ツバキ、ヤブツバキ、ユキツバキ、カンツバキ、そして、サザンカ

 ツバキ(椿)は日本が原産。でも、タイトルのように色んな呼び名が入り乱れ、乱立し、正確な使い方など何のそので、生活世界の融通無碍な(そして、いい加減な)語彙のあり方を垣間見ることができます。大雑把に講釈すれば、ツバキの別名がヤブツバキサザンカの別名がカンツバキ、ユキツバキはツバキの近縁の種です。今では実に多くの園芸種が登場していて、年末からあちこちで花を楽しむことができます。サザンカの花が咲き、ツバキの花が開き出しています(画像はツバキ)。
 戦前までは沖縄を除く日本のツバキ属はヤブツバキサザンカだけと思われていました。新発見のユキツバキは山地型のツバキで、日本海側の雪の多い地帯に野生する種です。そのためか、新潟県の県木、加茂市の市花に指定されています。
 ツバキは光沢のある濃い緑の葉をもちます。厚みのある葉の意味で「あつば木」、艶やかな葉の「艶葉木(つやばき)」、光沢のある葉の「光沢木(つやき)」等々、花より葉の艶やかな美しさが名前の由来となっているようです。

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新型コロナウィルスのニュースを聞いて

 ウイルスが生きている理由を問われれば、(中国の新型コロナウィルスのように)ウイルスが私たちに肺炎のような感染症を引き起こすからであり、「コレラ菌のように生きていなければ、感染症は引き起こさない」ゆえに、コロナウィルスも生きていると推理するからではないでしょうか。一方、私たちは「ウイルスは生物ではない」と書かれた教科書で学んできました。ウイルスが生物でない理由は、ウィルスが細胞を持たないからです。細胞は増殖や代謝といった生物の基本的な機能を担い、生物の定義に不可欠なもので、ウィルスにはそれがないのです。ですから、これで一件落着となるのですが、では、最初の推理は間違っていたのでしょうか。

 ウイルスは鉱物のように結晶化し、自分の部屋を持たず、自らエネルギーの生産も代謝もできず、生物に居候しなければ生きていけません。それゆえ、ウイルスは一人前の生物ではないというのがこれまでの生物学の常識でした。さらに、上述にある細胞が生物の定義に不可欠というのも20世紀後半まではドグマとしてゆるぎない地位を保っていました。でも、21世紀になり、その生物学の常識が大きく揺らいでいます。ウイルスは遺伝子を1個もつものから2,500個ほどもつものまで、単純なものから次第に複雑になっていることがわかってきました。また、細胞をもつ「生物」の方も、3万個ほど遺伝子を持つ真核高等生物から、最低150個ほどしか遺伝子をもたない共生細菌まで様々あることがわかってきました。こうして、遺伝子の数やゲノムの大きさに関して、この二つの集団はオーバーラップし、境界が曖昧になってしまったのです。

 境界がはっきりしないのであれば、ウィルスも生物だとしていけない理由はなくなり、「生きたコレラ菌に感染する」と同じ意味で、「生きたウィルスに感染する」と言っても構わない場合があることになります。

 そもそも「生物」は概念だけでなく、語彙としても歴史的に多様です。英語だけでも、生き物はliving thing、有機体や生物はorganism、被造物としての生物はcreatureで、細胞説のcellからDNAへと生物の基本要素も変化してきました。

 蛇足ながら、私たちはウィルスと呼んでいますが、英語の発音はヴァイラスであり、ウィルスでは通じません。

 

シャクナゲ

 シャクナゲ(石楠花、石南花)は、ツツジツツジ属の常緑性の花木。シャクナゲの原種が19世紀中期に中国(雲南、四川)から西欧にもたらされ、その花の美しさと豪華さから数多くの交配が行われてきた。これまで世界各地で5,000を超す園芸品種が作出され、私が住む湾岸地域の公園等で花木として欠かせない存在になっている。「石楠花」は中国原産のバラ科の植物オオカナメモチの名前「石南花」を誤ってつけた名前である。

