1ページで子供たちに何を一番伝えたいかと問われれば…

 それは「「考える」=「計算する」」ということ。その際、大切なのは自然言語(natural language)と人工言語(artificial language)に関する次のような事柄で、それらがわかれば、考えることがなぜ計算することなのかがわかります。

 

1言語と思考、知識、文化

 言語を操るのは人間だけと言われ、言語と思考、言語と科学や文化の間の密接な関係が明らかにされてきました。言語がなければ人間の知識は生まれなかったのです。

 

2自然言語人工言語

 私たちが知っている自然言語は日本語ですが、日本語はインド・ヨーロッパ語族に属さず、他のどの言語からも独立した、孤立無援の言語です。それでも、日本語以外の言語で表現された内容を私たちは理解できます。もっぱら人工言語(最も有名なのがfirst-order language)を使うのはコンピューターで、AIの言語も人工言語です。むろん、人も人工言語を使うことができます。

 

3接続詞と演算子

 文と文を接続(結合)するのが接続詞(結合子(connective)、not, and, or, if then)、数のような項(term)と項を結合するのが演算子(operators、加減乗除)です。文を接続したり、分離したりすると文ができ、項を結合したり、分離したりすると項ができます。文と項は違うものですが、文の真偽(1と0)を項とする計算は接続された文の真偽と同じで、接続された文の真理値は、各文の真理値の計算の結果です。

 

4文法と論理は何が違うのか

 文法の規則と論理の規則は何が異なるかと言えば、その違いは文をつくる規則にあります。一つの文には一つの主語しかないのが文法の基本ですが、一つの文に複数の主語を認めるのが論理の基本です。この違いは極めて重要で、アリストテレスの論理学とフレーゲの論理学の違いとなっています。でも、思考する、推論する規則となれば、文法の規則はほとんど何もなく、もっぱら論理の規則となります。

 

5言語を使った推論と数学の証明は同じ

 言語を使って「考える、推理する、論証する、証明する」ことは、どれも似たようなことを主張しています。それは論理規則を操って「計算する、証明する」ことと同じです。

 

こうして、「自然言語を使って考える」ことは「人工言語を使って計算する」ことに翻訳できるのです。

イヌホオズキとワルナスビ

 二つはよく似ていて、以前私もワルナスビをイヌホオズキ(犬酸漿)と間違えてしまった。特に、花だけ見ていたのでは区別しにくい。むろん、二つを直接に見比べるなら、容易にわかるのだが…兎に角、どちらもナス科ナス属で、イヌホオズキの別名はバカナス。

 ワルナスビの花は直径が約3.5cmあるのに対し、イヌホオズキは約1cmと小さい。イヌホオズキは毛が目立つが、棘は見当たらない。それに対し、ワルナスビは全身鋭い棘があり、不用意に掴むと痛い。

 イヌホオズキは茎が暗紫色になることが多く、上向きの曲がった毛がある。葉の両面に屈毛があり、葉裏の脈にも屈毛がある。花は一つの房に総状に集まってつく。その実は未熟な緑色のときにも光沢がほとんどなく、熟して黒くなっても光沢は少ない(画像)。

 アメリイヌホオズキは北アメリカ原産の帰化植物で、戦後日本に入ってきた。イヌホオズキ より茎や葉が細く、花の色は薄紫。他にもテリミノイヌホオズキ、オオイヌホオズキ、ケイヌホオズキがあり、やはり識別は簡単ではない。

f:id:huukyou:20191112043928j:plain

イヌホオズキ

f:id:huukyou:20191112044018j:plain

ワルナスビ

f:id:huukyou:20191112044044j:plain

イヌホオズキの実

 

神々と人々との絆をあちこちから搔き集めると…

(これまで連載したものを加筆修正し、まとめたもの)

 

 神様がたくさんいると、喧嘩したり、騙し合ったりと、神様同士の諍いや争いが生まれ、人間関係に似た神様関係ができていきます。複数の神様がいれば、当然神様社会ができ、その仕組みや構造はごく自然に人間社会と似たものになります。ギリシャ神話、『日本書紀』、『古事記』など、いつでもどこでも複数の神様のつくる社会は驚くほど人間社会に似ています。神様と人間は表向き異なる存在ということになっているのですが、実際は神様社会と人間社会は多くの共通点、類似点をもっています。以後、神様と人間を同等に扱うために、「神、人」と呼ぶことにします。唯一の神と複数の神では神概念そのものが根本的に違うと考えられ、それが宗教を理解する上での根本的な前提だと見做され、一神教多神教は根本的に異なると信じられています。神の社会学、神の心理学などは複数の神が存在する世界でしか意味をもちません。唯一神社会学は存在しませんし、まして倫理学などあり得ません。唯一神は孤立無援ですが、そのために倫理も道徳も必要としないのです。ロビンソン・クルーソーでさえ、周りの動植物に配慮が必要だった筈ですが、唯一神にはそれさえ無用。でも、その絶対的な唯一神が人間を創ると、事態は変わり出し、神に忖度する人たちが様々な神擬きを生み出すことになるのです。

 

 神道の神々の間の絆や関わりの例となれば、「三神一体(さんしんいったい)」で、具体的には「住吉三神」。複数の神はしばしば一つに合体した形で信じられてきました。ヒンドゥー教は代表的な多神教で、そこでの三神一体またはトリムールティとは、ブラフマーとヴィシュヌとシヴァは同一であり、これらの神は力関係の上では同等であり、単一の神聖な存在から顕現する機能を異にする三つの様相である、というのが教えです。つまり、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三神は、宇宙の創造、維持、破壊という三つの機能を表現し、それぞれ創造、維持、破壊/再生を分担しているのです。

 『日本書記』では主に底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)、『古事記』では主に底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命と表記される三神の総称が住吉大神と呼ばれ、さらにそこに息長帯姫命神功皇后)を含めることもあります。 かつての神仏習合思想では、それぞれ薬師如来底筒男命)、阿弥陀如来中筒男命)、大日如来表筒男命)を本地とすると考えられました。こうなると、鬼に金棒どころか、神と仏の合体そのもの。

 『日本書紀』によれば、仲哀天皇の御代に熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「貧しい熊襲の地よりも、金銀財宝に満ちた新羅を征討せよ。我ら三神を祀れば新羅熊襲も平伏する」との神託を得ました。しかし、仲哀天皇はこの神託に対して疑問を口にしたため、祟り殺されてしまいます。その後、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて新羅へ出航しました。皇后は神々の力に導かれ、戦わずして新羅、高麗、百済三韓を従わせたのです。これが神国日本と他国との戦いの最初の記述ですが、その後の外国との戦争に際して手助けする神々の一つが住吉大神なのです。これは正に神々と人々が生み出す拡大社会の姿なのです。

 「三位一体」はキリスト教において「父」と「子(キリスト)」と「聖霊」が「一体(唯一の神)」であるとする教えです。キリスト教で、神を考え、語るのに外せない言葉が「三位一体」です。「三位一体」は唯一の神が三つの姿になって現れるという主張で、その三つが「父」と「子(イエス・キリスト)」と「聖霊」。父はイエス・キリストの父で、天地万物の創造主です。イエス・キリスト聖霊も、この父なる神から生まれました。聖書の中では「ヤハウェ」という名前で登場します。父である神の唯一の子がイエス・キリスト。人も神の子供で、神によって創造されたものです。それに対してイエス・キリストは神自体から生まれた人です。聖霊は父である神の霊で、イエス・キリストを通して注がれたもの。聖霊は炎の形で表現されたりします。聖書の中では「聖霊による洗礼」とか「聖霊が降った」という言葉で登場します。

 三神一体、住吉大神、三位一体は「三つのもの」を除けば、異なる宗教の独立した概念だと教えられてきたのですが、このように見てくると、ついそこに共通するものを見出したくなる人が多いのではないでしょうか。神様の間の戦いにかこつけ、神の加護のもと、聖戦に明け暮れてきた歴史を振り返るなら、そこには神と人が敵、味方になって共に戦う姿が見出され、それが世界中の歴史の中に溢れているのです。

 『日本書記』と『古事記』をそのまま素直に読めば、神功皇后は第十四代仲哀天皇の后であり、第十五代応神天皇の母親です。朝鮮半島の制圧を神から命じられたにも関わらず、それを無視して亡くなった仲哀天皇に変わり、妊娠したまま朝鮮へ出兵し、その後出産したことから、神功皇后は聖母であり武芸の神として祀られています。応神天皇が八幡様と同一視されることから全国の八幡神社で、よく一緒に祀られています。また、朝鮮への出兵の際に関わった住吉三神宗像三女神と一緒に祀られることも多いようです。
 彼女は夫である仲哀天皇の死後、応神天皇を生んでいます。本来、仲哀天皇の子供であるにも関わらず、『古事記』、『日本書記』の中でも神功皇后は神との間に子を作ったという風に変わり、応神天皇は神と人の子、つまり半神ということになっています。これは応神天皇が長子ではなく、異母兄が何人かいることから、応神天皇の正当性を主張するためだったと思われます。もっとも、女性が神との間に子供を作り、父親の影が薄いというのはよくある神話・伝承のパターンの一つです。

