理論と物語と、そして…

 以後の話に登場する主人公は理論と物語である。それらがどのようなものか先に知っておこう。理論とは第1階の述語論理とその言語によって表現される公理システムとして形式化された科学の知識だとしておこう。要は形式言語で表現された科学知識のことである。物語はこれまで馴染んできた神話、寓話、小説、演劇、歴史記述、日記等何でも構わないが、因果的に出来事が生起する様の叙述のことである。
さて、あなたは理論と物語のいずれをより信頼するだろうか。あなたが古代人なら物語を、あなたが現代人なら理論を信頼するというのが定番の答えである。ターレスは最初の哲学者として讃えられてきたが、それは彼が神話の世界から哲学の世界へと探求のパラダイムを変えたからだと言われてきた。世界の誕生から現在までを歴史的な物語として受け入れ、理解することと、世界の仕組みや構造に関して疑問をもち、それを哲学的に考察し、世界の基本的な原理や法則を探求することとの間には大きな違いがある。ターレスは後者の哲学的な疑問を探求のエネルギーとして世界を捉えようとしたということになっている。
*John Burnet’s Early Greek Philosophy is a reprint of the 3rd edition of John Burnet's famous study of Presocratic philosophy, Early Greek Philosophy, 3rd edition, 1920, London: A & C Black.
W. K. C. Guthrie, A History of Greek Philosophy Volume I: The Earlier Presocratics and the Pythagoreans (1962), A History of Greek Philosophy Volume II: The Presocratic Tradition from Parmenides to Democritus (1965), A History of Greek Philosophy Volume III: The Fifth-Century Enlightenment - Part 1: The Sophists; Part 2: Socrates (1971), A History of Greek Philosophy Volume IV: Plato - the Man and his Dialogues: Earlier Period (1975), A History of Greek Philosophy Volume V: The Later Plato and the Academy (1978), A History of Greek Philosophy Volume VI: Aristotle: An Encounter (1981) Cambridge: The University Press
Kathryn A. Morgan, Myth and philosophy from the Presocratics to Plato, Cambridge University Press, 2000.
 神話や物語として描かれた世界の姿を素直に受け入れること、理論をつくり、論証によって世界の姿を説明すること、これら二つは大変に異なった態度であり、その態度の変化が哲学、そして科学を生み出した、という考えは、相容れない二つの態度の歴史的な変化だとするなら、それは根本的に誤っているというのがここでの私の主張である。その理由は、つまるところ、理論と物語は両立可能なものであり、世界についての対立する見方、考え方などではないからである。互いに両立するゆえに、神話や物語から理論への移行ができ、理論から物語への移行も同じように行われてきたのである。それを表現するスローガンが「理論の解釈とは理論の物語化である」である。量子力学のようにその言明が古典的世界の変化に合致しない場合、私たちは合致しない理由を私たちが理解可能な(古典的な仕方で)説明しなければならない。そのためには量子力学の理論的主張のモデルをつくる必要がある。これは経験的な物語として理論的主張を書き直すことを意味している。「解釈する」、「注釈する」とは理論の中の言明を因果的な出来事の系列として理解することである。比喩的に言えば、理論的な言語系列を因果的な物語として翻訳することである。
 この主張を確かめるために、「神話と物理的宇宙論」のような対について考えてみよう。この対は根本的に相入れない、両立不可能なものと考えられてきたように思われる。世界や民族の起源、創生の物語は実に多い。世界中のどこにも存在し、それが宗教につながっている場合がほとんどである。特定の物語によって特定の人物や事柄が主人公として描かれ、英雄や奇跡がふんだんに登場し、それが人々に大きな感動を与え、人々を結びつけててきた。物語は人々を支配し、それを信じることが共同して生きることにつながっていた。物語が描く特定の内容は大変具体的であり、それを模倣することが人生のゴールにつながるように仕組まれていた。自らの起源、歴史が民族の起源と歴史として語られ、それが常識として生活に組み込まれている世界では、それに対して疑問をもったり、反抗したりということは実質的には起こりにくいことだった。
 一方、宇宙論は創世の神話に比べれば、随分新しいもので、現在新しい知見が増大している物理学の分野である。ビッグバン以降の宇宙の歴史が物理学の理論によって再構成されている。科学的な事実として宇宙の歴史を確定するのが宇宙論の目的である。創世神話が個別的で唯一の歴史物語であるのに対し、現代の宇宙論は歴史の再構成でありながら、そこで使われるのは物理学の一般的な知識、つまり物理法則と宇宙の物理状態である。つまり、物理学の知識と両立する範囲内での歴史の同定である。
これがより具体的に明らかに示されているのが生物学的な進化論である。この世界の中での生命の誕生とそれ以後の生命の歴史が進化論の扱う範囲である。生命の進化は歴史そのものであり、特定の惑星である地球で起きた生命現象の歴史そのものであり、これから起きると予想されるような変化ではない。

