新潟県小千谷市は、市出身の詩人の名を冠した「西脇順三郎賞」の詩作品を募集しています。現代詩の「詩集部門」と、新人発掘を目的とした「詩篇部門」の2部門で行います。詳しくは小千谷市のホームページの「第3回「西脇順三郎賞」募集要項」を見て下さい。そこで新潟県の詩人としての西脇順三郎について私的な略歴を再度述べてみたくなりました。故郷を嫌い、それが『Ambarvalia』のエネルギーの一つとなり、戦争で故郷に戻り、故郷が好きになり、『旅人かへらず』が生まれる姿が見事に浮かび上がってきます。
小千谷の縮問屋に生まれた西脇順三郎は高価な英書ばかり読んでいました。そのため、彼のあだ名は「英語屋」。彼自身、洋書と英語への偏愛ぶりを「舶来の本は実にいい香りがしてシャボンのようだ」と述べています。少年の夢は「英語で欧米人と同じように考え、話し、書く」ことで、自閉症的、偏執的な言葉至上主義は入り組んだ配線盤や回路の機械いじりに没頭するかのように、言語の工学を追求させ、楽しみ、言語を工学的構造としてとり扱う感性を磨くことになります。そして、その修行が彼を詩人にしたのです。
日本文学の水気、湿りを嫌い、「抒情詩を読むと風邪をひく」と書いた西脇はギリシャ語、ラテン語から英語を含むインド・ヨーロッパ語族を深く愛しました。1925年にロンドンで刊行した第一詩集『Spectrum』は全篇英語で、『Ambarvalia』にはラテン語詩が入っています。でも、1947年に自分の内面に潜むものを「幻影の人」と名付け、女性的なものに注目し、『旅人かへらず』を発表し、水と湿り気が淋しさを醸成する日本的感性の詩を発表します。その後も、『失われた時』、『豊饒の女神』、『えてるにたす』などの一連の詩集により、ノーベル賞候補にも名を連ねました。
普遍的で、理性的な『Ambarvalia』は、戦後に『旅人かへらず』の湿った風土の記憶のもつ原始的なものへと回帰するのですが、脱ふるさと化された世界はふるさとへと淋しさと共に帰巣することになるのです。この辺の事情をより歴史的に眺め直してみましょう。
西脇順三郎は1894年、小千谷に生れました。1911年中学を卒業し、画家を志し上京。藤島武二を訪問、内弟子となります。1912年慶應義塾大学に入学、1917年卒業論文「純粋経済学」を全文ラテン語で書きます。1920年慶應義塾大学予科教員に推され、この頃から文章を執筆し始めます。上田敏の『海潮音』の雅文調、美文体に激しく反撥し、萩原朔太郎の『月に吠える』に大きな衝撃を受けます。順三郎が朔太郎に出会ったことは、近代詩、現代詩を語る上で不可欠の出来事で、朔太郎の『月に吠える』(1917)と順三郎の『Ambarvalia』(1933)は、大正、昭和期を代表する詩作となります。
1922年慶應義塾留学生となり、英語英文学、文芸批評、言語学研究のため渡英。1925年に帰国し、26年慶應義塾大学文学部教授となり、古代中世英語英文学、英文学史、言語学概論を講義し、1929年には日本英文学会第1回大会で ‘English Classicism’ と題して英語で講演し、英文学者としても表舞台に立ちます。
『Ambarvalia』以後は詩集を出さず、戦火がひどくなると故郷の小千谷に疎開し、そこで絵を描き、南画の研究などを行い、『旅人かへらず』の構想を抱きます(小千谷市立図書館には順三郎寄贈の記念室、記念画廊があります)。終戦後、再び上京し、詩作を始め、「旅人は待てよ/このかすかな泉に/……」で始まる東洋的幽玄漂う長篇詩が1947年刊の『旅人かへらず』でした。この詩集には自然への永遠の郷愁が詠われています。