 九州南部の豪族である熊襲を討伐しようとした際に、神功皇后が占いをすると、「西方に金銀豊かな国がある。そこを服属させて与えよう」と神託がありました。ところが仲哀天皇はそれを信じず、予定通りに熊襲と戦争を始め、急死してしまいます。そこで、もう一度占い神意を伺うと、「皇后の腹の御子が国を治めるべき」と神託があったのです。神功皇后は神に名を尋ねると、「神託は天照大神の意思、伝えるよう命じられたのは住吉三神である」と答えました。
 そこで、神功皇后住吉三神とともに出兵し、新羅を平定。朝鮮側の資料にも「倭人の兵が来た」という記述が多くあり、出兵があったのは事実。妊娠してから朝鮮半島に出向いた神功皇后は出産を遅らせるために、美しい石を腰につけて出産を遅らせるように祈ったところ、筑紫国に帰国してから出産できるほど遅らせることができました。石を使って産道を塞いで出産を遅らせたとあります。妊娠期間は十五か月。帰国し、筑紫の国で出産。近畿に帰る途中で、応神天皇を亡きものにしようとした異母兄の忍熊皇子、香坂皇子を破っています。そして、幼い応神天皇の摂政として政治を行いました。九州に帰国後、8本の幟を立てたことから、八幡信仰が始まったという伝承がありますが、八幡様はそれ以前からあった地域の信仰とも言われています。

 仲哀天皇から応神天皇への代替わりは、クーデターによる王朝交代でした。このとき、仲哀天皇の九州遠征に同行せず大和に残っていた息子たちを滅ぼして権力を奪ったのが、神功皇后と建内宿禰(タケシウチノスクネ)です。

 

 ヒンドゥー教は、バラモン教から聖典カースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながらでき上がった多神教です。紀元前2,000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入し、紀元前1,500年頃にはヴェーダ聖典がつくられ、それに基づいてバラモン教が成立します。紀元前5世紀頃に政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌することになります。その結果、バラモン教は民間の宗教と同化し、ヒンドゥー教へと変っていきます。ヒンドゥー教は紀元前5-4世紀には勢力をもち始め、紀元後4-5世紀に当時優勢だった仏教を凌ぐようになり、その後インドの民族宗教になっていきます。近世以降、ヒンドゥー教では「三神一体論(トリムルティ)」とよばれる教義が唱えられてきました。この教義では、本来は一体である最高神が、三つの役割「創造、維持、破壊」に応じて、三大神「ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ」として現れると説かれます。でも、現在ではブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神シヴァ神が二大神として多くの信者を集めています。創造神ブラフマーは、紀元前15-10世紀に宇宙の根本原理であるブラフマンを神格化した神として登場。バラモン教では神々の上に立つ最高神とされ、「自らを創造したもの」、「生類の王」と呼ばれました。宇宙に何もない時代、ブラフマーは姿を現す前に水を創り、水の中に種子として「黄金の卵」を置きました。卵の中に一年間留まって成長したブラフマーは、卵を半分に割り、両半分から万物を創造しました。

 ヒンドゥー教の時代(紀元後5-10世紀以降)になると、ヴィシュヌやシヴァが一般大衆の支持を得て力を持って来るのに対し、観念的で独自の神話を持たないブラフマーは人気が薄れました。三神一体論(トリムルティ)では、ブラフマー最高神の三つの神格の一つに相対化され、世界の創造と、次の破壊の後の再創造がその役割です。さらに、ヴィシュヌ派やシヴァ派の創生神話では、ブラフマーはこれら二神いずれかに従属して世界を作ったに過ぎないとされています。

 ブラフマーは、インド北部のアブー山に住んでいます。四つのヴェーダを象徴する四つの顔と四本の腕を持ち、水鳥ハンサに乗った赤い肌の男性の姿で表されます。手にはそれぞれ、数珠、聖典ヴェーダ、小壷、笏を持っています。そのブラフマーの妻がサラスヴァティー弁才天)。維持神ヴィシュヌは、既にバラモン教聖典リグ・ヴェーダ』に登場する、起源の古い神格。世界をたった三歩で踏破する自由闊歩の神とされ、世界の果てまで届く太陽光線を神格化したものと言われます。ヒンドゥー教が普及すると、動物や英雄たちをヴィシュヌの化身「アヴァターラ」として取り込んで行くことによって、民衆の支持を集めます。三神一体論(トリムルティ)では、ヴィシュヌは最高神の三つの神格の一つにまで高められ、世界の維持・繁栄を司るのです。ヴィシュヌ派の創世神話によると、宇宙ができる前にヴィシュヌは大蛇シェーシャ(竜王アナンタ)の上に横になっています。ヴィシュヌのへそから蓮の花が伸びて行き、そこに創造神ブラフマーが生まれ、さらに、ブラフマーの額から破壊神シヴァが生まれます。ヴィシュヌは、メール山の中心にあるヴァイクンタに住んでいて、四本の腕を持ち、右には円盤と棍棒を、左には法螺貝と蓮華を持っています。乗り物はガルダと呼ばれる鳥の王で、鷲のような姿、もしくは鷲と人を合わせた様な姿をしています。ところで、ヴィシュヌの妻はラクシュミー(吉祥天)。ヴィシュヌは「アヴァターラ」と呼ばれる姿に変身して地上に現れます。これは、偉大な仕事をした動物や人物たちを「ヴィシュヌの生まれ変わり」として信仰に取り込むための手段であったと考えられます。ヴィシュヌの化身で特に有名なのは、ラーマとクリシュナです。ラーマは、叙事詩ラーマーヤナ』の英雄で、魔王ラーヴァナから人類を救います。クリシュナは、叙事詩マハーバーラタ』の英雄で、特にその挿話『バガヴァッド・ギーター』で活躍します。

 バラモン教聖典リグ・ヴェーダ』では、破壊神シヴァは暴風雨神ルドラの別名として現われます。暴風雨には、風水害をもたらすという破壊的な側面と、土地に水をもたらして植物を育てるという生産的な側面があります。このような災禍と恩恵を共にもたらす性格は、後のシヴァにも受け継がれます。ヒンドゥー教の時代になると、民間信仰によってシヴァに様々な性格と異名が付与され、民衆の支持を集めます。三神一体論では、シヴァは最高神の三つの神格の一つにまで高められます。世界の寿命が尽きた時、シヴァは世界を破壊して次の世界創造に備える役目をもっています。シヴァは、ヒマラヤのカイラーサ山で瞑想に励んでいます。両目の間には第三の目が開いており、彼が怒る時には激しい炎が出て、全てを焼き尽くすのです。肌は青黒い色で、三日月の髪飾りをした髪の毛は長く頭の上に巻いてあり、短い腰巻を纏った苦行者の姿をしています。シヴァの妻は、パールヴァティー(雪冰天女)。夫婦の間にガネーシャ歓喜天)が生まれます。シヴァは、教学上は破壊神ですが、民間信仰によって様々な性格を付与され、それに応じて様々な異名を持っています。マハーカーラ(大いなる暗黒)と呼ばれるシヴァは、世界を破壊するときに、恐ろしい黒い姿で現れます。ナタラージャ(踊りの王)と呼ばれるシヴァは、炎の中で片足をあげて踊っています。ニーラカンタ(青い喉)と呼ばれるシヴァは、大蛇ヴァースキが猛毒を吐き出して世界が滅びかかったとき、毒を飲み干し、その際に喉が青くなりました。三都破壊者と呼ばれるシヴァは、三つの悪魔の都市(金でできた都市、銀でできた都市、鉄でできた都市)を焼き尽くします。その他、バイラヴァ(恐怖すべき者)、ガンガーダラ(ガンジスを支える神)、シャルベーシャ(有翼の獅子)、パシュパティ(獣の王)、マハーデーヴァ(偉大なる神)、シャンカラ、などと呼ばれ、異名の数は一千を超えます。

 このように歴史的な経緯を含めて見てくると、「ブラフマーとヴィシュヌとシヴァは同一であり、これらの神は同等の力をもち、唯一の神聖な存在がもつ異なる機能の三つの様相に過ぎない」というトリムールティの理論がヒンドゥー教の実際の歴史の中に現れることはむしろ稀であり、宗教美術のテーマになることも少なく、生きた信仰としてより、単なる理論に過ぎなかったことがわかります。

 「三神一体」という考え自体は一見単純明解なのですが、人の信仰は相対化されにくく、どれか一つの神への強い信仰が自然な姿であるように思われます。これは仏教でも同じで、拝む仏も宗派によって、時代によって変わっていきます。神社会の離合集散や階層は人間社会のそれと変わらないようです(でも、キリスト教の三位一体論となると話は別です)。

 

 神が他の神と交わる神社会には豊かな物語が生まれ、人格にも似た神格が複数存在し、神の生活世界が展開されることになります。神社会での振舞いによって神の性格、神の行動特性がわかり、分析可能になります。でも、一つの神が絶対であるなら、社会は存在せず、神の社会生活はないことになるのですが、神々が社会をつくるのは人々が社会をつくるのと何ら変わりはないと考えられます。人間社会をモデルにした神社会は拡張された人間社会であり、それをもとに神と人の混在する社会が生まれることになりますが、それが神話として語り継がれてきました。善人と悪人という区別までも神に適用され、善き神、悪しき神が生まれることになります。

 神道は、自然信仰(アニミズム)、民俗信仰(シャーマニズム)、祖霊信仰、怨霊信仰などに由来する八百万の神(やおよろずのかみ)を崇拝する日本の伝統宗教です。神道の起源は縄文時代から始まり、弥生時代から古墳時代にかけてその原型ができたと考えられています。日本の風土や日本人の生活習慣に基づいて自然に生じた神観念は、やがて自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へと変化してきました。神道の神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」ですが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」という性格も併せ持っています。