 高山帯にキバナシャクナゲ、亜高山帯にハクサンシャクナゲ、 山地帯にツクシシャクナゲ、細葉シャクナゲなどがあり、地域的な変異種が多い。欧米からの園芸種はセイヨウシャクナゲと呼ぶが、私が見るのはこのセイヨウシャクナゲがほとんど。葉は全縁で革質、光沢があり、互生する。

 既にそのセイヨウシャクナゲが咲き始めている。栽培種のシャクナゲは色んな種類のものがほぼ年中咲いていて、珍しくなくなっている。

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心と物の壁の有り様:善悪の区別

 心と物の壁を生み出すのは私なのか、それとも言葉なのか。「私が言葉で心の壁をつくる」というのが多くの人の答えではないのか。論理だけでは心の壁をつくれないが、言葉を使うことによって心の壁ができ、心を防御できる。だから、科学理論には心の壁はあっても透明なのだが、それをつくり、扱う科学者には確かに心の壁がある。論理と言語の違いは壁をつくるかどうかの違いにある。そのような考えから、善悪をつくるのは心の壁だと推測できることになる。

 AIを使った今風の議論を離れ、このような話をもっともらしくする、印象的な文脈を過去に探ってみよう。それがグノーシス主義である。この世に満ち溢れる悪の支配、汚濁にまみれた世の中は、いったいなぜ持続するのか。日本でもかつて「厭離穢土・欣求浄土」が唱えられ、それが戦の旗印となったことがある。だが、それより遥か以前、この世は悪だとはっきり説いた世界観があった。

 紀元1世紀から4世紀にかけ、地中海世界で信じられていた思想こそグノーシスグノーシスとは、知恵、知識を意味するギリシア語である。グノーシス主義はこの世が悪に支配されている理由を、この世を作った神が実は「偽物の神」であって、それゆえに、悪の宇宙、狂った世界が生まれた、と説明する。もともと「真の神」の作った世界は充溢した世界であったが、この至高神のアイオーン(神性)の一つであるソフィア(知恵)が、デミウルゴスあるいは、ヤルダバオートという狂った神を作り出したのだ。ヤルダバオートは自分の出生を忘れ、自分こそ唯一の神だと錯覚し、人間の生存している悪の宇宙を作ってしまったのである。そして、グノーシス主義はこの狂った宇宙に叛旗を翻すのである(反宇宙主義)。

  ヤーヴェが偽物の神であれば、旧約・新約につながる伝説の物語も嘘ということになる。例えば、「アダムとイヴ」の話はキリスト教では、蛇(悪の象徴)の誘惑に負けて、イヴが知恵の木の実を食べ、二人ともエデンの東に追放され、この「原罪」をイエスが死で償って、人類は許されたことになっている。だが、グノーシス主義によれば、この蛇は真の神が遣わした使者であり、人類に真実を見極めるための知恵を与えたということになる。だから、アダムとイヴの追放は原罪ではなく、真実を覆い隠すための刑罰である。

 グノーシスというと、善悪二元論、霊肉二元論が有名である。キリスト教は、善である神の聖性を一つの極みとする、一元論的な世界観をもつ。聖性の不足、欠如はあっても、神の聖性と反対の極にある負の頂点を認めない。グノーシスは、マイナス極とプラス極がある二元論的世界観であり、それに対して、キリスト教はゼロからプラス極しかない一元論的世界観。キリスト教では、悪・地獄・悪魔といった負の概念は、神の絶対性に対峙するものではなく、聖性が欠けているに過ぎない。だが、グノーシス主義の二元論では、精神や霊的な存在は善、物質や身体は悪とはっきり区別して捉える。この捉え方によれば、イエスの身体的存在は幻に過ぎず、イエスの霊的存在こそがグノーシスの顕現となる。また、物質や身体を悪とする捉え方は神の「み言葉」の受肉や十字架の贖い(あがない)を否定し、教会は精神的存在だけでなく、物質や身体も本来聖なるものであると主張した。
 さらに、グノーシス主義はどうしたら神を知ることができるかという点でキリスト教とは違っている。キリスト教では、神は神の方から人間に自身を啓示する。聖書の表現でも、常に神から人間に語りかける。この呼びかけに自らを向けることが、キリスト教的回心である。一方、ギリシャ文化的なグノーシス思想では、人間自身による内面の探求により、神を自力的に知ることになる。グノーシスという言葉は「知識」や「認識」という意味だった。悪に満ちた自己の本質を「認識」することによって霊的善に至ることになり、これが神との一致に繋がる。

