古典的世界観はどのような世界観なのか(1)

 まず、次の問いを考えてみよう。

0をどのくらい加えると0でなくなるのか。

この頓智クイズのような問いの答えと、この問いがなぜ重要なのかを考えてみよう。この問いは哲学の問いがどのようなものかの典型的な例でもあるので、哲学の問いの特徴を歴史的に復習した上で、問いの解答をじっくり考えてみよう。その過程で、ガリレオニュートンがつくり出すことになった古典的世界観とその基本的な特徴を見定め、さらに非古典的な世界観の可能性について思いを巡らしてみよう。

1懐疑:瞬間、連続、確定
 私たちは自分が生きる生活世界はこうだと勝手に思い込み、それを殊更意識などせず暮らしている。子供の頃とは違い、日々の生活の中で心と身体には多くの習慣がしみ込み、それらには無頓着になっている。中でも自然に関しては「環境」という流行語にでも結びつかない限り、その仕組みや原理は問題になることさえ滅多にない。「古典的世界観」と呼ばれてきた見方は、私たちが小学校以来学んできたお馴染みのものである。実際、高校までのカリキュラムは古典的世界観の習得にもっぱら費やされている。それは心と身体にすっかり同化し、言葉と同じように空気のような存在になっていて、問われればほとんどの人が同じように答えてしまうという点で、教育の成果という点では上首尾なのである。そこで、次のような問いにどのように答えるか試してみよう。

ディープインパクトがゴールした瞬間などあるのか。
走っているのぞみが突然消えることなどあるのか。
私の今の体重は決まってなどいないのか。

これらの問いの答えに誰も頭を悩ますことなどない。誰も、瞬間があり、のぞみの突然の消失などなく、今の私の体重は一つの値をもつに決まっている(この「決まっている」とはどんな意味かが実は問題なのだが…)と答えるだろう。では、躊躇なく答える理由や根拠はあるのか、あればそれは一体何なのか。その理由や根拠こそここで考え直してみようという古典的世界観の前提、仮定である。それら前提は上の例文から次のようなものだと推察できる。

瞬間がある。
運動変化は連続的である。
ある時の物理的な性質(とその値)は確定している。

いずれの言明も疑う余地などなさそうに見える。デカルトやヒュームの懐疑さえ免れてしまうほどに当たり前の主張に思われる。何よりそれらが正しいことを私たちは教えられ続けてきたのである。しかし、それでも古典的世界観の前提を疑ってみよう。

瞬間はあるのか?
運動変化は連続的なのか?
ある時の物理的な性質(あるいはその値)は確定しているのか?

これらの疑いが私たちの出発点であり、そこから疑いを生み出している時間や空間の謎の解明に挑んでみよう。

2点と線についての問いと二つの解答
 私たちが今でも共有する古典的世界観は歴史的、文化的に理解されるのが普通である。だが、そんな余計なものをすべて削ぎ落とし、掛け値なしに古典的世界観がどのような基本的前提に基づいているか曝け出してみよう。そのような前提探しに旅立つ準備として、次のような問いを考えてみよう。

点から線はつくれるか。線を分割(還元)すると点になるか。
線から面はつくれるか。面を分割(還元)すると線になるか。
面から空間をつくれるか。空間を分割(還元)すると面になるか。
*これらの問を一般化すると、次のような問が出てくる。
空間から時空はつくれるか。時空を分割(還元)すると空間になるか。
n次元空間から(n + 1)次元空間はつくれるか。(n + 1)次元空間を分割(還元)するとn次元空間になるか。
n次元空間から(n + m)次元空間はつくれるか。(n + m)次元空間を分割(還元)するとn次元空間になるか。
(ところで、次元のない空間はどんな空間なのだろうか。答は点であり、点は次元0で、それゆえサイズがない。)

 これら問いは目新しいものではないし、わざわざ参考文献を見なければわからないといった問いでもない。実際、私たちは既に幾何学を通じて点や線、そして面について考えてきた。だが、YesかNoかの解答とその理由は次のように分かれてしまう。

[解答1]
点には部分がなく、それゆえサイズがない。サイズのない点をいくら集めてもサイズが生まれるはずがない。点からスタートする限り、サイズの生まれる原因や理由がどこにも見当たらない。だから、「延長のないものから延長は生じない」、「何ものも理由なしに存在しない」といった形而上学の原理に従って、上の各問いについての答えはNoである。

[解答2]
区間[0,1]が0と1の間にある個々の点(=実数)からできているように、実数の集合は個々の実数を要素に含んでいる。点から線ができ、線は点に分解できる。線は点の集合であり、点は線の要素である。面や空間についても同様で、それゆえ、上の各問いについての答えはYesである。

*[解答1]の真意は「0をいくら加えても0のままである(0 + 0 +…+ 0 +…= 0)」という命題を思い起こせばわかるだろう。[解答2]は「サイズのない点を集めるとサイズ(長さ)のある線ができる」ことを納得できるかどうかが鍵となっている。

 もっともらしく見える二つの解答を示されると、私たちはいずれの解答が正しいのか、そしていずれが古典的世界観で認められている解答なのか迷い始める。二つの正反対の解答を見て、古典的世界観が明瞭に理解され、共有されているのではないことを示す証拠だと思う人もいるだろう。さらに、古典的世界観より古い世界観がまだ残っているからだ、あるいは新しい古典的でない世界観が侵入したからだと想像する人さえいるだろう。いずれにしろ、現在の正解は[解答2]である。

