因よりもマイナスな要因をしっかりと把握してマインドセットを作り上げた方がより生存には有利であるからです。辛い感情は夢の中で何度も追体験することで徐々に感情の振れ幅を抑え込めるということもあって、必然的にそんな夢を見る回数が多くなるのかも知れません。

 私たちは生きるために脳を進化させ、その過程で脳は夢を見ることによって生きるための有利さを獲得してきたのです。

隅田川のユリカモメ

 隅田川は川も川辺もすっかり変わった。水はきれいになり、川辺はテラスと呼ぶにふさわしい遊歩道になった。だが、ユリカモメ (百合鴎)は変わらない。『伊勢物語』に登場する「都鳥」は、現在ミヤコドリと呼ばれている鳥ではなく、ユリカモメのことだとする説が有力である。『伊勢物語』の「九段 東下り」は次のように記す。

なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。(中略)さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。

このように、「都鳥」は「墨田川にいる鳥で、体が白く、嘴と脚が赤い、シギ程度の大きさ、魚を食べる水鳥」とされているが、この条件を満たす鳥がユリカモメ。そのため、「都鳥=ユリカモメ」と推定されている。 全長40cmほどの冬鳥として、全国の河、河口、湖沼、海岸の水辺に飛来する。在原業平和泉式部の和歌にも「都鳥」として登場し、東京都の鳥に指定されている。
 「ユリカモメ」は「カモメ」の一種で、10月下旬から11月上旬にシベリアやカムチャッカ方面から渡来し、4月頃まで東京湾隅田川多摩川などに群れをなして見られる。ユリカモメは何でも食べるたくましさをもち、東京都のゴミ捨て場だった夢の島にも、沢山見られた。カモメ類ではいちばん内陸にまで飛来する鳥で、入江のカモメ、つまりイリエカモメがユリカモメに転じたとされている。
(画像は勝鬨橋付近のユリカモメ)