 かつてガリレオは物理的な性質と感覚的な性質を区別し、それが後にロックによって第1性質、第2性質と呼ばれることになった。色やにおい、味や手触りは感覚的、知覚的な性質であり、今ではクオリア(qualia)と呼ばれている。因果性も私たちの経験の中では現象変化を捉える上で不可欠のものとみなされてきた。クオリアが物理学に登場しないように、因果性も物理学には姿を見せない。クオリアと因果性は両方とも私たちの生活世界で重要な役割を果たすが、物理学の世界ではそれらを別の数学的概念によって巧みに置き換えることによってほぼ同じような結果を出すことができるようになっている。つまり、クオリアや因果性をそうではないものに置き換えることに邁進してきたのが科学の歴史なのである。物理学者の血の滲むような努力によって物理学の理論からクオリアも因果性も取り除くことに成功した。意識のハード・プロブレムとはこの成功が本当の成功だったのかどうか問うものだと考えるのがよいのかも知れない。
 コナン・ドイルであれアガサ・クリスティであれ、彼らの傑作を読んでいるときと、ユークリッドの偉大な『原論』を読んでいるときとで、私たちは大変異なる印象や感慨をもち、まるで違った心理状態にある。一体何がどのように違うのだろうか?ユークリッドよりアガサ・クリスティの方が面白いに決まっているのだが、それは何故なのか?それは物語が数学より面白いことを意味しているのだろうか?
 私たちが生きる世界、生活する世界は神話や物語によってその由来や構造が詠われ、語られることから始まり、いつしかそれらが書き記されるようになっていった。人が生きる世界は温もりや悲しみが染み渡った世界で、その世界に超自然的な力が働き、その力が世界と私たちを支配していると昔の人々は真剣に考えていた。今でも私たち自身、自らの生涯を歴史的に捉え、「自分史」などという言葉をしたり顔で使っている。自然、生命、個人、社会のどれも、まずは特定の歴史物語としてその由来が描かれ、理解されてきたことは紛れもない歴史的事実である。
 出来事は因果的に起こり、そこに目的や運命が絡まって物語ができあがる、というのが古代からの神話や物語の構成であり、古代の世界観の基調をなしている。この物語的、歴史的な変化を私たちの知力だけを使ってどのように正確に知り得るのかという疑問がギリシャ哲学を生み出し、それが紆余曲折を経て科学革命に繋がっていくことになる。そして、革命によって世界の本質を見極め、未知のものを説明し、自然を操作することが科学の目的として設定され、知識が組織的に探求され、世界を様々に描き出し、世界をつくり変えることになった。
 世界と私たちの間に一定の距離を置くことによって、つまり、「現実離れ」することによって俯瞰的な世界像を得ることができる。現実離れとは意図的に時間と空間を自在に分割し、外から時空を塊として見ることである。確かに、塊としての時空とその中の出来事は状態からなる抽象的な幾何学的空間の中での幾何学的変化に翻訳できる。それには随分時間が必要だったが、最終的には、因果的な状況に対峙して論理・数学的な構造が置かれ、物語は理論に取って代わられることになる。出来事の因果的な生起を論理的な状態変化として把握する試みの一歩がギリシャで始まり、終には歴史ではなく哲学が世界を知る装置になる。それまでは、『イーリアス』、『オデッセイア』から『聖書』、仏典、儒教の教えまで、どれをとっても因果的な出来事の生起とその意味が物語られ、伝承されてきた。誕生から死までの人生が物語であるように、世界の成立から現在の姿までの因果的な変化は物語として捉えられ、その背後の連関や構造が徹底して歴史的に解釈されていた。
 物語としての世界理解を一変させた最初の数学者、哲学者がターレスだと言われている。エジプトで測量術を学び、それを幾何学という数学的知識に編成し直し、それを使って世界の構造を捉えようとしたのがターレスだった。
 物事を数学的に理解するというターレスの合理的精神を受け継ぎ、それをより基礎的な部分から論理的に展開しようとしたのがパルメニデスデモクリトスである。歴史物語としてではなく、哲学として世界を基本から知ろうという試みがパルメニデスの不変の哲学であり、デモクリトスの原子論であった。世界を把握する根本的に異なる原理が見事にこれら二つの哲学的主張に表れている。物質の根本原理としての原子論は現在に至るまで私たちに浸透しているし、不変的世界像は世界の数学的な表現として物理学的モデルの基本的な枠組みとなっている。現在の物理学の基本理論に残る伝統はプラトンでもアリストテレスでもなく、パルメニデスデモクリトスの哲学の肝心な部分であり、それが幾何学や原子論で、神話や物語とは根本的に異なった「理論」という形式をもっている。神話や物語では特定の出来事の特定の因果的な系列が重要であるのに対し、何から説明できるか、何から構成されているかが重要なのが幾何学や原子論である。物語の登場人物は固有名をもち、その登場人物が行う行為は特定の出来事である。それら特定のものの特定の系列が歴史となり、物語として語られる。すべては特定のものからなるという点に神話や物語の特徴があり、それが由来や起源という歴史を通じた理解の仕方となってきた。一般的、普遍的、不変的な事柄に関する理論と歴史はこの点で大きく異なっている。歴史を直線的な時間観で捉えようと円環的な時間観で捉えようと、個別の出来事と登場人物からなる因果的な系列が歴史であり、基本的な法則や原子を使って現象を説明するのが理論である。
 パルメニデス哲学の神髄は古典力学の相空間(phase space)モデル、相対性理論の4次元モデル、量子力学ヒルベルト空間モデル等に見出すことができる。変化の本性を変化の始まりから終わりまですべて俯瞰することによって空間的に捉えるというのがパルメニデスのアイデアであり、それが物理理論の状態モデルの基本型として採用され続けてきた。
*古代のパルメニデス哲学も現代の物理学も、運動変化は変化の途中や断片ではなく、運動変化が始まり、そして終わるまでのすべてを同じように扱い、理解しようという試みである。不変性の要請は、エネルギーや質量の保存則が成り立つためであり、新しいものが生まれ、存在するものが死滅してはならない。
 一方の原子論は化学的原子論として近代になって花開くが、物質だけでなく、生命、精神、そして言語もその構成は基本的に原子論的であることが20世紀に認識されることになる。いずれの哲学も基本的な原理の組み合わせによって物事を論理的に説明しようという点で出来事の因果的な展開からなる歴史的説明とは根本的に異なっている。
*原子論が如何に普遍的かは、数学理論の「公理系」、「論理的原子論」といった用語から容易にわかるだろう。単純なものの組み合わせによって複雑なものをつくり、説明し、理解することは物語や歴史の理解とは明らかに違っている。
 論理的な説明と因果的(歴史的)な説明の違いを別の側面から眺めてみよう。二つの説明を峻別するのは二つの異なる「ならば」である。それらは、出来事の間の関係としての因果的な「ならば」と、文と文を接読する論理的な「ならば」である。「ならば」の二つの異なる使い方を誰もが知っているが、二つの違いを改めて問われると困ってしまう。だが、特定の出来事が「ならば」で結ばれて因果的な関係が表現される場合と、条件法(conditional)の真理条件を満たす仕方で結ばれる場合とではまるで違った「ならば」であることは直観的にわかっている。例を通じて「ならば」の異なる意味を明らかにしてみよう。
「Aならば、B(If A, then B.)」が基本の文型であり、「雨が降るならば、地面が濡れる」が因果的な「ならば」を使った例、「A+B=Cならば、C+C=2(A+B)」は論理的な「ならば」の使用例である。論理的な条件法は真理関数(truth function)としてその使い方がはっきりわかっているが、因果的な「ならば」は実に複雑で、文脈に応じて変わる。私たちの生活世界では因果的であることが大変重要で、それゆえ因果的な「ならば」は重大な役割を担っている。だが、物理学の理論で直接因果性を扱うことを避けたのはその複雑さのためではない。数学を使い論証によって説明するには、論理的な「ならば」を使わなければならず、その結果、因果性は表舞台から消えるのである。自然の数学化の肝心な点は数量化ではなく、この因果性の条件法化なのである。論証、証明は条件法の「ならば」によって、因果連関の「ならば」は出来事の原因・結果の系列によって構成されている。因果系列の構成を論証によって説明するとは、したがって、因果的な「ならば」を論理的な「ならば」によって表現し直すことなのである。
*因果的な「ならば」で表現される因果性は科学的ではない常識的な概念(folk concept)であるという考えが物理学では普通である。例えば、Norton, J.D.(2003), “Causation as Folk Science,” Philosopher's Imprint, 3 (4)を参照。だが、因果的な連関があればこそ、それを論理的な文脈に置き換え、明らかにするのであって、因果性は常識的な概念だから無用なもの、というのでは決してない。

