昭和41年私は大学に入り、日本美術史の授業を受けたのですが、そこでは江戸期の美術がぽっかり欠けていました。その理由がわかったのは私が助手になってからです。哲学専攻の隣は美学美術史学専攻で、そこの先輩教師の酔った時の愚痴が私の疑問を解いてくれたのです。彼が江戸期の美術史を専攻していたことに由来するのですが、それは若冲、蕭白、蕪村、北斎などが登場しない美術史への愚痴、不満でした。彼らの名前が知られている現在から見ると、とても不思議な気がするのですが、彼らが無視されていた主な理由は岡倉天心の美術観にありました。天心は絵に高い精神性を求め、江戸期の多くの画家、特に浮世絵師にはそれがないと考えたのです。そのため、精神性の低い江戸美術は二流と看做されることになりました。
そこで、この空白の一端を有名な『解体新書』(1774)の挿絵を通じて垣間見てみましょう。登場する人たちの生年を比べると、平賀源内(1728-1780)、小田野直武(1750―1780)で、森蘭斎(1740―1801)はその間に入ります。源内は江戸時代中頃の人物で、博物学者、蘭学者、医者、戯作者、俳人、発明家等々です。森蘭斎も長崎で医学を学んだのですが、レオナルド・ダ・ヴィンチを彷彿とさせるのが『解体新書』の挿絵を担当した秋田の絵師小田野直武。『解体新書』の原書である『ターヘル・アナトミア』が出回っていた頃のヨーロッパはまだ解剖学が隆盛していた博物学(=自然史、自然哲学と自然史が自然研究の二つの領域と考えられていた)の時代です。レオナルド・ダ・ヴィンチも人体解剖図から遠近法や陰影法などの手法を学び、ヨーロッパのルネサンスを代表する画家となりました。森蘭斎とは違って、小田野直武の絵にはダ・ヴィンチに通じる科学的な眼がありました。
西洋の科学技術や知識の重要性を知っていた徳川吉宗は、西洋の書籍の輸入を解禁し、それによって医学や本草学、天文・地理学分野において蘭学が盛んになり、蘭方医の杉田玄白や前野良沢によって『解体新書』の翻訳プロジェクトがスタートします。蘭学の興隆とともに、『解体新書』の挿絵は北斎をはじめとする江戸後期の絵師にも多大な影響を与えることになりました。その挿絵を担当したのが秋田の絵師小田野直武でした。直武は秋田藩のお抱えの絵師であり、狩野派の画風を学び、浮世絵風の絵を描く普通の絵師でした。その彼の人生を一変させたのが、蘭学者にして発明家の平賀源内との出会いでした。蘭学に詳しかった源内から教わったのが、西洋の画法(遠近法、陰影法等)。西洋画の奥深さに魅了された直武は輸入されたエッチングを模写しながら西洋画の画法を学んでいきます。それから6、7年の間に、花鳥画に始まり、山水画や日本風景画を手がけながら、洋風画の先駆者としてその地位を確固たるものにしていきました。
小田野直武は30年程の短い生涯のなかで、日本画の伝統的な道具を用いて、油彩画のような質感を追及した洋風画を多数手がけました(秋田蘭画)。そして、源内を通じて杉田玄白と知り合った直武は『解体新書』の原書に当たる『ターヘル・アナトミア』を含む、いくつかの解剖書の図を模写しながら、『解体新書』の挿絵を描き上げます。
*大槻玄沢は「カメラ・オブスクラ(camera obscura、「暗い部屋」というラテン語で、ピンホールカメラのこと)」に対する日本語訳を「寫真鏡(しゃしんきょう)」とした。古代中国から伝わる「写真」や「写生」とは異なる意味を持ち、「カメラ・オブスクラという科学的な機器や手法によって解剖学的に観察し、より正確に迫真性を捉える行為」と考えられている。北斎や広重などの浮世絵には『解体新書』から生まれた「写真」の概念が巧みに投影され、使われている。
*杉田玄白、前野良沢らが『解体新書』の翻訳を始めたのが築地鉄砲洲にあった中津藩中屋敷(現在の聖路加国際病院、St. Luke's International Hospital)。『蘭学事始』は杉田玄白が自身の体験を中心に蘭学の歴史を記したものだが、それがいかに大変で、重要だったかを世に知らしめたのが同じ中津藩出身の福沢諭吉。江戸に来た彼は1858年同じ中屋敷に蘭学塾を開く。それらを記念して、聖路加国際病院の横に「蘭学の泉はここに」と「慶應義塾発祥の地」の石碑が並んで立っている。
*『解体新書』の原本は1734年刊のドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムス(J. A. Kulmus)の解剖書『アナトーミッシェ・タベレン(Anatomische Tabellen、1722年初版)』をオランダ人医師ヘラルト・ディクテン(G. Dicten)がオランダ語に訳したもの。「ターヘル・アナトミア」は日本での俗称。