(問)0 + 0 +…+ 0 +…= 0という表現は一見何の問題もなさそうだが、どのような意味で「曖昧か」述べよ(加法の定義を思い出し、有限、無限の操作に注意してみよ)。

 どれかの問いにYes、別のどれかにNoと、問いごとに異なる答を出す人は僅かだろう。多くの人はすべての問いにYesかNoのいずれかを答える筈である。すべてYesと答える人の理由こそギリシャ人と私たち現代人を区別する古典的世界観の前提となっているもので、その理由の核心は「実数」概念にある。実数を使って線を解釈すれば、その線上の点は一つの実数値に対応することになる。例えば、区間[0,1]の中にあるすべての点を取り出し、再度集め直すことによって、その区間[0,1]を再現できる。つまり、区間[0,1]にある点を再びすべて集めれば区間[0,1]をつくることができるし、区間[0,1]を限りなく分割していけば点である個々の実数に到達できる。このように考える基礎にあるのは正に「実数、そして集合論による点や線の理解」である。具体的にどのように点を集めるか、どのように線を分割していくかの細部が曖昧だという漠然とした不安は残るが、点から線をつくることができ、線を分割し続ければ点に到ることは集合あるいは(集合論的な解釈を使った)実数に関する簡単な定理として証明できる。
*「細部が曖昧だという漠然とした不安」は、これら一連の操作が「構成的(constructive)」に可能か否かに関する不安である。この不安を重大な問題と考えた直観主義者は、不安は不確定なものの存在にあり、それを無視できないと考えた。私たちが数学的対象を具体的につくり出せるか否かという認識上の不安はあるが、それを無視することによってより広い範囲が射程に入り、広大な無限の世界を扱うことができると考えたのが通常の数学者である。既に、ユークリッド幾何学を図式を使った構成的な証明からなると考えるか、ヒルベルト形式主義に従って考えるかの違いを述べたが、「線を引く」ことと「線が存在する」こととの関係は、線を数学的に構成できるかどうかが判明しない限りきっぱり答えることができない。

 実数の性質は高校までに一応習ったことになっているから、それを覚えていれば答えはすべてYesとなる。さらに、ギリシャ人と私たちが違う答えをする理由も併せて説明できる。私たちのように実数を使って点や線を考えるならYesが答えとなり、少なくとも実数を私たちのように使わなかったギリシャ人なら答えはNoとなる。実数は連続体だが、自然数は離散的でしかない。これがYesとNoの違いを生み出している。

 これまでの話は直観的にわかりやすい。しかし、それを直観的にではなく、哲学的な理屈を与えながら、単なる話ではなく、理論化しようとすると相当に厄介である。また、既に登場した瞬間、連続、確定といった概念と解答がどのように結びつくのかも明瞭ではない。[解答2]の正しさが理論を使って誰もが納得できるようになるのに20世紀までかかったことからも、厄介だというだけでなく、多くの人の関心をかってきた興味深い問題であることも伺えるだろう。非古典的世界観が非古典的な物理理論(主に相対論と量子論)をもとに議論されて既に久しい。だが、それを支える非古典的な、新しい諸前提がどのようなものなのかは未だに判然としていない。それを思案するためにも古典的な諸前提の再分析は欠かせないだろう。その前に基本的な事柄を復習しておこう。

3 幾何学での点と線
 点にサイズがあり、延長をもつとしてみよう。その延長の半分も延長であり、かつ延長の半分は元の延長の一部分である。よって、点は部分をもつことになり、定義1に反する。それゆえ、点にはサイズがない。これは既に述べたことである。また、点にサイズがあれば線にもサイズ、つまり幅があることになる。だが、これは定義2に反する。よって、定義の1,2いずれからも「点にはサイズがない」ことが得られる。また、線を限りなく短くしていくと最後にはサイズのない点に至る。この<サイズの消失>を量から質への転換などと考えても何も得られない。量から値への転換なら有意義であるが…
 点に部分がないことから、サイズがないことがわかったが、そこに隠れていた前提は分割可能性である。自然に「サイズがあり、部分がない」ことは、自然に「サイズがあれば、部分がある」という主張と両立しない。ここでの違いは自然が「分割できない」ためである。原子論と全体論の関係を確認しておこう。原子論の下での原子の全体性と全体論の下での宇宙全体の全体性は異なっている。ユークリッドの定義を使った場合、原子が部分をもたないことから、分割性を使って原子がサイズをもたないことを証明できる。宇宙は当然サイズをもつ。しかし、それは部分をもたないというのが全体論の主張である。すると、原子論では「サイズがあれば、部分がある」という主張が正しいのに、全体論では「サイズがあって、部分がない」ことが正しい。この両立しない理由は原子論と全体論が異なることを主張しているというより、分割可能性が両者を分けているといったほうが適切だろう。分割可能性が成立する原子論ではそれを使って「サイズがあれば、部分がある」が証明されているが、全体論では全体は分割できないという主張から分割可能性が使えない。それゆえ、サイズがあるのに、「部分がない」と仮定しても矛盾は生じない。だが、分割可能性が使えないことの代償は想像以上に大きい。
ギリシャの原子論では「原子にサイズがあり、かつその原子は分割できない」ことが主張されている。上述の原子論とどこが異なるのか。上述の原子論では分割可能性が何の制限もなく成立することが仮定されているが、ギリシャの原子論、そして現代の原子論では分割可能性に制約がある。