花が咲き過ぎたのか、人が植え過ぎたのか?

 画像の紫陽花の姿を見て、何が自然で何が不自然かなどとつい傲慢に考えてしまう。当の紫陽花にとって、自然、不自然などと判断されるのは余計なお世話に違いないのだが、私たちはさらに「美しい自然」、「醜い自然」などと図に乗って、自然を自らの享楽の対象として平気で品定めする。自然が美しい、醜いというのは、所詮自然にはどうでもよいことで、文字通りの自然は美しくも醜くもない。自然を丸ごと掴むことなど人にはできない相談で、自然の一部を一瞥することしかできず、それを自然と呼んでいるに過ぎない。自然を知ると言うとき、私たちは自然の歴史、風景、仕組みなどの僅かな断片を知るに過ぎない。自然を知らないくせに巧みに利益を生み出し、自然を壊し続けることが私たちの生き様なのである。

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高田高校の校是、あるいは越後高田の「第一義」

 歳をとると、それまで見えていたものが見えなくなったり、気にもならなかったことが気になり出したりする。老いの証しだと見過ごせば済むことなのだが、そこは人の心、なかなかこだわりを吹っ切れない。その一つが自分の出身高校の校是「第一義」だった。私が出た高校の体育館には上杉謙信の「第一義」の額が掲げられていた。在学中その意味について説明を聞いた憶えはないが、力強い文字だけを残像のように憶えている。
 同窓会や県人会の集まりやそれらの会誌で「第一義」に接する機会が増えると、その意味をしっかり知りたくなるのが人情というもの。だが、肝心の「第一義」の意味、しかも上杉謙信絡みの意味となると、どんな説明や解説をひっくり返してみても、明晰判明とは程遠いものばかり。それが証拠に「第一義」と「独立自尊」を比べてみれば、「独立自尊」は文字を見ただけでどのような意味か誰でもわかるのだが、「第一義」は字面からではまるで判じ物
 校訓は、各学校がそれぞれの教育方針や生徒のあるべき姿を示した目標や理想のことで、「自律」、「勤勉」、「博愛」、「強く」、「正しく」といった言葉の中から構成された校訓が目立つ。いずれにせよ「この学校で学ぶ者はこうあるべき、こうあってほしい、こういう心を忘れるな」といった意味を込めて決められている。一方、校是は、学校設立の根本精神を表す短い言葉(標語)のことで、校訓とは違い、学校設立時のもの。
 これで校訓と校是の違いがわかる訳ではないが、建学の出発点が校是、教育目標が校訓と考えておけばよいのではないか。具体例として早稲田実業を考えてみよう。早実の校是は「去華就実」、校訓は「三敬主義」。「去華就実」とは、「華やかなものを去り、実に就く」こと。これは「実業」の精神を育てることであり、正に建学の精神そのもの。「三敬主義」は、天野為之(早稲田実業学校第二代校長・早稲田大学第二代学長)が唱えたもので、「他を敬し、己を敬し、事物を敬す」という主張。「敬の気持ちをもって他人に対すれば礼となって和の徳を生じ、己に対すれば自重自立となる。また机上の雑務から一国の政治まで、すべて敬をもって扱えば、事物はその性能を発揮して久しく耐え得る」という意味を持っていて、これが教育目標である。早実の校是、校訓は単刀直入、単純明快である。
 私学であればこそ校是や校訓が役に立ち、生徒を惹きつけるのだが、これが公立となるとどうだろうか。建学の精神も教育目標も独自のものではなく、国策に従ってつくられるのが公立であるから、自由で独自の校是や校訓という概念は私立とは自ずと異なる。高田高校は藩校「脩道館」を母胎にし、校是が「第一義」、校訓が「質実剛健堅忍不抜、自主自律」である。校是と校訓の間には何の関連もなく、校訓は戦前の決まり文句が並んでいるだけ。公立校の校是、校訓を私学のそれと単純に比べることはできないが、時代に合わなくなれば、スローガンを変えれば済むことである。だから、今の校是や校訓とは別に教育目標を定めればよく、高田高校も今の教育目標を掲げているのだが、それがまた至極つまらないのである。(1)学力の向上を図り、聡明な知性を陶冶する、(2)気力と体力を鍛え、豊かな人間性や社会性を涵養する、(3)高い志と品性を培い、国際社会に貢献する人材を育成する。これらを目標とする教師や同窓会幹部がいても不思議ではないが、生徒がこの昭和の美辞麗句に感銘を受けるとは到底思えない。
 校是は、卒業生としての私が特別文句を言うような事柄ではない。それはわきまえていても、「なぜこうも校是がわからないのか」という疑問は厳然と残ったままなのである。これが棘が刺さったような老人の気懸りで、この雑文を書く理由なのである。