  人々に人気がある神は流行神(はやりがみ)と呼ばれ、分霊の勧請によって神社の数を増やしてきました。神道では、神霊は際限なく分けることができ、分霊しても元の神霊に影響はなく、分霊も同じ働きをするとされます。何とも都合のよい神の増殖の仕組みです。流行神として多くの神社に分霊されている神には七つの系統があり、それらは八幡神、伊勢神、天神、稲荷神、熊野神、諏訪神、祇園神です。

八幡神

 八幡神は北九州の豪族宇佐氏の氏神として宇佐神宮宇佐市)に祀られていました。この神が数々の吉兆を現し、大和朝廷の守護神となります。その後、八幡神応神天皇と習合し、 現在の神道では、応神天皇誉田別命)を主神として、応神天皇の母である神功皇后と、比売神とを合わせて「八幡三神」として祀られています。 神功皇后は、夫の仲哀天皇が急死した後、住吉大神の神託により、朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めます。新羅は戦わずに降服して朝貢を誓い、高句麗百済朝貢を約します(三韓征伐、これは『記紀』の記録で、真偽は別)。

 比売神は、天照大御神素戔嗚尊との誓いで誕生した宗像三女神多岐津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、多紀理姫命(たぎりひめのみこと))の三柱とされます。宗像氏ら海人集団の祭る神であった宗像三女神が、神功皇后三韓征伐の成功に貢献したことにより、大和朝廷の神として崇拝を受けました。応神天皇の頃から「倭の五王」の時代が始まり、国家は繁栄します。でも、応神天皇から数えて皇位十代目の武烈天皇の死後、後嗣が断絶。そのため、越前から「応神天皇五世の孫」である男大迹王(をほどのおおきみ)が迎えられ、群臣の要請に従って継体天皇として即位します。皇統は、応神天皇から継体天皇を経て、現在の皇室まで繋がります。

 八幡神は、応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられ、天照大御神に次ぐ皇室の守護神となりました。奈良時代に朝廷が宇佐神宮鎮護国家、仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈ったことにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が全国に広まりました(仏を守る神)。

<伊勢神>

 伊勢神は伊勢神宮に祀られる神。伊勢神宮には、太陽を神格化した天照大御神を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれます。天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨した際、天照大御神三種の神器を授け、その一つ八咫鏡(やたのかがみ)は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれることになります。垂仁天皇の治世に天照大御神の祭祀が皇女倭姫命に託され、鏡は伊勢神宮内宮に置かれました。中世になると、伊勢神は日本全体の鎮守として、全国の武士から崇敬されます。神仏習合の教説が広まり、天照大御神観音菩薩の化身とされましたが、やがて大日如来と同一視されるようになります。戦国時代になると、神宮領が侵略され、経済的基盤が失われました。資金獲得のため、神宮の信者を増やし、各地の講を組織させる御師が台頭します。近世には、お伊勢参りが流行しました。庶民からは親しみを込めて「お伊勢さん」と呼ばれ、多くの民衆が全国から参拝。明治時代から戦前までは、すべての神社の上に位置する神社として、社格の対象外とされました。

<天神>

 天神とは、神格化された菅原道真(すがわらのみちざね)。菅原道真宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、右大臣にまで昇ります。でも、左大臣藤原時平によって大宰府へ左遷されます。菅原道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから、道真は雷の神である天神と見做されることになりました。また、道真が優れた学者であったことから、天神は「学問の神様」ともされました。道真の墓所には太宰府天満宮太宰府市)がつくられ、道真が好んだという右近の馬場には道真の怨霊を鎮めるために北野天満宮が造営され、この両社が信仰の中心的役割を果たしてきました。

<稲荷神>

 稲荷神は、もともとは京都一帯の豪族秦氏氏神として伏見稲荷大社京都市伏見区)に祀られていました。神の名は、稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」と書かれました。稲荷神は、稲の神であることから食物神の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と同一視され、後に他の食物神も習合します。また、狐は穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の色や尻尾の形が実った稲穂に似ていることから、狐が稲荷神の使いにされました。平安京を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになります。東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供し、稲荷神は東寺の守護神と見なされるようになります。真言宗が広まると、稲荷信仰が全国に広まり、祟り神としての側面も強くなりました。中世以降、工業、商業が盛んになってくると、稲荷神は農業神から工業神、商業神、屋敷神などの万能の神に変わります。江戸時代に入って稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになり、稲荷神社の数が急激に増えました。

熊野神

 熊野神とは、熊野三山に祀られる神。熊野は日本古来の山岳信仰の聖地。山岳信仰と仏教が習合して修験道が成立すると、熊野は修験道の修行の場となりました。修験道は厳しい修行を行うことによって超自然的な能力(験力)を獲得し、その能力によって衆生を救済することを目指します。神仏習合により、熊野神は「熊野権現」と呼ばれ、熊野本宮大社主祭神である家都御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来、熊野速玉大社(新宮)の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)は薬師如来熊野那智大社熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)は千手観音とされました。 平安時代後期、阿弥陀信仰が強まり浄土教が盛んになってくる中で、熊野の地は浄土と見なされるようになります。院政期には歴代の上皇の参詣が行なわれ、後白河院の参詣は三十四回にも及びました。上皇の度重なる参詣に伴い、在地勢力として熊野別当家が形成され、熊野街道の発展と共に街道沿いに九十九王子と呼ばれる熊野権現御子神が祀られました。鎌倉時代に入ると、熊野本宮大社一遍上人阿弥陀如来の化身であるとされた熊野権現から神託を得て、時宗を開きます。熊野三山への参拝者は、日本各地で修験者によって組織され、檀那あるいは道者として熊野三山に導かれ、三山各地で契約を結んだ御師に宿舎を提供され、祈祷を受けると共に山内を案内されました。次第に民衆も熊野に頻繁に参詣するようになり、「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほどに盛んになりました。

<諏訪神>

 諏訪神とは、諏訪大社(長野県)に祀られる神。諏訪大社には二社四宮あります。諏訪湖南岸に鎮座する上社の本宮・前宮と、諏訪湖北岸に鎮座する下社の秋宮・春宮。主祭神は、建御名方神 (たけみなかたのかみ)と妃の八坂刀売神 (やさかとめのかみ)。両神とも上社・下社の両方で祀られています。諏訪大社に祀られていたのは諏訪地方の土着の神々でした。日本神話によれば、天照大御神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫ります。これに対して、大国主命の次男である建御名方命(たけみなかたのみこと)が国譲りに反対し、武甕槌命に相撲を挑みます。でも、建御名方命は負けてしまい、諏訪まで逃れ、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされます。また、中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られています。

祇園神

 祇園神は、仏教の牛頭天王(ごずてんのう)と神道素戔嗚尊(すさのおのみこと)が習合した神。京都の八坂神社もしくは姫路の広峯神社が総本社とされます。牛頭天王は、インドのインドラ神の化身の一つが仏教に取り入れられ、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神。素戔嗚尊は、父である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)から夜の国もしくは海原を治めるように定められるのですが、母である伊弉冉尊(いざなみのみこと)のいる根の国に行きたいとそれを断ります。素戔嗚尊は、根の国に向かう前に姉の天照大御神に別れの挨拶をしようと高天原へ上りますが、粗暴を働いて追放されます。牛頭天王素戔嗚尊が習合したのは、両神とも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたため。本地仏薬師如来平安時代に成立した御霊信仰を背景に、行疫神を慰め和ませることによって疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形です。その祭礼を祇園御霊会といい、京の市民によって祇園社(八坂神社)で行われるようになりました。後に「祇園祭」と呼ばれます。明治に神仏分離が行われた際、仏教の神である牛頭天王は祭神から外され、神道の神である素戔嗚尊だけが残されます。同時に神社名から仏教用語の「祇園」や「牛頭天王」が外され、総本社である京都の祇園社も八坂神社と改名されました。

 

 ここからは仏たちのランクについて考えてみましょう。仏像と聞いて最初に思い浮かべるのは 開祖の釈迦の像でしょう。私たちに馴染み深い名前は「如来」や「菩薩」。原始仏教では偶像崇拝を禁止する釈迦の教えが徹底されていましたが、次第に様々な仏像がつくられるようになっていきます。そして、釈迦の像以外にも「鑑真和尚像」のような高僧なども含まれ、広く「仏教に関連する像」が仏像の定義に含まれるようになっています。
 仏像には さまざまな種類、ランクがあります。ランクの高い順に次の5種類があります。

如来(にょらい)
菩薩(ぼさつ)
明王(みょうおう)
天部(てんぶ)
羅漢・高僧(らかん・こうそう)など

             

(1)「如来」は「真理を悟った者」という意味。釈迦が出家後に粗末な衣一枚で宝冠、装飾品を身につけない姿が如来像です。如来は悟りを得て最高の境地に達したものだけに与えられる最高ランクの仏。如来には以下の種類があります。
釈迦如来(しゃかにょらい)
阿閦如来(あしゅくにょらい)
阿弥陀如来(あみだにょらい)
薬師如来(やくしにょらい)
毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)
大日如来(だいにちにょらい)
多宝如来(たほうにょらい)
五智如来(ごちにょらい)

(2)菩薩は「悟りを求める者」という意味。菩薩は、釈迦が出家前に釈迦族の王子だったころの豪華な衣装、宝冠、装飾品をまとった姿です。つまり、菩薩は最高の境地である「悟り」を得るために修行中の者を意味しています。菩薩には以下の種類があります。

聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)
十一面観音菩薩(じゅういちめんかんのんぼさつ)
千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)
如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)
不空羂索観音菩薩(ふくうけんじゃくかんのんぼさつ)
准胝観音菩薩(じゅんていかんのんぼさつ)
馬頭観音菩薩(ばとうかんのんぼさつ)
弥勒菩薩(みろくぼさつ)
地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
勢至菩薩(せいしぼさつ)
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
普賢菩薩(ふげんぼさつ)
文殊菩薩もんじゅぼさつ)
月光菩薩(がっこうぼさつ)
日光菩薩(にっこうぼさつ)

 

(3)明王は、如来の命を受けて、いくら諭しても正しい道に向かわない人に対して、髪を逆立てて怒ったり、手に持った縄で強引に相手を屈服させたりする役割をもつ仏。明王は、密教系の仏像で、如来そのものが変化した仏とも言われています。明王には以下の種類があります。

不動明王(ふどうみょうおう)
降三世明王(ごうざんぜみょうおう)
軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)
大威徳明王(だいいとくみょうおう)
金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)
愛染明王(あいぜんみょうおう)
孔雀明王(くじゃくみょうおう)
烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)

 

(4)天(天部)は、天上世界に住む鬼神(仏教に帰依した神々)を意味します。仏教を信じる心を妨げる外敵から人々を護り、仏法を守護するという役割を持っています。釈迦の説教に感動し、仏教に帰依した(他教、インド神話の)神々です。天(天部)は、如来・菩薩の領域と人間(衆生)との中間に位置します。天(天部)には以下の種類があります。

梵天(ぼんてん)
帝釈天(たいしゃくてん)
持国天(じこくてん)
増長天(ぞうちょうてん)
広目天(こうもくてん)
多聞天(たもんてん)
毘沙門天(びしゃもんてん)
弁財天(べんざいてん)
吉祥天(きっしょうてん)
鬼子母神(きしぼじん)
韋駄天(いだてん)

 

(5)釈迦の生前から深く仏教に帰依し、仏法を護持すると誓った弟子たち(十大弟子)や、悟りの境地に近づき尊敬を集めた高僧たち(十六羅漢、五百羅漢)の像です。

 

 このように仏像を眺めてくると、八百万の神々とまではいきませんが、仏教にも多くの仏像があり、それぞれ異なる役割を担ってきたことがわかります。偶像崇拝を嫌った釈迦の気持ちとは大違いで、仏教寺院には様々な仏像が置かれ、信仰の対象となってきました。

 

 さて、神と仏の共存社会はどうなっているのでしょうか。私たちはそれを「神仏習合」と呼んでいます。朝鮮から日本に「仏教」が伝来すると、日本固有の神々と仏たちとは融合し始めます。在来の種と外来の種が交雑するかのように習合したのです。この「仏教」と「神道」の習合は、私たち日本人の神や仏の観念を知る上で不可欠のものです。
 神道に対して仏教が単に外来種のように移入されたのではなく、朝廷や貴族の守護神として移入されたという点に大きな特徴があります。後のキリスト教伝来の場合とは違って、仏教は神道の一部として移入され、「仏」は神の一人とみられていたのです。神道は現世利益的な「繁栄、守護」を目的としていて、仏教もそれと同じ目的で受容されたのです。
 釈迦の原始仏教は自ら「悟りを開く」のが目的ですが、大乗仏教になって「仏が人々を救う」という宗教に変わり、その「救済の力」が、現世利益の場合は「守護力」に求められました。仏たちは庶民にとって「病気や災厄からの守り」であり、朝廷や貴族にとっては「護国、鎮守」の担い手でした。ですから、朝廷、貴族は仏教を保護し、仏教も「勢力拡大」のため朝廷、貴族と結びついていきました。
 ギリシャやエジプトの神々は対立していませんし、ローマの神々はギリシャの神々と融合しました。日本でも仏たちと神道の神々とは融合しました。仏教は「神道とは異なり、出家して修行によって悟りを得る」ことが目的だと強弁せず、「護国、守護」の目的は神道と同じだと主張し、それゆえ簡単に受容されたのです。確かに、本来の仏教は悟りを開くことが目的で、個人の魂の救済を目的にしていました。でも、これだけを最初から主張すると、仏教と神道は両立しなくなってしまいます。仏教の「公式な伝来」は『日本書紀』によれば552年ですが、一般的には538年です。仏教の送り手は「百済聖明王」。『日本書紀』によると、欽明天皇は使者に対して「自分はいまだかつてこんな深遠な教えを聞いたことがない」と言いながら、臣下たちには「百済からの「仏」は、見た目は立派だけど、敬うべきなのか否か」などと言っています。これに対して、蘇我稲目は「百済ではみなが敬っているのですから、日本がこれに背くことができましょうか」と答え、物部尾輿は「いまさら蕃神などを礼拝したら、国の神々が怒ることでしょう」と言っています。二つの答えに困った天皇は、「稲目が言うのだから、試みに礼拝させよう」としたのです。蘇我稲目は、「神」なのだから礼拝すべき、と答えたのですが、尾輿は「国の神」の方を大事にすべき、と反対したのです。とはいえ、ここでの「仏」は本質的に在来の神と同じレベルで捉えられているのです。そして、天皇は稲目に「試しに」礼拝させるという訳ですが、何を「試して」いるかと言えば、在来の神々に期待されていたもの、つまり「守護神」としての能力の大きさだったのです。

 しかし、仏の能力を知ることなどそう簡単にはできませんから、586年に即位した用明天皇は「自分は仏法を信じ、神道を尊ぶ」として和解の道を探ったのですが、結局うまくいかず、蘇我馬子物部氏を襲い、これを滅ぼし、武力で仏教擁護派が勝ち、これ以降朝廷は「仏教色」に彩られることになります。この仏教は「護国、鎮守」を目的とする仏教で、「出家して悟りを開く」仏教ではありません。これは聖徳太子も同じで、彼は新しい神によって朝廷政治を変えようとしたのであって、悟りを求める仏教に帰依して「魂の救済」を求めたのではないのです。仏教は本来「悟りを開く」ものでした。でも、これが歴史的に変質していき、先ずは朝廷、貴族の「守護神」と見做され、さらに民衆の間でも人々の願いに応えるものとなっていきます。「極楽浄土」の願望も、つまるところは社会や生活レベルでの「救済願望」だったのです。
 仏教が「民衆のもの」とされていくのが、大乗仏教運動です。「大乗仏教」では、「悟りを得る」ことから、「救済、守護」へと役割が変わりましたが、もう一つの大変化が「民間信仰」との融合です。「民衆の宗教」を標榜すれば、民間の既成宗教を無視することができません。仏教はこうした民間の神々を取り込み、それが「梵天」、「帝釈天」、「吉祥天」等の天部の仏となりました。伝来した仏教自体が既に「他の民間信仰と融合する」という性格を身に付けていたのです。仏教の神道化の一例が「祖先崇拝」です。仏教によれば「死者」は「仏界に成仏している」のですから、法事などして供養する必要はない筈です。仮に葬式を出さず、先祖の霊が「輪廻の輪」の中をさ迷っているとしても「法事」をしたところで今更どうにもなりません。また、お盆で「先祖が帰る」というのも変な話で、仏教では「先祖の霊は仏界にあって」二度とこの輪廻の苦しみの世界に戻ることはありませんし、仏界に行き損なっている場合なら、六道の輪廻の中にいるのですから、帰ってくることができないのです。でも、神道の「祖先崇拝」では、先祖の霊は死んでどこかにいってしまうのではなく、山にあって「死霊」というまだ穢れた状態にあるものが、子孫が供養することでだんだん穢れがとれ、やがて「祖霊」へと浄化していくのだ、と考えます。ですから、神道では「供養の儀式」が必要なのです。
 神道は「死を嫌い」ます。なぜなら、それは繁栄、健康が消失ですることであり、そのため、神道は儀式としての葬式はしませんでした。仏教は伝来以来「先祖供養の儀式」をすることによって人々の心に食い込んでいきます。この仏教の葬式に神道の観念が山ほど入り込んでしまっているのは皮肉ですが、葬式は神道と仏教の習合が人々に受容されていったことを見事に示しています。

 神仏習合説として体系化されたものは鎌倉時代に登場します。真言宗による「両部神道」、天台宗による「山王神道」などが有名ですが、平安時代には既に「本地垂迹説(仏が「仮に神の姿」となって現れるとする説)」が唱えられています。仏教側の説ですから、最初は「仏」が主体。これが極端な形になって現れるのが「神身離脱説」と呼ばれるもので、神はこの地にあって迷い苦しむ衆生の代表であり、仏の力によって苦しみの神の身から脱却、離脱するというものでした。こうして各地の神社に「神宮寺」が建てられ、神の前でお経が読まれたりしたのです。でも、奈良時代の後半、称徳天皇は、神は仏法を守護すべき善なる「守護神」であるとして、神道の神々を再び礼拝したのです。こういう「復権」がはっきりみえるのが「奈良の大仏」の建立の場面で、この時建立を助けるため「宇佐の八幡神」が近くの京都に呼ばれてくるのです(これが「勧請」)。大変な難事業である「大仏」の建立にやはり強力な助っ人が必要とされ、それに「八幡様」が選ばれたのです。こうして「仏法」を守護する「神」という位置づけが確立していき、「鎮守の神」という性格が付与されていくのです。
 神と仏との間に協力関係が成立するという訳ですから、仏と神がどれほど同類、同質と思われていたかがよくわかります。こういう中で「神像」が作られ、貴族の姿をしたものや「僧形」のものなど色々あったのですが、どうも「如来」でもなく、「菩薩」でもなく、「明王」とも「天部」とも違うと思われたせいか、「神像」は普及しませんでした。日本の神々は自然の森羅万象を表しているため、人間的な姿として把握することができにくかったためのようです。

