「画像のダイサギ、ナミハナアブは何を考えているのか」という問いは妙に哲学的な問いに思えるが、何とも的外れな問いで、「画像のダイサギ、ナミハナアブはどんな言葉を使っているか」と言う問いと大同小異だというのがつまらないが、大人の冷静な意見だろう。思索中のダイサギに見えても、決して「考えるダイサギ」ではないということは小学生でもわかる。ホバリングするナミハナアブは「考えることを考えることができない」というのが昆虫少年の常識である。運河に群れる魚たちが何を話しているかは的外れな問いで、論外だと誰もが断じる。
こうして、画像の生き物たちの行動から「考える、話す」が除かれ、その結果として、動物たちの「知る、理解する」が人間とは大きく異なることになる。だが、私たちはダイサギやナミハナアブ、運河の魚たちが何かを知り、行動していると思っているだろうが、彼らの知り方、理解の仕方、行動の仕方について私たち自身のやり方と何が同じで、何が異なるのかを知っているのだろうか。結局は彼らが私たちの言葉を解しないと私たちが判断するように、私たちは彼らに理解されないと結論付けられることになる。さらには、彼らと私たちの違いを知ることがどのような知り方なのかを知っているかと問われても、誰もうまく答えることができない。
このような神経衰弱的な問いの連続は見かけだけで、実は私たちには分別があり、問いについて問い直し、整理し、分類し、丁寧にシステム化することを探り、それを知り、利用していく術を持っていると信じられている。とはいえ、その探求はいつもゴールに到達できるという保証を持っていないことも経験的にわかっている。それでも、他人を知る、理解することとダイサギやナミハナアブを知る、理解することは何が同じで、何が異なるのか、やはりよくわからない。