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夢の有り様についての雑感

 忘れることも憶えることも、いずれもそれなりの努力が必要で、脳に負担がかかるか否かはわからないが、心には確かに負担となってきた。日常生活のほぼすべてにわたり、知識や技術の学習が求められ、その基本が憶えることで、忘れないようにする工夫が重ねられてきた。そこでは憶えることは当然大切なのだが、忘れないだけでなく、忘れることもそれと同じくらい重要な意味をもってくる。もしすべてのことが忘れられなくなったら、普通に生活することが困難になる。例えば、友人と喧嘩をした記憶が正確であるなら、喧嘩したというネガティブな記憶はそのままで、友人との人間関係の修復は難しくなる。だから、人は忘れなければならない。少なくとも、憶えた記憶を解釈し直すことが求められる。つまり、人はよく憶えるために、その中の幾つかを忘れるのである。
 多くの情報機器は人間の認知的負荷を低減するように作られている。例えば、普段私たちが使っている手帳は予定や約束を記憶するもの。頭の中に憶え込まなくても手帳を見れば正確な日時や場所がわかる。このような媒体は外部記憶と呼ばれる。この場合、外部記憶を使う人間を含めて考えることが重要となる。ここ百年くらいの間に手帳を使うことによって人間の記憶力は悪くなったかと問われれば、決してそんなことはない。
 そこで、夢と記憶、特に夢が記憶に残らない理由をラフに考えてみよう。人の人たる所以は何と言っても脳の存在。人の行動、思考、感情、そして人格さえもすべて脳が決めている。だから、「心の個性」は「脳の個性」である。そこから、心とは脳のことだと主張するのが心脳同一説。そこまで極端にならなくても、私たち自身を知りたければ、私たちの「脳」を知ることが不可欠であり、「脳」を知ることは、私たち自身のもつ謎を知り、それを暴くことにもなる。
 ところで、夢は記憶が変形したもの。「夢は儚い」とは至言である。この表現は、夢(願望)は叶わないという意味で使われる場合もあるが、元来は眠るときに見る夢が目が覚めると手のひらから滑り落ちていく砂のように消え去ることを意味している。また、完全に消え去っていなくても、夢の一部しか思い出せないケースが少なくない。忘れた夢は二度と思い出せない。そして、それが夢の夢たる所以なのである。
 その夢は現実とまったく無関係ではなく、現実とどこかで結びついている。事実、夢に登場する人物や風景は自分自身や知人だったり、いつか眺めた光景、見慣れた景色だったりする。夢は私たちの経験から成り立っている。脳科学では、夢は脳に刻まれた記憶をまぜ合わせて合成され、またそこに想像を加えたものだとされている。現実の世界が脳の回路を通って記憶され、その記憶が変形して夢として甦るのである。思わず目が覚めてしまうような怖い夢もある。そこには恐怖、不安、願望などがあふれているが、それは現実の恐怖や不安や願望を何らかの形で反映している。夢が現実を反映しているとしても、なぜ、夢は記憶に残らないのか。もし夢が記憶の再生であれば、確実に記憶に刻まれてもよさそうなものである。しかし、人間は夢のほんの一部しか覚えていない。どうしてなのか。人間は生きているからこそ、あらゆるものを記憶しようとするし、記憶は未来のガイドとして役に立つ。つまり、記憶は人間が生きるために存在している。誰もが交通信号の赤は危険の警告だと知り、それを覚えている。それは自身を守るための記憶であり、生きるために記憶が必要だということを証明している。一方で、夢は直接的な行動に結びつかない。現実の世界でなかなか告白できない気弱な男性でも、夢の中では意中の女性を口説くことができる。しかし、それが現実の行動に結びつくかといえば、それは別問題。このように、現実の問題と乖離し、行動に結びつかない場合、それは記憶には刻まれないのではないか。記憶は人間が生きるために存在しているが、夢の中の現象や行動は現実の生とかけ離れているからである。そのため、目が覚めるとほとんど夢を記憶していないのである。夢は確かに現実を反映している。反映しているが、それが現実に貢献することはほとんどない。
 私たちは「寝ている間」夢を見ている。どうして私たちは夢を見るのか。はたまた、夢とはどのような現象で、どんな役割があるのか。私たちは眠っている間、「ノンレム睡眠」と「レム睡眠」をそれぞれ一夜に4回ずつもいったりきたりしているが、夢に関しては「レム睡眠のときに人は夢を見る」とよく言われてきた。「起きたときに覚えている夢」というのは、通常目が覚める直前に見ていた夢。普通、人が目覚めるときは浅いノンレム睡眠レム睡眠のタイミングであり、その「最後のレム睡眠のときに見ていた夢を鮮明に覚えている」ことから「レム睡眠=夢を見る」とされていた。1950年代に「レム睡眠中に鮮明な夢を見る」ことが発見されたが、その後の「夢見体験」の実験中、深いノンレム睡眠中に起こしてみても、頻度は低いが夢を見ていることが判明した。この「ノンレム睡眠中にも夢を見ている」という報告は、「夢見る」レム睡眠の発見と同様に当時の睡眠研究に衝撃を与えた。つまり、「私たちは眠っている間、いつも夢の世界にいる」ことがわかったのである。寝ているかぎり夢を見ない日はないのである。寝ている間、ずっと夢は脳内で上映され続けている。そして、レム睡眠、ノンレム睡眠にかかわらず、夢を見ているときは視覚に関係する脳の部位が活性化している。
