情報の実在:「実在」の意味の多義性、あるいは相対的実在論

 世界が「空」だという唯識論の正しさの証拠になる程に、空(と雲)は私たちの心を掴む実体のない、正に空気のような変幻自在の存在。空と雲は「空」なる因縁の世界を生き生きと映像化してくれる。空と雲は共謀して思考の種子として、私たちの想像力を煽り立ててきた。だが、空や雲の経験を積み重ねるにつれ、様々な空と雲は地球や心の産物ではなく、気象学の産物なのだと気づくようになる。これら画像は私のカメラが撮ったもので、私の心の産物ではない。空を撮るカメラは光学の産物。カメラが撮った空を認識する私の心も、カメラで撮られた空も、唯識論によれば、いずれも「空」。これが唯識論。

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 主体的に生きる(=個体として生活する)システムにとって特定の対象が「実在」するかしないかは予め理論的に決まっている訳ではない。対象がそのシステムに影響を及ぼすなら、その対象はシステムにとって実在するものとなる。そのシステムに対象が影響を与えるとは、そのシステムにとって対象が有用な情報となることである。物質的あるいは非物質的にシステムに影響を与えない対象を実在すると考えるのは「オッカムの剃刀」に反することになる。それゆえ、同じものが実在したりしなかったりする例は無数にある。つまり、実在概念は相対的、かつ可変的なのである。その証拠が以下のような例である。
・色や音は、健常者には実在する(情報である)が、先天的視聴覚障害者には実在しない(情報でない)。
・色や音は、健常者には実在するが、センサーのない無生物には実在しない。
・Aさんが感じるクオリア(感覚的な性質)はAさんには実在するが、何も感じないBさんには実在しない。
・心は、普通の人たちには実在するが、唯物論者には実在しない。
・数や普通名詞の指示対象は、プラトン主義者には実在するが、非プラトン主義者には実在しない。
・神は、信者には実在するが、信者でない人には実在しない。
・霊や死後の世界は、信じる人には実在するが、信じない人には実在しない。
*上のどの文についても、「実在する=情報である」が成り立っている。
 物質的でない対象について「実在」という言葉を使う場合にはむやみに使うと混乱が生じる。この制約を無視した途端に無用の混乱、誤解、不信、そして争いが生じる。情報は、高等動物だけに実在するものではない。測定器、コンピューター、ロボットなど無機物にも実在する。この場合、情報は情報を表現する物質に担われて実在している。これが「情報的実在」である。情報の実在を認めないと測定器、コンピュータ、動物、ロボットとそれらが生み出す現象は理解できない。情報の実在は状況依存的であり、情報の非客観性やシステム依存性と矛盾しない。
 物質の実在と情報の実在では実在の意味が違っているように見える。物体の質量は、物体の中に実在する。名称、形、色の情報は、物体にではなく人間の脳の中に実在する。物体の質量の測定値という情報は、測定器に実在する。つまり、情報の実在性はシステム依存的なのである。したがって、実在という言葉は多義的ということになる。物理的実在、物質的実在、情報的実在、心的実在、機能的実在等々…
 物理学者は、実在という言葉を物理的実在あるいは物質的実在という極めて狭い意味で使う。量子力学的現象はこのような狭い実在概念のみでは理解できず、情報的実在という概念が不可欠になる。
 最後に、心の実在性に関するかつての論証を挙げておこう。あなたはこの時代遅れの論証をどう思うだろうか。
心のみが実在すると主張する唯心論がある。
物質のみが実在すると主張する唯物論がある。
両者の主張は両立しない。
それゆえ、「実在」の意味が哲学者と物理学者との間で食い違い、議論が空回りする。

(問)上記の文章を読んで、無著や世親はどのようなコメントをするだろうか。

 

