音楽会へ小学生の孫と二人でこっそり行こう。中高生の孫は私と行く筈がない。ブラームスやシューベルトを聴いた後で、どこかで美味しいケーキを食べながら、「交響曲3番」や「死と乙女」について熱く語ろう。作曲家の名前や曲目ではなく、音楽の何が人を惹きつけるか、孫の考えを聞きたいのだ。
隠れて寺に行くのもいい。寒い秋に行くのがいいだろう。例えば、運慶を一緒に見よう。その見事な像を二人で見ながら、神秘的でもある学僧について孫がどう感じているか聞いてみたい。孫が「阿修羅」に感動しているなら、二人で人の青春の意味を語り合うのもいいだろう。
ミケランジェロの「ピエタ」に酔い痴れた自らの若き日を思い出しながら、異教徒でも感動できる「ピエタ」について孫に話したくなる。できるなら、システナ礼拝堂やダビデ像を孫と二人で見て、大理石の見事な変身を目の当たりにするのもいいだろう。
休日には二人で古い映画館で古い映画を観てみたい。「ひまわり」でも「禁じられた遊び」でもいい。素晴らしい画面と音楽を堪能しながら、戦争を感じ、戦争を語り、議論してもよいのではないか。
自分の知った世界のほんの僅かな部分を孫と共有しよう。孫と共に人が残したものを感じ、楽しみ、悲しみ、そして生きることを共有してみたい。孫を人間らしい人間にしたいものだなどと思うのもいいし、そんなことを思わないのもまた自由だ。
孫と二人の私的でちょっと濃密な時間は孫の親には黙っていよう。そのくらいの秘密は爺さんも婆さんももって構わないし、誰も文句はあるまい。共通の体験は僅かでも、だからこそ濃密で凝縮された良質の体験を持ちたいのである。
こんな老人の淡い望みを少し広げるならば、自分の育った故郷に因む事柄を孫たちに話しておくことだろう。言い伝えられてきた昔話や怪談もいいが、妙高の歴史や過去の人々について語るのも悪くはないだろう。今なら能の「紅葉狩」、児雷也の物語から始まり、親鸞、上杉謙信、森蘭斎等々について、地域に結びついた人物や事柄を断片的でも語り合えれば、孫たちの故郷像の形成に少しは役立つのではないか。
このような老人の願いを孫から地域の子供たちへ、さらに、世界の子供たちと広げていくと、果たしてどうなるのか。彼の願いがこのように一般化されていくなら、知識の伝達、言葉、文化といった話につながり、その範囲が広がるにつれ、当初の老人の望みや願いはことごとく失われていくことになる気がしてならない。『怪談』も『遠野物語』もその内容や情報が広がるにつれ、薄まり、消えていくものがあり、老人が孫と密かに共有しようとした事柄もその一つではないだろうか。ローカルなものとグローバルなものの両立などできない相談だと老人なら悲観的に考えるのではないか。