 だが、「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」で見る夢は違う。夢の内容を記述してもらうと、レム睡眠中は「実体験に近い夢」、「ストーリーのある夢」、ノンレム睡眠中は「抽象的で辻褄が合わない夢」を見ていることが多いことがわかった。「身体は寝ているけれど、脳は起きている」というレム睡眠中は、覚醒時のように大脳皮質が活性化していて、夢の中での自分の動きに呼応するように大脳の運動野では手足の運動をつかさどる神経細胞が活性化している。つまり、脳の中では「視覚や身体の動きを感知して、さも現実かのように夢の世界を体感している」ので、具体的で合理的・現実的な夢を見ることが多い。そうやって定期的に大脳を活性化させておくことで、「明け方のレム睡眠」で自然と目覚めたときに寝ぼけを回避する確率が高まる。つまり、レム睡眠時に見る合理的な夢には、「起きるための準備」いう役割もあるようなのである。ちなみに、夢を見るのは「人間だけの特権」ではない。動物も確かに夢を見ることがわかっている。様々な観察から、犬もレム睡眠中はヒトと同じようにストーリーのある鮮明な夢を見ている。一方、「脳も身体も眠っている」深いノンレム睡眠中は、夢を見ても運動野の細胞は活性化することはなく、大脳の各部位の連携もよくない。だから、たとえ夢を見ていても、深いノンレム睡眠で急に起こされると、大脳は働いていないので、しばらくぼーっとしてしまい、いわゆる「寝ぼけた」状態になってしまう。だから、起きた直後、「抽象的でよくわからない」夢を記憶しているときは、ノンレム睡眠で起床したと考えられる。これは、「人はレム睡眠のとき、自然に目覚める」というパターンから外れているので、このような夢を何度も覚えているのは、眠りのパターン自体が悪いのかも知れない。逆に、起床時に覚えている夢が鮮明でストーリーがきちんとしているものであれば、レム睡眠中やレム睡眠の直後に自然と覚醒できたことになる。
 さらに、「夢はたくさん見たほうがよい」という新事実がわかった。無意識レベルにはなるが、実は「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」が入れ替わるごとに、夢の内容も切り替わっていることがわかっている。だから、夢をみた回数が多いほど、通常一夜で4~5回生じるレム睡眠とノンレム睡眠の睡眠サイクルがきちんと機能していることになり、その意味では一晩でたくさんの夢を体験するのが自然の眠りということになる。とはいえ、これはなかなか意図してできることではない。正常なリズム通りの睡眠がとれていれば、人は8~10回ほど、別々な夢の世界を経験していることになるわけだが、なんとも残念なことに、しっかり眠れば眠るほど、最後の夢以外は忘れてしまうのである。「見たい夢を見る」と言うと、荒唐無稽な、それこそ「夢のような話」に聞こえるかもしれないが、実は科学的に「見たい夢を見る」ことに挑戦した記録がある。「好きな夢を見ることはできるのか」が盛んに研究されたのは、20世紀中葉の「夢見る」とされたレム睡眠発見の直後。今では信じられないような実験が、当時は真剣に行われた。例えば、「見たい」と思った夢を事前に挙げ、実際にその夢を見た回数を求めるといった単純な実験。さらに、寝ている人の耳に息を吹きかけたり、冷たい水を顔にたらしたりして「音や温熱、皮膚感覚への刺激」をおこない、被験者の見ている夢の内容に変化があるかどうか、もしくは刺激が夢の内容に取り込まれるかどうかを調べた調査まであった。
 私たちの夢には現実の部分と幻の部分があり、それらがミックスされている。夢には感情、願望を含む、情緒的なものが色濃く反映され、それらが事実と組み合わされ、独特の夢の私的世界を生み出している。現実の世界に個性を反映させることは難しくても、夢の世界での実現は困難ではない。だが、その夢の大半は忘れ去られ、現実の世界に書き加えられることはない。夢は現実と願望のせめぎ合いをうまく調停する工夫であるのかも知れない。夢見る心が躍動するのは寝ている間だけで、しかも覚醒によってそれは残らない仕方で、清算されているのである。夢は脳が健全に機能するための予備運動、そしてクリーニングなのだろう。

オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)

 オオイヌノフグリは、オオバコ科クワガタソウ属の越年草。路傍や畑の畦道などに普通に見られる雑草で、公園などにも繁茂している。和名はイヌノフグリに似て、それより大きいために付けられた。フグリとは陰嚢のことで、イヌノフグリの実の形が雄犬の陰嚢に似ていることからそう呼ばれることになった。オオイヌノフグリの実はハート型で、フグリに似てはいない。同じ属にイヌノフグリがなければ、この花のイメージからはもっと可憐な名前がついたに違いない。オオイヌノフグリは、ヨーロッパ原産の帰化植物で、1890年頃に東京に帰化したことがわかっている。私の子供時代の記憶では田畑の畦道などによく見られ、早春からコバルト色の花を咲かせていた。春の訪れを感じさせる植物の一つである。それが既に湾岸地域の野原でも咲き出した。
 オオイヌノフグリは、秋の日だまりの中芽生える。びっしりと小さなオオイヌノフグリが芽生え、やがて花の時よりも大きいほどの葉を出し、高さ数cmほどに生長するが、真冬になると大きくなるのをやめて花芽をつけはじめる。昼間の日だまりは結構暖かいが、夜の冷え込みは厳しいが、オオイヌノフグリは温度差の激しい環境を堪え忍ぶ。

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Ceci n’est pas une pipe

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 ルネ・マグリットの「イメージの裏切り」は1928-29年に制作され、油彩、キャンパス、63.5㎝×93.98㎝で、ロサンジェルス・カウンティ美術館に所蔵されている。パイプのイメージを裏切るような文が下に書かれており、それがCeci n’est pas une pipe(これはパイプではない)。だから、タイトルは平凡過ぎるほど平凡で、パイプを描いたイメージはパイプそのものではないという意味で、下に書かれた文はイメージの裏切りを表現していることになる。だが、これでは詰まらない、どこにもあるタイトル名になってしまう。このタイトルを「これはパイプではない」に変える方がずっと面白い。誰もがそう考えるのではないか。だから、哲学者ミシェル・フーコーも、自らの著書を『これはパイプではない』と名づけ、その主題にしたのではないか。
 人は「これはパイプではない」という文字列を見て、「これ」がパイプのことを指すと考える。しかし、その「これ(Ceci)」がパイプとして描かれた像であるのか、文字列そのものであるかも特定されているわけではない。指示代名詞が何を指すかは文脈がわからなければ、誰にもわからない。もちろん、パイプとして描かれた像もパイプそのものではなく、その意味では「Ceci n’est pas une pipe(これはパイプではない)」は実に曖昧な文なのである。このような言葉がもたらすイメージと、その裏切りをモチーフにした作品は、マグリット作品でしばしば見られるが、本作はその最も有名な代表作。
 マグリット自身は、「またあのパイプですか?もういいかげん、飽き飽きしました。でもまあ、いいでしょう。ところであなたは、このパイプに煙草を詰めることができますか。いえいえ、できないはずですよ。これはただの絵ですからね。もしここに「これはパイプである」と書いたとすれば、私は嘘をついたことになってしまいます。」と述べるが、「これはパイプでない」と書いても嘘になってしまう。マグリット自身は、ソシュール言語学を学んでおり、そのシニフィアンシニフィエ概念から「言葉とイメージ」の問題を考えるようになり、このような作品が生まれることに繋がった。
 フランスの哲学者ミシェル・フーコーが1973年に刊行した著書が『これはパイプではない』。ルネ・マグリットのシリーズ作品が主題的に論じられ、それをもとに15世紀以降の西洋絵画を支配してきた二つの原理の存在が述べられている。第一原理は「言語記号と造形的要素を分離する原理」、第二原理は「類似と肯定(=断言)との等価性を定立する原理」である。マグリットはそうした西洋絵画の二つの原理を逆手にとって、「同質性という前提を確保することなしに、言語記号と造形的要素を結びあわせている」。フーコーマグリットの作品分析スタートし、西洋の「表象」システムの分析へと移行している。このような手法はベラスケスの「ラス・メニーナス」を仔細に分析した主著『言葉と物』(1966)に似ている。
 こうなると少々アカデミックな話になり過ぎで、マグリットの提起している肝心の面白い問題が薄れてしまう。そこで、次のような幾つかの場合を考えて、奇妙さの印象を読者にそれぞれ確かめてもらいたい。