 これからの議論の骨子を先に述べるために、ギリシャデモクリトスの原子論と釈迦の仏教を例に言語的に分析することから始めよう。二つは哲学、宗教と分類されても、共に世界の根本に関する主張である。それぞれの主張を簡単に述べておこう。基本的な主張は第一原理、基本法則、奥義など様々に呼ばれるが、第一義はその中の一つである。端的にthe first principleと訳すことができるのが第一義である。だから、

原子論の第一義は「すべてのものは原子からできている」である、
仏教の第一義は「すべてのものは変化し、止まることがない」である。

主張そのものを表現する「原子」を使った「原子論」はそれだけで何を主張しているかがわかり、仏教も「諸行無常」などと言い換えられてわかりやすい謂い回しによって基本的な主張がまとめられている。
 ところが、「第一義」と「諸行無常」を比べると、二つの名辞がレベルの異なるものを指していることがわかる。「第一義」は「諸行無常」を指示し、「諸行無常」は流転する因果変化を指示している。当然「第一義」の方が抽象度が高く、そのような名辞はそれだけでは何を指すかわからず、「何かの第一義」と言う仕方で補足しないと意味不明なのである(「何かの意識」、「意識の志向性」と言えば、成程と膝をたたく人がいる筈である)。また、何かの第一義の「何か」は上の二つの例のような何か、つまり原子論や仏教だけでなく、「私の第一義」、「謙信の第一義」でも構わない。何かの第一義が「正義の実現」であり、正義が第一義であると言われるのと同じ意味で、「校是が第一義」と言えるだろうか。それは言葉の誤用でしかなく、「校是が「第一義」という言葉である」なら辛うじて有意味だが、校是としてはナンセンスである。「第一義」が何を主張しているかわからないのは、「私の名前」が何という名前を指しているかわからないのと同じである。まとめるならば、「校是は第一義である」、「校是は「第一義」である」は共に誤りで、「校是は「第一義」が指示する内容」というのがこれまで行われてきた解釈のための共通枠。
 ここまでの話なら小生意気な小学生でもわかるようなことで、流石にこのような言葉の誤用が校是についてそのまま通用してきたことはあり得ないというのが大人の常識的判断で、きっと隠された理由や原因、経緯が歴史の中に埋もれている筈だと推測するのが普通である。そこで、謙信と校是の第一義についての歴史的経緯を素人なりに辿ってみることにしよう。