木版墨刷りの5冊からなる『解体新書』は1774(安永3)年杉田玄白、前野良沢らが中心となり、ドイツ人医師クルムスの解剖書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』を翻訳したものである。日本最初の本格的な翻訳医学書で、「神経」、「軟骨」、「動脈」などの語彙が作られたことでも知られている。訳書の中の解剖図は遠近法、陰影法等を駆使した精巧なもので、西洋画法を平賀源内に学び、後に「秋田蘭画」というジャンルを築いた小田野直武によるもの。
小田野直武の最も大きな転機となったのが平賀源内との出会いである。源内は蘭学者、発明家、戯作者として有名で、当時異彩を放つ存在だった。直武が彼と出会うのは江戸で、正確な年は不明だが、1768(明和5)年頃ではないかと推測される。源内はオランダ伝来の学問や技術に関心を持ち、日本に西洋の科学や美術を取り入れることを模索していた。そのため、彼の周囲には蘭学を学ぶ医者や学者、芸術家が集まっていた。直武も源内の知的サロンのメンバーになる。源内は秋田藩主の佐竹曙山とも親交があり、秋田藩が文化的な先進性を持っていたことも、直武と源内の交流を深める要因となった。
源内のもとで直武が学んだのは西洋画法の理論と科学的な視点。江戸時代の日本画は基本的に平面的な構図を重視していたが、西洋画では遠近法(透視図法)を用いて奥行きを表現し、さらに光と影(陰影法)を駆使して立体感を出す技法が発展していた。源内が持っていたオランダの西洋画の書物や銅版画を参考にして直武は新しい技法を学んでいく。特に、陰影法は直武の絵画表現に革命をもたらした。
また、源内は科学的な観察を重視したが、これは直武の芸術観に大きな影響を与えた。彼は単なる美的表現だけでなく、科学的な視点を持ち、対象を客観的に捉える姿勢を強めていく。この科学的考え方、見方は彼が『解体新書』の挿絵を描く際に大きな役割を果たすことになる。直武は源内の紹介で、蘭学医の杉田玄白や武田円碩(たけだえんせき)と知り合うことになり、この出会いが彼の人生最大の仕事である『解体新書』の挿絵制作へとつながっていく。直武は源内から受けた影響を自らの芸術に取り入れ、単なる絵師ではなく、知的探究者としても成長を遂げていく。
1771(明和8)年、蘭学者の杉田玄白、前野良沢、桂川甫周らがオランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』をもとに、日本で初めて本格的な人体解剖図を含む医学書を翻訳しようと決意した。これが後の『解体新書』となるプロジェクトの始まりだった。当時の日本では、医学は中国伝来の漢方医学が主流であり、西洋医学の解剖学的知識はほぼ皆無だった。しかし、蘭学者たちは長崎を通じてオランダから伝わった医学書に触れ、その精密な解剖図に衝撃を受ける。そして、人体の構造を正確に理解することによって、日本の医学を変えようと考えた。しかし、最大の問題は挿絵だった。当時の日本には、人体を科学的な視点から正確に描写する技術を持つ絵師がいなかったのだ。そんな中で白羽の矢が立ったのが小田野直武。直武は、既に西洋の遠近法や陰影法を取り入れた新しい絵画表現を学んでおり、正確な写実描写が求められる『解体新書』の挿絵を描くのに最適な人物だった。彼を推薦したのは平賀源内。源内は杉田玄白とも交流があり、西洋画法を理解する直武の才能を見抜いていた。
直武が手がけた『解体新書』の挿絵は、それまでの日本の医学書には見られなかった極めて精密な人体図だった。直武は西洋医学の考え方に基づき、オランダの解剖図を参考にしながら、できる限り実際の人体に忠実な挿絵を描いた。特に、陰影法を用いた立体的な描写により、人体の各部位をよりリアルに表現することに成功している。1771年には、杉田玄白らが実際に刑死者の解剖を行い、それを基に人体の構造を確認している。直武もこの解剖を間近で観察し、人体の細部まで注意深く確認したと考えられる。
挿絵が完成し、『解体新書』が1774(安永3)年に刊行され、日本医学界に大きな衝撃を与えた。解剖学に基づく人体の構造が正確に理解されるようになり、日本の医療は大きく進歩することになり、直武の挿絵は非常に重要な役割を果たした。このように小田野直武の解剖図などを見てくると、誰もが次の二つの問いが気になるのではないだろうか。
(1)森蘭斎と小田野直武との違いは何か。
(2)「絵画における精神性」を重視したのが岡倉天心の特徴だったが、小田野直武の絵画に関して「精神性」はどのような意味を持つのだろうか。