(1)「Ceci n’est pas une pipe」が絵の下に書かれておらず、右のマグリットのサインもない条件で、この絵のタイトルを「Ceci n’est pas une pipe」とするなら、現在の場合と比べ、いずれがより奇妙で、印象的か。
(2)「Ceci est une pipe(これはパイプである).」がパイプの絵の下に書かれている場合、どんな印象になるか(多分、冗長で退屈するだけだろう。)
(3)「Ceci n'est pas la image de une pipe(これはパイプの絵ではない).」がパイプの絵の下に書かれていたら、どのような印象を与えるだろうか。

 このような場合をさらに色々想像すると、A氏の肖像画の下に「これはA氏ではない」と書かれていて、タイトルが「A氏のイメージの裏切り」となっていたなら、マグリットを含め、人はどんな印象をもつだろうか。タイトルを「これはA氏ではなく、A氏の肖像である」と平凡に変更しても、極めて陳腐でしかない。結局、タイトルは「A氏の肖像」に落ち着くのではないか。

冬のチューリップ

 チューリップ球根は自然の冬の寒さを過ごすことによる春に開花する。これからがチューリップの季節なのだが、チューリップは一輪ではなく、集団になっている方が好まれる。バラは一輪でもバラだが、チューリップは複数あった方がいい。あちこちの公園や広場にはチューリップ用のスペースが設けられ、開花を待つだけになっている。既に咲き出しているのが画像。
 野原に咲く花はそれぞれ分をわきまえているかように佇んでいるのに対し、園芸の花はやたら自己主張が目立つ。そんな自己主張の中で何とも素直な主張をするのがチューリップ。「私は綺麗な花です。存分に見て楽しんでください」と言わんばかりの風情で、人が作り出した作品としては素直で、天真爛漫としか言いようがない。チューリップの色は多彩で、しかもその色が混じり合う。だから、かつては高価で取引され、チューリップ・バブルを生み出したのである。

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命名の作法と自由

 自分の好きなように対象や出来事に命名するのが理想でも、対象や出来事を真に表現するにふさわしい名前が求められてきた。私たちは自分の子供に名前をつける時、その子が産まれた経緯や家系を中心には考えなくなっている。だが、それで自由に命名しているかというと決してそうではなく、様々なルールに拘束されている。ダリの「記憶の固執」に固執しながら議論してきたが、絵画作品と作品名の対応関係は古典音楽の作品と作品の関係とは随分と異なることを取り上げてみよう。
 クラシック音楽の曲名は、「交響曲第5番ハ短調作品67」などと呼ばれ、暗号みたいで覚えにくく、ますますクラシックを敬遠するような曲名、タイトルになっている。それでも、ベートーヴェンの「交響曲第5番ハ短調作品67」の副題が「運命」だとわかれば、妙に親近感が湧いてくる。また、全部の楽曲に、「革命」(ショパン)とか、「新世界より」(ドヴォルザーク)とか、印象深い「副題」があれば、随分と印象が違う。さらに、略称して「第九」で通じてしまうなら、より親近感が出てくる。「副題」には、作曲家が自ら表現上の意図をもってつけた「題名(タイトル)」や「標題(プログラム)」の他に、後に第三者が勝手につけた「通称(ニックネーム)」が定着したものもある。さらに、先の「第九」のような略称や、「未完成」(シューベルト交響曲第7番ロ短調D759)のような作品の状態を表現したものなど、様々ある。
 副題によってすべての楽曲を知ることができない以上、本来の曲名をはっきりさせる必要がある。クラシック音楽の曲名は、「曲のジャンル」+「番号」+「調性」+「作品番号」(もしくは学術的整理番号)+(あれば)「副題」、から構成されている。例えば、「ベートーベン(作曲家の名前)交響曲(ジャンル)第9番(番号)ニ短調(調性)作品125(作品番号)合唱付き(副題)」、通称「第九」となる。詳しく見れば、次の通り。