 三位一体はキリスト教の基本的な概念。ユダヤ教イスラム教が一神教であるようにキリスト教一神教なのですが、キリスト教は唯一の神だけを信じるという形態をとらないのです。それを端的に示すのが、父、子(イエス・キリスト)、聖霊によって表される三位一体です。よく聞く「父と子と聖霊のみ名において(in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit)」という謂い回しを思い出して下さい。さらに、イエス・キリストは、真の神であり、真の人であるという神人としての特別の地位を与えられています。神学では、人間の救済はイエス・キリストに従うことによってのみ可能だと考えます。三位一体論とキリスト論がキリスト教神学の核心なのですが、いずれも理屈ではわからず、キリスト教神学に内在する独特の考え方を体得しなければなりません。「神は存在するか」という哲学的な問い自体が成立せず、哲学的方法によって神を捉えることはできないというのが神学の基本的立場です。

 でも、これでは三位一体がこれまで述べてきた三神一体や住吉大神、さらには神仏習合などと何が異なるのか何もわかりません。そこで、三位一体なる概念がどのようなものか基本から考え直してみましょう。アウグスティヌスは次のような7つの言明で、三位一体の考えをまとめています。

 

1.父は神です。 2.子は神です。 3.聖霊は神です。 4.子は父ではありません。
5.子は聖霊ではありません。 6.聖霊は父ではありません。 7.唯一の神が存在します。

 

これら七つの文はすべて聖書の主張。唯一の神には三つのペルソナがあります。上の7つの言明は「三位一体の盾」と呼ばれる図式で表現されてきました。

 「父、子、聖霊」が合わさって、一つの「神」ですが、「父」、「子」、「聖霊」は、それぞれ別のもの。「父、子、聖霊」は同列のもので、「父」、「子」、「聖霊」がそれぞれ三つの神ではありません。三つが合わさって、一つの「神」となり、その神は唯一。でも、「父である神」も「イエス」も「聖霊」も神性をもっています。ですから、神=「父である神」、神=「イエス」、神=「聖霊」であり、一つ一つが完全な神。でも、「父である神」=「イエス」=「聖霊」ではありません。つまり、三つの一つ一つが完全な神でも、神が三人いるのではなく、神は一つです。このように7つの言明と「三位一体の盾」の主張を言い換えることができますが、これでわかったと納得できる人はいないでしょう。納得できなければ、キリスト教一神教なのか否かだけでなく、三つのいずれを信じるのが適切なのかもわからないことになってしまいます。

 三位一体とは何かを確認し直す必要があるようです。神の三位一体の教えは人間の知性で完全に理解することは困難でも、明らかに聖書が教えていることであって、「信ずべき真理」であると言われてきました。三位一体とは、唯一の神の内に、父・子・聖霊の三位格の永遠の区別があり、これら三位の神は、存在と本質において一体とされます。基本的な信仰告白である「アタナシウス信条」には、次のように記されています。
 「われらは唯一の神を、三位において、三位を一体において礼拝する。しかも位格を混同することなく、本質を分割することなく。」

 父なる神は、天地万物の創造主であり、「第一原因」です。父は、子キリストの父であり、万物の父です。子イエスもこの父より生まれたのであり、聖霊もこの父より出たのです。次は子イエス・キリスト。子は、父なる神から生まれ出ました。キリストは、永遠において父なる神から生まれ出た、神の子です。私たちも、神を信じる者はみな「神の子」と呼ばれますが、私たち人間の場合は神の被造物です。これに対し、キリストは神の被造物ではなく、直接父なる神から生まれ出たのです。キリストは、万物の創造される以前に、神から生まれました。その意味で、キリストは「神のひとり子」とも呼ばれます。キリストは私たちが「神の子」と呼ばれるのとは違った意味で、「神の子」であり「神のひとり子」なのです。人間の子が人間であるように、神の子キリストは、「(子なる)神」です。したがって、キリストは永遠から永遠にいたるまで存在しているのです。子なる神キリストは、永遠に父なる神と共にいます。では、父なる神と子なる神は二つの独立した神々なのかというと、そうではないのです。キリストは存在と本質において、父なる神と一体です。でも、新約聖書の原語であるギリシャ語をみると、父なる神とキリストが目標や意思において一つになって行動する、という意味ではありません。「一つ」という言葉は、原語では「同一の本質」、「同質」という意味なのです。つまり、キリストは、父なる神と同じく神性を持ち、父なる神と存在を一つにしています。
 最後の聖霊は、「神の霊」とも「イエスの霊」とも呼ばれます。聖霊は、父なる神から子キリストを通して信者に注がれた神の霊。聖霊は、父なる神から出た神の霊であって、子キリストを通して信者に注がれました。聖霊は、父と子から発します。子キリストは、十字架の死と、復活を経たから、聖霊がキリストという一種の「フィルター」を通して注がれることによって、信者はその聖霊を通し、キリストの十字架の死と復活の力にあずかることができるのです。キリストは今は天にいますが、キリストの十字架死と復活の出来事と同じことが、聖霊によって信者の魂にも起こります。私たちは聖霊によって、古い自分が死に、「神の子」として新しい者に生まれ変わります。聖霊は、父なる神、およびキリストから出た霊です。したがって、聖霊は神性を有するのです。聖霊は、単なる「エネルギー」とか「力」ではなく、人格をもっています。
 このように、唯一の神の内に父・子・聖霊の三つの人格(神格)があります。人間個人に人格が三つあったら、多重人格で大変ですが、三位一体の神の人格は完全に統一されています。父なる神と子の意志が違ったり、子と聖霊の意志が違ったりすることはありません。意識の上では互いに独立しているものの、意志的には子は父に従い、聖霊は父と子に従い、神の統一性、唯一性が保たれています。聖書の中に、三位一体について直接に書いてある箇所はありません。旧約聖書の中では、神は自らを唯一の神であり、自分の他に神はないと繰り返し語っています。ところが、イエスが十字架にかけられて死んだ後、「イエスは神だった」という教えが生まれます。また、新約聖書には、イエスが神を父と呼んだことや聖霊に関する記述も見られ、それらを矛盾なく説明する必要が出てきました。

 父、子、聖霊に関しては、さまざまな説明が可能です。伝統的なキリスト教においては、父と子と聖霊は「作られざる、同質なる、共に永遠なる三位一体」であるとみなす「内在的三位一体」論を教義としています。しかし、「父のみが神であり、子や聖霊は神ではない」といった解釈も可能です。エホバの証人ものみの塔聖書冊子協会)などはこの立場を取っています。また、「父、子、聖霊の三つは全く別個の存在であるが、三者は目的を同じくしている(三位同位)」とすることもできます。モルモン教会はこの立場を取っています。
 三位一体の教義が確立されるまでは、さまざまな解釈が出され、互いに競い合っていました。313年のミラノ勅令によってキリスト教信仰を公認したコンスタンティヌス帝は、教義の分裂がローマ帝国の混乱を招くことを懸念して、教義を統一する必要があると考えました。彼は、325年にニケーア公会議を招集して、イエスを「神と同質」とみなすアタナシウス派を正統とし、イエスを「神に最も近い人間(神とは異質)」とするアリウス派を異端としました。

 でも、論争はこれで決着したわけではなく、正統派の同質説とアリウス派の分派が唱えた同類説(「生まれざる父なる神と生まれし子なる神とは、同類だが、同質ではない」とする説)との間では、長い間論争が続いていました。テオドシウス帝は、同質説と同類説との論争に終止符を打つため、381年にコンスタンティノポリス公会議を招集して、「作られざる、同質なる、ともに永遠なる三位一体」という教義を打ち出しました。

 ところが、これ以降も論争は続き、「子なる神として神そのものであるキリストが、一体どのように同時に人間であり得るか」という点が問題となったのです。まず、アポリナリウス(315頃~390頃)が「魂の代りにロゴスが入った人間がキリストである」と主張しましたが、「それではキリストは完全な人間とはいえないではないか」という反論が出て、後に異端とされました。このアポリナリウスの説に反対したのは、ネストリウス(382頃~451頃)でした。彼は、神性と人性とは混同するものではなく、共存しているのだと説きました。また、その立場からマリアを「神の母」とすることに反対し、「キリストの母」と呼ぶべきだと唱えました。このネストリウスの説に反対したのは、アレクサンドリアのキュリウス(?~444)でした。「ネストリウスの立場では、キリストに二つの人格があることになってしまい、二人のキリストを認めることになる」と彼は批判しました。論争は延々と続き、431年のエフェソス公会議においてネストリウス派は異端とされました。さらに、451年のカルケドン公会議では、「イエスには人性が消えて神性のみがある」とするエウテュケスの神性単性説が異端として退けられ、「キリストのペルソナ(位格)は一つであり、さらに、神性と人性とを完全に備えつつ、両者は混同していない」ことが確認されました。

 このような説明で三位一体が何を意味するかわかったという人はまずいないでしょう。むしろ、ますますわからなくなり、それがキリスト教の根幹にあることに素直に驚くべきなのです。

 

 「神の国」と「神国」はよく似た表現ですが、似ても似つかぬものです。アウグスティヌストマス・アクィナスと並んで、中世最大の教父と言われているのですが、若い時分は恋愛三昧の生活だったようです。でも、勉強はしっかりしていて、16歳の時カルタゴに行き、そこで学んだようで、哲学やマニ教に没頭していました。そして、最終的にキリスト教に回心し、多くの著作をなしたのです。そんな彼が自らの人生を書いたのが『告白』、そして自分の考えたことをまとめたのが『神の国』でした。