 物質からなる肉体を悪とするグノーシス思想から、道徳に関して、二つの異なる立場が出てきた。一方では禁欲、他方では放縦である。前者は、マニ教に見られるように禁欲的な生き方を教える。後者は、霊は肉体とは別の存在であり、肉体が犯した罪悪の影響を受けないと説く。

 「スフマート」はレオナルド・ダ・ヴィンチが開発した特別な秘技と思われがちだが、要するに「ぼかし」による空気遠近法。輪郭線をなだらかにぼかし、明暗によって遠近感をつけることで、洋の東西を問わず多くの画家が似たようなことをやってきた。「スフマート」とはイタリア語で「煙のような」という意味で、命名者は確かにレオナルドで、彼自身もこの手法を多用した。風景画が盛んになるのは17世紀以降だが、風景画では空気遠近法が必ず使われる。「スフマート」と空気遠近法の明確な線引きはなかなか難しい。
 8世紀後半には、中国の水墨画でも似たような技法が生まれている。中国や日本の水墨の山水画もぼかしによる空気遠近法で、俵屋宗達が好んだ「没骨法」(輪郭線を描かない技法)も、横山大観の「朦朧体」もスフマートと似たものである。輪郭線をはっきり描くのが伝統だったのに対して、線を抑えて描こうと試みた画法は、当時の画壇から悪意をもって「朦朧体」と呼ばれた。一方、西洋画ではターナーが西洋の朦朧体とも呼べる曖昧模糊とした表現で知られている。大観が、画題の中心に風景を据えたのと同様に、ターナーも典型的な風景画家である。時代こそ100年の隔たりがあるものの描法には共通点がある。

 私たちの周りを見渡すならば、二つのものの輪郭が言葉であれ、絵画であれ、明瞭な境界があるか、連続的で境界はないのか、といったことはどこにでも存在する事柄であることに気づく。通常は輪郭がはっきりしていて、白黒の違いがつく物事からなるのが世界であり、差異をもつ対象や出来事によって世界がつくられていることが仮定されている。だが、使う数学や言葉を変え、描く絵や図を変えることによって、連続する区別のない世界を表現することもできる。善悪を明瞭に区別する二元論のグノーシス主義と善を基本にする一元論のキリスト教神学の違いは、明瞭な輪郭の存在を認めるか否かの違いとして映像化できそうである。スフマート、朦朧体も、波動理論も明確な輪郭を否定するものであり、善悪のグラデーションを認める立場と共通点を持ち、心身の間も一元論的に捉えようとしている。

オステオスペルマムなのか、それともディモルフォセカか

 二つはいずれもキク科で、それぞれディモルフォセカ属、オステオスペルマム属である。ディモルフォセカは南アフリカ原産で、くっきりした形の花である。色はピンク、白などで、春から夏にかけて長い間咲く。その後、「オステオスペルマム」属が設けられた。オステオスペルマムの別名はアフリカンデージー、ディモルフォセカの別名は「アフリカキンセンカ(金盞花)」。

 オステオスペルマムの花色は紫、白、ピンクが中心だったが、ディモルフォセカとの交雑によって、黄色やオレンジの花が生まれた。オステオスペルマムとディモルフォセカの区別は難しく、日本ではオステオスペルマム多年草、ディモルフォセカは一・二年草とされている。ということで、画像はオステオスペルマムか、ディモルフォセカとの交雑のいずれかと思われる。

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ツルニチニチソウ(蔓日々草)