ハマゴウ

 草のように見えるが、実は木。砂浜がほぼない湾岸地域でも海の近くにその姿をよく見る。名前は「浜をはう」という意味らしい。葉を風呂に入れるといい香りがする。平安時代の文献『延喜式』、『本草和名』では蔓荊子(はまはふ)、波万波比(はまはひ)などと呼ばれ、茎が砂の上を這うので「浜這い」だった。その後、実、葉、茎に精油分を含み、芳香があることがわかり、葉や樹皮からお香や線香が作られた。浜辺の香りの植物であることから、ハマゴウ。本州・四国・九州からアジア東南部から南大西洋、オーストラリアにも分布している。葉の裏面には灰白色の毛が密生していて、白い。夏に画像のような美しい青紫の唇形の花を咲かせる。
 想い出されるのは直江津中学校科学部の研究「ハマゴウ虫えい(虫こぶ)に生息する動物生態研究」。直江津中学校では、国立研究開発法人科学技術振興機構JST)の補助事業を受けて新潟県海浜に見られるハマゴウの生態に取り組んできた。この植物にはフシダニが寄生すると葉に大小の瘤ができることから、この植物とダニの関係を研究テーマにしてきた。2011年には日本学生科学賞新潟県大会で最優秀賞、全国大会で入選1等受賞している(画像にも僅かだがその瘤が見える)。

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筋目と興譲

 上杉謙信は「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ、 ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す(『白河風土記』)」と書き、私利私欲で合戦はしない、ただ、道理をもって誰にでも力を貸すと表明している。筋目とは道理であり、大義、正義、仁義、信義と言い換えることもできるだろう。謙信に忖度して言えば、彼の戦いは領土的野心も私利私欲もなく、筋目の正しい、そこに「義」を認めれば誰であれ味方する、というものだった。謙信に批判的に言えば、それは現代的な「正義と博愛」では決してなく、むしろ「義侠と偏愛」の正当化だった。
 筋目とは道理でなく、筋目正しい家柄のようにも使われる。つまり、筋目は合理的な理屈だけでなく、歴史的に由緒ある系統でもある。謙信はその「筋目」を強調する。彼の戦いの筋目は、天皇や幕府の王法阿弥陀信仰の仏法の回復という信念である。その「筋目」が「義」に置き換えられて、謙信は「義の武将」と呼ばれてきた。しかし、謙信自らは「義」という言葉は使わず、書状や願文において、「筋目」を使った。
 謙信は曹洞宗林泉寺で学問の修行を始める。そこで禅問答を通じて、有名な山門の「第一義」を残すことになる。その後の謙信は真言宗に関心をもち高野山を訪れ、阿弥陀信仰、浄土信仰をもつようになる。高野山の僧清胤が越後に下るのは、天正二年(1574)十二月であり、この時に謙信は法体となる。さらに謙信は伝法灌頂まで遂げて、ついには法印となる。『金光明最勝王経』は、巻五「四天王観察人天品第十一」、巻六「四天王護国品第十二」で四天王の功徳を述べ、この経を保つ国王があれば、四天王がその国王を擁護し、その国土から怨敵の災禍を消滅させると説く。また「守筋目」を誓った弥彦山に祀られる弥彦第三王子草苅明神の本地仏毘沙門天である。この毘沙門天像は弥彦山麓の宝光院に現存する。ここに北国の武将謙信が王法・仏法を守護する北方の毘沙門天を奉じる所以を見出すことができる。
 謙信の遺体が移された米沢に話を移そう。「興譲」は「譲(ゆずる)を興(おこす)」ことであり、細井平洲の教えの根幹にある考えである。人を人として敬い、譲り合う生き方を徹底することによって、人間関係の良好な地域社会を築くというのが興譲思想。これは利他主義の一形態であり、個人主義や、人を所有し、支配し、搾取する社会の対極にある社会思想でもある。「譲」という漢字にはもう一つ意味があり、それが「責譲(せきじょう)」。誤りや歪みがあったときには、そに対して徹底的に相手の責任を問うことで、「興譲」は悪を許さないという信念もある。この平洲の考えを受け継ぎ、具体的な政策をつくって、成功したのが上杉鷹山である。
 このように見てくると、謙信の戦時の「筋目」、平洲や鷹山の平時の「興譲」が上杉一族の「義」の具体的表現、活動指針となっていたことがわかる。さらにそこには時代の違いも見て取れる。「義」という中国由来の概念が「節目」、「興譲」へと歴史的に展開していったことを垣間見ることができる。