 キリスト教の時代が始まり、アウグスティヌスが活躍するのは西暦の300年代。キリスト教が誕生してからは、キリスト教が哲学や倫理も支配するようになりました。313年のミラノ勅令で、強大なローマ帝国キリスト教が公認され、4世紀末にはキリスト教が国教となります。でも、宗教はどこか哲学と似ているところがあり、キリスト教の考え方について違いが生まれてきました。そこで、ニケーア公会議が開かれ、どの宗派が正統なのかという議論がされ、アリウス派は異端となりました。さらに、グノーシス主義のような、様々に異なる信条も登場し、「神は存在できない、それゆえ、私は信じる」などといった主張も生まれ、争いが起こり始めます。このように、当時は様々な教義が生まれ、キリスト教の中での正しい教義とは何かが問題になり出した時代だったのです。アウグスティヌスが生きた時代は、キリスト教内部において整合的な教義がまだ存在せず、諸説入り乱れていました。キリスト教側も手をこまねいて傍観していた訳ではなく、「教父」を設置しました。教父は今の弁護士みたいなもので、キリスト教が正当で、正統な宗教であることを証明し、説明する役割を担っていました。アウグスティヌスはその中の最大の教父、つまり、キリスト教を体系化した一人なのです。

  アウグスティヌスはまず「神の存在」を考えます。神が存在することを証明することは本当に難しい問題です(同じように神が存在しないことの証明も厄介なのですが、それはグノーシス派が問いかけた問題)。彼は「神は存在する。君たちはなぜ「神」という概念を知っているのか。本物の神を見たことがないのに、神という存在を知っているではないか。それは神を認識しているということではないのか」と述べます。これはプラトンイデア論での主張と同じ議論です。「本物の善というものをみんなは知らないはずなのに、それを普通に会話に使って、それで互いに認識を共有している。だから、それは善が存在するということではないのか」という議論そのままです。

 「知る=存在する」という図式について少し述べておきましょう。当時はまだ認識論的に概念がどのように生み出されるかが問題になっていませんでした。例えば、善や真といったものは人間が勝手に作り出した概念ではなく、実在するものであり、人間がそれを見つける、それに気づくと考えていました(存在論)。ですから、人間が知っている概念は存在しているものだったのです。 そこで、神が存在するとします。すると、次のような反論ができます。神が完全なら、どうして悪の性質を持つ人がいるのか。それは神が完全な存在ではないからではないのか。この問いに対するアウグスティヌスの答えが「自由意志」。アウグスティヌスは次のように答えます。神は人に自由意志を与えました。私たちが善をなすのか、悪をなすのか、それは私たちの自由な意志によります。神は人が自分の意志に基づいて、善をなすことを期待しているのです。

 アウグスティヌスは尺度を作りました。イデア論に対して、「汚物」は、「醜い」のイデアがあるからなのか、それとも「美しい」のイデアがないだけなのか、どちらなのかという批判がありました。アウグスティヌスは次のように解釈します。世の中には尺度のイデアがたくさんあるに過ぎません。醜いイデアというのは存在しません。醜いとは単に美しいイデアがないだけなのです。そして、そのイデアが強くなれば強くなるほど、それはより美しくなります。つまり、イデアを単に「あるか、ないか」の二者択一で考えるのではなく、度合いで捉えるようにしたのです。すると、善悪について次のように主張できることになります。この世に悪は存在しない。悪は単に善が欠けている状態に過ぎない。神が万能であれば、この世界に「悪」があってはならないという主張に対し、アウグスティヌスによれば、「悪」は単に善を成し得なかったために生まれたに過ぎないもの、という説明になるのです。

 こうして、アウグスティヌスによれば、神は永遠の知性を持った存在であり、真理は神であり、悪とは善(真理)が欠如した状態で、神への信仰によって満たされるとき、消滅するということになります。さらに、これを「時間」にも適用すれば、時間は個人の心の中のもので、神による救済という目的に向かって流れるとき、「最後の審判」の日に満たされることになります。また、「神」は「言葉を出す父」であり、「キリスト」はその「言葉」であり、「聖霊」は「言葉によって伝えられる愛」であるというのがアウグスティヌスの「三位一体説」なのです。そして、この世界はイエスが唱えた「愛の共同体」としての「神の国」と、「世俗世界」である「地の国」の二つの世界からなりますが、「神の国」は純粋に精神的な世界なので目で見ることはできません。「神の国」が絶対的で永遠なるが故に歴史的に超越しているのに対し、「地の国」とその政治秩序はあくまで時間的(限定的)で非本質的なものに過ぎません。また「地の国」にある教会にも世俗の要素が混入していますが、「地の国」において唯一信仰を代表し、現実世界に共通善を実現するための神の摂理が存在する場であるため、教会は国家に対して優位性を持っているとアウグスティヌスは考えました。

 

 「神国」という言葉が最初に現れるのは『日本書紀』の神功皇后の「三韓征伐」の際、新羅王が皇后の軍勢を見て、神国の兵に戦わずに降伏したという記載です。大和政権は有力豪族の連合政権でした。各々の豪族は、独自の神話をもち、独自の神を祭っていました。ところが、大和政権が大化の改新を通じて天皇中心の中央集権国家へ移行すると、天皇家の神格化を図るために、天皇家の祖先神である天照大神天皇家の神社である伊勢神宮を頂点とした、神々及び神社のヒエラルキーを考案し、これを基本にしたのが古代の神国思想です。
 10世紀以降、律令体制から王朝国家体制に移行すると、貴族や寺社が荘園を拡大し始めます。有力な寺社は、自分たちが祭る神々を日本の神々の中の頂点であることを宣言し、不輸・不入の権を行使し、自分たちの荘園を「神領」や「仏領」としました。その結果、天皇家を中心とした神々と神社の組織は衰退していきます。また、平安時代前期から神仏習合思想が普及し、仏が日本の国土において、人々を救うために神々の姿をとった、という本地垂迹説が説かれました。このような社会・思想の変動によって、天皇の権威を頂点にした神国思想は、本地垂迹説を基にした中世的神国思想へと変化していきます。
 平安時代末期から鎌倉時代にかけて末法思想や鎌倉新仏教の広がりによって現世を否定する思想が広がり、貴族社会を中心に皇室とそれを支える貴族社会の由来を神国思想に求める考え方が出現しました。さらに、これに一大変革を与えた事件が二度にわたる元寇です。いずれも後世「神風」によって撃退されたと解釈されますが、この嵐が伊勢神宮をはじめとする諸神社によって盛んに喧伝され、実際に戦闘を行った武士たちが元軍の集団戦法に苦戦して神への加護を求めていたという事実と共に、日本を神国とする認識を国内各層に浸透させることになりました。
 このため、浄土思想・鎌倉新仏教側もこれを取り入れて、日本の仏教は神々の加護によって初めて成立していて、末法の世を救う教えも日本が神国であるからこそ成立したという主張に転換していきます。これを「大日本は神国である」という言明で言い切ったのが『神皇正統記』の北畠親房です。親房は天照大神の末裔の天皇によって日本国家が維持されていると主張したのです。

 江戸時代には儒教や仏教などの外来思想に批判的な立場から古典や神道を研究する国学が盛んになり、復古神道が主張されると、従来の神仏習合的な神国思想から仏教・儒教的要素を廃し、古代へ回帰した神国思想が広く受け入れられるようになりました。でも、それが幕末の外的圧力の増大とともに攘夷論へと発展し、やがて江戸幕府を亡ぼす原因となりました。明治維新によって天皇が政権を奪還すると、国家神道が国教とされ、国家を支える理念的思想となるとともに、欧化・近代化路線に対抗する国粋主義と結びつきました。日本の帝国主義軍国主義路線の膨張、植民地の拡大とともに、国内外の民衆を抑圧する思想へと転化して行ったのです。日露戦争勝利以後、日中戦争・太平洋戦争でその動きは最高潮に達し、「神州不滅」思想が横行し、多くの生命が失われました。
 「神国」の通常の使い方によれば、日本を神の国と考えることです。これには、神々の加護の下にある国という意味と、天照大神(あまてらすおおみかみ)の神孫である天皇の統治する国という意味があります。イザナギイザナミの二神による国土の生成、日神天照大神をはじめとする神々の生誕、日神の神孫による日本の支配を骨子とする『日本書記』と『古事記』の神話のなかにその芽を見出せるのですが、古代には「神国」ということばはあまり用いられませんでした。「神国」という思想が歴史の表面に登場してくるのは中世以降のことです。それは、何より蒙古襲来という国家的危機が民族意識を覚醒させたことによるのです。

 近世に入ると、神国思想は儒教思想と結びつき、国粋主義思想を生み出します。その一方で、新たに登場した国学思想によって活性化され、幕末維新期の尊王攘夷運動に精神的基盤を提供しました。これらの神国思想では、単に統治者たる天皇のみならず臣民自体も神々の後裔であるとの考え方が強調されます。こうして神国思想は民俗としての祖先崇拝と結びつき、明治以後の敬神崇祖、忠孝一致という家制国家を支える道徳思想として生き続けるのです。

 

 「神の国」と「神国」は似て非なる概念ですが、そこに一神教多神教の違いの実例を見ることができます。神が絶対で唯一の神であることは、神が政治や経済から超越、独立したものであることを強調するのですが、神々が人と交わるような状況では、神々は政治や経済に強くコミットすることになります。人々の運命を左右するのはいずれの神も同じなのですが、その具体的方法は随分と異なることがわかります。ただ、直接に私たちの生活にコミットする際の神の力は、一神教であれ多神教であれ、自然を超える力によることはよく似ています。奇跡が私たちに及ぼす効果や結果は、いずれの神であっても変わりありません。

