まずは、何度も言及してきた金子みすゞの二つの詩から始めよう。
「私と小鳥と鈴と」
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
「星とたんぽぽ」
青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきにだァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」も「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」と詩の肝心の部分を取り出すと、何だか当たり前のことで、換骨堕胎による自己流の変質を目の当たりにすることになるのだが、「違っていても、皆同等の存在だ」、「観察できることと存在することとは時には違うのだ」といったことが詠われていると解説されるのだろう。「違う」と「同じ」、「見える」と「ある」の違いが言葉巧みに表現されていて、それがみすゞファンには心掴まれ、精神が痺れるような効果をもっているのだろうが、その背後にある形而上学は一体どんなものか引っ搔いてみたくなるのも私だけではあるまい。
言語を引き合いに出すのは言葉巧みな連中の常套手段。「本」という名詞は一つの名詞なのだが、実に多くの、無限に異なる本を指すことができる。だが、無限に本は存在しない。同じように、「美しい」という形容詞は無限に多様な美しさを指すことができる。だが、単語としての「本」、「美しい」は様々に書いたり、発音したりできても、それぞれ一つの単語に過ぎない。一つの単語でも、他の単語と組み合されれば、無限に異なる状況や状態を表現できる。有限の単語の無限の組み合わせを矛盾なく実現させる規則の集まりが文法であり、その文法に従ってつくられる文は無限の数が可能である。そして、この言葉の規則は論理の規則に従って使われている。
先ずは「他人の猿似」が用いられ、音が近い「空似」が次第に好まれるようになり、江戸後期から「他人の空似」が普通に使われるようになった。「猿似」は「猿がみなよく似ている」ように見えることが理由だったが、似ている理由がないのに、単に似ていることを強調すれば、「赤の他人の空似」である。一方、血縁関係がある場合、例えば「蛙の子は蛙」と呼ばれ、血縁関係によって似ていることが意図され、「鳶が鷹を生む」はそれとは正反対の偶然の関係が表現されている。
偶然に似ている空似の例として(ずっと植物に関心を持ってきた私が挙げるとすれば、)カジイチゴ、リキュウバイ、アネモネの花がある。一方、似ている理由として血縁関係がある例には、いずれもベロニカ属のオックスフォードブルー、マダムマルシア、オオイヌノフグリがある。似ている理由がある場合とそれがない場合で、何がどのように異なると言うのか。見えなくても、背後にある血縁関係によって似ている場合と、何ら血縁関係がなくても似ている場合の「似ている」は何を意味しているのか。
カジイチゴ、リキュウバイ、アネモネは植物分類上、直接の関連はないのに、その花の形態だけが似ている。系統的関係がないのに似ている、つまり、偶然に似ていることから、正に他人の空似で、赤の他人なのに似ている、縁もゆかりもないのに似ているという訳である。実際、カジイチゴ、リキュウバイ、アネモネの画像を見ると、花の姿だけはよく似ている。むろん、カジイチゴ、リキュウバイ、アネモネの間に系統的な近縁関係はない。
ところが、オックスフォードブルー、マダムマルシアの場合、その花はオオイヌノフグリによく似ている。三つの画像を見比べると、実によく似ていて、近縁関係もある。花のサイズもオオイヌノフグリが僅かに小さい程度で、ほぼ同じ。
「似ている」と「似ていない」の基準として、私たちは進化的な系統関係が成立していることを利用してきた。進化の歴史的な系統関係を使って、「似ている」ことを説明してきた。その典型が親子関係であり、「蛙の子は蛙」となるのだが、時には「鳶が鷹を生む」こともあり、「似ている」ことの絶対的な基準ではない。そのような場合、「偶然に似ている」と言うしかなかった。赤の他人の空似の場合、なぜ似ているかの説明が放棄され、それは全くの偶然と諦めることなのだが、それでも、その場合には「相似器官」という適応の存在を使ってきた。
*相似器官は別の器官であったものが、進化の結果、形や働きが似るようになった器官。昆虫の翅と鳥の翼がその一例。
**リキュウバイ、カジイチゴ、アネモネの花、そして、ベロニカのマダムマルシア、オックスフォードブルー、オオイヌノフグリの花については各自確かめてほしい。
さて、こんな他愛もない話をした後で、「日本人が似ている、似ていない」について考えてみよう。さらには、「誰かが誰かに似ている、似ていない」も考えるべきことだと思っている。日本人は皆よく似ていると言われてきた。長い間、単一の民族で、その中で子供がつくられてきたことがその理由だと言われると、大抵の人は納得してしまう。そんな中で、個性を大切にする教育が行われ、個性の民主化が叫ばれると、多様な人格が尊重され、一様性は否定される。
