風狂老人日記

<筆はじめ>
 「物語」と「理論」と並べられると、二つは相容れない性格をもっていて、あれかこれかの対立とつい捉えてしまう。すると、悲しいかな人は「いずれが優位なのか」などと問うてしまうのである。日常生活を起点に考えるなら、物語と理論とをまとめると物語としてまとめられるということになるだろう。「理論を知る」とは理論を物語化することである。理論を知るとは理論の解釈でもあるから、物語化するとは解釈することである。日常生活で理論の内容をそのまま物語化することはいつも簡単にできる訳ではない。それでも、私たちは理論を使って何かをつくる、何かを実行することによって物語化している。
 それにしても物語の理論化はつまらない。文学理論など至極退屈で、物語には遠く及ばない。理論は物語の理論であっても好まれないのである。そんな理論は知識の典型的な形式であり、へそ曲がりの風狂老人にとっては昔からの関心事だった。理論も物語も知識の一形態であり、その知識は私たちと世界をつなぐ地図のようなものである。
 知識とは「知ること」をまとめたもの。「知ることの物語」=「因果過程としての知る」を精錬すれば、「知ることの理論」=認識論となるというのが見取り図なのだろうが、そんな図式を成り立たせるのは、私たちの世界への「介入」である。介入はまた理論の物語化であり、私たちの日常生活は物語と理論がごった交ぜになって共存している。見て、判断し、考え、動き、疑うことの系列の中で因果的、論理的な働きが常に交錯している。

 そんな面倒なことを述べても詮無きことで、気にかかるものを丁寧に考え尽すしか途はない。未知の世界に道をつけ、その道を行きつ戻りつしながら、時には脱線して迷路を楽しみながらふらつくのも風狂老人の本性だと思っている。その老人が果たしてどこに行き着くのか誰にもわからない。その不明を楽しみながら、私こと風狂老人は読者と共に瞑想(迷走)しようと思い立った。いくばくか共に知ることができれば幸いである。

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 追記:風狂老人の日
 「人とは何か」と「これは誰か」という二つの問いのいずれが哲学的な問いかと尋ねられるなら、「人とは何か」だと躊躇することなく答える人がほとんどではないでしょうか。そのような問いに答えるのが哲学だと考えられているとするなら、「哲学とは何か」と哲学的に問われると、妙に答えに窮してしまうのはなぜなのでしょうか。いきなりの哲学問答ですが、それが風狂老人の癖で、悪気はないのですが、気配りに欠けることこの上ありません。その問いに即答できなくても、自らが専売特許にする問いの形式が実りある答えを必ずしも生み出さないことはわかります。
 では、別の仕方で哲学の特徴を概観しようとすれば、どのような仕方があるのでしょうか。「哲学とは何か」と問う代わりに、「これは哲学の問いなのか」とまずは確認したところで、その確認された哲学の問いへの解答例を通じて、解答方法の一般的な特徴を抽出し、それを描き出すべきではないでしょうか。その後に、哲学の本性を問うても遅くはありません。
 哲学の問いを解く方法や枠組みを概観し、「哲学するとは自ら問いを解くことである」という言明を具体的に実践してみましょう。以後の叙述は説明や解説と論証や証明の二つの部分からなっています。説明や解説の部分は書かれている内容を素直に読んで理解すればよい部分です。でも、論証や証明の部分は「本を読む」のではなく、数学の定理を証明するのと同じ心構えで臨んでほしい部分です。時々風狂老人は(問)を出すことになりますが、問いを解くことは風狂老人の言わんとすることを理解することと同じであることを肝に銘じて下さい。
 このような按配で毎日日記を書く仕方で気になる事柄を考えてみようというのが風狂老人の本年度の計画です。日記ですから厳格な章立てに基づく展開とは程遠く、関心の赴くままに議論を重ねていこうと思っています。

*白い花に気持ちが和んだところで、実は風狂老人は画像の花の名前を知らないのです。ですから、まずは「この花は何という名前か」の答えを知りたいのです。次に、「花とは何か」、「これは何か」という問いの答えを知りたくなるはずです。そして、それら問いへの答えを比較しながら、答えの違いを知り、そこから他の問いへの解答につなげていきたいのです。そして、問いのネットワークがその際の老人の関心事になります。これが風狂老人の単純な知的追求の段取りなのです。どなたかこの花の名前をご存知ではありませんか。