ヤマハギ

 マメ科ヤマハギ(山萩)は山に普通に咲くハギ。日本各地の山野に生える落葉半低木。秋の七草の一つとして古くから日本人に親しまれてきた。『万葉集』にもハギを詠んだ歌が130首以上収められている。
 6月から9月にかけて咲く花は直径1センチ程度の小さな蝶形。花期は長く、満開がはっきりしないまま、だらだらと咲き続ける。一般的なハギのイメージとは裏腹に枝は垂れ下がらずに直立する。枝が垂れるのはミヤギノハギで、庭園用としてはヤマハギより人気が高い。画像のようにクローバーのような葉を持ち、そのため英語名は「Bush Clover」。

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メタ言語的な分析の特徴

 フレーゲの意味(meaning)と指示(reference)の違いを思い出し、次の1と2の関係を考え直してみよう。

1. 明けの明星 = 宵の明星
2. 「明けの明星」と「宵の明星」は同じ対象を指示する

2は1の正しい分析、正しい言い直しではない。というのも、1の報告の事実を知っていても、2の報告の事実は知らないことがあるからである。つまり、1と2は同値ではない。1と2を英語に訳すと、

3. The Morning star = the evening star.
4.‘The morning star’ and ‘the evening star’ denote the same object.

となる。だが、4は2の正しい英訳ではない。正しい英訳は、

5. ‘明けの明星’ and ‘宵の明星’ denote the same object.

である。そこで、3と4ではなく、3と5を比較しなければならない。それらは明らかに同値ではない。なぜなら、日本語を知らないAさんは3が何を表現しているか知っていても、5が何を表現しているか知らないだろう。つまり、3と5は同値ではない。それゆえ、翻訳する前の1と2も同値ではない。
 この議論をさらに一般化してみよう。同一性言明はメタ言語的に分析できるだろうか。つまり、(1) a = b は(2) ‘a’ and ‘b’ are co-referentialとして分析することができるだろうか。
 その解答は否定的である。共通指示の考えは同一性の考えを仮定している。これは次のように示すことができる。Sが記号で、Des(S)をSの指示対象とすると、(2)は、

(3) Des (‘a’) と Des (‘b’) は全く同じ対象である。

だが、(3)は何を意味しているのか。二つの可能性が考えられる。

(4) Des (‘a’) = Des (‘b’)
(5) ‘Des (‘a’)’ と ‘Des (‘b’)’ は同じ指示対象をもつ

だが、(4) は対象レベルの同一性を含んでいる。それゆえ、(5)が選ばれなければならない。 では、(5) は何を意味しているのか。再度、二つの可能性が考えられる。

(6) Des (‘Des (‘a’)’) = Des (‘Des (‘b’)’)
(7) ‘Des (‘Des (‘a’)’)’ と ‘Des (‘Des (‘b’)’)’ は同じ指示対象をもつ

だが、(6)は対象レベルの同一性を含む。そして、(7) は無限に同じ分析が続くことを示している。それゆえ、無限後退に直面せずに対象レベルの同一性を避けることができない。

 この種のメタ言語分析が20世紀哲学の始まりを象徴するものだったが、すっかり色褪せてしまった。上の議論をよく見直してみるなら、日本語と英語の間の翻訳を使った議論になっていて、人工的な形式言語を使い、それだけに制限するなら、上記のようなことは起こらない。実際、そのように考えたのがフレーゲだった。メタ言語的な分析を一貫して行う、信頼できる形式言語がないことを考えると、日常言語の役割は意外に大きい。

