A君の夏休みの課題:時間のもつ四つの特徴

 「時間」は「空間」と並んで昔から多くの人が注目し、絶えず議論されてきたもので、身近にありながら、どこか捉えがたい神秘的な匂いが漂っている。時間は見えないし、触ることもできない。そのため、時間を直接言葉で表現しにくいし、時間を測るには工夫が必要になる。その「時間」を理解し、使うために時間の四つの特徴を考えてみよう。

(1)時間の経験化(可視化、可感化)

 経験主義者が大切にするのはもっぱら知覚経験だと信じられてきた。ペットの心を感じることができると言い張っても、それによってペットの心が経験的に確かめられたとは誰も認めない。経験主義者は宗教体験を「経験」の範疇に入れないどころか、それは誤った経験だと切り捨てる。また、心の葛藤のような心理体験も実証しにくいということから遠ざけられてきた。誰もが信頼できる「経験」は日常経験よりずっと狭く、その一部に過ぎない。知覚経験の中で多くの人が最も信頼するのが健全な視覚経験。人の場合、見ることが経験を生む代表となっている。眼で見て感じる「時の流れ」にはどのような例が挙げられるのか。一日の気象変化、川の流れ、車の流れ等々、現象変化が常に私たちの周りで起こっていて、目に見えるものの中から不変の恒常的なものを探すのがむしろ難しいというのが日常の現象世界の特徴。そのような捉え方が昔から習慣的になされていて、自然現象は常に変化する現象という一般的な理解が常識になっている(万物流転)。そして、そのような現象変化の経験が時間に関する一般的な通念を生み出している。自分の周りで起こる出来事は現象変化として知覚される。特に、その変化は目で見て一目瞭然のものが多く、変化を見ることによって私たちはそれを調べ、知り、学習する。「時間を経験する」とは変化を知覚することであり、それが記憶され、蓄積されて、時間の学習が行われることになる。これが「時間の経験化」であり、時間観念が知覚経験によってつくられてきた。

(2)時間の常識化(言語化

 時間の常識化とは経験化された時間を共有すること、つまり共通体験化である。言語はグループの紐帯のための必須の道具。言語は私たち人間にとって大切な能力であり、学習しなければ生活できない大切な道具である。誰もが時間を常識として共有し、時間を共通に認識するために、互いの時間観念について知り合い、確かめ合う。互いの感覚経験を直接にシェアすることはできないが、その代わりにできるのは言葉を通じてそれをシェアすること。経験の共有は言葉を通じて行われる。したがって、時間観念も言葉を通じて共有され、その結果として常識的な時間観がつくられ、それがさらに学習によって集団内にシェアされていく。そこには言語が共有されているだけではなく、知識の共有もあって、歴史や文化が伝統として共有されている社会がある。常識は集団社会がないと存在しない。常識は生活する上での常套手段であり、共同生活のための知恵でもある。

 「退屈だと時間の流れが遅くなると感じるから、心理的な時間は物理的な時間とは別である」という表現に賛同する人はいないと願いたい。「時間が遅くなると感じる」ことを確かめるには遅くなることがきちんと測ることのできる時間が必要で、その時間が遅くなっては困る。したがって、その時間は心理的な時間ではない。なぜなら、遅くなると感じる人の心理的時間を使って遅くなることを測ることはできないからである。

(3)時間の数学化(数量化)

 いつでも、どこでも同じように使える時間を表現するために必要な言語は、残念ながら自然言語ではない。ギリシャ時代以来、私たちの知的探求は自然言語を使ってなされてきた。17世紀までの学問研究は自然言語を使って過去の哲学者の著作の注釈をするという形式で行われてきた。今でもその伝統は文系の学問研究に色濃く残っている。過去のテキスト研究は哲学、歴史、文学等では廃れておらず、今でも常識として実行されている。自分の専門領域を問われ、哲学と答えると、「誰の哲学ですか」と当たり前のように質問され、答えに窮する経験をしてきた。物理学者に「あなたが研究するのは誰の物理学?」と問う人はいない。なぜなら、物理学はテキストの注釈ではなく、実証研究だからである。

 でも、量的な表現に不得意な自然言語は正確に時間の長さを表現することが本当に不得手である。「とても長い」と「大変長い」のいずれが長いのかの判別は常人には無理である。では、不正確で信用できないのが自然言語なのかというと、そんなことはない。自然言語のとても不思議で、魅力的な点は、見事な文学作品を生み出すための表現を無尽蔵に蓄えていることである。自然言語は繊細、微妙、強烈、頑強な表現を底なしにもっている。

 そんな中で人間が考えた工夫は「数」を使って時間の間隔を表現することだった。そして、それを実現した器具が時計。時計は長い歴史をもっている。時計は周期的な運動を巧みに利用することによって経過の長さを測り、それを表示するもの。では、その時計が測る時間を正確に表現するにはどうすればいいのか。それがタイトルの「時間の数学化」。数学化と言うと、とてつもない企みにも聞こえるが、数を使って時間を表現することに過ぎない。それは時計をつくることと同時に考えられた見事な技術である。

 連続的に経過する時間は「時の流れ」と詩的に表現されるが、それを数学的に表現する必要がある。「流れる時間」は「連続して経過する時間」であり、その連続的な経過は実数によって表現できる。なぜなら、実数は連続的(実数の完備性)であり、しかも線形で、一つの時間の直線的な変化を表現するにはうってつけの表現装置なのである。実数は時間に限らず、計量装置の計量結果を表示するのに広く使われていて、過去の実績という点では非の打ちようがない手段なのである。

(4)時間の科学化(可測化)

 時間の科学化には二通りあり、それぞれ独特の特徴と歴史をもっている。

(物理化)

 数学的に表現される時間は、物理世界で信頼できる測定装置とし機能しなければならない。そのためには、時間が物理的でなければならず、物理的な対象として特徴づけができなければならない。周期的運動、正確な振動など、自然の中には時間を表現するのに適した物理現象があり、それらは電子の性質に帰着する。その振動は規則的で、物理的な時計として使うことができる。

 時間の科学化とは正確な時計の設計によって実現する。正確な時計をつくることができ、測定の技術が進み、それらの測定結果を蓄積することによって、時間の本質が何かを考え、議論し、結論に至ることができる。

(生物化)

 生物の歴史は進化生物学の課題。そこに登場する時間は歴史そのもの。それは物理系の変化の時間より圧倒的に長い時間である。地球の歴史を生物の世代交代を通じて理解しようという訳だが、進化には独自の時間装置はなく、物理的な時間装置を使う。ただ、時間観念は生物種によって多様であり、各生物はそれぞれの長さの一生をもち、それぞれの形式の世代交代をもっている。そのような形式、形質の獲得が進化であり、それが生物の歴史である。だから、物理的な時間と同じ時間を使うのだが、単純に適用するのでは駄目で、生物種に応じて異なる時間分割の仕方があり、その分割の仕方が選択され、時間分割の仕方が進化することを説明できなければならない。

 

 科学化(可測化)された時間は、様々なものが入り込んだ不純な常識的(言語的)時間とは異なり、一つの物差しで測り、表現できる。意識の中に登場し、そこで使われる時間も通常の科学化された時間なのだが、「時間の意識」となると、常識的な不純で曖昧な時間に戻ってしまうのが常である。時間の意識が特別で、物理的な時間と異なるというのは哲学が生み出した根拠のない妄想に過ぎないのだが、信奉者はなくならない。それも時間を神秘的なものにしている要因の一つである。こんなところが夏休みのA君の課題。