では、素粒子はなぜ皆同じなのか、そして、人はなぜ皆違うのか。素粒子は物質を構成する最小の単位であり、基本粒子とほぼ同義語である。素粒子はそれが従う統計法によって二種類に分類され、フェルミ統計に従うフェルミ粒子、ボース統計に従うボース粒子がある。現時点で存在が知られているフェルミ粒子はクォークとレプトン。一方、ボース粒子には素粒子間の相互作用を伝達するゲージ粒子と素粒子に質量を与えるヒッグス機構に関連して現れるヒッグス粒子とがある。素粒子の大きさは分かっておらず、大きさがない(点粒子)とする理論と、非常に小さいがある大きさを持つとする理論がある。標準理論では素粒子には大きさが無い(点粒子)とされている。点粒子は空間が最小単位の存在しない無限に分割可能な連続体であることを前提としているが、標準模型で扱うスケールより15桁以上小さいスケール(プランク長スケール)では、空間が連続的であるか離散的であるかはわかっていない。離散的な場合、点粒子としては扱えない。
超弦理論では全ての素粒子は有限の大きさを持つ紐の振動状態であるとされる。私たちが日常接している物質は(微小な、あるいは大きさのない)素粒子からできているにもかかわらず、有限の大きさを持っている。また、素粒子のほとんどのものは、自然界に単独で安定的に存在しているわけではない。だから、素粒子の様々な性質を実験で調べ、それを理論的に体系化していくこと、及び理論的に予言される素粒子を実験で探索していくことが、素粒子物理学の研究目的となっている。
ファインマンはノーベル賞記念講演で次のような話をした。それは大学院生の彼がウィーラー教授と電話で話したことだった。教授が「電子がなぜどれも同じ電荷と質量をもっているか、わかったよ」と言い、理由を問うファインマンに「電子が、すべて同一の電子だからだ」と教授は答えた。世界線のグラフを想定し、電子の世界線が回って、過去から未来、未来から過去と、連環状に延びていると、たった一つの電子が時間空間の中を行ったり来たりしているだけなのに、ある瞬間の世界でこの電子を見ると、同じ電子がたくさん見える。世界線は一つの電子のものだから、当然、ある瞬間の世界で観測されるたくさんの電子は、電荷も質量もまったく同じになる。そして、ウィーラー教授はある瞬間の世界で観測される電子は、過去から未来へ向かうときに観測されると通常の電子、そして、未来から過去へ向かうときに観測されると電子の反粒子、つまり陽電子(反電子)として観測されると言った。ファインマン「でも、この世界には電子ばかりで、陽電子の数は少ないですよ」と尋ねると、「たぶん陽電子は他のものの中に隠れているのだろう」と教授は答えた。このアイデアが「ファインマンダイアグラム」に結実し、ノーベル物理学賞につながった。
私たちヒトを含む哺乳類は、両親のそれぞれから遺伝的な特徴を受け継ぐ。私たち人を含む哺乳類の子は、両親のそれぞれから何万種もの遺伝子を受け継いで生まれてくる。しかし、どちらの遺伝子を受け継ぐかは偶然に決まるため、同じ親から生まれた子同士であっても異なった遺伝的特徴を持っている。
クローン技術により、同じ遺伝的特徴を持つ子を人工的に生み出すことができる。クローン技術により同じ親から生み出された子同士は、ほとんど同じ遺伝的特徴を持つクローンとなる。また、成熟した個体の体細胞を使ったクローンの場合、親と子もほとんど同じ遺伝的特徴を持つ。
生物の発生には、雌雄両性が関与する有性生殖によるものと、雌雄両性の関与がない無性生殖によるものがある。有性生殖には雌の未受精卵と雄の精子による受精の段階があるが、無性生殖には受精の段階がない。人を含む哺乳類は、有性生殖により子孫を残す。一方、単細胞生物等は細胞分裂により、個体を増殖して子孫を残す。
有性生殖では、雌の未受精卵と雄の精子が受精して受精卵を形成する。未受精卵と精子にはそれぞれ親の遺伝子が等分に含まれるため、受精卵は両方の遺伝子を受け継ぐ。しかし、受け継ぐ遺伝子の決定には偶然性があるため、全く同じ遺伝子を持つ個体が複数発生することはない(一卵性双生児を除く)。この遺伝子の受け継ぎによって、個体が持つ遺伝子は多様化し、環境変化に適応した生物を生み出す要因の一つになっている。
無性生殖には受精の段階がないため、新しく生まれる個体は親と全く同じ遺伝子を持つ。そのため、同じ親から生まれる個体同士も全く同じ遺伝子を持つが、後天的に獲得する性質は一般的に異なる。
さて、素粒子や生物個体の「同じ、違う、似ている、似ていない」の話を知った上で、上記の金子みすゞの詩について読み直してみると、何がどのように同じなのか、あるいは異なるのか、無性に考え直してみたくならないだろうか。