カマツカとナツツバキの青い実

 魚のカマツカではなく、木のカマツカは日本、朝鮮半島、中国に分布する落葉低木。各地の二次林に普通に見られる落葉低木。伐採されると根際から萌芽する。材は粘り強いので鎌や鎚の柄にされる。鎌の柄には良い材料であるとの意味で、カマツカ(鎌柄)と呼ばれているようである。別名がウシコロシ。これは、牛の鼻ぐり(鼻環)に使うことから付いた名前。短い枝先に小さな白い花が10~20個づつ房になって咲き、花が満開になるとその姿は見ごたえがある。その実は秋に赤く熟し、先端にガク片が残る(画像はまだ青い実)。果柄には褐色のイボ状の皮目が多い。
 ナツツバキ(夏椿)は、ツバキ科ナツツバキ属の落葉高木。別名シャラノキ(娑羅樹)。その名の通り、6月~7月にツバキに似た小さな白花を咲かせる。幹の様子が美しく、シンボルツリーとして庭に植栽されることが多い。葉は長さ10センチほどで、表面の葉脈は凹み、裏面には長い絹毛がまばらに生じる。 花は5枚の花弁があり、その先端はまばらにギザギザしている。花の後にできる実は10月頃に熟すと五つに裂け、中から種子がこぼれ落ちる(画像は熟す前の青い実)。空になった実はその後も長い間、枝に残って越冬する。平家物語に登場する「沙羅双樹」(フタバガキ科)とは関連がない。

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人の都合と自然の都合

 令和に入って大雨と冷夏が続く。偏西風が大きく蛇行しているためだと気象予報士は言うのだが、なぜ大きく蛇行しているかは述べず、地球温暖化のためだと結論する。

 自然の都合が脚色されることなく反映された知識やそれを表現する用語と、人の都合がもっぱら反映された知恵や習慣とそれを表現する語彙との二つがミックスされた世界に私たちは住んでいる。自然の都合だけを考えて世界を知り、理解しようとするのが科学者だとすれば、科学は単純明快な知的活動ということになるのだが、人はその清き流れだけの世界ではなく、清獨併せ呑む生活世界の方が好きなようなのである。つまり、人は自然の都合より自らの都合を優先して生活を持続させている。そして、それには当然ながら理由がある。
 その理由を知るために錯視図形を考えてみよう。私たちにはらせん状に見えるが、実際は同心円の集まりだという錯視図形を挙げてみる(画像参照)。紫木蓮と白木蓮は花の色が違う木蓮であり、山吹の黄色の花が白になったのが白山吹としか見えない私たちの感覚経験はらせん状に見えてしまう視覚像と似たようなものなのである。そのような感覚経験を主に世界を捉えれば、それが生活世界とその経験ということになる。それゆえ、感覚は私たちを欺くということになるとまとめられ、それが経験主義への批判として述べられてきた。だが、それはやはり反経験主義者のプラトンらの傲慢とも思える偏見であり、私たちの感覚が欺かれるにはそれなりの理由があることを忘れてはならないと経験主義者は反論する。私たちは自らの生存のために欺かれるべくして欺かれるのである。合理的な欺瞞こそが知覚経験のもつ大きな特徴であり、それゆえ、私たちの知覚経験や感覚質は幾何学では説明できないものなのである。

 人の都合は本能と学習の二つによってつくられている。だから、既に部分的には人の都合は自然の都合の一部であることは明らかである。人の都合のすべてが自然の都合か、あるいはその正反対に、人の都合はすべて反自然的なものかは、長い間熾烈な議論が戦わされてきた。
 私たちの知覚装置と知覚経験は生得的なものと獲得的な学習の両方によって働いている。人の都合は生得的な装置の使い方を習得することによって実現する。
 都合は自然であれ、人であれ、歴史を通じて熟成され、変化してきたものである。自然にあるものにはどれにも都合があると考えて構わない。「どんな存在も歴史をもつ」という歴史主義を今更強調しても時代遅れに響くのだが、変化は歴史の別名だと考えてよいだろう。

 人の都合は自然の都合に抵触せず、自然の都合の持続に反しない限り、同じように持続可能である。そのような意味において、人の都合は自然の都合なのである。では、今の私たちの都合はどれも自然の都合になっているだろうか。私たちの都合は反自然の都合になっていないのだろうか。このように問うと、いささか自信がなくなり、相当数の人の都合は反自然的だと言わざるを得ない。そのような都合が長期にわたって蓄積されるなら、ついには自然の都合を越えて自然破壊をもたらすことになる。例えば、「地球温暖化」は自然の都合に合致せず、人の都合によってもたらされたものである。
*your convenience, nature's convenience