 謙信は熱心な仏教徒で、その彼が掲げた「第一義」は釈迦が悟った万物の究極の真理を指示する名辞。戦国武将として謙信は禅に傾倒し、その教えを重視した。その禅思想の用語の一つが「第一義」で、達磨大師と梁の武帝の問答の中に出てくる。
 5世紀にインドに生まれた達磨は、中国に初めて禅を伝えた。その彼が梁の武帝と問答した。深く仏教に帰依していた武帝が「如何なるか聖諦(しょうたい)の第一義(仏法最高の真理、悟りの境地とはどんなものか)」と尋ねる。達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう)(カラリとして何の聖なるもの、ありがたいものはない)」と答える。それを聞いた武帝は「朕に対する者は誰ぞ」と言う。「そういう、わたしの目の前にいるお前さんは一体何者なのか」という訳である。達磨の答えは「不識(ふしき)(知らない)」だった。これが有名な問答のあらまし(『景徳傳燈録』第三巻、『碧巌録』第一則、『正法眼蔵』「行持」巻(下))。
 さて、問答で達磨が言いたかったことは何か。「禅とは経典にある言葉の教えではなく、心と心の触れ合いであり、釈迦の心を受け継ぐことにある。真実の教えは厳然として、いつでも、どこにでも在る。それは見せびらかすようなものではない」といったようなことではないのか。
 時代は下り、上杉謙信と林泉寺の和尚益翁宗謙が上の「不識」という表現について問答を行う。和尚は、「達磨が「不識」といった意味は何か」と謙信に尋ねる。だが、謙信はこの難問に答えられず、それ以来、謙信は「不識」の意味を考え続け、あるときはたと気づき、直ちに和尚のもとに参じた(どう気づいたかは私にはわからない)。
 梁の武帝は仏教を庇護して自分の存在をアピールしたが、謙信に武帝のような権力者になってほしくない、民あっての為政者であることを肝に銘じて、謙虚な心を忘れてほしくない、と和尚は考えたのだった(和尚のこの考えが不識とどのように関連しているのか私にはわからない)。その和尚の心を知った謙信は、林泉寺に山門を建立した際、「第一義」と大書して刻んだ大額を掲げたと伝えられている。
 禅問答を茶化す気は毛頭ないが、クイズと紙一重のところがあり、しかも不立文字と言われる如く、言葉による説明が少なく、現代から見ればそれが魅力的な欠点。「海にいるシカは何か」と問われ、「アシカ」と答えるようなところがある。確かに戦国武将の嗜みの一つが禅で、謙信はとても熱心だった。さて、話を戻し、「第一義」と呼ばれる釈迦の万物の真理は「世界は諸行無常、万物流転である」ことである。この原理は、どのように無常、流転なのかを説明しないで、問答無用に無常、流転を主張するだけで、現在の科学的な説明とはまるで違い、ヘラクレイトスの哲学に通じていないこともない。要はこの原理の下で人生を正しく考えるということなのだろうが、「人は死ぬ」と言っても誰もそれを原理、法則とは言わない。人は死ぬ原因や寿命についての原理を追求するのであって、人が死ぬのは単なる事実に過ぎない。
 さて、まず謙信が考え抜いてわかったことは「第一義」が使われた状況での達磨の「為政者はどうあるべきか」に対する考えである。彼は「第一義」の使われた状況全体の意義、「第一義」のプラグマティックスを理解したのではないか。したがって、彼が問答から悟ったのは「第一義=根本原理」の内容ではなく、それを聞いた武帝の態度に対する達磨の反応だった。そして、武帝にはない為政者としての心構えが和尚の問いへの答えだった。だが、これは随分と脚色された解釈であり、幾つもの保留をつけなければ、納得できるものではないだろう。
 上杉謙信に関する記述に登場する「義」は、「儒教の「仁・義・礼・智・信」の「義」であり、それは「利」の対局にあるもの」とされている。義は、人間の正しい行動について言われ、義の人とは正義を守る人のこと。また、大名にとっての「義」とは、「攻める正当な理由」という意味で、「大義名分」である。確かに、上杉謙信は「大義名分」にこだわる武将だった。「義」は「利が無くても正しい行いをする」ことなのだが、大名にとっては義と利は行動の両輪で、片方だけでは行動できなかったのである。
 上杉家は関ケ原の合戦のあと、会津120万石の領地を米沢30万石に減封された。さらに、景勝から3代目に当たる上杉綱勝が1664(寛文4)年、後継ぎのないまま死亡すると、15万石に半減させられる。米沢転封以来、財政は逼迫する。そんな折、定着し始めたのが儒教に基づく「義」の思想で、信玄との川中島での激闘は講談などで語られ、広く知られるようになっていった。その中で、謙信の義理堅さが次第に評価を高めていき、上杉家も謙信の「義」を積極的に継承していく。その継承の結果の一つが藩校「興譲館」の教育方針に表れている。細井平洲と上杉鷹山は学問を興すことによって目指す目的が「譲るを興す」ことにあると考えた。細井平洲は人間にとって最も大切なことは「譲る」、つまり「相手を思いやる」ことであると説いている。人間関係の中で譲り合う気持ちをもてば、お互いの心が通じ合い、物事もうまく運ぶと考えたのである。今風に言えば、倫理の基礎を謙信の正義から善へ移行したのが平洲や鷹山なのである。高田高校と米沢興譲館高校の違いは謙信と上杉家の倫理思想の違いを表現しているのかも知れないが、「興譲の精神」を第一義としたのが興譲館高校と言ったのでは、越後高田の人々は「では、高田高校の第一義は何か」と改めて問い直すことになる。
 江戸社会では、まず林羅山が義理について「人の履むべき道」と述べ、朱子学が日本に義理を導入した雰囲気を伝えている。次の中江藤樹では「明徳のあきらかなる君子は義理を守り道を行ふ外には毛頭ねがふ事なく」となり、儒教が次第に浸透していく。これが大道寺友山では「義理を知らざるものは、武士とは申しがたく候」となる。これは町人文化が台頭し、「利欲にさとき町人」が跋扈してきたため、「利欲にさときものは義理にうとく候」と捉え、武士の真骨頂を称揚するためだった。
 このような義理に関する朱子学的な解釈が急速に薄れ、新たな義理の意味が広まっていくのが江戸社会だった。そのスタートは西鶴の『武家義理物語』であり、その展開は近松作品によって完全な日本化を果たした。かつて亀井勝一郎が「仮名の誕生によって日本文化の草化現象がおこった」と述べたが、義理こそ「江戸文化の草化現象」の一つである。
 少々長くなったが、これが下衆の勘ぐりにも似た素人の私のとりあえずの解答である。きっと異論、反論続出だろう。謙信にとっての「第一義」は上記のようだとしても、為政者でない普通の高校生にとっての「第一義」とは何なのか。校是としての第一義はますますわからなくなっていく。それでも、上杉謙信が故郷の英雄で、その彼の人生の目標が「第一義」という言葉に象徴されているので、それを校是とすることは歴史的な事実の刻印なのだという理屈は成り立つのだが…
 そこで、次は「第一義」が校是として採用される経緯を探ってみよう。