 

 既に「流行神として多くの神社に分霊されている神には七つの主な系統があり、それらは八幡神、伊勢神、天神、稲荷神、熊野神、諏訪神、祇園神である」と述べました。この流行神ほどは流行らなかった神様の一つが住吉明神(大神)。三人の男の神様と一人の女の神様が合体したのが住吉明神です。ロボットの合体の遥か以前に神話の世界では既に神々の合体が普通にあったのです。

 佃の住吉神社の祭礼の話からスタートしたことを思い起こせば、「神国」日本を芸能として表現したのが謡曲の「白楽天」です。脇能に神が登場するのは能では当たり前のことですが、日本にスパイとしてやってきた白楽天を住吉の神が退散させるという物語は幽玄な能には相応しくないような内容。でも、それも芸能のもつ意義の一つであることを見事に示しています。そこには神々と人々の混沌とした結びつきが垣間見えます。神と人を分けても、一緒にしても、神と人の断ち切ることのできない関係が語り継がれてきたのです。

 まずは、能「白楽天」の物語をまとめてみましょう。能は伝統芸能として幽玄な世界観、人間観を劇と音楽によって表現する総合芸術と位置付けられています。私は学生の頃の能の体験から、多くの曲は最後に大立ち回りがある曲芸的な要素が強い娯楽だと感じていて、幽玄の美など能の一部に過ぎないという印象を持っていました。そのためか、能が国威発揚の手段になったり、神国日本を謳い上げたりすることはないと断ずることは誤りで、実際は神、人、国の世俗の有り様が描かれ、日本神国観が主張されているということにも違和感はありませんでした。さて、肝心の「白楽天」はどんな筋立てなのでしょうか。

 

 日本の知識や教養水準がどの程度かを知ろうとやって来た唐の詩人白楽天を、漁翁に身をやつした住吉明神が問答の末に追い返すというのがストーリー。この能のシテは漁翁、実は住吉明神で、ワキは中国から来た大詩人白楽天、舞台は九州の筑紫の国。さて、始めにワキが、「半開口(はんかいこう)」と呼ばれる特殊な音楽によって登場。ワキは、唐の高官白楽天であると名乗り、東の方に日本という国があるが、どの程度の知恵、教養をもつ国であるかを皇帝の命令により調べに行くと述べ、「舟こぎ出でて日の本の、そなたの国を尋ねん」と謡い、日本に到着します。
 シテ(老人)とツレ(男)は、共に釣り人の姿。このようにツレを伴って登場するのは、神を主人公とした脇能の定番。シテとツレは、橋掛りで向き合って謡った後、舞台へ入って来て、さらに謡います。ワキが「小さな舟が見える」と言葉をかけます。シテは即座に「御身は唐の白楽天にてましますな」と、相手の正体を見抜くので、ワキは大いに不思議がります。シテとツレは、「白楽天が日本をスパイしに来るという噂は、日本中に知れていた」と述べ、地謡が「今や今やと松浦舟」と謡い出します。
 シテは、私は釣りに忙しいので、あなたにかまっている暇はない、という内容の地謡につれて、実際に釣り糸を垂れます。ワキは「なおなお尋ぬべき事あり。舟を近づけ候へ」と言い、「中国では唐詩を作る」とワキが言うと、シテは「日本では和歌を詠む」と答え、ワキ白楽天は眼前の景色を即興的に見事な詩に作り、「心得たるか漁翁」と聞かせます。その詩は「青苔(せいたい)衣を帯びて巌の肩にかかり、白雲(はくうん)帯に似て山の腰をめぐる」というもの。すると、シテは、「青い苔が巌の肩にかかっているのが衣に似ているとは面白い詩だ」と解釈して、今度は同じ景色を「苔衣(こけごろも)着たる巌はさもなくて 衣(きぬ)着ぬ山の帯をするかな」と和歌を返します。こちらも住吉明神(=和歌の神様)の化身で、上手なのは当然。
 ワキは賎しい姿の老人が妙なる歌を詠んだので仰天しますが、シテはさらに、「日本では、人間だけでなく、生きている者は誰でも和歌を詠む」と語り、地謡が「花に鳴く鴬、水に住める蛙まで、唐土は知らず日本には、皆歌を詠み候ぞ」と謡い出します。これを聞いて驚くのは中国人より西洋人で、このように謡われたら、デカルトもカントもビックリ仰天です。さらに、色々の舞楽を見せよう、と言って、シテは静かに立ち上がり、太鼓が、「来序」という音楽を打ち出すのに乗って、ツレとともに退場します(中入り)。後シテは住吉明神の本体を現します。舞台に入り、「神ノ序ノ舞」という神々しい舞を舞い、この能の音楽的、舞踊的クライマックスとなります。これは、老体の神の舞う舞で、閑かな中に強くサラリとした要素のある独特なもの。舞が終わると、シテは、住吉の神であると宣言し、「日本を従えることは出来ないから、早く帰りなさい」とワキに向かい、地謡の文句により各地の神々が結集したことが謡われ、神風が起こり、白楽天の乗った船は唐土まで吹き戻されたと表現されます。そして、「げに有難や神と君が代の、動かぬ国ぞ久しき」と全曲が締めくくられます。約2時間の上演で、普通の能の二倍。

 

 白楽天は人間の詩人ですが、それに対して戦う住吉明神は神々の合体。神風で外敵を追い返したように、当然神が勝つのです。でも、人対人、神対神であればどちらが勝ったかということに意味があるかも知れませんが、人と神が戦って神が勝つのはむしろ当たり前のこと。日本は神が守ってくれるということは、日本人としてはもちろん嬉しく、めでたいことですが、人と神が歌を詠み競べて勝ったという話を素直に見れば、それはそうだろう、でも、その勝負は果たしてフェアなのかという考えが頭を過ぎります。

 蒙古襲来などでたびたび脅かされたのは九州の海岸線。外敵に対する穏やかならざる状況がこのような能を生んだ背景にあったのでしょう。国を外敵の侵攻から守るということであれば、神、神風によって守られていることはありがたいことです。でも、この能ではそれを詩歌の遣り取りに変えています。ですから、神も武の八幡神ではなく、文の住吉神だったのです。文永の役弘安の役といった元寇の時代、また世阿弥の生きていた時代の応永の外寇が人々の記憶に残っています。それが「白楽天」を生み出した遠因。詩歌で白楽天に勝つということが、文芸的に昇華された神国日本の姿だったのでしょう。

 海の神であるソコツツノオ命(底筒之男命)、ナカツツノオ命(中筒之男命)、ウワツツノオ命(表筒之男命)の三神の総称が住吉の神。イザナギイザナミを死者の国(黄泉の国)へと追いかけて行き、死体となったイザナミを見て逃げ帰り、地上で死者の国の穢れを海水で洗い流した際に産まれたのが三神です。住吉三神は大坂の住江(住之江)の豪族の氏神でしたが、朝鮮や中国との貿易が盛んになると、この地域は貿易港として栄えます。それによって大和朝廷にとりたてられ、天皇家の航海の守護神として祀られました。仲哀天皇が九州の反乱を治めていたとき、神から神託がありました。「西に金銀財宝の豊かな国がある。そこを服属させて与えよう」と神託をしたのが住吉三神。神の子を宿した神功皇后住吉三神の導きのままに朝鮮半島に向かいます。朝鮮半島の王たちは神功皇后の力に驚き、貢物をする約束をしたのです。

 住吉大神は現実に姿を顕す「現人神」としても、信仰されています。長い白ひげを生やした老翁の姿で顕れ、既述のように和歌や俳句を嗜んだと言われています。和歌を用いて御神託を行ったことが、住吉大社の記録や『伊勢物語』などに記されていて、歌の神としても親しまれるようになりました。和歌だけではなく、『源氏物語』では明石の君にゆかりの深い地として、住吉が登場するシーンが描かれています。おとぎ話の「一寸法師」では、子供のいなかった老夫婦が住吉大神に祈願し、それによって一寸法師を授かることになります。能の「白楽天」での住吉明神の文学的な才能は既に述べました。

 

 最後に中国の神々に触れておきましょう。中国にも神という概念はあったのですが、歴史時代の前に神話時代があったとは考えられておらず、最初から人と神と仙人とが混然と交わってきました。儒教では、カオスの世界で清んだ陽気が天となり、濁った陰気が地となりました。ここに盤古という巨大な神が生まれ、吐息から風、涙から雨、またその遺体から山岳や草木等が生まれました。盤古の死と共に世界の創造は終わり、「三皇五帝」という神あるいは君主が世界を治めることになります。