(1)まず、正確に曲を識別するため、先頭に「作曲者の名前」を付ける。
(2)次は「曲のジャンル」で、記述の通りである。
(3)「番号」は、例えばベートーヴェンが作曲した交響曲のラインナップを示す番号。
(4)「調性」は、どの調(音階)の曲かを示し、その調によって、作品の雰囲気が変わるため、作曲家にとって重要である。
(5)「作品番号」は、楽譜の出版に際して付された番号で、いわゆる出版社のカタログ番号に該当する。「op.125」と示す場合や、楽曲がセットで出版される場合には、「作品56の6」のように、枝番がつけられる場合もある。
(6)作品番号が無いか、欠落している作曲家には、作品番号の代わりに、学術研究により付された「整理番号」が与えられている場合がある。モーツァルトのケッヘル番号(K.16など)や、バッハのBWV(バッハ作品主題目録番号)などが有名。
(7)そして最後に、既述の「副題」があれば、それをつけて、曲名が完成。

 音楽と違って、絵画・彫刻では「無題」は珍しくなく、その理由は概ねつぎのようなもの。1.作家が意図的に作品に題をつけなかった、2.作家が「無題」という題をつけた、3.作家は何らかの題をつけたが、題が何であるのかがわからない、4.作家が作品を完成させる前に何らかの理由で制作を中止するなどしたので題がない。一方、音楽の世界では、「無題」の歌謡曲やポップスはない。演劇や文学もそうで、美術作品だけが、何か命名に関して別世界にあるようである。タイトルも含めての作品である筈なのに、その作品を「無題」で終わらせるアーティストの意図は何なのか。
 美術で作品に「無題」とつけるようになったのは、1910年代のダダイズムあたりから。ダリもミロも、その他の画家も『無題』という作品を多く制作している。ダダイスムには、伝統的なアートの慣習破壊とともに、既成のものへの抵抗があり、タイトルを拒んだのもその一つと思われる。確かに、自動書記やコラージュ作品に具体的なタイトルはつけにくい。モンドリアン抽象絵画作品「コンポジション2赤、青、黄」には不十分な説明がついている。大昔の洞窟や古墳の壁画のタイトルは意図的ではないが、意図的に「無題」というタイトルを最初につけた人は誰で、どんな意図があったのか。美術より詩やパフォーマンスの方が先行していたのかも知れない。当時はどこにも「無題」が流行していた。第一次世界大戦が勃発し、ロシア革命が起こり、ペストが大流行し、タンゴやルンバがアメリカから入ってきた1910年代という時代の中で、「無題」というタイトルは独特の意味をもっていた。これまでの芸術内容とは違ういった主張が「無題」や「作品」なのである。
 シュールレアリスムでは夢や無意識を扱う傾向が強まり、具体的な何かを表象しない作品につけるタイトルとして、「無題」も受け継がれていく。戦後「無題」はますます増える。作品が「何か」を表すのではなく、絵画という形式そのものを、更にはアートの「物体」としての存在を際立たせるようになり、「無題」もポピュラーになった。
 絵画や彫刻に何故タイトルが必要だと思われるのか。それは絵画や彫刻が「それだけではコミュニケーションプロトコルとして伝達可能性が低い」からという常識や価値観があるからではないか。中世のキリスト教美術の場合、表現されたものがそのまま聖書の内容を伝達していた。ルネサンス以降も肖像、風景、歴史、静物、寓意など、絵画や彫刻の意味内容は明確だった。つまり「コミュニケーションプロトコル」としての「伝達可能性」は高かった。そこに描かれている人や物や出来事の背景を読み解く最低限の知識は必要だったが、リアルな具象表現によって何が描かれているかは誰にもわかった。
 美術作品に作家自らタイトルをつけるのが一般化したのは19世紀後半で近代代会における狭義の「アート」が成立してから後のことである。それより前は、作家以外のパトロン、注文主、後世の人などがタイトルを決めていた。つまり、元来どんな美術作品も「無題」だったのである。タイトルは単に制作されたものを指示し、説明する名前でしかなかった。作品はそのタイトルを具現化したものだった。19世紀後半となれば、印象派の時代。印象派という名称の元となったモネの「印象・日の出」(1873)は、対象の忠実な再現ではない、作家個人の「印象」がそのまま描かれた、当時にしたらスケッチのような絵だった。単に「日の出」とか「ルアーブルの眺め」なら普通だが、「印象・日の出」は従来の基準からすると、絵画のタイトルらしくない。