 林泉寺の山門の扁額の表題が「春日山」、裏題が「第一義」で、この「第一義」がかつて額として掲げられ、それが昭和32年の火災で焼失、再度拓本を取り直したものが現在体育館に掲げられている。「第一義」は謙信の座右の銘であり、その意味は「人として宝とすべきは、物ではなく物を超えた心、すなわち人を思いやる慈悲の心である」と解釈されている。また、第一義は「周囲との協調を保ち自己育成を図る」という意味だとも言われていて、如何様にも解釈可能。「第一義」の精神は「私利私欲でなく公のために行動すべし」ともある。これらはいずれも信頼できる人たちの解釈で、多彩そのものである。私が知る限り、観光パンフにある説明が唯一まともなもの。それによれば、曹洞宗の林泉寺の当時の益翁和尚が「達磨不識の意旨如何」と謙信に問い、禅の「第一義」を悟らしめるとともに、「輝虎節目を守り非分をいたさざる事」との信念を立てさせたという話で、既述の禅問答に通じている。
 この解釈の異様な多義性の理由は、「第一義」が「万物の究極原理」の呼び名に過ぎず、その原理の内容を具体的に述べていないからである。それが解釈次第であっては、何でもあり校是になってしまう。言葉の誤用が原因で解釈の多様さが生み出されたとすれば理屈が通る。この不遜にみえる考えが誤りで、正統な意味はこうだという史実があれば、私には大変有難いのだが、それがなかなか見つからないのである。
 寺院の門と扁額は国宝や重文が多いが、林泉寺の山門は大正時の再建で、扁額だけが謙信自筆のもの。だが、その扁額自体は重文ではない。また、謙信は学を好み、和歌や詩にも長じ、特に書道は青蓮院流の妙手で、龍山や近衛前久について学んでいたが、その書でも重文という程ではない(後述の萬福寺の扁額参照)。だから、校是にしたのは扁額「第一義」の歴史・文化的な価値からではないだろう。
 『雪椿』(平成21年p.37)に久島士郎氏が竹澤攻一著『新潟県立高田高等学校沿革史余話』に鈴木卓苗(たくみょう)第9代校長の訓辞が記され、「…偲ぶべき唯一の宝物林泉寺山門の大額に跡をとどむる第一義をそのまま採って以て本校の修養目標と定めたい…」(一部改変)と引用されている。この9代校長とは誰なのか。鈴木校長は1879(明治12)年岩手県稗貫郡湯口村(現花巻市中根子字古舘75)の延命寺に生まれ、16歳で如法寺(曹洞宗)の養子となる。中学卒業後、第二高等学校に入学。東京帝国大学哲学科に入学し、学生時代も参禅三昧、曹洞宗の内地留学もしたという。東大卒業後、まず仙台の私立曹洞宗第二中学林の教諭となり、次いで新潟県新発田中学校の教諭になった。新発田中学校から、新潟県立村上中学校校長に転任し、さらに同県立佐渡中学校校長となる。続いて、同県立高田中学校校長となり、この在任中に自ら率先して全校生による「妙高登山」を始めた。この「全校登山」の行事は、現在の高田高校でも続けられている。その後も鈴木先生は西日本中心に校長を歴任され、昭和15年(1940年)定年退官。
 この鈴木校長が「唯一の宝物林泉寺山門の大額に跡をとどむる第一義をそのまま採って以て本校の修養目標と定め」た張本人だろう。曹洞宗、東大哲学科、座禅三昧となれば、「第一義」が採用される状況証拠は相当に強力で、禅問答を敢えて校是に採用したのではないのか。言語レベルの違いを無視した「第一義」は、禅問答にしばしば登場する頓智のような効果をもっている。「第一義」と書き、それを肝に銘じることによって、各人にとっての「第一義」を自覚してほしい、という願いを表現していると解することができる。学校教育の一つとして各生徒に自らの第一義を見出してほしいと言うためには、特定の内容をもつ校是ではなく、「自らの第一義を見出せ」という意味で「第一義」と書くのが効果的なのだと解釈すればいいのである。謙信の第一義が「諸行無常」と言う仏教の原理だとすれば、それをそのまま生徒に強いるのは酷というより、野暮でしかない。
 「雲は天にあり 鎧は胸にあり 手柄は足にあり」と謙信は述べたが、これなら座右の銘としてとてもわかりやすい。また、謙信から九代目の上杉鷹山の「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」も多くの人の座右の銘になっている。いずれもわかりやすい主張だが、それらに比べると「第一義」は一筋縄ではいかない、とてもひねくれた座右の銘なのである。禅問答のような文脈を前提にして考えないと、正しく理解できないことが示すのは、グローバルな主張ではなく、極めてローカルで特殊な主張だということである。
 1866年高田藩は長州に出兵し敗れる。帰藩後に藩校「脩道館」を急遽つくるが、慶應義塾が1858年創立であるから、随分と新しい。そのためか、脩道館を母胎にしながらも、榊原家よりは上杉家への偏愛、謙信への片思いが強く、それが校是に既に現われていたのではないか。それは林泉寺の扁額のみならず、最近の国宝「山鳥毛」の取得についても言えることである。越後の英雄謙信の遺物は春日山には唯一扁額の自筆のみとなれば、それをシンボルとして謙信の生き様を讃え、それを糧にしようということになったのではないか。こんな風な推測が正しければ、「第一義」は謙信を模範に人生を拓けという合言葉、題目のような(越後高田独特の)役割を持って使われてきたことになる。

 「第一義」を校是や標語にする学校は高田高校だけではない。その代表が成城学園で、創立者澤柳政太郎は、「所求第一義」(求むるところ第一義)を生涯の志としていた。「第一義」は本当のもの、一番大切なもの、根本にあるものを意味し、「所求第一義」は「究極の真理、至高の境地を求めよ」ということである。成城学園の建学の精神を表す言葉として学園の50周年記念講堂に掲げられている。高田高校とは違って、成城学園の「第一義」は謙信や仏教用語から離れ、通常の言葉の意味で使われている。では、その通常の意味はどこに由来するのか。
 「第一義」で忘れてならないのが夏目漱石の『虞美人草』。そこでは「人生の第一義」は何かという問いのもとに物語が展開される。そして、「人生の第一義は道義である」というのが漱石の答。そして、この答えが「第一義」の近代的な意味である。「第一義」とは、道義に裏打ちされて、真面目に生きることである。自分をしっかり見据えた生き方である。文明人にとって第一義に生きることは容易ではない。第二義、第三義で活動することもあり、それはそのまま生き難さとなる。そして、それが行き過ぎると悲劇となる。『虞美人草』では、小野、甲野、宗近の三人の対照的な生への姿勢が描かれている。この『虞美人草』の第一義が多くの日本人の第一義の意味となり、それが成城学園の標語にも影響していると思われる。(「第一義」を校是に決めた鈴木卓苗校長も『虞美人草』を読んでいたのではないか。高田中学には1915年頃在職したと思われ、『虞美人草』の初出は1907年。)
 その漱石が感銘を受け、『虞美人草』執筆に至る扁額がある。それは宇治市にある萬福寺総門(1693年建立)の第五代高泉和尚による扁額である。萬福寺は中国から招請された隠元江戸幕府の許しを得て開山したもので、和尚は書や詩文に長じた高僧。三門(山門)の前の総門を建て替えることとなり、その額字を書いたのが高泉和尚。84枚も書いた話は評判となり、高泉といえば「第一義」、「第一義」といえば高泉と言うほどになった。さすが高泉和尚で、その「第一義」は見事な能筆。黄檗宗では、明代に制定された仏教儀式が維持され、建造物も中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置で、創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は日本では他に例がなく、代表的な禅宗伽藍建築群として、国の重要文化財に指定されている。初代隠元から第13代まで中国渡来僧が代々住持(住職)を占めた。
 他にも「第一義」はあちこちに登場する。例えば、鈴木大拙の『禅の第一義』(1917年)や島木健作の小説『第一義』(1936年)、『第一義の道』(1936年)がある。さらに、偶然に見つけたのだが、太宰治の書に「聖諦第一義」がある。謙信や高泉の書と対比しながら、彼がどのような心持でこの書を書いたのか様々に想像するのもまた一興か。
 こうして、校是の解釈は越後高田の「第一義」解釈と同じように流転してきたことになる。何とも意地悪な校是で、新しい「第一義」解釈が出れば、それに左右される運命を背負っていて、融通無碍な校是ということにもなる。厄介この上なく、敬して遠ざけておくのが怠け者の得策なのだが…世に杞憂の種が尽きずとつい感じ入るのも老人のなせる仕業か。