 伏羲は蛇身人首の神で、家畜の飼育や漁撈などを教えます。女媧は蛇身人首の神で、伏羲の妹とされ、人類を泥から作りました(あるいは産みました)。神農は人身牛首の神で、伏羲の子孫で農耕や医薬などの発明者とされます。でも、伏羲や神農が陳の街に都をおいて王に即位したり、後述の黄帝と戦った伝承があったりで、人間の王との区別が曖昧です。次に現れた五帝は、最初の王とも呼ばれる黄帝や善政の代名詞とされる堯舜など、もはやほぼ完全に人間の王になってしまいます。司馬遷によれば、黄帝は中国文化と文明の源泉の象徴です。黄帝は数多くの戦いに勝ちますが、侵略には何の喜びも見出さない偉大な英雄とされました。堯もまた理想的な帝でしたが、その子には帝としての器量が足りないことを危惧し、冷酷な継母に対しよく孝行していたことで評判の高い舜を登用しました。舜は堯の命を受けて教育を任されると、世に孝行を広め、官庁を任されれば綱紀を正し、遂に認められて帝となりました。
 これらの物語は儒教成立以前から伝えられてきたもので、『楚辞』、『淮南子』等にまとめられています。また、神と人との区別の曖昧さについては、当時の神話を文字に書き記した人々、すなわち孔子を始めとした春秋時代諸子百家の思想家たちの合理主義に原因があるという意見もあります。彼らは自説を例証する材料として、神秘的な神話を人間たちの歴史的故事に書き換えたというのです。儒教の神話は皇帝の祭祀権独占を保証する神話であり、民間には祖先祭祀ぐらいしか残らなかったのです。
  次が道教の成立と神話復活。公式の神話が皇帝の権利に集約されたのに対し、民衆の間に別の神話体系が生まれつつありました。これは三国志の時代です。この時代に活動した黄巾賊(太平道)と五斗米道はいわゆる草創期の道教教団です。太平道は黄巾賊の乱と呼ばれる反乱を起こし、後漢王朝によって滅ぼされてしまいます。でも、五斗米道の教団は存続しました。このような五斗米道に始まるのが、民衆から生まれた神話体系である道教とその神話。道教の神話は皇帝を始めとした栄枯盛衰の激しい社会の上層にも影響を与えるようになります。道教創始者とされるのは、儒教孔子とほぼ同時代の人物である老子です。老子五斗米道によって天の最高神に祭り上げられました。人から最高神への大出世です。道教の教義上の至上倫理は「道」ですが、これを神格化したのが太上道君です。
 関帝聖君も人気の高い神です。彼は三国志の英雄関羽です。歴代の王朝から武人の鏡として崇拝され、武神になりました。さらに、彼は算盤の発明者とされ、商売の神ともなります。関羽も人から神になった訳です。この頃中国に仏教が伝来します。道教と仏教は一応は別の教団ですが、時として混じり合います。その典型例が『西遊記』です。『西遊記』は釈迦の命で旅立つ仏教の説話ですが、そこには多くの道教の神々が登場し、道教神話にもなっています。主人公の孫悟空道教の神「斉天大聖」でもあります。

 死後の世界について儒教道教とで共通する大きな特徴の一つは、死後の世界がないこと。儒教では祖先霊として子孫を守ることになりますが、孔子の「怪力乱神を語らず」とあるように死後の世界の実態は曖昧なままです。また、道教の目的は、長命を得て仙人となり、自らが神となることです。それは上述の神話に人から仙人、仙人から神への立身出世があることからもわかります。でも、死後の幸福を求める神話や信仰はほとんどありません。歴代の道教を保護した皇帝は、仙薬を飲んで自ら不老不死の仙人になろうとしました。キリスト教をはじめとして死後の世界での幸福を信仰の中心とする宗教が多いのですが、以上のように、中国神話の世界では、信仰の中心はむしろ長命であり、不死の仙人となることです。そして、神とは人が仙人の修行の果てになる存在という側面が強いのです。かくして、神、人、仙人が入り混じった共同体という中国神話が存在することになります。

 

 神々と人々の世界は実に多種多様で、共通点と相違点が混在しています。絆のもつ広い幅に人々の心の広さを感じるのは私だけではない筈です。

 

トベラの実

 トベラ(扉)はトベラトベラ属の常緑低木。光沢のある濃い緑色の葉をもつことから、公園や街路によく使われている。東北南部以南に自生し、低木といっても、樹高は2~3mになることもある。「扉」と書いて、「とべら」と読む。2月の節分に、この木の枝を扉にはさんで、邪鬼を払う風習があったため、「とびらの木」と呼ばれていたが、それが省略されて「とべら」になった。葉っぱは固い楕円形で、外側に反り返り、花には芳香がある。

 トベラの実(画像)はさらに秋が深まると、三つに裂けて赤い種が現れる。種は無味無臭で、鳥の餌になるより鳥の身体について運んでもらうためか、粘々している。

f:id:huukyou:20191111041655j:plain

f:id:huukyou:20191111041708j:plain

 

サンゴジュの赤い実

 サンゴジュ(珊瑚樹)は、レンプクソウ科ガマスミ属の常緑高木。その実は長さ7~9㎜の卵形で、8~10月に赤くなり、完全に熟すと黒くなる(画像は赤い実)。関東地方以西の沿岸地域に自生する。天然のものを見る機会は少ないが、都市部の公園などに広く植樹されている。その実を海のサンゴに見立てて「珊瑚樹」と名づけられたが、垣根として刈り込まれるためか、実を見る機会は少ない。刈り込まなければ6月頃に(11月6日に述べた)ネズミモチに似た白い花を咲かせ、無数の虫を集める。似たような葉の木は多いが、サンゴジュは葉柄を折って引き抜くと、白い綿のような糸が出てくるのが特徴。

f:id:huukyou:20191110053620j:plain

f:id:huukyou:20191110053630j:plain

 

白い花

 杓子定規に定義すれば、白色は全ての色の可視光線が乱反射されたときに、その物体の表面を見た人間が知覚する色です。また、無彩色の白色は、人の網膜の3種類の錐体のすべてが「対等的、均質的」に強く刺激された場合に感じる色です。それゆえ、すべての波長の可視光線を「対等的、均質的」に含んだ光は無彩色的に見え(黒や灰色)、それが強く反射すると、白色に見え、その光が白色光と呼ばれるのです。

 人間の目に白く見えるためだけなら、赤、緑、青の三つの光を適切な比率で混合すれば、白色は実現できます。実際、カラーTVのブラウン管の白色はそのようにしてつくられています。物体がすべての波長の可視光線をほぼ100%乱反射するとき、その物体は白く見えるのですが、発色の観点からは、白色は他の色と著しく異なります。一般の色材は白色光の中の特定波長を吸収し、残りの波長領域が目に入って色として感じられるのに対し、白の色材は特定波長を吸収しないために白色にみえるのです。

 繰り返しになりますが、私たちに物が見えるのは、物に光が当たり、その光が反射して、それが私たちの目に入ってくるからです。色が見えるのは、その反射する光の波長が、色によって違うからです。ところが、白色は他の色の光と違い、すべての波長を反射したときに見える色だと述べました。したがって、雪が白く見えるのは、雪の粒が小さいために、色々な波長の光をあちこちに乱反射して、それらの色がすべて混ざり合うからだということになります。空にうかぶ雲が白く見えるのも、これと同じ理由なのです。

 白い花にはアントシアニンやカロテノイドのような赤や黄色の色素は含まれていません。また、白色の色素が含まれているわけでもありません。白く見えるのは、花弁に含まれている小さな空気の泡(気泡)が光を反射するためです。白い花にもフラボノイドと呼ばれる「無色」の色素が含まれています。フラボノイドは可視領域の光をすべて吸収してしまうので人間には無色に見えますが、紫外領域の光を反射するので昆虫の目には色がついてみえます。人間と違って、昆虫は可視領域だけでなく、紫外領域の波長の光も色として認識できるからです。花粉を運んでくれる昆虫に認識されないと子孫を残すことができず、やがて淘汰されてしまうので、自然界にはフラボノイドを含む色素化合物を全く蓄積しておらず、それゆえ、虫にとっても白く見える純白な花はまずありません。

 このことを少し詳しく考えてみましょう。植物色素は文字通り多彩な多様性を植物に与えていますが、花の色素の主な成分はフラボノイドです。植物には現在までに4500種類以上のフラボノイドが見出されていますが、花の色だけに限らず、フラボノイドは多くの機能をもっています。フラボノイドは植物の全ての組織に存在し、細胞の中では、主に液胞に分布しています。白いキク、ユリなどの花は白色に見えますが、これらの花にもフラボノイドが含まれています。これらに含まれているフラボノイドは可視光を吸収しませんが、紫外光は吸収します。ヒトの目は紫外光は感ずることはできないため、白い花の細胞にあるフラボノイドは私たちには無色です。でも、花の色は昆虫を誘引する大切なもので、これによって、昆虫は蜜を見つけやすく、また植物は色と蜜によって昆虫を誘引し花粉を運んでもらって完全に受精できるようにしているのです。チョウの目は私たちには見えない紫外光を感ずることができるため、私たちにとっては感じることのできない無色のフラボノイドでもチョウを誘引することができるのです。

f:id:huukyou:20191109080441j:plain

f:id:huukyou:20191109080500j:plain

f:id:huukyou:20191109080512j:plain

f:id:huukyou:20191109080527j:plain

 

ヒメツバキ、あるいはイジュ

 ヒメツバキと(あるいは)イジュはいずれもツバキ科の樹木。初夏に白い花をつけ、小笠原ではヒメツバキの名で、沖縄ではイジュの名で知られています。ヒメツバキは小笠原列島の固有種とされますが、奄美諸島から沖縄にかけて分布するイジュと同一種とする考え方もあります。でも、沖縄のイジュと小笠原のヒメツバキでは多少の差異が見られます。例えば、葉の形ではイジュでは葉に鋸歯があるのが普通ですが、ヒメツバキでは鋸歯はほとんど出ず、成木の葉は全縁です。そのため、二つは別種とする説、同種内の別亜種とする説もあり、よくわかっていません。ヒメツバキは秋に実をつけ、紫褐色に熟して、上半部が5裂します。

f:id:huukyou:20191109042500j:plain

f:id:huukyou:20191109042515j:plain