 ツルニチニチソウキョウチクトウ科ビンカ属の常緑蔓性植物。その分布域は地中海地域の南部、ポルトガル、スイス南部、北アフリカにあり、広く自生し、容易に栽培可能で花が美しいことから、現在では逸出したものが野生化し、帰化植物として広く定着している。属名のビンカは、ラテン語で「紐」や「結ぶ」を意味する。花期は3月中旬~5月で、上部の茎の葉の付け根から花柄を伸ばし、花径4~6㎝程度の花を咲かせる。花は花冠が深く5裂して平らに開き、中央にはスイセンなどに見られる副花冠がある(画像)。

 花姿がニチニチソウに似ていることから、ツルニチニチソウの名前が付いている。ヨーロッパでは、「蔓日々草を身につけていると悪を寄せつけない」という言い伝えがある。さらに、冬の間も枯れないので、不死の力や魔力を持つと信じられていた。

 暖冬のためか、そのツルニチニチソウが既に咲き出している。湾岸地域では当初グランドカバーとして植えられ、それが野生化し、あちこちで見ることができる。花が好まれるだけでなく、常緑であるため、冬でも緑のままで、それも好まれる理由になっている。

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たかが好奇心と探求心、されど好奇心と探求心

 好奇心も探求心も私たちがもつ欲求なのだが、好奇欲とも探求欲とも言わない。同じように、虚栄心も虚栄欲とは言わない。しかし、自己顕示欲とは言うが、自己顕示心ではない。権力欲も権力心ではない。仏教では欲には物の欲(物欲)と心の欲(心欲?)があり、私たちはその欲に振り回される、つまり煩悩をもつと言われる。あるいは、心を満たすことと欲を満たすことは違い、心を満たすことはできても、欲を満たすことはできないとも言われる。人間の欲は際限のないものだが、満たされた心は満足できる。こうなると、民間心理学は言葉遣いの問題であり、レトリックに過ぎなく、「心」と「欲」は時には置き換え可能な謂い回しと言わざるを得なくなる。

 心のもつ性質、特徴があり、その一つが欲求、欲望。そして、欲求、欲望は性質、特徴をもつ。心は信念と欲求からなっている。だから、心は欲求の特徴をもっている。これは身体の場合にも成り立つ。私は身体をもち、身体には特徴があり、その特徴の一つが脳をもつことである。私は心をもち、心には特徴があり、その特徴の一つが欲求をもつことである。このように表現できるなら、それは心身の間に相関関係があることを示していて、さらに、心と脳が同じだと仮定すれば、心身一元論、心脳一元論となり、心は脳に還元されることになる。

 

 好奇心も探求心も欲求なのだが、私たちは同じ欲求とは思っていない。原因と結果の系列によって現象を理解するのが私たちの通常の方法である。まずは外部刺激が感覚器官を通じて入力され、それに対して好奇心が働く。その好奇心に導かれて一連の作業が進行し、定められた目標実現の過程が続くことになる。その過程を支えるのが探求心で、それによって作業が持続され、結果が得られることにある。つまり、原因と結果の間をつなぐものとして、まず好奇心が、次に探求心が働くことによって、一定の成果に至ることができるのである。つまり、原因、入力、好奇心、内的処理過程、探求心、そして出力、つまり結果という系列が考えられ、その系列に二つの異なる欲求が働いていることになる。

 この二つの欲求の共同作業が好奇心を満たすことになり、持続的な探求心がそれを支えていることになる。むろん、私たちの欲求はもっと奥深く、これら二つの欲求だけではなく、人の行動を全面的に支える仕方で存在している。人の欲求の中では好奇心も探求心もほんの僅かな役割しか演じていない。そのためか、二つの欲求によって獲得される知識は盲目的、断片的、刹那的で、地球全体の幸福などにはまるで鈍感で、好きなように悪用されてしまう。

 私たちは未だに欲求自体を組み込んだものへの好奇心、探求心を知らず、私たちの欲求自体に対してどのように好奇心や探求心を働かせたらよいのか、実はよくわかっていないのである。怖ろしきかなと言わざるを得ないが、盲目で、満たされることのない私たちの欲求に対して、やはりよくわからず、頼りがいのない好奇心と探求心で徘徊するしかないのである。