*このエッセイは暫く前に発表したもので、部分的にここでも掲載したものです。それらをまとめ、読みやすくしたものです。

物語の魅力、理論の威力

 物語は私たちの心を魅了し、麻痺させるが、理論は私たちに世界を理解させ、支配させる。こんな気障な謂い回しはさておき、物語と理論は共に世界とその中の対象を知る手段。多くの人にはどうでもいいことなのだが、二つがどのような関係になっているのかははっきりしていない。そこには様々なものが絡み合うように関わっている。
 私たちが常にものごとを因果的に考えるのは、それが正しいからではなく、脳が世界を因果論的に解釈するようにできていて、それを着実に学習するからである。そして、これは人間だけでなく、生物そのものの基本的な原理のようなので、生きるとは本来因果的なことなのである。
 私たちは無数の因果系列を適度に選出し、その系列自体をアレンジすることによって物語をつくり出す。系列上の出来事を脚色し、取捨選択し、省き、戻し、プロットを置くなどしながら、巧みに出来事群を料理することによって物語をつくり出している。「A→B」の「→」が因果関係を指すとすると、私たちが自ら「→」を生み出しているという意識は通常ないので、そのまま受け入れ、何の疑問ももたないのがほとんどである。だが、「→」が接続詞あるいは条件法を指すとなると、なぜ「→」なのかが気になってくる。と言うのも、「ならば」を使う文脈は因果から論証に変わり、論証は自然の中で起こることではなく、私たちが自ら考えなければならないからである。
 いずれの「ならば」であれ、世界を理論によって、あるいは物語によって知るという二つの方式を手に入れ、二つを使い分け、時には分け間違うことが欲張りな人間のすることだとわかる。

 さて、「神話や物語から哲学や科学への転換(今風にはパラダイムシフトか)」という表現はどのように理解するのが適切なのか?二つは全く別物で、水と油のような関係なのだろうか。例えば、「神話は個別的だが、科学は普遍的だ」といった対で考えられるのがこれまでの常であったが…理論と神話、ロゴスとミュトスなどと聞くと、よく聞いた憶えのある旧来のタイトルで、二者択一を迫るような雰囲気を醸し出す。だが、論証と出来事や現象の叙述の間の関係と言い直すなら、二つが協働することによって私たちの「知る」ことが成り立ち、二つは裏と表のような関係にあることがわかるだろう。上述のように論証と因果関係の違いは「ならば」の微妙な違いによって表現されてきた。その違いは一般に考えられている以上に微妙で、僅かなのである。
 神話や物語に私たちは本能的に反応する。私たちの好奇心を満たしながら、疑問や異議を巧みに封じ込めてしまう。物語や神話は私たちに快楽を提供し、それを通じて私たちを麻痺させることができる。魅力的な話の展開は私たちの批判的な探求を妨げ、受け身の気楽さを容易に与えてくれる。自らのもつ物語のストックを利用しながら、以下の項目についてそれぞれ考えてみてほしい。
1物語の面白さ:その幾つかの理由
 言葉で書かれたものであれ、絵画や映像であれ、物語は私たちを惹きつける。物語が作り物であることがわかっていながら、面白い筋の展開はそれを忘れさせ、あたかも本物であるかのように錯覚させることができる。眼前の変化を追うのと同じように、物語の展開を追うことに熱中させる。一方、変化や展開の批判的分析には退屈な努力が求められる。物語は立ち止まる必要がほぼないのだが、論証は立ち止まらないと実行できず、それが人々に嫌われるのである。
2物語の特徴:個別性、展開の妙
 では、何故物語が面白いのかと言えば、個別的なストーリー、登場人物、事件や背景、それらが劇的に展開され、自国語で会話するかのように自由に苦もなく物語の因果的内容を理解できるからである。私たちは全てを忘れて物語の展開に引きずり込まれ、登場人物に憧れる。物語に没入できる私たちにはそのために自ら努力する必要がないのである。
3生き様の叙述:解釈された人生
 物語の主題は人生についての貴重な具体例になる場合が多い。人生の指針だけでなく、法律、倫理に関する内容もしばしば主題となる。刺激的な主題がスリリングに表現され、それがそのまま人生の縮図になっている。人生が眼前でわかりやすく展開される映画は苦も無く別の人生の可能性を描いてくれる。
4プラグマティックな知識の典型:わかる物語
 物語とは因果的に解釈された知識であり、わかりやすい説明の最たるものである。それは、したがって、使える、役に立つ知識の典型である。わかるための努力は必要なく、即わかるのである。その意味で物語はプラグマティックな知識であり、すぐに使うことのできる知識である。
5物語と異なる理論:知るための二つの方法、映像は両方を含んだ第3の方法
 私たちが世界について知る、わかる方法には二つある。理論と物語がそれら二つである。理論(哲学、科学)が一般的、普遍的な知識であるのと好対照に、物語は個別的で、特殊的である。理論が説明するのに対し、物語は叙述する。記述的な(因果的)描写によって何がどのように起こるかが苦も無くわかるのが物語の特徴である。