 聖書や神話、寓意などのビジュアルな表現としての側面が薄れても、モネを初め19世紀後半のゴッホの絵画やロダンの彫刻は、まだタイトルからの再現性を保っていた。人々が絵画や彫刻はコミュニケーションプロトコルとして伝達可能性の低い表現だと感じるようになるのは、フォーヴィズムキュビスム、そしてダダが登場した20世紀からである。音楽は本来抽象性の高い表現だが、絵画や彫刻は「対象の再現」という一大使命をもっていた。だが、それを写真に譲るという大転換があったのである。
 確かに言葉の持つ力は強い。制作した絵にタイトルをつけた方がわかりやすい。だが、自分が伝えたいことをタイトルによって伝えたくない場合、画家はタイトルから離れようとする。美術館に行くと、絵を見る前にまずタイトルを読んでいる人がよくいる。絵を一瞥してすぐタイトルを確かめ、納得したような顔をして、また絵を眺める。見たことのないものを目の前にして、具体的な言葉の説明がないと、人は何にでも命名する生きものだから、不安になる。そこにもってきてパッと見ただけではよくわからない作品に、「無題」とか「作品3-K」とかつけられていると、途方に暮れる。見ることから始まると言われても、無心に見ればいいと言われても、それがなかなかできないのが人なのである。
 ムンク「叫び」も、そのタイトルが「夕焼け」と書かれていれば、納得してしまうだろう。私たちは作品をそれぞれ「自由」に鑑賞しているように見えて、言葉に依存している。美術は言葉を超えたところにある表現だと言われるが、作品を見て人は何らかの言語的操作を無意識のうちに実行するしかないのである。だから、「これは…のようだ」という印象を方向づけるために、タイトルが威力を発揮する。タイトルの意味は、「わかりやすさや検索性」だけではない。作品鑑賞を邪魔しない程度のラベリングと捉えている作家がいる一方で、タイトルの効果を考え抜く作家も当然いる。こうしたタイトルのつけ方が上手いのは、何といってもデュシャンの「泉」(1917)。「泉」はアングルの作品名だったが、デュシャンは男性用便器に変名でサインし、「泉」と名づけて出品した。ダダイストの面目躍如である。もう一つ思い浮かぶのは、マグリットの「イメージの裏切り」(1929)で、白い背景にパイプが描かれた作品。どう見てもそれはパイプにしか見えないのに、その下の余白に書かれているのは「Ceci n'est pas une pipe.(これはパイプではない)」。「無題」よりはこんな知的悪戯の方が、ずっと刺激的である。
 「泉」も「これはパイプではない」も、作品はタイトルを裏切っている。「伝えたいことがタイトルという手段で伝えられているとは言い難い。そこにあるのは、言葉と物、言葉と視線のずれとその込み入った関係。それを気づかせることによって、美術に対する私達の再認識を迫っている。デュシャンマグリットは「タイトルと作品」という従来型の枠組みの中で、言葉と物の関係の見直しを迫ったのである。
 「見ること」には、言葉による概念化が避け難く紛れ込んでいる。タイトルがついていてもいなくても、私達は作品からさまざまな情報を勝手に読み取っている。その視線は知識や文化の影響を被っている。だから、経験にも観念にも知識にも影響されない「自由な」命名などあり得ないのである。

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モンドリアンコンポジション2 赤、青、黄」1930

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モネ「印象・日の出」1837

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デュシャン「泉」1917

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マグリット「イメージの裏切り」1929