 物語はそれが素晴らしい作品であればある程、私たちの判断を麻痺させ、私たちの心を掴み、麻痺させる。理論は正しくても私たちから理解されない場合があるが、物語には誤っていても私たちにそれを信じ込ませる力がある。真偽が理論の命だとすれば、物語は真でなくても一向に構わないし、偽だとわかっている場合も許容する。物語がわかりやすい、理解しやすいために、それを楽しみながら信じることになる(実際、相対論も量子論も知らなくても、最新のSFを十分に楽しむことができる)。
 歴史や進化は因果的であり、したがって、物語的である。因果連関はそれをつくるのが厄介でも、展開される連関を受け入れることは実に楽にできてしまう。歴史や進化の物語は数学の定理の証明とは違い、誰にもわかりやすく、とにかく楽なのである。
 特定の登場人物、特定の状況設定、特定の事件、特定の結末と、神話や物語は個別的な事柄から成立している。歴史もすべて個別の出来事の集まりである。すべてトークン(token)からなっているのが神話、物語、そして歴史である。そして、それら特定の事柄が因果的に生起し、登場人物が因果的に行動する。
 特定の対象、特定の出来事、個々の対象や出来事の特定の関連、特定の時間・空間の中での対象の特定の変化と出来事の特定の生起、つまりトークンを一貫して理解するための形式が物語であり、それは起承転結のシナリオ、プロットをもち、生活世界の特定の現象的変化を表現している。トークンとしての対象、出来事、因果的な連関をまとめ上げるには物語という形式しかないのではないか。個々の物語はトークンであり、その中のエッセンスだけがタイプ(type)として取り出される。理論が典型的にタイプであるのに対し、物語はトークンである。「一般的物語」などどこにもないし、「個別的理論」もない。そして、そのトークン性は私たちの知覚経験と同じ次元にある。私たちの日常の経験はトークンそのもの、一回限りのものであり、それゆえ、生き生きとした「クオリア(qualia)」を日々新たに体験できるのである。(ところで、クオリアはタイプなのかトークンなのか?)
 物語の刷り込み学習がなされると考えてみよう。生きるための学習として因果性が刷り込まれると考えるのである。それがうまく行くなら、遂には、嘘をつく、騙すといった物語の高度な応用ができるようになり、物語のための物語がつくられることになる。実際、社会生活すべてが物語のジグソーパズルになっていて、不可逆的な命から宗教へと物語は方々に飛躍するのである。
 因果論では、すべてのものごとに原因と結果があると考える。太陽が東から昇って西に沈むのは地球が自転しているからだし、彼女が怒って口をきいてくれないのはデートの約束をすっぽかしたからだ。当然、株価の上昇や下落にも、それに対応した単純明快な原因があるはずだ、ということになる。では、因果論はなぜ人気があるのだろうか。近年の脳科学や生物学は、この謎を科学的に解明することを可能にした。といっても、これはぜんぜん難しい話ではない。

 プラナリアは扁形動物で、神経や消化管はあるが骨や血管はなく、脳を持つもっとも原子的な生物。このプラナリアを透明なプラスチックチューブに入れ、電気スタンドのライトを点けた2秒後にチューブの両端に電気を通す。この実験を50回ほど繰り返すと、やがてプラナリアは明かりがつくだけで、電気ショックを予想して身体を丸めるようになる。すなわち、プラナリアは学習したのである。
 このとき、プラナリアは何を学習したのか。いうまでもなく、「明るくなる」→「電気ショックがくる」という因果関係である。これは条件付けと呼ばれ、「パブロフの犬」が有名だが、イヌばかりでなく、無脊椎のプラナリアまでもが因果関係を学習する。そして、これは長い進化の過程で、因果論的な行動原理が子孫を残すのに有利だったからだと理解されている。
 因果関係を学習し、次第にその中に不変性を見出していくというのが発達心理学的に明らかになってきた。刺激-反応のペアを何度も与えられると、それを原因-結果のペアと学習し、遂には情報の取得から言語的な遣り取りまで、因果関係が行動の基本単位に組み込まれることになる。これらの過程は、子供、孫、ペットを観察すれば、割と簡単にわかることである。
 さらに学習が進むと、因果離れ、現実離れ、外から見る、距離を置くといったことが、論理的な分析として定着していく。歴史や宇宙進化は因果的なものの代表例であり、すべての因果関係はそれらの断片でしかない。一方、感性とは違うものとして理性が想定され、時間を越えた対称性が前面に出てきて、反物語的、反因果的に見える世界像ができ上ってくる。

 このような一般的な話では埒が明かないというより、面白くない。そこで、因果的な話と論理的な話を組み合わせながら、その組み合わせの妙を探り、これまでの単純過ぎるだけでなく、誤っている二分法的な風景を変えて、正常な風景に直す環境回復を目指したいと思っている。

スイセンノウ

 ヨーロッパ南部原産。ビロードのような白い毛の生えた株と、小さいけれど目立つ整った花が魅力的である。夏、枝の先端のところに5弁花が咲く。色は赤が多く、白いのもある(画像は白)。赤い花が赤い顔に似ているとのことで、酔っぱらった赤い顔から連想して「酔仙翁」と名づけられたらしい。別名の「フランネル草」は、白い綿毛が織物のフランネルに似ているから。

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ザクロ(石榴)

 ザクロの花は6月に入ってからと思っていたのだが、今年は既に咲いていた。子供の頃、近所にザクロの木があって、不規則に裂けた実と種の多さが強く記憶に残っている。西南アジア原産で、日本へは10~11世紀頃渡来。種(タネ)が多いことから、アジアでは昔から子孫繁栄、豊穣のシンボルだった。唯一の女性のことを「紅一点」というが、これは、王安石がザクロの林の中に咲く花を詠んだ詩から出た言葉。画像は紅一点どころか、花盛りのザクロ。

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ツキヌキニンドウ(突抜忍冬)

 まずその奇抜な名前に驚かされる。ツキヌキニンドウは、初夏から秋まで長期間花が咲く、半常緑から常緑性のつる植物。花の外側は紅オレンジ色で、内側は咲き始めは白く、だんだんとオレンジ色がかる黄色に変化する。また、甘い香りも魅力の一つ。
 和名は、互生する葉のうち、花に一番近い葉同士がくっ付き、その葉の間を茎が貫くという一風変わった葉の付き方からツキヌキ、冬でも落葉しないスイカズラを「忍冬(にんどう)」と呼ぶことが一緒になり、ツキヌキニンドウ。印象深い特徴をつなぎ合わせて命名された名前の一例である。

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